新人オーディション

 戦争によるあらゆる辛酸と屈辱をなめていた頃のはなしです。
 「多くの死と醜悪さに直面し、飢餓と貧困に突き落とされた人びとにとって、戦争を支持してしまったことへの悔恨は大きかった。1946年6月、映画会社の東宝が敗戦後第一回の新人オーディションを行ない、
三船敏郎や久我美子が採用された。そのときの課題のセリフは、
「私はバカだった。ほんとうにバカだった。バカだった」というものだった。」
赤塚行雄「戦後欲望史」1984年、講談社文庫、第一巻、225頁
小熊英二「<民主>と<愛国>」新曜社、第一章モラルの焦土63頁。

カテゴリー: 出口なしではないよ | コメントする

出口なしではないよ

『戦争が遺したもの』 鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二
韓国との関係と金芝河
小熊 ジャワにはたぶん一生行かれないだろうというお話でしたよね。では韓国に行ったのは、きっかけ        はなんだったのですか。
鶴見 小田実が行けって言ったんだよ(笑)。突如として命令を発してきてね。金芝河に会いに行けって。
    韓国で金芝河が監禁されていた病室まで会いに行ったら、金芝河は驚いた様子だつた。なにも知    らない日本人がいきなり現れたんだから。
     それで私は、英語でこう言った。「ここに、あなたを死刑にするなという趣旨で、世界中から集め     た署名があります」とね。金芝河は日本語はできないし、英語もたいしてできない。だけど彼は、
    片言の英語で、こう言ったんだ。「Your movement can not help me.But I will add my name to it
to help your movement」 (あなたたちの運動は、私を助けることはできないだろう。しかし私       は、あなたたちの運動を助けるために、署名に参加する)。
小熊 それはすごい。
上野 まつたく対等の関係から出る言葉ですね。相手に頼るでも、相手を見下すでもない。しかも普遍へ
    の意志が感じられる……。
鶴見 これはすごい奴だと思ったよ。朝鮮人とか韓国人とか、そういうことを越えて、人間としてすごいと     と思った。もし私だつたら、死刑になりそうになっている自分のところへ、署名をもって外国人がい     きなりたずねてきたら、何がいえるだろう。「サンキュウー、サンキュウー」ぐらいが関の山でしょう。
    
    しかも彼は英語をそんなにできないから、ほんとうにベイシックな英語だけで、これを言ったのだ。
    まったく無駄のない、独立した言葉なんだ。詩人だと思ったよ。
     それで十数年たって、ようやく彼が釈放されて日本に訪ねてきたとき、彼が京都の私の自宅ま     でやってきたんだ。外でちょっと会ってお礼を言うとか、そういうのじゃ気が済まないって言うんだ     よ。古い儒教的なマナーなのかしれないけれど、そういう仁義もある人なんだ。
     そういう人を相手にしていると、抽象的に朝鮮人を差別してはいけないとか、朝鮮人はかわいそ    うだとかいうのは、まつたくこえてしまうよね。そんなことを考えているこっちのほうが、よっぽどか
    わいそうなんだ(笑)。このひとを死刑にしてはいけないという思いが、朝鮮とか韓国とかを越えて
    しまうんだよ。
 
    だから、最初の質問にもどると、私はそういう関係にある金芝河のことは書いたけれど、朝鮮や
    韓国のことを抽象的に書くことはあまりしていない。そういう書き方は、できないんだ。
 
 この本は鶴見俊輔氏に、戦中から戦後にかけての経験を小熊英二さんと上野千鶴子さんが質問する
という形の対談て゛できあがっています。そして、この金芝河氏の話は100話ぐらいのなかとほんのすこしの短いアネクトートです。ですが、ここで確かに歴史がひとつ音をたてて動きだしたという感じと金芝河という詩人の魅力が思う存分に語られているとおもいました。
 上野千鶴子さんは、あとがきで「歴史は学ぼうとする者の前にしか姿をあらわさない。歴史という道しるべのない道を、私たちの前に立って歩んできた鶴見さんという知性から、学ぶことは多い。わたしたちは
いささか性急に、そしてあまりにも無遠慮に、かれがこれまで多く語ってこなかったことをを引き出したかもしれない」といっている。
 ひさしぶりのたっぷりした、むずかしいことを分かりやすい言葉で語られた歴史の本でした。
 小熊英二さんは『と<愛国>』という本もだされていて、図書館の順番待ちで借りてきて読もうと
 思います。
 ただ、歴史家や学者や詩人や評論家はあまりにそれぞれの言葉で考えたことをかたるので、
なにか、そのルートではものが見えてくるのですが、最初に考えたことを語るのでなく、できたら感じたことを言葉にする方が大事なのではないかと思いました。たとえば吉永小百合さんが女優としてでなく、
ひとりの人間として、原爆の詩を朗読していることはとても感動的です。
 
