二人展

横浜詩人会の弓田弓子さんと坂多瑩子さんのお花と画の二人展を新杉田まで見にいった。とてもかわいくておしゃれなスペース。コーヒーもおいしかった。
坂多さん製作のお花は、あれはフラワーアレンジメントというのでしょうか。ファンタジックな小宇宙を想わせるオブジェたち。小さな椅子の上に、あけがたの夢の名残が花のかたちで残っていたり、そのかたわらに、やはり小さい詩がつぶやきのように置かれていたり…。
一方弓田さんの画の野菜たちは、ナスも玉ねぎもユーモアをにじませながら、結構まじめな表情を見せ、どこかで見かけた隣人のような親しみを感じた。花瓶や壷の絵も好きだった。その輪郭が大気と触れ合い、溶け合い、懐かしい存在感を持っていて。いいなあ…と思った。
それから弓田さんとしばらくビールを飲んで話をした。一度飲もうね!と言い合ってから、何年たったことだろう。それなのに思いがけない場面でこうして会って、親しく話し合うことができて嬉しかった。最近急逝された水橋晋さんのことや、女性詩の現在のことなど、かなりまじめに、話し合った。初めて二人で飲んだのに、以前からの友人のように親しく思えたのは不思議だ。

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ヒポカンパスの会のこと、詩ひとつ

暖かかった昨日の夜、渋谷の「月の蔵」で、ヒポカンパスの詩画展の打ち上げ会を開いた。ちょうど相沢正一郎さんのH氏賞受賞の発表の直後で、そのお祝いもかねて、和やかな楽しい会になった。協力していただいたオリジン アンド クエストの大杉さんも合流、画の井上直さんと共に、詩の世界に風を呼び込む話題も多くて、私にはその意味でもおもしろかった。会話のおもしろさがなければ食事会(飲み会)のほんとの楽しさはないとよく思う。
ところで打ち上げなどというともうこれで終わったような気になるが、詩誌のほうはまだ折り返したばかり。書くのがおそい私としては、まだまだ気をぬけないのです。
                             ※
今日は詩誌「六分儀」から、(これは2004年に出たものです)小柳玲子さんの詩をひとつ挙げさせていただく。小柳さん、縦のものを横にして恐縮です。
         木川さん
木川さんはもう死んでしまったので  訪ねていくわけにはいかない
木川さんは時々あの辺りにいるのだ 小さい段ボール箱を置いてこまごましたも
のを商っていることがある 木川さんが木川さんの詩の中に書いているとおりで
ある  これをください  私は影のような うさぎのような 幼いものをつまみあ
げたが 木川さんには私が誰だか分からないのだった 私はとてもあなたの近く
にいるのにあなたはとても遠くにいるらしかった  「あ F ?」とあなたはいった
Fはむしょうになつかしいものの総称だとあなたは書いていたが 私はそれでは
ない  私は……私はたぶんL……とかそんなものだ  かぎりなく清冽なもの
に向かって歩こうとしているもの  そうしてどんどんそこから遠くなってしまうも
の  そんな大多数の名前である  おいくら?私は木川さんに影のようなもの
の値段を聞いた 釣銭をもらう時 「わーこれ新札 樋口一葉だ はじめまして」
ととんきょうな声をだして 私は若い郵便局員を失笑させた
    
     ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^         
追悼の詩をかくことは難しい。けれどそのひとの詩を知り、その人を愛し、心底その別れを惜しむ詩人のことばはいつまでも影を曳いて消えない。        
                              

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H氏賞詩集『パルナッソスへの旅』

長篇詩誌「ヒポカンパス」同人の相沢正一郎さんが詩集「パルナッソスへの旅」でH氏賞を受賞された。とても嬉しい。以前からの詩友であり、また同人でもある彼の受賞を喜ぶのはもちろんだが、日常を想像力によって異化し深める手法、日常の枠を自在にこえて、(今、ここ)の時間とそれを超える時間、あるいは宇宙的な時間とを交錯させ、こだまさせ合い、時の孕む多層性を呼び込むこと。そこから得られる自由感。また本好きにとってはちょっとたまらない魅力もある、モチーフの扱い方など、私は以前からのファンでもあったので。
これは「失われた時を求めて」の現代詩版のように読み手を時の鎖から解き放つ力をもつ。
またこの詩集の表紙は同じ「ヒポカンパス」の同人である井上直さんの画であり、それも作品の雰囲気とよく調和していて魅力的だ。
それでは比較的短い詩を以下に引用させていただく。
             
         (ステゴサウルス、アパトサウルス、ティラノサウルス……)
         
         台所の水道の栓をきつく閉めても、蛇口から水がしたたり落
        ちる。 もう何度か、パッキンを取り替えたのだが。 ちょっと疲
        れているとき、蛇口の先の水滴が徐々にふくらんでは落ちてい
        く、といった繰り返しがいやに気になったりする。 点滴が、子
        守歌をうたうこともある。 なにか言葉をもつときもある。 なん
        となく水の囁きに耳をすましていると、父の声が聞こえてきた。
        ……ステゴサウルス、 アパトサウルス、 ティラノサウルス、
        トリケラトプス、 ディノニクス、 プラテノドン。  ーー恐竜って
        いってね、大きな大きな生きものなんだ。 もう地球上にはいな
        いんだけどね。 声のあと、ある情景がよみがえってくるーーだ
        だっぴろい倉庫みたいなところに、父とわたしが手をつないで
        立っている。ー−それが、いつのころの記憶なのかわからない。
        あたりには、誰もいない 。見上げると、大きな骨の林。
         磨かれた床をふむ、父とわたしのあしおとがひびく。 父はわ
        たしに、六五〇〇万年前の地球でいちばん背のたかい恐竜、ブ
        ラキオサウルスの話をした。 葉っぱを切りとって巣にはこびキ
        ノコを育てるアリの農民、ハキリアリの話をした。銀河のまん
        なかで星を食べてだんだん大きくなる、ブラックホールの話を
        した。
        博物館を出ると、 世界は洗ったばかりのコップみたいに悲し
        くて, 明るかった。   

