海の記憶(井上直展)

井上直さんの個展を見にASKへ久しぶりに出かけた。すばらしい展覧会だった。
現代を生きる私たちにとっての、海、空、宇宙、大地とは…。荒涼と寂寞が支配する大地
を流れる静謐な祈りの声。
3・11以前にすでに予見していたかのような、この光景に、言葉を失う。「海の記憶 A,B」
「V字鉄塔のある風景B,C」「処理工場のある夕暮れA,B」などすべて大作。
大谷省吾氏が解説文の冒頭に立原道造の詩を載せている。
      悲哀の中に 私は たたずんで
      ながめている いくつもの風景が
      しずかに みづからをほろぼすのを
      すべてを蔽ふ大きな陽ざしのなかに
     
      私は すでに孤独だ - 私の上に
      はるかに青い空があり 雲がながれる
      しかし おそらく すべての生は死だ
     目のまへに 声もない この風景らは!
     そして 悲哀が ときどき大きくなり
     嗄れた鳥の声に つきあたる
この立原の詩が井上さんの作品と呼び合い、響きあい、世界というこの悲劇的な空間を
贖罪と敬虔な祈りで満たそうとしているようだった。
私は、ひと筆ひと筆を運びつづけた孤独な3年の時を思い、表現者として
の画家の覚悟に触れ直した気がした。井上さんほんとに、ありがとう。
この個展は17日まで京橋ASK画廊で開催中。ぜひ詩人の多くの方々にも見て
ほしいと思う。

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アイリッシュダンスとイルン・パイプ

アイリッシュダンスと音楽のグループ「ラグース」のショウを見に行ってきた。
エネルギッシュで華やかな女性たちのダンスは、もちろん最大の魅力だっ
たし、ヘイリー・グリフィスの澄みきったすばらしい歌声にも心ひかれた。
だが私は独特の味をもつ民族楽器イルン・パイプの音色にもっとも心惹
かれた。まるで気持ちを吸い込まれるような気がする。
寂しくて、なつかしくて、それはこの世の岸辺からあの世の岸辺へと、
深い懐かしさを込めて呼びかける声のようでもあり、またこの世での追憶
をひたすらに語る、あの世の住人の声のようでもあった。
私からいえば、それはこの世ではついに到達できないある場所への、けれど
詩や音楽や芸術が生まれてくる、母なる無意識への、深い郷愁みたいに、
寂寥感を漂わせている。アイルランドは妖精が住む国といわれるけど、その
文化のもつ不思議な魅力から心が離れない。
帰ってきて、以前から惹かれていたケルト音楽のCDを何枚か掘り出してきて、
アイリッシュティーを飲みながら、寒い午後のひと時を過ごしている。
我ながら、ミーハー的である…。

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アンリ・ル・シダネル展

11月6日閉館という、軽井沢のメルシャン美術館まで、ル・シダネル展を滑り込みで見に行った。
11月5日だった。軽井沢は好きで、よく行くのだが、メルシャン美術館は初めてだった。軽井沢で、
しなの鉄道に乗り換え、御代田で降りて10分足らずだったが、7月から開催しているのに今まで
気が付かなかったのは残念。でも散る前の紅葉(黄葉)の木々や林が美しく、浅間山がくっきりと稜線を見せ、それは思いがけない一日の贈り物だった。
ル・シダネルは日本ではあまり知られてない画家かもしれないが、私は以前(もう20年以上も前?)ひろしま美術館で出会い、なぜか心惹かれて、いまでも彼の「離れ屋」という絵葉書を大事にしている。
アンリ・ル・シダネル(1862~1939)は20世紀の初頭に活躍したフランスの画家で、インド洋の
モーリシャス島生まれ。生涯を通して、さまざまの芸術運動を目撃しながらも、特定の流派に属すことなく、独自の画風を展開したと解説にある。
夜の森、月夜、夕暮れに家々の窓から漏れる灯など、その絵のもつ空気感は柔らかく幻想的
で、アンティミスムの画家といわれている。多く描かれた食卓の絵には常に人はいない。さっき
までの語らいを思わせる食卓、用意されているが誰もいない食卓。しんとして静かな霧の中の
風景、街なかの人気のない路。夢の中のようなその画面には、だが寂しさはなく、ふしぎな懐か
しさが感じられる。
薔薇の花が一面に絡んだ塀の奥の「離れ屋」の窓。そこから漏れる灯りは、切なさをともなう
想像力を誘う。今の時代の人々からは忘れ去られたような静謐な空間。でも彼が精魂こめて
花々で埋めたジェルブロワの石の屋敷は今も訪れる人々が絶えないという。好きな画を説明
することは難しい。その絵のもたらす何が私を引き付けるのだろう。ひとたびは経験し、いつか
忘れ果ててしまったものへの郷愁かもしれない。何かによばれる気がする。
プルーストは『失われた時を求めて』のなかに、この画家を登場させているとのことだ。今度
その部分を探してみたい。
ル・シダネル展は来年の4月ごろ、新宿で開かれるとのことだ。
見終わってから、紅葉の庭に出て、彼の「食卓」を想いながら、赤ワインとピザのランチを
楽しんだ。ひろしま美術館から、軽井沢のメルシャン美術館へ、ル・シダネルが不思議な
虹の橋をかけてくれた一日だった。