 思想家という人たちは、歴史について、あれだけのことを語れるのに、原爆のことをかたれなかったのか、語りにくいことは語らないのか、みんなが言ったことをカスタマイズしてから語るのか、考えさせられました。思想の大義名分がなくなったあと、子どもたちが殺されることが始まりました。それは何かことばにならない暗い部分ですが、そのことを語るひとはまだ現れていないようです。いちばん、私が知りたいことはそのことなのですが、まだのようで残念です。
 
 
 

カテゴリー: 出口なしではないよ | コメントする

「言葉、広い夜」キャロル・アン・ダフィ  イギリスの新しい星

言葉、広い夜     キャロル・アン・ダフィ   小泉博一訳
この広い夜と私たちを隔てているこの距離の
向こう側のどこかで
私はいまあなたのことを想っています
いまこの部屋は月からゆっくり逸れています
これは愉しめることです そうでなければ
そんなことはやめにして それは悲しいことです
と言いましょうか? そのような緊張のひとつのなかで
あなたに聞こえない叶わぬ希望の歌を唄う私
ラ ララ ラ 分かりますか?
あなたのもとに辿り着くために 私は眼を閉じて
どうしても超さなければならぬいくつかの暗い丘を想像します
なぜなら 私はあなたに恋しているからなのです
そしてこれはそのようなもの
あるいは言葉にすればそのようなものだからなのです
Words,Wide Night        Carol  Ann Duffy
Somewhore on the other side of this wide  night
and the distance between us,I am thinking  of you
the room is turning slowly away from the moon.
This is pleasurable. Or shall I cross that out  and say
it is sad? In one of the tenses I singing
an impossible song of desire that you cannot hear.
La Lala la. I close my eyes and imagine.
the dark hills I would have to cross
to reach you. For am in love with you 
and this
is what it is like or what it is like in words.
 
<愛>があるから<ことば>があるのか?
 <ことば>があるから<愛>があるのか?
それとも、<愛=ことば>なのか?
などと誰だっていちどは考えてみたことがあるのでしよう。
そして、詩を書いたり、読んだりすることはそうしたことと、とても深い関わりあいがあるのではないでしょうか?
 でも、あまり、そうしたことばかりを考えているとややもすると倫理的になりすぎたり、思想的になりすぎたりして、あげくのはてには、詩が見えなくなってしまうこともあります。
 この詩がとても魅力てきなのは、そういう状態にいながら、あたかも広い海を目の前にしているかのように、<愛と詩>についてかたっているからです。
 それを可能にしているのは、<広い夜>ということばによって生み出される新しい愛のあり方だとおもいます。
 それは、愛の現実や愛の心をしっかりとみつめていながら、しかも、それを所有せすせず自由にしていると思われるからです。

カテゴリー: something blue | 3件のコメント

「雨」蟹澤奈穂   李禹煥の繊細さ  

雨   蟹澤奈穂   
駅を出ると 空の向こうに
観覧車が見える
あれはいつも止まっているようだけど
とてもゆっくり 動いていることに気づく
りょうほうの足に
自分の重さを感じながら
坂道を下りて行く
すると
雨が降ってくる
雨か それもいいね
ふいにメロディが口をついたので
そっと歌ってみた
ひくい声で つぶやくように
そしてこれを聴いている人が
たとえばどこかにいるのだと考えてみる
雨がぱたぱたと音をたてはじめる
服にしずくが染みを作る
虫の匂いはいつも懐かしい
さすがに少しいそぎ足で
橋を渡ろう
帰ったらまずコーヒーをいれて
それからでいいのかな と
どこかにいるその人に
心の中で許しを乞う
 
 この詩を読んだとき、どうしてかLEEUFANのことを思い出してしまった。こんなに繊細な詩をかいて人に味わってもらいたいと思うのは間違っている。などと本人に文句をいったりした。傷ついたかもしれない。
 でも、いい詩なのでおぼえていて、あとから心の中で許しを乞うたりした。
 まるでこの詩のように、雨粒のようにいちいち心が動き出してびっくりした。
 LEEUFANの絵には絵筆のとおりに色彩が字を書くようにまっすぐに一度きりにのびていて、次の線がまた引かれる、また次の一本、そうするとそれらの線に 色彩のグラディションがあって美しかった。考えてみればこの詩のひとつひとつの言葉遣いが非常に注意深くて、
行為、想い、雨の音などそのもののようにうごいている。行きつもどりつもしていると、急に歌ってたりもしてことばが自分の歌を聴いているひとがどこかにいるのだと考えたりして、他人がふっと現れて消える。
 まして、どこかにいるその人に心の中で許しを乞うたりされると読者もまいってしまうのである。いいけれど、何が何だかわからないというのは、困るかもしれない。うつくしいけれど。絵とは違うのだから。   などとすこし辛口に言ってみた。

