ベッドのひも

 ところで、クミコはお母さんやその他家族のお墓を岡山から東京のどこかのお墓へ引っ越しさせるために、パリから里帰りしてきたのだった。お母さんは広島の病院で亡くなつたのだが、もう五年も岡山に誰もお墓参りに
くるひとがいなかったので、曹同寺というお寺はかんかんになって怒っていた。第一どこに連絡したらいいのかわからなかったのだ。クミコはお母さんのながーい介護の疲労のため、お母さんが亡くなる直前に盲腸炎になってしまった。妹さんはお葬式が終わると仕事の遅れを取りもどすのに必死だった。そこで曹同寺は待っても待っても現れないお墓の持ち主に業を煮やして看板を立ててみんなにうつたえていたそうである。なんにも知らないクミコたちはさんざん怒られて、五年分のお墓台をとられなければならなかった。クミコは、広島の病院はひどかつたとしきりに腹をたてる。「どうして?」とわたしが聞くと「ベッドにひもがぶらさがってないからよ。つい昨日まで起き上がってそろそろとでも歩いていた年寄りは、入院したとたんに起きあがれなくなるのは、つかまるひもがないからよ。」クミコは日本に帰ってくるといつもいつも生活習慣の違いに悪態をつき、へとへとになってつかれて帰っていくのだが、なるほど、フランスの病院のベッドには、ひもがあるらしい。わたしは一度だけ、ゲーテの最後の寝室というものを写真てみたことがある。そこにはベッド以外に椅子ひとつしかなく、しかも、頑丈なひもがぶらさがつていたのではなく、張りわたされていた。ゲーテはなんども
死にそうになりながら、また回復してベッドから降りることができたのは、その命綱のひもがあったのかとおもった。日本の国が西洋から実にいろいろなものをものを吸収したのはよかったけれど、ひもまで
は吸収するのを忘れてしまったのだ。畳のうえの布団のうえでねむつているひとは、元気になれば畳に
足をついて起きあがることができる。しかし、ベッドのうえではなかなかおきあがることができないかもしれない。それは本人にとつても家族にとっても重要なことであるかもしれない。

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えっ、と山本楡美子さんはいった。

 それは、とても不思議な写真だつた。ベニスでエレンが撮った写真で、大きな煉瓦の壁のなかに、ドア
のような形をしたものがあり、そのドアはぴったりしまっていて、けっしてこちらから開かないようになっている。そのうえに、蔦の枝が縦横無尽に伸びていて、ますますそのドアは開けることができないのだ。
 第一、そのドアはこちらから開ける取っ手がない。なんのために、そのいりぐちはあるのだろう。ひじょうに高いところに、人間が決して登れない所にそのドアはある。それは、ベニスのサン・ミケーレ寺院にあるらしい。「ええっ」と山本楡美子さんは声をあげた。「ヨシフ・ブロッツキーの墓だわ。それからイーゴル・ストラビンスキー、それからもうひとりのロシア人の名前があり、「あら、エズラ・パウンドも」とやまもとさんはいった。それはもう外に出なくてもいい人の住まいだった。ながいこと外国で暮らした亡命者の墓だった。
 ブロツキーは何年もベニスに滞在し死をまちながら、そういう小説をかいたのだった。わたしは確かその本を買ったのだが、なぜか読めなかったのだ。ベニスの墓はどうして、そんな上の方にあるのか、おそらく、土のなかだと、水がすぐ侵入してきて、跡形もなくなるかもしれなかった。「でも、奥さんはどうするのかしら?」と聞いたら「さあ、それはわからない」長い間ブロツキーの詩やインタビューの翻訳をしてきた
彼女はいった。