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ちいさいひとへ 三井葉子

2011、11月2日 
 福島第一原発の2号機で核分裂の可能性というニュース。たえず背中で火がボウボウの
(かちかち山の)タヌキみたいな私です。
 とても好きなル ・シダネルの展覧会が軽井沢のメルシャン美術館で開催中、それもこの
美術館は6日で閉館ということを今頃知り、どうしても見たくて滑り込みで見に行こうかと思って
います。いつか広島美術館で見て幻想的なその雰囲気に魅せられたのです。
              ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
今日は三井葉子さんの詩集『灯色醱酵』から一篇を載せたいと思います。
                ちいさいひとへ 
                                        三井葉子

眠る子は
眠りのなかで夢を見ている
まだ 彼女自身が夢のようなのに
もう 彼女は夢を見ているのだ
過去が
彼女のなかにたぶん古い古い過去が彼女のなかに住みついているので
かわいそうに
もう 夢を見ている大昔の夢を
馬に乗って駆けていた 路地の溝に靴を落した
待っているのに来ないひとや
跳ねる鯉や
お箸を上手に使えない夢や
ああ
これからすこしずつ
彼女は一生 思い出して行くのだ
かわいらしい
花びらのようなくちびるをぽっとあけて眠っている
どうかそこからよいものが入って行き
よくないものは出て行くように
知恵や熱や
たましいとよばれるようなものはみな、空にあるので
アア アと両手を上げてカーテンを引っ張るように
空から
そんな
これから生きて行くのに要るものを引き落そうとしているのだ
そして響きをよりしろに降りてくるものがまいにち まいにち
ちいさいひとをそだてている
    ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
ちいさいひとへの静かな深い愛が、柔らかな感性で、こんなふうに描かれて
いるのに感じ入ります。夢を見るこども。古い古い過去が住みついている
こども。永遠の中からぽっかりと浮かんできた夢の泡のようなこども。
詩的想像力と感性が時間の壁を繊毛のように撫で、くぐり抜けてゆく感触。
詩表現を支えるゆるやかな呼吸。
眠り姫の呪いを解き、百年目の幸いを与えるためにやってきた,あの仙女
のまなざしを思い出します。

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ことば が 佐伯多美子

詩誌「すぴんくす」から佐伯多美子さんの詩を一篇載せます。
            ことば が
ことばが ずれる
すこしずつ ずれていくと
ことば が
裏返ったり
宙づりに なる
おもいとは
別れて 暴走していく
暴走していく ことばを
ただ 傍観している
むかし
いいわけに いいわけに いいわけを
して
なお 混乱して
いま は
天井から宙吊りになっている ことばを
部屋のまんなかで
へたり
座りこんで 見上げている
”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
わたしにとって3.11以後の言葉との関係をこんなふうに言ってくれたんだ
と最初に読んだときに思ってしまった。くっきりと筆太に。
もう一篇。これも佐伯さんが書いた作品と思うと、うれしい。もちろん誰が書いても
うん、うんと思うけれど。
          あのね
あのね
きょう ひとつ いいことあった
きもち やわらかかったし
あたま パンクしなかったし
ねこが フードいっぱい食べたし
目が ふっと通じあえたし
あじさいの大きな花が涼しげにゆれていたし
テレビドラマ見ていて ぽろっとなみだこぼれたし
ゴミ出しもできたし
ねこと「り」の字になってひるねもしたし
玉子なしのチャーハンもおいしかったし
きな粉ミルクも
こころの中だけど「ごめんね」っていえたし
ひとつ
なのに よくばりだね
””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
こんな一日があるといいな、と思いました。私のなかに、ないがしろにされた、
たくさんの”いちにち”がこっそり膝を抱えているようで。

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雪物語

田中郁子さんの新詩集『雪物語』を読む。田中郁子さんの詩を読むと、あらためて
人とその「場所」の出会いの運命的な意味を考える。人は場所に選ばれることで
自分の生を創造していく存在かもしれない。
とてもいい詩を読んでいるとき、私もきっと窓から星を撒く人を見ているのかも知れ
ない。
          孤島               
                              田中郁子

