爆笑

      爆笑
         福島敦子
  くす玉は割れる
  どわぁぁっっっ!
  とわく声は響いて
  立ち上がり 押し寄せて
  行ったっきり
  くすくすくすくすくす…
  引き返しているのか
  また押し寄せているのか
  花びらがひらひら落ちてくる
  落ちてきたと思ったら舞いあがる
  突然 晴れわたった空に放り出される
  ひとりなのにみんながいるところ
  あの笑い声 ではなく もう音
  爆音!
  響きわたる
  のどに おなかに
  腕にふくらはぎに 胸に…
  ひかりのはしらがすっと差し まぶしい
佐藤真里子さんからこんな詩があるよと教えてもらった。『tab』という詩誌だそうだ。なんだか読んでいるとすかっとしてくる。青い空にでっかいくす玉ぱあんと割れて、あたり一面花園で、もうぐちぐちしたことなんかどうでもいいよみたいな感じになる。一行あけて、最後の言葉がとてもいい。元気いただき!みたいで心地よい。

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『くり屋』50号から

木村恭子さんは『くり屋』という小さな個人詩誌を出されている。この小さなというのは、詩誌の大きさのことで、もちろん内容のことではない(あたりまえでした)。たいがい身近なところから物語は始まるのだが、気がつくと迷路につれこまれているというパターンが多い。それも超近代国家的迷路ではなく、時代設定なしの一見長屋風である。あっヒト!みたいな感じ。と、わけの分からないことを書いているが、簡単に言っちゃえば、木村さんの作品はどれ読んでもおもしろい。ぱかっと明かりを灯してくれる。それで今日『くり屋』50号がきたので、その中から一番短いのをひとつ。(迷路はちょっと長いので)
      隣       木村恭子
  その家の玄関に初めて立った時 隣家の厠の窓がガシャンと開き
  誰や?何の用や? と怒鳴った 素性を言うと ピシャッと窓を
  閉めた
  その次 にわか雨に気づかないでいると 勝手口にステテコで現
  れ「おいっ 洗濯もん」と怒鳴り 何か短く言い足して帰って行
  った 勝手口といえば 捕れたての魚をぶらさげて立っていたこ
  とも 何度かある 「食わしちゃってくれえや」
  次 祭りの週には紙垂を配りにやって来た 受け取ってから ハ
  テ これも仕事の範疇であろうか否かと 白い紙を見つめている
  と 「やりかたも知らんのんか 何でもできにゃあ おえりゃあ
  すまあが」 さっとそれを奪い 以来毎年 町内会の張り巡らし
  た生垣の注連縄には いつの間にか 紙垂が飾られていたものだ
  その次は ダイニッポンカブシキガイシャ(自称)がやって来て
  屋根瓦の点検をさせよとしつこく言いつのった時だ 閉口してい
  ると ダイニッポンの背後から 「その人にゃあ 何言うても分
  からんどお 他にゃあ誰もおらん」と隣が大声をあげた 「なん
  なら人を呼ぼうか」とも言っていたが けだし この場合の(人)
  とは 警察の別称であろう
  次の年 その家の人は亡くなった 革の靴を履いて告別式に行く
  と 隣がダブルの式服をりゅうと着こなして 受付に座っていた
  お香典を渡し住所氏名を書き <親族><友人><会社等関係者>
  <その他>の どれに◯をつけようと思っていると「その他じゃ
  ろおがあ」と 小声で言った
  次に式が始まり 隣と<その他>は もう会うこともなかった 
  
  