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8月6日に

  8月6日に、九州の福岡から、田島安江さんが棚沢さんの車に乗って、ふたりで我が家にやってきて、
詩誌「something2」の編集会議を開いた。田島さんは13日に98歳のお父様がなくなられたばかりなので、ほんとうは大変なのに、元気にやってこられてびっくりした。3人で長時間にわたり、いろいろなはなしをした。これで、3回目なのに淡々と話し合い、落ち着いて打ち合わせができたと思う。とても暑い日なので、クーラーを二つもつけた。うどんなど冷やして食べた。ちょっと前までは会うこともなかったのに、こうして、落ち着いていて、びっくりした。夕方近くになって、山本楡美子さんがやってきて、プラハからかえつたばかりなのに、カフカの家に行ったりしてきた話など平気でして、びっくりした。こんなふうに、なんでもなく
そうして、平気でなにか話し合いができるということに、わたしはなにもできないのに、ただただかんげきしていた。みんながかえつたあと、疲れて眠ったり、原爆のテレビをみたりした。今日も原爆のテレビをみた。こういうことは、夏だけでなく、冬も春も秋もすこしずつ放映してほしいと思う。
 クミコから電話があり、エレン・フライスが日本にくるかもしれないから、そのときはあってほしいといわれた。急に、気の小さいわたしはどきどきした。「芸術のあと、芸術に住まい続ける」とエレンの所属する本のひとつはいっている。なにか時代が変わっていく驚くべき日々にわたしたちはいるのだとおもった。山本さんが借りている畑でそだてたトマトをかじると昔のトマトの味がした。トマトはまだ健全である。

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ミスについて

  あまりせっかちなので、いたるところで、ミスするタイプらしい。いつだったか、だれだったか、有名な
作家が、「僕は注意力散漫で学校の授業を聞いているとき、いちばんぼんやりしていて、先生のはなしをきいているうちに、自分が急にどこかへいなくなったかのような錯覚に陥った。」というのを読んで、すっかりその作家が好きになってしまったりした。パソコンをはじめてからも、いつもとんでもないことばかりおこった。そのたんびに、息子がよばれてきて、たった3万円でつくってくれたのに、何度も何度も修理に通ってくれた。息子というものは、いつも両親に注意されるものと決まっているのに、かれの両親はいつもコンピューターがこわれるたびに、大ご馳走をつくって、ご機嫌をとりながら、コンピューターを修理させるために息子をよばなければならなかった。「ママー。ここをさわっちゃだめなの。なんどいったら、わかるの。」などとしかられてばかりいた。いちどなど、小学校の頃、「ママは一度死んだら、キリストみたいに復活するからね。ママが生き返ったら、3日間だけ、お魚たべさせてね。何しろおなかが空いてると思うのよ。」といったら我が息子は大変こまり、「ママー。普通にしてよ。ママが復活なんかしたら、棺桶の蓋をがんがんと釘を打ちでられないようにするからね。」といつたのである。しかし、最近のミスで一番すごいことは、わたしがせかいでいちばんうつくしいというか、魅力的な声はABC CLASSIC FMのclassic-DRIVEの男のアナウンサー
で、Julia Lester だと思ってほれほれと3ヶ月もききほれていたら、ある時、ジュリア レスターの写真
がでていたので、よくみると、なんとワンピースをきている女のアナウンサーだったのは、驚いてしまった。でも、声だけきくと、男のように聞こえるといったら、わたしに賛成してくれるひともいるかもしれない。
いちど聞いたら、忘れられない声なのである。
 それから、クミコがフランスに帰ってしまったので、淋しくて淋しくてたまらなくなったとき、息子を呼んで
インスタント珈琲などたくさんあげて、とうとうフランスのテレビを復活させてもらったのである。それは、わたしにとって大変幸せなことであった。パリから電話がかかってきたとき、フランスはいまかんかん照りで
どこへいっても水がたりないとか、教えてあげると、クミコはびっくりしていたのです。一日に13時と20時のテレビを見て大変満足したのでした。

