パラレルに組んだ花束。 花材はデルフィニューム・アスター・ナデシコ・かすみ草・ブプレニューム・ピット・ヒペリカム・ゲーラックス。トップの部分を細くつくるのがコツ。麻ひもで巻きながらおりてきます。360度なので、慣れないとちょっと難しいかも。
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パラレルに組んだ花束。 花材はデルフィニューム・アスター・ナデシコ・かすみ草・ブプレニューム・ピット・ヒペリカム・ゲーラックス。トップの部分を細くつくるのがコツ。麻ひもで巻きながらおりてきます。360度なので、慣れないとちょっと難しいかも。
「豆の木」の苗をもらった。豆の木なんていらないという人の分もあって2本もらってきた。直径5センチぐらいの豆がぱかっと割れてそこから芽がでる。『ジャックと豆の木』の豆である。ブラックビーンまたはカスタノスペルマム、オーストラリアビーンズともいう。ちょっと楽しそうなので、mizunoさんにいらない?って聞いたらいらないって言われた。どうしてかというと過去に育てたことがあって、あっという間に大きくなって困ったそうで・・・・でそのことを書いた『ペッパーランド』25号を読ませてもらった。「3、4年のうちに梢の先の葉っぱがそろそろ天井に届きかねない。後悔しても追っ付かない。枝は細かく垂れて大きな葉はウルシの木のように互生。恐竜の首が四方八方に垂れている感じのその木は、本来は常緑喬木でもあろうかと、下から見上げる。勝手にタランタランザウルスの木などと呼んでいる。なぜか太古の雰囲気を漂わせる妖しさがあるのだ」ここまで読んだら絶対育てたくなる。拒否された豆の木たちよ。まかしておくれと言いたいとこだ。ところでこのエッセイにも書かれていたが、「木にも種類によって個別の生理があり」とある。そうなんだなあ。個々の植物の存在感というか、昼間はいいのだが、夜になって人間が家に閉じこもる時間帯になると、植物はがぜん力を発揮しはじめるのかどうか、襲いかかられるというか(ちょっと違うなあ)ひややかに見られているような、そんな感覚になってしまう。自分ちの畑にも暗くなったら何か恐いというか恥ずかしくて入っていけない。変な話だけど。それでいて、せっせと花やら野菜やら木の世話をするのが好きなのである。すくすくのびるユーカリの木なんてみてるだけで楽しいのである。
「何を書くか、何を書かないか?小学生の作文にひれ伏そう」村田喜代子の『縦横無尽の文章レッスン』の前期・第一週のテーマである。この本は大学でひらく実践的な文章講座と帯に書かれている通り、形式は週ごとにテキスト、テーマが決まっている。読者は読むことによって脳の清浄かつ訓練が出来る。そんな感じの本で、とてもおもしろかった。それで今日、なんの気なしに『裸の大将・東海道五十三次』山下清(遺作となった絵と文章)を読んだが、村田喜代子さんが、子供の作文から、おとなの私たちが学びたいこととして4つあげている、まさにこれぴったしの文章なのである。「1まず書く事柄を決めておく2そして書かない事柄も決めておく3大胆に自分中心でいってみよう4そうして周囲を細心に観察する」
山下清が絵につけた文章、まず川崎大師でのこと
「川崎のお大師様にどうしてたくさんの人がおまいりに来るかというと おまいりに来るといいことがあるという人が多いからだな
ぼくは放浪のとき 成田さんのお守りをよその人に貰ってそれをつけて鉄道線路を歩いてたら汽車にひかれなかったな それをどっかへなくしてから鉄道線路をあるいたら やっぱり汽車にひかれなかったな お守りのききめはわからないな ここで一番とくをしてるのは ただでえさをもらっているハトだな」
金谷 牧の原で
「牧の原ってとこは全部お茶畑だな 日本人はお茶がすきだから こんなに広いお茶畑がいるんだな ぼくはルンペンしてるとき よその家でときどきお茶をのませてもらったけど西洋のルンペンはコーヒーか紅茶をのませてもらえるのかな 日本でお茶をくださいというと ルンペンにお茶はぜいたくだ水にしろといわれたので 水はおなかをこわすと悪いですというと 勝手にしろといって それでもお湯をくれたな」
