蜘蛛の体の人間

そのときは通り過ぎたままだったが、ふと気になって立ち止まることがある。詩でもそんなことが起きる。夢で、蜘蛛を見たのかスパイダーマンを見たのか、今朝とつぜん豊原さんの『蜘蛛の体の人間』を思いだした。ついでに、遠いむかしの田舎の風呂の壁にいつもべたっとへばりついていた黒い大きな蜘蛛も、裸になるの怖かったなあ。
       蜘蛛の体の人間
             豊原清明
  昔、喧嘩はいけないと
  教えた人はいるだろうか
  夕方、風呂に浸かっていると
  大きな蜘蛛が壁を這っていて
  やっつけようと思ったが
  生かせてやろうなどと
  余裕満面だったが、
  腹が立ってきて
  こいつ!こら!
  と、石鹸で潰そうとすると
  ぼぎっと、折れて、蜘蛛は
  風呂の水に流された
  もしや、肛門の穴にはいったら
  不健康だ
  スパイダー
  マンになるのか
  蜘蛛が体内に・入ったなら
  疲れてしまう
  この齢・・・ 
  学校は争いの魔宮であった
  公務員が子どもを
  拷問するようであっては
  愚かなる 何とよくない、学校か
  その学校がもたらした被害とは
  この、体ではないかい?
  傷・だらけ
  手首に跡が残った・傷
  母から
  損傷なく生まれたのに、である
  不意に背後から、
  殺気が走った
  振り向くと
  蜘蛛人間がにたにた、笑っていた
  影が気味悪く、 
  空に溶けゆく
  揚羽蝶

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冒険という言葉

いよいよお盆休暇で車は渋滞、新幹線も満員、空港も混雑で人々の移動週間が始まった。人が元気に動いているのは、なかなかいいものだと今年ほど感じたことはない。加齢のせいもあるかもしれないけど、まわりに暗いニュースが多すぎるからかもしれない。といって出かけたい気分にはなれないので、今日は何もしないで、冒険ものを読んで気分だけでもひたろうということにした。『空白の五マイル』角幡唯介(集英社)チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑むとサブタイトルにある。ブックレビューで紹介されて、この本を知ったのだが、まったく裏切られず一気読み。開高健ノンフィクション賞を受賞している。そうだろうそうだろう!!ツアンポー峡谷に人はなぜ魅せられるか、外国の探検家たちの話や遭難した武井義隆さん(これは泣けます)、チベットの人々の変化(2002~2003年探検のあと2009年冬にまた行くが、このときは政治的な事情やケイタイの普及でポーターが雇えなくて単独行になる)など、地図や写真を参考にしながら、苦しくて長い旅を数時間。「・・・極論をいえば、死ぬような思いをしなかった冒険は面白くないし、死ぬかもしれないと思わない冒険に意味はない。過剰なリスクを抱え込んだ瞬間を忘れられず、冒険者はたびたび厳しい自然に向かう。・・・論理をつきつめれば、命の危険があるからこそ冒険には意味があるし、すべてをむき出しにしたら、冒険には危険との対峙という要素しか残らないだろう・・・」ううんそうだと思ったとき、岡本太郎のいつもの過激な言葉を思いだした。「なぜ冒険家は一時的なものだけに身体を張り、永遠に対して挑まない、賭けないのだろう。ぼくの(危険に賭ける)というのは、日常の、まったく瞬間瞬間の生き方なんだ」ううん!!「冒険は賭けである。ならば一生を通しての闘いであるべきだ」ううん!!!!うなってるだけで日が暮れそうだけど、岡本太郎はこんなことも言っている。冒険を計画し準備に取り組んでいるときが最高だと言ったヨットの堀江青年の言葉を取り上げて、「そのとき、実は彼は(冒険)をやっているのではない。着実に、人生に賭けていたわけなのだ。ところが、なまじ結果として(冒険)に限定されてしまったために、終わりがあるのだ。終われば空しい。だからまたやる。」ううん!!!!(冒険)という言葉の使い方がモンダイ??? どちらにしても面白い本だった。