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遠い世界からの手紙

 このところ、ある雑誌の編集をしているのだが、それはなにかしら、わたしをかーるい興奮にさそってくれる。締め切りがあると、どうしても、続々と編集部からパソコンの添付つきのメールでおくられてくる。
一人、5篇の詩とエッセイ一篇なので、印刷機にかけるとA4が4枚になるわけだが、この4枚を読んでいくのはまだばらばらの気分でよみにくいので、A3にコピーしにいく。そうしてほっちきすでとめ、何度も何度も詩をよんでいく。それからエッセイも読んでいく。すると、深夜に海底に網をかけ、そっと網を引き上げるときのような、どきどきするような喜びがある。よく名前も知らないようなひとが書いた詩、ずっしりと海底を何百年も泳いでいた魚なのか、宝石なのか、廃船なのか、わからないきらきらしたものが急にひきあげられてきて、目の前にあると、怖いような感動が伝わってくることがある。それらの詩はもし、詩集のなかに納められていたら、決してわたしは探すことができなかったであろう。それはすこしごつごつして、詩としては形があまりよくないかもしれないし、第一エッセイかもしれないと思うくらいだ。しかし、それはまぎれもなく詩であり、本人もよくそのことがわかっているようだ。しかし、わずかだけれど、詩はちゃんとあったのだ。特殊な語り口ではあったが、私でなくても世界中の人々がよくわかる普遍性を持っていて、そして、もしわたしが発見しなければだれが発見するのだろうと思われる偶然性に満ちている。そして、幾人かのひとに読まれたその詩は一晩たってまた読み直すといっそう真実で輝きを増しているように思える。
 もし、現在の詩を、その価値をあじわってみたいとおもったら、詩の雑誌を編集してみるのが一番いいと思う。

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ふるいつきたくなるようなグリーティングカード

 わたしがパソコンを始めていちばんはじめにであった面白いものは、この13歳のマイルズ・クーレイがつくったイラスト・ゲームで、ふるいつきたくなるようなグリーティング・カードでした。アメリカのこの少年は学校に行かずに両親のもとで教育をうけ、イラストをつくり続けているそうです。ここを開いてみてください。
 http://www.brookviewcottage.com/
     miles/cards/cardsr.html
 

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働くこと

 こんなことを書くとどうせ三日坊主なのだから、あとから自分で恥ずかしくなるかもしれないけれど、この年になって働くことが少し好きになった。いままで一度たりと労働というものが好きになったことがなかったのだ。大変気まぐれであるし、あまりに無責任に書くことは欺瞞であると思うのだが。もし、長生きできたら、たくさんたくさん働きたいと思う。それはもしかしたら、幸せなことかもしれないと思い始めた。
 もう5年ほど前に、クミコの娘達がやつてきて、一冊の分厚い雑誌をおいていった。その雑誌の名前は
「purple」というらしかった。その本は何百頁もが殆ど写真でできていて、5パーセントぐらいは文字でできていた。文字といつても、フランス語か英語で書かれていて、殆ど私にはわからなかった。その本を初めて眺めたとき、何も感じなかった。けれども、退屈なときにときどきぱらぱらとひらいてみると、なんだか
すこし面白くなつた。どうしてかわからないし、何しろその本が何の本なのかわからなかったのでした。いくら外国の雑誌だとしても何の雑誌かぐらいはわかるものではないかしら?雑誌といっても紙が立派なので本のようであった。その不思議な雑誌は最初はヘルムート・ラングとかコム・デ・ギャルソンとか
ドリス・ヴァン・ノッテンとかのファション雑誌のようでもあり、次の若い写真家たちの作品集のようでもあり、最後にはグラフィック・デザイン集でもあった。そして、ぱらぱらとめくってみると見れば見るほど、だんだん興味深く思えてきた、並べ方も、レイアウトもデザインも編集も実に周到にできていた。こんな雑誌
があったのかとまるで関心してしまつたわけである。しかし、なんといったらいいのか、初めからそう思ったわけでは断じてない。
デザインとか、写真とか、ファッションとかはなんの腹のたしにもならない。そのうえ、芸術とかアートとかというそんな高尚なものでもない、なんの変哲もないスーパーマーケットからふたりの女がでてこようとしている。白い毛糸のようなものをごたごたの身につけている。ところがこのふたりの女は有名なモデルらしい。ルーブルのすぐ前の公園のようなところをごたごたと荷物をもちながら、よこぎつているかと思えば
もうニューヨークについて、ちょーどあの貿易センタービルの二本のビルが見える対岸で、みんなが寒いのに散歩している。その次はサツカーか何かを観戦している。日本人の女も三人ぐらいいる。こうしてふたりの女のモデルはなにげなく冬のモードを世界中人々に披露しているのである。
こんな本、わたしは見たことがなかった。だんだんにわたしはその本がすきになった。その分厚い本を
エレンとオリヴィエがつくったのである。なんといい本なのだろうと私は眺めた。それから、エレンとオリヴィエはわかれてしまった。そこで本はふたつに別れ、「PURPLE」をオリヴィエが、「LE PURPLE JOURNAL」をエレンが創り始めた。オリヴィエはクミコの娘と一諸にくらしはじめ、娘アジアが生まれ、そして、ふたりはもう別れてしまった。アジアはまだ1歳にはなっていない。アジアはブラームスがお好きらしい。ところで、オリヴィエはとてもよく働くと聞いた。彼が働きあんなにいい本をつくったのだから、
わたしも働き、いい雑誌を創ろうとおもった。青い石さんがいってるようにねわたしも幸せになりたいと思う。明るい美しいモーツアルトのディヴィルトメントのような詩の雑誌ができるかな?その雑誌の名前を
something2といいます。オリヴィエ ザハームに敬意をこめて。よく働こうかな。