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すぎゆくアダモ

最近読んだ本で、辻まことの『すぎゆくアダモ』がとてもよかった。辻まことは、何となく名前を聞いたことあるなという程度だったので、ダダイズムの辻潤と婦人解放運動家の伊藤野枝の子どもだと知ってびっくりした。理由はきっと伊藤野枝にある。平塚らいてうの『青鞜』での活動、関東大震災の混乱下、大杉栄と共に憲兵につかまり虐殺という生涯に関心を持っていたことが昔あったから、それを思いだした。といっても表面だけの知識でしかなかったけど。でもそんな情報など関係なくこの本は素晴らしかった。12葉の線画と12章の文。少年アダモは夏休みを海岸にある叔父のアダエモン氏のところで過ごすことになった。イスミ川の小さな河口から舟ででかける。そしてお話は始まるが、内容を紹介するのはとてもむつかしい。うなぎが山芋になる、そういう場所の方角へいくとアダモはいう。おじいさんは「・・・私も元気なら一緒にいくんだがね、山芋のようなうなぎ、うなぎのような山芋はいくらもここを通る。ようなものばかりが川を登ったり下ったりする。けれども本物のうなぎも山芋もめったに通らない。まして山芋になれるうなぎなどこのサツは全く絶えたね。ずいぶんと久しく見ないがね。種を超えて等価される個体の住む地方は在りそうだ。けれど景色は想像できかねるな、この私には」アダモはでかける。アダモは「忘れられるのが嬉しいような子」なんだか理屈っぽいとこを引用してしまったみたい。うなぎはどこまでいってもうなぎだというおじいさんの息子、だから電車やバスでいったほうが早いという。それに対してアダモは、電車やバスも行かないようなところ、うなぎが山芋になるとこに行きたいという。おじいさんはアダモを鮭のようだといい、アダモは自分はヒトのようだと感じているという。彼はどんどん透明になっていく。引用したいとこだらけで何回でも読みたい気持にさせられる。それにしてもアダモは年寄りのような子、おじいさんもいっていた。

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ちいさなぶーけを

P1010692.JPG暑いので造花でブーケつくりました。25センチにも満たない小さなブーケ。ナチュラルステムをいかす感じでワイアリングしました。白っていい色だなあとつくづく思います。

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ハハとねことあぶら蝉

 一昨日の続きだが、「からだの声をきく」をテーマにして書かれた作品はどれもおもしろい。女性ばかりなので男性と比較できないのは残念だけど、1篇紹介したい。 
   ハハとねことあぶら蝉
         岡田清子
 ハハはともだちのおばあさんのおくやみにでかけ
 台所の床にはりついていた
 まっくろなねこをふんでころびました
 ねこは
 にゃおとないたからだいじょうぶ
 ふにゃとしてなまぬるかった
 などといいながら
 ちかごろ目がわるくなってと
 眼鏡のしたからちいさな目を
 こすってみせました
 ハハは秋になると八十才になる
 妹は
 七年前さくらの花びらのなかに笑うように
 両手をひろげていってしまいました
 からだじゅうの毛あなから水がこぼれ
 タオルをあててもあてても
 水はだまったままするすると通りぬけて
 私の手をぬらしました
 あぶら蝉がバランスをくずして
 地面におちてきます
 手足を胸にたたんで
 死んだまねをして
 まねをして一日たって
 ハハは足の裏にねこがひっついている
 ともう一時間
 足をあらっています
 あぶら蝉をふんだことは
 まるでおぼえてないのです

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ジャック&ベティー

P1010689.JPG豆の木があっというまに2倍の高さになった。確かに成長が早い。それで名前をつけた。すらっとした感じのほうをジャック。白い植木鉢(それにしても汚いなあ)。茶っぽいほうがベティーである。外に出しっ放しで一日1回は水やりしているせいか、しょぼんとした感じになったことはまだない。暑さに強い。色つやよく風に吹かれている。
ここ数日、ギリシャ神話を読んでいた。こう暑い日が続くと、ひきこもりになってしまう。食事の支度と洗濯と水やりぐらい。体調くずしたら損しちゃうと自己弁護している。神話系はもともと好きだった。あまり考えたことはないが、記憶の最初にある本はギリシャ神話のような気がする。アトラスやペルセウスやヘラクレスや、その場面の絵が思いだされる。昔々、脳のすみにインプットされた絵である。両腕で天をささえているアトラスの絵の下には、助けを求めてさわぐから地震が起きると書いてあった。明るくて華麗な世界と一言でいってしまうのは乱暴だけど、これほどエロスがうずまいている世界も珍しいのでは?なんて思った。簡単な描写ゆえに果てしなくふくらむ。子どもの頃は英雄にあこがれていたけど、今回読んでみて、登場してくる女(性)性に惹かれた。混沌の中からあらわれ、すべてのものの母になった大地の女神ガイアの母性もすごいが、王女メディア(彼女は伯母にあたる魔女キルケから秘法の魔術を教え込まれている)のパワーに圧倒された。愛した男イアソンをどんな残酷なことをしてでもに守っていく。最後には徹底的な復讐というかたちをとりながら、イアソンの命だけは守る。この世で愛した、ただ1人の男イアソンには、自分がいない世の中がどんなに味気ないか思い知らせてやるのである・・・・おそるべし! でもワカルカモ。