カテゴリー: something blue | コメントする

「駅」岩田まり  わかりやすいということ

駅     岩田まり
京浜工業地帯
新芝浦駅にいったことあるかい
朝 小さな電車がやってきて
ぎっしり詰めた男たちを
機械の部品のように吐き出すんだ
プラットホームを過ぎるとすでに工場の入口だから
窓にむかつてごちゃごちゃと欠伸をしていた男たちが
口を閉じて儀式のように出て行く
純粋に働く人だからね
昼にはからっぽの電車がゆったりと
海を埋め立てた運河を行ったり来たりして
魔法の乗り物みたい
夕方には
キオスクの
あまり若くない女の人ふたりの腕が急に忙しくなって
ぬうっと顔を出す
今日の仕事を終えたのっぺらぼうの男たちの手に
次からつぎへと缶ビールを手渡す
白い腕と太い腕が宙を切って
缶が開けられ
缶が捨てられ
ダンボール箱にあふれていくんだ
いくつもね
すると
夜の電車がやってきて
水たまりのようにできている赤ら顔の男たちの輪
みんな
一気にかっさらっていく
彼らの小さな家にね
カール・サンドバーグ『シカゴ詩集』のページみたいな駅なんだ
 
 
 私がこの詩は面白いとか、いい詩だとか感じるときの一つの重要な基準として、わかりやすいということがあります。この詩はとてもわかりやすいと思います。書かれている内容は奥行き、広がりもあるのですが、それにもかかわらず、すこしも不明瞭な感じを受けません。
 
 それはなぜなのかと考えてみますと、一つはこの詩のリズムにあると思います。ひとの話し方や声には
それぞれ独自のリズムや音色があって、時には話すことばの意味よりも、さきざまなことを相手に伝えます。
 嬉しいとき、淋しいとき、そして駅を見ているとき、その話すリズムや声の音色は恐らくそのときだけのものがあるのでしょう。それがこの詩の魅力であると思います。
 それともう一つ、(これはリズムと深い関係があると思いますが)この詩が平明で的確であるということです。そして、最後にもしかしたら、これがいちばん大事なことかも知れませんが、作者が街や駅や、そこに生きる人間に対して熱い関心を抱いているということです。そのためにこの詩全体が優しく哀しく、そしてユーモアが漂っているということだと思います。

カテゴリー: something blue | コメントする

三角みづ紀   時計じかけのオレンジのように

すばらしい毒、 声をあげては      三角みづ紀
血が流れない
痛みはあるのに
血が流れない
加速されたことばに
翻弄され
地球の裏側から彼等に向けて
放たれた叫びが
いま
届いた
救急車の
どうしようもない明け方に
産まれ落ちた旅人
六月の旅人
心臓を蝕む
薬をもらったんだ
窓際のマトリカリアと
テレビの上の向日葵が
過激に優しくて
やりきれなくて泣いてしまう
少年のようなものが
もはや少女ではない扉を開ける
忘れてしまったのだろうか
息をするということ
そして
うまく血を流すこと
マチカドで執拗につきまとう
おとこにすら
物語はあるのだ
真実を知ったら
思いがけず完結してしまう
すばらしい毒、声をあげては
心臓が
すこしずつ死んでゆく
たいして
悲しくもないのだが
そのたびに
旅人
に近づいているみたい
彼等に云いたいことは
ひとつだけ
でも
そんなこと
たぶんいっしょういえない
笑ってくれればいい
この姿を
笑ってくれさえすれば
 
 この詩人のことばには、スピード感と鮮烈さがあり、読んでいるうちに心臓がドキドキしてきます。それと
恐らく同じことかもしれませんが、ことばからことばへの跳躍力もこの詩人の特徴のひとつだと思います。
 
 このことは必ずしもことばだけではなく、その内容にもよるのでしょうが、詩全体が何か生の断崖をたどっているからのようです。
 たとえば
<救急車の どうしようしようもない明け方に 産まれ落ちた旅人 六月の旅人 心臓を蝕む 薬をもらったんだ>
 こういうことばの有り様はこの詩人の生そのものであり、それが読む私に伝わってきてドキドキするのだとおもいます。
 