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ハス博士は語る

 「僕がなぜハスのことを知りたいと思ったかといえば、君と暮らしているからだ」と今日ハス博士はいって、まったくびっくりした。「でもどうして?わたしとハスと何の関係があるの?」と聞いた。「ハスは恐らく、
エジプトから伝わってきたのだよ。それから、インドに伝わり、タイやミャンマーに伝わり、中国を通って
日本に入ってきた。でも、エジプトからどのように、インドにつたわったかはわからない。恐らく、ナムの海のナムの国のひとびとがハスを運んだのだろうけれどね。エジプトとインドの間にあるイランやイラク、昔のシュメール文明にはあまり、ハスが見つからないのは、どうしてかわからないけれど。もう何千年も前のことだから、よくわからない。ハスはハスという物体以外のものがなく、あまり論理的でないルートを伝わって、アジアの人に愛されてきた。このあまり論理的でないものという意味できみも何かをひとにつたえようとしているからさ。」とハス博士がいう。「それじゃあ、わたしがいうことは、お里が知れるわけね。」
「そんなことはない。そういういみじゃあない。つまり、僕自身が矛盾しているんだよ。つまり、あまり論理的じゃないハスという実体を論理的にかたろうとしているからさ」「ふーん」わたしはわかったようなわからないような気分になる。「じゃぁ、文化人類学はみなそうなの?」「まあ、そうだな」
 ところで、埼玉県の行田市にわたしたちがついたのは、まだまっくらな3時半、車のなかに蚊が一匹入ったので眠れなく、うっすらと開け始めた広大なハス畑を男たちはあるきはじめた。白いハスばたけのむこうに、大きな池のようなものが見え、ざわざわとするおおぶりのハスが揺れている。なぜこんなところに
わたしはいるのか?あの三人の男たちはだれなのか?どんどんハス畑のなかに入っていき、池のなかにひかれている橋を渡ってはすのなかに見えなくなった。シーンとしていて、ハスばかりがかすかにゆれている。ここは天国でもなければ、極楽でもない。ただ現実のハスがほんのすこし開き始めたらしい。
ヴィシュンヌは原始の水に横たわり、そろそろ世界を創ってみようかとおもった。かれでもあり、かのじょでもあるヴィシュンヌはお臍のあたりから茎のようなものをのばし、そのうえに、ハスの花を開いた。その開いたハスの花のうえにブラーフマンを乗せた。ブラーフマンはこうしてハスの花のうえで世界を創造した。まさか、では、この池でハスはしずかに開き、あちらでもこちらでも数かぎりない世界が創造されているとあなたは考えるのですか?博士。 その向こうの池ではビスケット工場にしようと掘り返した土の中から、1200年〜3000年もの時を眠っていた世界がいま目覚め、いくつもいくつも光を浴びてすきとおり
花ひらこうとしているのですか?博士。 あの花の話はエジプトからインド、タイ、ビルマをとおり、中国をとおり、
そんなに遠くやってきたのですか?博士。それなら博士。論理もへったくれもなく、花が開く時にやってくる世界をよくみてみなければ。花が開くときに奏でられる音楽をきいてみなければ。香りをかいでみなければ。ねえ。