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ことの葉っぱ

    ことの葉っぱ
            星野元一
  畑はみごとな ザッソウ
  という名の葉っぱばかりだ
  
  たしかに前世は荒地で
  地主はザッソウであったのだ
  とっくに
  観念している
  だからせめて
  わたしの机の紙の畑も侵略し
  ナスやキュウリやトマトにはなれない思想の
  ことの葉っぱたちを整列させ
    オメエーラ!
  と頭を棒でたたき
  ケムシやカメムシやカやアブやハチ
  をほっぺたにくっつけ
  死んだモグラやネズミやトカゲやヘビ
  を目の前にぶらさげ
    イイカ!
    アヤマレー!
  と怒鳴って
  鼻をこすってみてはくれないか
  昭和の餓鬼大将のように
  ことの葉っぱは
  気位ばかりが高いのだ
  わたしが諭すと 嫁のように
    フン といい
  昔の姑のように
    ヘン といってそっぽを向き
  わたしの育てた畑の野菜に
  けちばかりつけてくるのだ
今日、星野元一さんの個人詩誌『かぎゅう』39号が届いた。この作品のほかに2篇とゲストの新保啓さんの作品。どれもおもしろい。「地主はザッソウであったのだ」なんて、日頃ザッソウを目の敵にしている私はどきり。そうだよなそうだと妙に納得して、でもやっぱり観念なんかしないと思いつつも、やっぱ私も観念してるのかもしれない。ついでに私はバッタも追加したい。しかし言の葉は、本当に気位高くて気難しいです。

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プレゼントに

P1010713.JPGこう暑いと花もねえと思うけど、夏には夏の花があるので、お金をかけないアレンジひとつ。大きめの透明のコップかビンを用意。オアシスパウダーの量があまりないときには、まん中に普通のオアシスを細長く切っていれる。オアシスパウダーを入れ水を入れ押さえる、この手順を繰り返す。パウダーはいろんな色があるので、好みで模様の層を作るといい。色を変えるときは、まわりをテッシュで拭いてからすると出来上がりがきれい。リボンはチョウチョ結びに。すべりやすいので4カ所両面テープをつけること。花はなんでもOK。アイビーやハートカズラをまわりにあしらうと可愛い。ミニトマトもアクセントに。ちょっとしたプレゼントになりませんか。

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冷蔵庫

P1010708.JPGOさんの家の冷蔵庫がこわれたそうで。この暑いなか、大騒ぎでしょうね。冷蔵庫って収納力かなりあるから、いざなかみを取り出すと、出るわ出るわ(これうちの場合だけど)、狭い台所、足の踏み場もなくなってしまう。これは冷蔵庫の掃除するときの経験から。でもこわれなくても、停電になっちゃうと生ものも冷たい麦茶もビールもだめになるわけだから、実害大。それにしても冷蔵庫が常に機能してるなんて、当たり前じゃないのに当たり前と思ってる我にぞっとする。この写真、ずっとむかしに使っていた木の冷蔵庫。上に氷いれて使ったんだけど「通産大臣賞受賞」とトビラに書いてある。物持ちの良さに我ながらあきれるが、ここまで置いていたのだから、まあ置いときましょうとここ何年も過ぎてしまった。ところで氷屋さん、近所にまだある。小売りはしてないみたいだけど。

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無限大に余白

P1010706.JPG 昨年、友だちから貰った小さな株がこんなに大きく育ってしまった。饒舌な感じのする花たちだ。
何故か、佐伯多美子さんの「余白」という詩を思いだした。初めて読んだとき、どんどん小さくなっていくのに、あっと気がついたら無限大の空間にほおりこまれてしまって、びっくりした。今でも時々読んでは凝りもせず、びっくりしている。まったくもってこの花とは関係ないのに、脈絡なく思いだされてくる感覚ってどこから出てくるんだろう。
    余白
        佐伯多美子
  円を描く
  そのうちがわに沿ってまた円を描く
  そのうちがわにまた
  うちがわに
  何層にも円がかさなり
  やがて
  円の中心で
  白い点 のような
  余白
  が 寡黙にあった