 ことばのスピード感や跳躍力に負けないようについていくと、生の真っ只中に自分が投げ出されたような感じさえします。
 それにしても、この詩人か生きている場所はなんと荒涼としていることか。そこでは木や草や水などといった自然の息吹は殆ど感じられず、映画『時計じかけのオレンジ』の世界のようです(それは、もしかしたら、イラクや日本の本当の姿かもしれない)。
 しかし、荒涼としているにもかかわらず、その世界は大変新鮮で透明な感じがして、それがとても不思議です。
 六連目の<すばらしい毒、声をあげては 心臓が すこしずつ死んでいくみたい>
 七連目の<彼等に云いたいことは ひとつだけ でも そんなこと たぶんいっしょういえない>には特にそんな感じがします。
 たとえその世界がどんなに荒涼とした世界の悲しい出来事であったとしても、私はこの六連目と七連目に深く感動しました。

カテゴリー: something blue | コメントする

「森の地図」作田教子  生命(いのち)の雰囲気

森の地図     作田教子     
日の出の前から朝が始まっているように
日が沈む何時間も前から闇夜は起き上がる
森の地図は何度も書き換えられる
やさしい木が倒れると
そこに光があたり 花が咲く
大きな鼻を持つ雨の神に出会うと
森はなくした聲を取り戻し 泣くことを思い出す
あなたは雨が通り過ぎたことを知って
時計の螺子を巻くだろう
時は戻らない
幸福とは遠くにいくことかもしれない
やさしい木が天を指していた頃の地図は
未来の空の引き出しのなかに眠る
森はどこにもいかない
けれど 森は通り過ぎていく 
雨をくぐりぬけ 風をくぐりぬけ
光も闇もくぐりぬけて
熱帯雨林に行ったことはない
けれど熱帯雨林のことをいつも考えている
だからさようならと言った
やさしい木になれるだろうか
雨も 光も そして死も
花を咲かせるために‥‥
記憶の森の雨の神はやわらかい靴を履いている
すぐ後ろに立つまで気づかない
 
 
 この詩はひとことでいえば、大変雰囲気のある詩だと思います。
 盛り場の雰囲気、港の雰囲気、春の雰囲気などというように。
 雰囲気ということばはいろんな場面でつかわれていますが、そのことばの意味を上手に語ろうとすると、
なかなかうまくできません。それは多分、雰囲気というのが、わたしたちの語感や考え方と非常に密接に
関係しているからであり、つまり、生そのもののように捉えがたいものだからなのでしょう。
 それはまるくもなく、四角でもなく、過去でもなく、未来でもなく、間近であって、しかも遠くあるからなのでしょう。この詩人がこの詩を書くとき、こういうことを考えていたかどうか、わかりませんが。私はこの詩
を読んで「森の地図」というのは、生命(いのち)の雰囲気だなあと感じました。
 つまり、この詩のなかの<森>は<生命(いのち)>に書き換えることもできるのではないかと思います。
生命(いのち)が森になったとき、何とそれは誰にも感じとることができる不思議なやさしさにみちていることか!
     
     森はどこにもいかない
     けれど 森は通り過ぎていく
     雨をくぐりぬけ 風をくぐりぬけ
     光も闇もくぐりぬけて
     
     記憶の森の雨の神はやわらかい靴を履いている

カテゴリー: something blue | 3件のコメント

「ひとひらの」伊予部恭子  ことばの綱渡り

ひとひらの  伊予部恭子
駅を出ると
道は ゆるい登り坂だ
古本屋 神社 アパート 路地
日射しは音もなく降り
石畳や古いベンチの傷
ひとの内側の 影や小さな窪みを埋めていく
読むのは どれも「わたくし」という本だ
一行から次の行までの間に
短い夢がまぎれ込む
穏やかに登り切ったところから海が見える
惑星の輪郭を 寒そうに歩く人がいる
ここから剥がしてくれるのは
ひとつの言葉かもしれない
ひとひらの 明るい声が
空に翻る
 
 ことばにはいろいろな働きや存在の仕方があると思います。この中で、ことばの表と裏、内側と外側のようなものを感じる時があります。内側と外側というのは、<古本屋 神社 アパート 路地>といったように<わたし>の他に存在している物たちです。この二つは葉っぱの表と裏のようで、どちらかが一方だけというわけにはいかない感じです。さらに、あるときにはこの表と裏がくるりと回転して、あるときにはどちらがどちらだか、わからなくなってしまうこともあります。この詩を読んでいて、まさにこうしたことばの有り様をとても強く感じました。たとえば、<古本屋 神社 アパート 路地>と呼んでいくと、それらの外側に
あったものが、<わたし>の内側にあり、<影や小さな窪みを埋めていく>。そのことばの側に身を置いてみると、短い夢が見えてくるのでしょう。
 落ち葉のようにひらひらと舞うことば、それは私の感覚のいちばん奥深いところで乱反射しているようです。それはなにかしら、怖いような感じさえします。とくに最後の<空に翻る>はそう感じます。