人間が老いると 窓になってしまうということは まわ
りの人が気づかないだけで ほんとうはよくあることな
のだ わたしの場合 数日窓からあおいものを見ていた
時のこと 胡瓜の葉が 一面に地をおおい 蔓の先が巻
きつくものを求めて空をつかもうとしている畑を 見て
過ごすことに始まった
 ーあれはどんなにしても コリコリと歯ごたえのある
  実をつけるだろう 葉がくれに黄の花さえちらつか
  せているではないかー
そのうちに はげしく茂ってくる葉と蔓に かこまれ
て 自分がどこにいるのか わからなくなってくる
ある夜 星を撒く男を雲間に見る その男の手から た
くさんの星がばら撒かれるのを 瞬きもせず見たのだ
地上には落ちなかったが そのうつくしい輝きの下でカ
タバミが葉と葉を閉じて うっとり眠っているのを見て
から 誘われたのかふかい眠りに落ち そのままになっ
てしまう 二度と窓から入ることも出ることもなかっ
た 窓になってしまったのだ
遠い山里の古い家では 無数のわたしが無数の老婆とな
っていまでも窓に映っている 結局 わたしが窓から見
たものは 胡瓜の茂みとカタバミだったと思う その畑
の大きさが 孤島そのものだったと思う わたしはその
孤島を今でも全世界のように見つづけている

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ゴン太ごめんね、もう大丈夫だよ

『ゴン太ごめんね、もう大丈夫だよ』光文社刊
(福島第一原発半径20キロ圏内犬猫救出記)
を読んでいたたまれない気持ちになった。それほど胸の痛むつらい記録
でもあった。同時に生き物たちの素晴らしさも感じた。そしてこのボランティアの方
たちの行動…、今目前にある事実に向かって、心情を行動へ移す実行力に感じ入る。
帯に記されているその内容の一部を紹介しよう。
○野犬化した犬たちに襲われながらも、飼い主の言いつけ通りに家畜と家を守り
 つづけた犬
○瓦礫の下に埋められた主人に必死でほえ続け、命を救った犬
○原発の敷地内で座ったまま、死んでいた犬
○つながれて息絶えていた柴犬
○捕獲器の中で4匹の赤ちゃんを産んでいた母猫
○ビニール、軍手を食べて腹部が膨れ上がっていた犬
○水欲しさに側溝に入り、抜け出せなくなって死んだ牛たち etc.
現地での悲痛な経験、あるいは感動的な経験が、ボランティアの方たちの
淡々とした記述で次々書かれていて、参加者の一人のカメラマンの写真はその
裏付けとして胸を打つ。
ゴン太は、連れて行けずに避難した飼い主の最後の言葉を守ったのか、納屋
の隅に隠れておびえていた犬だった。彼は家の牛や鶏を守り続け、そのためか
野犬化した犬たちの群れに襲われて全身傷を負い、首半分はざっくり怪我して
生血をまだ流していた状態だった。でも危ういところでボランティアの方
たちに見つかり、病院に運ばれ、なんとか安楽死を免れて、治療を受け、回復へ
向かい、飼い主とも再会できたとか。この犬は、餌もなくなり、納屋の後ろに積ん
であったかんな屑だけをたべて生きながらえていたとか。
またある柴犬は飼い主以外は手を触れさせないらしく、エサも水もないまま
繋がれて死んでいた…とか。たくさんのけなげな犬たちがいる…。
また豚小屋ではしずかに寄り添って飲み水も餌もなく死んでいった豚たち
がいたらしく、私は賢治の作品を思いました。
この方たちは手を出せない犬などには餌のみあたえ、救い出せる
犬たちはケージに入れて救出し、病気のものは医者に預け、もと飼い主
を探したり、貼り紙で知らせたりして、その間無料で保護したうえ、一時預かり
ボランティアや里親ボランティアを今も探している。身銭を切っての仕事
なので、カンパももとめている。まだまだどれだけの生き物が見捨てられ
ているか、仕事はこれからまだまだ続くとのこと。
さいごに著者のことばを引用します。
『こんなに大変な時に犬猫じゃないだろう。遺体の捜索もまだできていないんだ』
こんな声も聞こえてくる。だが私は思うのだ。たった一つの小さな命さえ救え
ない者が、どうして人を守れるというのか。…犬猫の命さえ助けられない社会
が、どうやって人間の命を救えるというのだろうか。そんな疑問を禁じ得ない。
…今こそ、普遍的なテーマとして命を考え、この世に存在するすべての命を
尊重する社会を求めるべきではないだろうか。
それに改めて気付かせてくれたのは、他でもない、20キロ圏内で出会った
生き物たちである。
”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
この本の出版は 光文社(1,143円+税)です。少しでも多くの方に読んでほしい
と思います。私はボランティアに行けないので、せめてカンパに行きたいと思います。
本は一冊ですがお貸しすることはできます。

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届かぬ声(3)

