happyということ

 ここまで書いて、昨日あたりから、なにかをしきりにわたしは考えていた。この a happy blog−明かるいブログ というタイトルに惹かれたのだ。というより誘われたのだ。とわたしは思っていた。わたしはこの数年
、わたしらしくない、というよりとても難しい詩、戦争、子どもの不幸な事件、原爆などをテーマに書いていて、へとへとにつかれていたのだおもった。勿論、それはわたしにとつて重要なことではあったし、それを
書いていることに後悔はないけれど、たまには軽いものや、あかるいものや、無防備なものややさしい
気持ちが必要であり、手放しで嬉しいことがあつてもいいではないか、と思ったに違いない。そういうことはつまり、happyなことはだいすきだし、おいしいお酒でも飲むみたいに味わってみたいと思ったのかもしれない。でも、苦しいことと幸せなことを、どうじに考えたり、かわるがわる考えたりすることはとてもむずかしくもあるけれど。まあ、能力もあまりないのだから、やれることまでやればいいとおもうけれど。
 たとえば、ランボーが「地獄の季節」というとてもロマンチックな苦しい詩を書いてから、「イルミナシオン」という明るい何ともいえない詩的言語によって、思想や生き方をつくりあげたということは驚異なのだが、あれはどちらが先に書かれたものなのだろう。ラコストというこうひとの説によれば、「地獄の季節」が
先で「イルミナシオン」が後であるといわれているけれど。けれども、わたしは同時にあちらこちらと書かれたのかもしれないと思う。もし同時にかかれたとしたら、かれはどのように彼自身をコントロールしたのだろう。あるいは、それが自然だったのかもしれないとも思う。happyになったり、unhappyになったりしながら
自動的に生きていくのだろうけれど、この二つのことをどうじに書くのは難しいのだとおもう。でも、現代は
この二つのことをバランスをとりながら、いきることを要求されているのかもしれない。

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