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八手

     八手
          弓田弓子
  
 地平線に向けて願い事が多く合掌するてのひらの
 指が増えて八手に成長していく この八手をどう
 するべきか 八手の葉を切り落とすくふうでじっ
 とかれらをみつめるものだから 葉の先が変色し
 てきた 葉の中に震える人物が潜んでいるかのよ
 うに ときに物音を立てる葉に出会い 驚かされ
 るがここには長い年月だれも潜んでいたりしない
 葉の中のだれかを救いだすために 入り組んだそ
 の道筋などたどってみたが やはりここにはだれ
 もいないのだ
 八手の葉を切り落とせば落とすほど柔らかいしわ
 くちゃな 小さな赤子の手を密かに増やし 深い
 家族の かたい葉のかたまりを守るためにいっそ
 う葉の指を広げ中味を覆っている 黄白色の五弁
 の花にまでたどりつけずにそのまま腐っていく柔
 らかい葉を 激しい日差しを避けて かれらは互
 いにあおりあおり ぐったりしたまま陽が落ちる
 までろうどうしている 葉の陰で 炭酸同化作用
 を調べているとかれらの広げたてのひらが更に指
 を増やしていく
弓田弓子さんの詩はいつも魅力的だ。ひとくせもふたくせもある。思いもよらないところからぬっと手がでてくるようで怖い。ごく身近な媒体からとんでもない異空間に連れ去られるのだ。ちょっとどころか多いに不気味だがやさしさがある。怖いものみたさかな、弓田さんから詩誌が送られてくるとわくわくする。「八手」は『ゆんで』3号から。

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怖いはなしの語り

夏だからということでもないが、岡本綺堂訳の『世界怪談名作集』を読んだ。昭和4年改造社から刊行された『世界大衆文學全集』35巻の復刻版である。今は河出文庫(上下)で読める。
岡本綺堂というと半七捕物帳と怪談話と漠然と思っていたので、翻訳もの?と一瞬、本の前で立ち止まってしまった。もっとも岡本綺堂が古今東西の怪奇小説に目を通していたというのは有名らしいけど。すごいなあと思って(何がすごいんだか分からないけど)読みはじめたら、ひとつひとつの短篇のよくできていること・・・・そりゃそうでしょう!デッケンズ、デフォー、ホーソーン、モーパッサン等、超有名人ばかりがぞろぞろ(だからといっておもしろいという保証はないけど)綺堂先生の選ばれた話はどれもおもしろい。「世界の怪談を自家薬籠中のものとし、自らの作品と変わりない文体で日本語へと移した綺堂の古典的怪談アンソロジー」である。読みながら、作家さんみんなもう亡くなってる(あたりまえといえばあたりまえだけど)ということに気がついて何かすごく不思議な感じがした。今生きてるのは私だけ。作中の人物だってもう死んでるし、と思うとうーん私はどこにいればいい?みたいな感じ。それから怪談の文化の違い、私はどうも日本の怪談は苦手だけど、外国物だと結構楽しめる。レトロな家の感じも幽霊さんも。距離があるからかもしれないけど。二冊1000円ちょっとで、とても楽しめた。

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思うこと

『詩と思想』8月号は沖縄の名詩特集を組んでいる。沖縄に住んでいる詩人の作品をこんなにまとめて読んだのは初めてだ。山之口貘や花田英三、そのほか2、3名何となく読んだことはあったが、沖縄という土地柄を意識して読んだことはなかった。編集後記で佐川亜紀さんはこう述べている。「沖縄の詩に満ちる海光と生命の言葉は根源的力を感じさせる。「日本」は縮みの文化と言われるが、島から宇宙に天翔ける想像力は枠を超えている。しかし、「日本全土」が沖縄に強いてきた歴史的な抑圧、沖縄戦の過酷さ、米軍基地の脅威は、生活と文化をおびやかしてきた。沖縄詩の鋭い批判性と怒りをこめた叙事詩は本土を絶えず打ち、問うものである・・・・・・・・・」と。それで 最近読んだ熊本の杉本一男さんの『坑の中から 鼓動が』を思いだした。6冊目の炭坑詩集であり、リアルタイムで書き継いでこられた。炭坑という世界での労働者の命と暮らし、炭函を曵く馬たちの歴史などが書かれている。私にとって「炭坑」も「沖縄」も教科書的な知識だけで知らない世界だ。しかし詩というかたちで個人から発信された、これら哀しみや怒り、理不尽さや驚きは、心に何とストレートに伝わってくるのだろうと思った。

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ミニトマト

P1010702.JPG 今年、我が家のキュウリは全然ダメです。雨のせいにしてるけど、ともだちんちのキュウリはうらやましいほど元気がいいです。うちで元気がいいのは唐辛子ぐらい。チソとバジルはまあまあ。トマトは中玉とミニの苗を数本。あまり甘くないけど、そこそこの収穫はあります。写真は今日の収穫。

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