斉藤 梢さんは72首の短歌につづいて、短いエッセイを載せて
おられます。その一部をも引用させていただきます。
”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
(震災後のテレビにうつる人たちの「がんばります」の声に、私はとても
切ない思いがした。言葉を選べないのだ。その苦しみ悲しみ痛み嘆き
を、表現する言葉が見つからない。)
(チェコの友人からメールが届いた。……東北人の精神の強さ、避難所
での食料の配布に並ぶ無言の正しい列に、日本人の心を知るという報道。
宮沢賢治ならばどうしただろうか、と私は津波ののちの泥の田圃を見なが
ら思う。……「ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアル
キ」と賢治の心に私はいま寄り添う。自然の摂理と闘いつつも、粘り強く
暮らしてきた人たちだからこそ、強くなれるのだろうか。)
(短歌には心や思いを伝える役割がある。思いを残すだけでなく、相手に
伝えたいと願うときに定型が言葉を受け止めてくれるはずだ。一行の歌が
心からの一言となればいいと思う。人間の心情のとても細やかなところ
までを言葉にする方法を知っていて、詠むということができる者がこれ
から担うことは何か。それは、短歌で何ができるかということとは違う。
芸術論や評価の対象にはならなくても、すぐれた作品かどうかというこ
とでもなく、とにかく心に依って詠みたいと思う。東北人として、宮城県人
として、私たちの暮らしているすぐそこで起きた災いだからこそ、被災地
の現実を被災者の本心を、言葉で残していかなければならない。涙の
かわりに。)
””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
以上斉藤 梢さんの震災地からの発信、「届かぬ声」の一部を転載させていた
だきました。
あらためて 「斉藤 梢さん、ありがとう!」

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届かぬ声(2)

前回の続きです。
         届かぬ声
                                      斉藤 梢
市役所の壁のすべてを埋めてゆく安否確認の紙、紙、紙が
三日目の朝に降りくるこの雨を涙と思う 抒情は遠し
傷あれど痛みを言はぬ人たちにガーゼのやうな言葉はなくて
生と死を分けたのは何 いくたびも問ひて見上げる三日目の月
どう生きるかといふ欲は捨てるべし震災四日目まづ水を飯を  
我が家へのガソリンのみになりし夕 震災五日目帰宅を決める 
津波にて取り囲まれし八階より見下ろす田圃 田圃にあらず
消費期限切れたる豆腐・卵・ハムどんよりとある冷蔵庫は闇
「届かなかった声がいくつもこの下にあるのだ」瓦礫を叩く わが声
この眼(まなこ)で見たのはいつたいどれほどのことであろうか汚泥が臭う
定型に気持ちゆだねて書く、書く、書く、余震ある地に言葉を立てる
もうここで書けぬ書けぬとさらに書くわれの心に無数の亀裂
被災地にしだいに闇のかぶされば星はみづから燃えているなり
””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
また次回につなぎます。
今日は台風が関東地方にも刻々と迫っています。雨音がさっきから急に
激しくなってきました。

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届かぬ声(斉藤 梢)

青森の詩人佐藤真里子さんから、このたび斉藤 梢さんの短歌70首あまりの載った詩誌
のコピーが送られてきた。斉藤 梢さんは仙台にお住まいの歌人ときく。この震災に遭われた
その直後から、時間を追って書き続けられたその短歌からいくつかを転載させていただく。
コピーされた短歌誌は『桟橋』だそうです。
         届かぬ声            
                                 斉藤 梢

二キロ先の空港がいま呑まれたと男がさけぶ 四時十一分


この力どこにあったか「津波だぞ」の声にかけ上がる立体駐車場


七分後マンホールの蓋とびあがり周囲はすべて水の域なる


くろぐろと津波が至る数秒を駐車場四階に見るしかなくて


閖上(ゆりあげ)漁港呑みこみていまマンションに喰いつきてくる津波ナニモノ


閖上の「浜や」へ食いに行こうかと。 夫の声が声のみ残る


十二日の朝日を待ちてペンを持つ 言葉は惨事に届かぬけれど


避難者の三十一万に含まれて車泊のわれら市役所駐車場


桜餅のさくらの色の懐かしさひとりにひとつの配布に並ぶ


木のごとく立ちてゐるなりわが裡に「戦争は悪だ」の結句が強く


夜のうちに溜まりしものを文字にして書き始めゐる今朝も車中に


推敲はもはや必要なくなりてただ定型に縋り書きつぐ

”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
斉藤 梢さんは、震災に遭われたそのとき、偶然外出先で拙詩集「ユニコーンの夜」
を、バッグに入れておられた由、佐藤真里子さんからのメールで以前知りました。
とても胸が痛くなり安否が気遣われてなりませんでした。いま、こうして現場からの
切迫した思いを乗せたなまの声に触れ、感無量です。
この「届かぬ声」は次回に続けます。

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