カテゴリー: something blue | コメントする

ローマのカレンダー

 ローマの壁画のカレンダーはほんとに不思議な絵がついていて、3年ばかり飽きずに同じものをながめている。それはポンペイの壁画のような絵でもあるが、とても素朴な絵でそれ程たいした絵のようにも思えないがなぜ人を飽きさせないかがわからない。まず庭の絵があってそこはこのうえもなくのどかでだいたい木にとりがきて、レモンかオレンジの啄んでいる。ローマのひとも鳥が好きだったのかと思う。それから
家族や身近にいる動物がかかれている。台所には魚が飛び跳ねる絵があったりする。家族の絵は物思いにふけっていて、感懐深い。たとえば、たぶん病気かなにかで娘がしにそうになっていると死に神のような男に母親が怒ってたちはだかっていたり、息子はなかなか世の中とうまくいかないので、悩んでいたりするようだ。なんだか、こちらがかってに物語を作ってしまうような絵なのだ。それから、家のおおきな守り神がいたり、なにかおんなが土地の神にとりつかれたような儀式の場面もある。おそらく、ローマは最初の都市だったのかもしれない。だから、現代の人々もなにかテロや戦争の破壊がないように、平和を祈願して都市生活を無事にすごすことができるように世界中の人々がそういうカレンダーを眺めるのかも知れないと思う。わたしがどうしてかローマに惹かれてのかといえば、恐らく高校時代に読んだ世界史は
メソポタミアやエジプトなどからよんでいき、ローマあたりでおわってしまったからであろう。ローマのバチカンの庭ほど天国のように思えたことはない。

カテゴリー: めちやくちやに | コメントする

「茅葺の家」山本楡美子   終わりのない旅

茅葺の家    山本楡美子
ある作家が書いていたことだが
電車の窓から子供の頃に住んでいた家を見つけると
(あった、あった、今日もあった
と安堵でいっぱいになるそうだ。
線路沿いの小さな家は
陽の当たり方によって
ある日は幸せだったり
ある日は淋しかったり
わたしにも
まだあるかどうか確認する家がある
青梅の
古びた茅葺の家。
その家の前に立つと
若くて逞しい父と色の白い母が
太った赤ん坊といっしょに
ちょうど山の上の畑から帰ってくるところに出会う。
信仰などというものがあった古い時代にもどって
桶の水と囲炉裏の火は大事に守られている。
わたしは遠くから帰ってきた者のように
酒とさかなでいっときもてなされ
頭をさげて辞するのだ。
だが去るときは、もうどんな人影もなく
古い家の佇まいだけ。
数年前、ここで見たことのない父母に出会った時は
初めて、とうの昔に父と母を失ったことを理解し
泣きながら帰途についた。
 
 
 この作品はとても分かりやすい詩です。それは書かれていることばが普段私たちが話したり、書いたりしている、そのままのことばだからです。それともう一つ、この詩は起承転結の形をとっていて、つまり物語と同じ形を持っているからです。たとえば、<ある作家が書いていたことだが>にはじまり、各節は
物語の時間に沿って展開していきます。ですから、殆ど何の違和感もなしに最後まで読めるのだと思います。
 ただ、私がびっくりしたのは、最後の三行です。<数年前、ここで見たことのない父母に出会った時は はじめて、とうの昔に父と母を失ったことを理解し 泣きながら帰途についた>
 劇が終わって幕が降り、物語が終わった瞬間に、その幕が落ちて、全く新しい世界が始まったような気がしたからです。それまで、私はふるさとというのが懐かしく、どことなく寂しく、それと同時に、こころを和ませてくれるものと感じながら、この詩を読み、それに共感してきたわけですが、このお終いの三行を読んだときに、もしかしたら、この詩人にとって本当のふるさととはその先にさらに詩人の旅を続けよ
といっているのかもしれないと思ったからです。たぶん、私たちは一生懸命生きようとすると、ふるさとよりももっと遠くへ、もっと遙かな所へ終わりのない旅を続けることになるかも知れません。この詩はことばのリズムにも無理がない、分かりやすい詩ですが、とても不思議な詩です。

カテゴリー: something blue | コメントする