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魚の重さ

昨日に続いて今日も詩誌『ペッパーランド』から。1993年13号の特集は「からだの声をきく」。随分まえの出版だが、思想の科学社『からだの声に耳をすますと』(著者ステファニー・デメトラコポウロス)副題は「よみがえる女の知恵」という本がある。子供を産み、育て、また病人を看とり、死んでゆく人を見送る。太古から女は自分の赤ん坊が死ぬのではないかと心配し、死別すればその悲しみを負ってきた。確かに女のほうが、開き直りの図太さというか、死を受け入れ、死と和解することは男よりたけている。常に男とは違う死に直面してきた、それが女性の精神の基層にあるそうだ。これは何を意味するのだろうか。女のからだを通して宿るものが、女にどんな影響を与えるか、この本は答えを与えているのか。しっかり忘れてしまっているので、もう一度読んでみたいと思った。話が脱線してしまったが、水野るり子さんは、あとがきでこんな風に書かれているので、この本を思い出したのだ。
「私はからだというものを、ふつうにいう身体というイメージだけでとらえず、もっと深い生命の根にある混沌とした力を負ったものとして考えたい。それは通常の意識だけでは触れ得ない部分でもあり、従って夢や意識下のイメージにも関心を向けてしまう。・・・・・・」
私たち人間は、何と得体のしれないものをかかえこんでいるのかと考えてしまった。
では、詩1篇  どんなからだの声が聞こえますか。
      
    魚の重さ    水野るり子
 ある夜 死んだ父がやってきて
 口ごもりながら
「もう・・・死んでも・・・いいか?」と訊く
 父の背中にはかすかに傷口があいていて
 そこからたえずあぶくが漏れている
 ・・・いつのまにか父はほっそりとした灰色の魚なのだった
 (それが逝く日とわかったので)
 魚の父を わたしは両腕に抱いて
 「・・・さよなら」といった
 魚はふいにわたしを抱きしめ
 すばやいくちづけをした
 そしてゆっくり水の底へ沈んでいった
 こうして夢の中でふたたび父が死んだとき
 わたしはやっと憶い出した
 わたしたちが魚であったこと
 いまも真実は魚であることを
 わたしのいのちが重いのは
 わたしのなかの魚が重いからだ
 わたしが病むのは
 わたしのなかで魚の水が減っていくからだ
 ぐったりと魚の重さでよこたわり
 えら呼吸をくり返していると
 病んだわたしの胸びれをぬらして
 とおくからひんやりと潮がみちてくる
 どんなに長くひとのからだになじんでも
 わたしは いつかほどかれて
 一匹の魚へともどっていく
 もう小さな傷口もかくすことなく
 魚は その日 放されて
 深い水のなかへ還っていく
ここまで書いて思いだした。私も魚になった母と魚になった父を書いたことがある。無意識の領域でつながっていた???
  
       
 

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わたしとあそんで

  わたしとあそんで
        征矢泰子
 あなたは茶色のジャケットをぬいではだしで流れのなかにたち
 ごつごつした岩にジャケットをたたきつけ
 それからそれをていねいにおりたたんでふみあらいし
 木と木のあいだにはりわたしたロープにほした
 それからふりむいて あなたはたずねる
 「機嫌よくあそんでいますか」
 いいえ わたしはあそんでいません
 だあれもだあれもあそんでくれないので
 わたしはきょうもきのうもひとりぼっちでたいくつです
 おとこたちはきすしたがりねたがりますが
 あそんでくれません
 だからあそんでわたしとあそんでまひるのもりのなかで
 ゆうやけのつみきのまちでつきよのガラスのどうぶつえんで
 わたしとあそんであめあがりのみずたまりはだしではねかえして
 ゆびとゆびのあいだにはりめぐらしたあやとりのめいろで
 とめどなくあそんでくるうたのいずみのなかで
 わたしとあそんでわたしとあそんで あなた
 おとこでなくおんなでなく おとなでなくこどもでなく
 けむりのようにたわいなくふけばきえる
 わたしのこころとあそんであそんで
 機嫌よくあそんで
 よびかけてもけっしてきこえない宇宙よりもとおいところで
 あなたは川べりに石をつみ つんだ石のうえにすわり
 ぬけるようにあおい空をみあげてタバコをすう
 それから ゆっくりとふりむいて
 「機嫌よくあそんでますか」
 パチン とわたしがスイッチをおすと画面はまっくらになり
 わたしはくしゃくしゃのベッドにひとりねそべって
 ながいながい午さがりがゆっくりとながれていくのをながめた
                