坂の下 筆捨山で
「むかしじょうずな絵かきがいて この山の景色があんまり上等なので 絵にすることができなくて筆を捨てたというのは ほんとうだろうか ぼくはいつでも景色の方が絵よりきれいだと思っているから そんなこと気にならないな 描きたいところを描くこともあるし 描けといわれて描くこともあるけど 描きだせばどっちでもおんなじだな」
絵もいいし、おもしろいです。小学館文庫476円なので買って読んでみてください。
東京都庭園美術館で「森と芸術」展を見て来た。最終日が7月3日のせいか、結構人が多かった。でものんびりした感じの人ばかり(気のせいかも)でゆったりと見ることができた。楽園としての森、神話と伝説の森、風景画のなかの森、アール・ヌーヴォーと象徴の森、庭園と「聖なる森」、メルヘンと絵本の森、シュールレアリスムの森、日本列島の森と部屋が分かれていた。「森らしい森ならどこだって、ただの木の集まりではない不思議な巨きな生命体のなかにいるような快い感覚を、私たちによびおこしてくれるもの」らしいが、実際に経験してないのが淋しい。林や小さな山なら、みんなでわいわい行った記憶はあるが、ここはやっぱり独りで対峙したい(願望)。
詩を書いていておもしろいなあと思うことがある。それはお互い、詩は知っているが相手には一度も会ったことがない、そんな人が圧倒的に多いからだ。それなのに詩誌の交換を何年もやっていると、昔からの知り合いだっけ、みたいな錯覚におちいる。作品を通して勝手にイメージをふくらましてしまうのである。お互いの日常の姿なんてほとんど知らないのに。まあ必要はないけど????でも詩はごまかそうと思ってもどうしてもその人の本質的な部分が出てしまうので、もしかしたら日常の仮面スタイルに惑わされないで、その人と対峙できるかもしれない。なんて思った。『二兎』同人の佐藤真里子さんは北の果てに住んでいる。詩がなければ、知り合うこともなくお互いの生涯を終える・・・はずである。ところが彼女の第5詩集『水の中の小さな図書館』の書評をある詩誌に書くという役がまわってきた。お互い見ず知らず・・・・彼女の詩集全部読んで勝手なこと書かせてもらった。やさしい彼女のこと、お菓子とか送ってきてくれたなあ・・・それから個人的つきあいが始まった。別にお菓子がきっかけではないです。詩が良かったからですけどね。
ユダの軌跡
佐藤真里子
またしても
のどが渇くから
無言のあなたの愛
という 手垢の濃い絆
かるく ほどく
「やっぱり おまえは・・・」と
言われ続けてきた日々
肝心な時には
いつでも のどが渇いていた
その度に
水道水
その度に
私の宇宙 傾き
その度に
陽に背く座標へと
走ってしまう私
渇くのど
潤す水
多量なら
落日 きれいなら
捨ててもいい
皮膚になじんだ朝夕
稀薄になっていく胸の
夢 入れ替えてもいい
化粧などするものか
お嫁になど行くものか
少しずつ
いびつになっていく地球の
窮屈な日曜日
歯など磨くものか
パンツなどはくものか
梅雨明け宣言 聞き流し
堕落した雨に浸ったまま
夏の欠落
またしても
渇くのど
多湿と思う明日
第一詩集『ユダの軌跡』より
今日は中井ひさ子さんの詩を紹介したい。彼女とは『ぶらんこのり』『二兎』『4B』と、懲りることなく同人誌を増やしている友人である。二人とも、やってくる困難など思いもつかず、のりやすい性格なのだろう。とはいえ、この上なく恵まれた詩友たちとの同人誌作りは楽しい。中井さんと出会ったのは8年か9年前である。ある詩の教室での合評会だった。突然やってきた彼女は一度限りの通りすがりの人のはずだったが、ところがそのとき持ってきた作品が「月夜」。これが忘れられない作品となった。ウサギが卵を産む!えっと思ったけど、なんとも不思議なリアル感。哺乳動物と卵の詩は他にもあるが、詩をあまり読んでなかった当時の私にとっての驚きは、夜も寝られなかった。(ちょっとオーバーかな)しかし彼女との個人的なつきあいが始まるのは、それから数年たってからのことであるが。そのときの「月夜」を紹介したい。
月夜
中井ひさ子
月夜には
ウサギがふってくる
彼と私は
近くの原っぱに
トンボとりのあみを