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ハス博士は語る

 「スイレンは夕暮れには花を閉じ、水の中深くもぐってしまうので、手がとどかない。」ハス博士はいう。「夜明けにになると、東の方にむいて、再びうえのほうにのび、光を浴びて花を開く。神話では
赤いスイレン、すなわちハス、「世の初めから存在していた花」が原始の水であるヌンから現れ、または、「光からあらわれた」、この花は水や火、すなわち、混沌の暗闇と聖なる光それぞれとみっせつなものであった。水から現れたハスは、夜が終わって明ける太陽のシンボルとなつた。エジプト人がよく考えたことは、太陽神が、原初の湖からハスの花に乗って現れる、という考えであった。『死者の書』の15章では、ラーは「ハスから生まれた黄金の若者」として現れる。81章で、死者は聖なるハスに変身したいという願望を口にする。これは再生の望みを表現したものです。青いハスは、とくに、聖なる花とみられたのです。新王朝時代の多くの墓の絵画では、死者がハスの香りで気分を爽やかにしている様がみられます。ツタンカーメンの墓から出土した木製の彩色された彼の肖像の頭を見ると、王はハスの花から立ち上がっている。ハスはとりわけ、神フェルテムのものであった。」ハス博士は何度も何度もこのようなことを
わたしにきかせたが、わたしはいつもすっかりわすれてしまった。「アジアのひとはなぜハスの花を好むのだろう?」と私に聞き「そこにあったからでしょう」とわたしがいうと、その考えは面白くないといつておこったり、何日も何日も傷ついたように黙ってしまったりした。彼は私に、いろいろなこと教えてくれた。モーツアルト
も、ランボーも、原爆のことも、けれどもハスのことはまだわからない。時間がかかるのである。かれは
ハスの映画を作りたいと思い、何度も何度も企画書を書くがまだ一度も通らない。

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happyということ

 ここまで書いて、昨日あたりから、なにかをしきりにわたしは考えていた。この a happy blog−明かるいブログ というタイトルに惹かれたのだ。というより誘われたのだ。とわたしは思っていた。わたしはこの数年
、わたしらしくない、というよりとても難しい詩、戦争、子どもの不幸な事件、原爆などをテーマに書いていて、へとへとにつかれていたのだおもった。勿論、それはわたしにとつて重要なことではあったし、それを
書いていることに後悔はないけれど、たまには軽いものや、あかるいものや、無防備なものややさしい
気持ちが必要であり、手放しで嬉しいことがあつてもいいではないか、と思ったに違いない。そういうことはつまり、happyなことはだいすきだし、おいしいお酒でも飲むみたいに味わってみたいと思ったのかもしれない。でも、苦しいことと幸せなことを、どうじに考えたり、かわるがわる考えたりすることはとてもむずかしくもあるけれど。まあ、能力もあまりないのだから、やれることまでやればいいとおもうけれど。
 たとえば、ランボーが「地獄の季節」というとてもロマンチックな苦しい詩を書いてから、「イルミナシオン」という明るい何ともいえない詩的言語によって、思想や生き方をつくりあげたということは驚異なのだが、あれはどちらが先に書かれたものなのだろう。ラコストというこうひとの説によれば、「地獄の季節」が
先で「イルミナシオン」が後であるといわれているけれど。けれども、わたしは同時にあちらこちらと書かれたのかもしれないと思う。もし同時にかかれたとしたら、かれはどのように彼自身をコントロールしたのだろう。あるいは、それが自然だったのかもしれないとも思う。happyになったり、unhappyになったりしながら
自動的に生きていくのだろうけれど、この二つのことをどうじに書くのは難しいのだとおもう。でも、現代は
この二つのことをバランスをとりながら、いきることを要求されているのかもしれない。

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