この詩はペッパーランド10号(1990年・水野るり子・前田ちよ子発行編集)に載っていた。
この号のテーマは「天の川片道切符−彦星に捧ぐ」とある。なんというひりひりした切ない詩なんだろうと思った。それは最初読んだときテーマを忘れていたから。こんな風に感じていたときを思い出したのだ。そうだ、これは彦星にだと気が付いたとき、ふっと気持が軽くなり世界がひろがった。詩と一緒にエッセイもある。紹介したいが長いので最後の箇所だけ。「生物としてのエロスを今一番たっぷりもっているのも性分化する以前の少年少女のような気がしています」少女という存在、分かっているようで分からない存在、知りたい。

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エキナセア

P1010685.JPG
花の名前はエキナセア 原産地は、アメリカ合衆国とカナダの中南部。多年草のキク科。秋に根を掘りあげてよく水洗い、乾燥してお茶として服用すると免疫系全般に作用して風邪やインフルエンザの予防に効果があるといわれているが、一度も試したことはない。数年前に近くの園芸やさんで見つけて100円ポットで買ったのが始まりだが、夏の陽射し大好きとばかり、日中もへこたれることなく、ようようと咲いている。冬は地上部はなくなってしまうが、別に肥料もほしがらず、静かにもぐっていて、手間いらず。気のいいヤツである。
毎年この時期は雑草に負けてしまうので、今年はビニールをひいた。キュウリやトマトもビニールに穴をあけて苗を植えた。ところがひとつ盲点があった。うちのほうは、今年雨が降らない。ひどすぎるくらい降らない。それでしかたなく水やりを始めたが、ビニールの上に水がじゃあじゃあ溜まるだけ。道にもしっかりビニールひいたものだから。なんじゃこれは、である。なにもかもうまくいくことってなかなかない。これって私がまぬけってことかな。でも草の生命力に対抗していたら、こちらの命が危なくなりそうなので、まあいいか!工夫して水播きすれば、と思っている。

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THE SECRET ISLAND

『THE SECRET ISLAND AND THE ENTICING FLAME』著者はEDWINA.CRANSTON。この本の半分以上のページは水野るり子の詩論である。当たり前だが、どこを開いても英語。読めないのが残念。それでも外国の人が水野さんの詩をどのように受け止めているのか知りたい。そんないきさつがあって(たいしたいきさつでもないけど)有志が集まり、水野さんを中心に訳す会なるものを立ち上げた。昨年の話。しかしながら素人ばかり(英語に強い人もいるけど)で船はでたけど漂流状態。といっても、世の中うまくできてるもので助っ人aburamoto先生があらわれて、順調に目的地に向かっている、というのが今現在。そのうち1冊の本となって世の中に出るとは思うけど、まだはっきりはしていない。私は部屋をとったり換気をしたりのお手伝いで、あまり実践には役に立たないが、日本語と英語を比べてみる作業はそれなりにおもしろい。割り当てられた箇所を順番に訳すというのが会員のノルマ、なので自分があたってないときは、ゆとりがあり楽しいのである。日本語だと頭を素通りする言葉も英語となると数秒は立ち止まる。数秒どころか、ああだこうだと30分も立ち止まったすえ、著者に聞いてみようということになる場合もある。じっくり言葉を考える良い時間でもある。今日は私の好きな詩をひとつ。
        帽子の気配
              水野るり子
  帽子のことを思うたび
  ふいにねむくなる
  夢のなかでなくした
  あの帽子のせいで
   (目の前に
    晴れ上がった空があり
    一本の木がゆれていた・・・
    こんもりとした
    その緑のこずえを
    両手いっぱいに抱えて わたしは
    すっぽりと頭を被った そして
    ひと足ごとに
    頭上に葉ずれの音をききながら
    ゆっくりと歩きはじめた
    おおきな緑の帽子を落とさないよう
    からだじゅうの小枝の先で
    バランスをとりながら
    どこかへ・・・遠くの方へ・・・)
  
  そこで
  夢がうすれていって
  わたしは途方に暮れている
  今でも あの帽子の感触が
  からだのなかに
  なまなましく残っていて
  急ごうとすると
  わたしの頭上で何かがかたむく
  路上で ふいに
  帽子の気配を感じると
  わたしはねむくなり
  そこに ぼんやり立ちどまる
  ひくい足音が わたしを離れ
  道を逸れて
  ゆっくりと どこかへ
  遠ざかってゆくのは
  そんなときだ
  路上に うすい影となった
  わたしを置いて

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