一つずつ持って出かけた
大きな月が昇ると
ウサギがふってくる ふってくる
彼と私は夢中であみをふりまわした
ウサギだって
そうたやすく捕まりはしない
それぞれの思いで飛び跳ね
あっという間に
四方へ消えた
ふと気づくと
彼のあみに
卵が一つ
「文明が進んだんだもの
ウサギだって卵を産むさ」
彼は大切そうに温める
「それ私が産んだ卵
いつの頃か
月夜の晩に卵を産む
私の習性
でも
生まれた子が
あっという間に
月に昇ってしまうのが
さみしい
震災をテーマにした詩を読む機会が増えました。書かずにいられないという気持を多くの人が持っているのだなあと思います。私自身は書きたくても、自分の立ち位置がふらふらしていて、書き始めることができません。今日は、震災に関連した詩を二篇紹介したいと思います。
猫のネコ
小柳玲子
大きな地異があり 震源から離れた私の家も生まれて
初めてのように揺れた 火も消さず庭に飛び出た私は
木の根方に座り震えていた
見ると茶猫が一匹 ブロック塀の上を怯えて走る
猫にも異変は分かるのだろうか
かわいそうに!名前でも呼んで落ち着かせてやろう
シロでもないしクロでもないし チャって名前はないだろう
し 「ネコ!」と呼んでやった
仰天した猫は愚かにも堀から落下
そのまま隣家の方へ遁走 ばかな猫だ
揺れが静まり 暖房の火を消していると
見慣れぬ隣家が目に入る ガラスが割れ落ちて
古びた座敷の中が見える
あの茶猫が涙をぬぐいながらしくしく
泣いているではないか
主婦らしい女性が猫を慰めている
「まあ 四十年もお隣にいて お前の名前を知らない
のかい?」
「あんまりと言うものです」泣きながら猫が答える
へんな猫
夜ふけ 余震に怯えながらセーターのまま眠る
猫って四十年も生きるのかなあ
と考えては眠る
私はいつの間に猫の言葉が分かるようになったのか
と考えては ガバッと目が覚める
大きな地異の余波で 古い遠いあの隣家が地底から湧
いてきたのだろうか と思ってまた眠る
ネコや 茶猫 お前は誰だったろう
呟きながら 眠る
立夏の街
豊原清明
なくなったひとの破片のような
硝子
恋人はなく 家族だけがいる、この街
阪神淡路大震災と その、 震災詩
あれから十六年
今年の災害に祈ることは
何だろう?
津波のニュースを見た夜
ピノキオみたいに
夢のなかで
鯨ではなく パンダの腹のなかで
父と溺れていた
震災はー壊す・・・
何者か得体の知れない、
ティラノザウルス、否、ゴジラ、否、
コスモの爆発、否、心の傷だ
それでも、ほっとするのは
世界中が心配していること
皆と、悩みを語れるから
希望が生まれるだろう
希望、それはいつも、いつも
僕に出来ることは
つたない祈り
祈りがすべて
三月、四月、五月、
生かされている
きょうは疲れた
辛かった
涙がにじむ
そして、夏、
が、始まろうとしている
飛んでくれ、紙、飛行機・・・。
上橋奈穂子さんの奈穂子を奈緒子としてしまいました。ご指摘ありがとうございます。変換しただけで、見直さなかった私でした。ファンの方ごめんなさい。
今日の詩は昭和41年に発行された詩集からです。初めて読んだ日の衝撃は今でも忘れられません。無意識領域がひっかきまわされた感じでした。今でも鼻のあたりにじーんときます。
小柳玲子さんの第一詩集『見えているもの』の冒頭の詩です。
たびだち
小柳玲子
海があれて
舟はみんな遠かった
島はねむり
その果に夜がいくつも星を灯した
誰かたびに行ったと、私は思い
誰かたびに行ったと、話した
母は
すきとおった魚をやいた
父や妹に黒っぽい皿を並べた
みんな いるよ と答えた
だけど
海の声があんなにさびしいもの
誰かたびに行ったと 私は話した
昔 母が留守だと
海はあんな声でひびいた
犬が殺された朝もそうだった
みんな いるよ と母は言った
たびに行くのは
いつもお前の中の家族さ
海があれて
おもい夜更
家族とやさしい食事をおわると
遠い土地へたびだった私の
頼りない声をきいた
おやすみのあいさつを送るらしい
幼い声をきいたと思った
海があれて
母はおやすみと言った
(「ひびいた」の「び」が本文と同じものが打てませんでした)