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「出入口」から

最近送られてきた「出入り口」NO1から,荒井隆明さんの詩を一つ書かせていただく。
                
               三輪車
            
             ゆっくり遊んで
             何が悪いのよ
             と
             口をとがらせて
             女の子は少しずつ向こうへ
             小さくなっていった
             小さくなって
             小さく
             なっ
             て
             ・
             になったところで
             やっと安心して
             もう
             戻らなくていいのだと
             また
             ゆっくりと
             小さくなって
             軋んだ音が少しはじけると
             葉と枝の間に
             消えてしまった
             風が吹き抜けて
             道は吹き飛ばされ
             もう
             何もかも
             なくなって
             何もかも
             忘れてしまって
             時々
             風に混じって
             軋む音が
             乾いた枝のように
             折れているだけだ
この、時間の形象化がおもしろく、読後に残される空間感覚にひかれた。この号にはほかにもおもしろい作品があった。

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松井やより全仕事展

雨の日曜日、高田馬場まで、「松井やより全仕事」展を見に行った。当日は、松井やよりさんと生前親しかった高橋茅香子さんの詳しい解説やお話があったのもよかった。
松井さんは2002年の12月末にがんで亡くなられたのだが、がんの発見から死までのわずか2ヶ月半の間に、どのように後進の方々に自らの仕事を引き渡していったか、また彼女の志であった「女たちの戦争と平和資料館」建設への夢を引き継いでいったか、その経過と、彼女の壮絶な病との闘いなどを如実にヴィデオによって見ることができた。それはなかなか言葉にはできない感動を残してくれた。
館に集められた資料や、生前の彼女の仕事の足跡、記事、著書のすべて、さらに子ども時代の写真や絵、山手教会の牧師さんであったご両親の写真、同志であった富山妙子さんの絵の展示もあり、丹念な充実した展示ぶりだった。そこには女性たちの強い共感と連帯の成果があった。
「若い記者たちへー松井やよりの遺言」という,有志記者の会篇の本に(アジアの人々を訪ね歩き、貧困、性差別、戦争犯罪、少数民族、環境問題を追い続けたひとりの女性記者の壮絶な人生)と書かれている。ほとんど私と同時代に、朝日新聞社の草分け的女性記者として出発し、この男社会の本流のなかを、「世の中を変えたい」という若い日の気持ちをもって泳ぎぬき、発言し続け、志半ばで倒れた一人の女性がいた。その果敢な生き方の映像を見ることは、時代の酷薄さを再認識させられると同時に、人はこのようにもすばらしい生き方ができる存在だったと励まされるものだった。
松井さんの言葉に「私が最後に言いたいのは、人間は何のために生きているのかということを考えるときに、出世するとか、しないとか、そんなことはどうでもいいことですよね。……人生は、何のために生きているかってことを考えながら取材するときには、非常に細かいことに気を遣う必要はないんじゃないか、勇気をもってできるんじゃないかなと思います」というのがあって、彼女の繊細な感受性と生きる力を自ら奮い立たせるための勇気が伝わってくる。
「松井やより全仕事展」は4月23日まで高田馬場の「女たちの戦争と平和資料館」(wam)で開かれています。TEL 03−3202−4634

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お通夜

水橋晋さんのお通夜に行ってきた。地下鉄の港南中央駅の近く。
ひとはなんて静かにいなくなってしまうことか…。少し遠いので表情のよく見えない彼の写真に向って手を合わせ、お焼香をする。音もなくそっとドアをあけ、見えないお隣の部屋にひとりきりで行ってしまった感じだ。まだほんとうとは思えない。
横浜詩人会の仲間たち何人かと会ったが、だれも彼の旅立ちの詳細な様子を知らない。私は去年8月に伊勢佐木町で会って、彼から古い貴重なワインを2本プレゼントされた。それが最後だった。あれからもう半年以上たっている。ワインの1本はエルミタージュだった。ワインについてはいろいろあるが、それはまたいつかにしよう。
今日はお通夜の後、上大岡に流れて、かつて弓田弓子さんが水橋さんとご一緒したという地ビールのおいしい店に寄り、何人かで飲んだ。「モンゴル馬の馬刺し」というのを初めて味わった。馬頭琴のことを思い出した。魂ならモンゴルの草原を一気に飛ベルだろうなあ…と変なことを考えた。

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クレー展とモーツアルト

大丸ミュージアムでクレー展を見た。スイスのベルンに「パウル・クレー・センター」が開設されたその記念展とのこと。会場では簡潔な線のドローイングを多く見ることができた。しかし晩年の天使のシリーズに至るまでの各時期の色彩感を伝える作品も数々あって、見ごたえがあった。好きなクレーを見に、いつかはベルンへ行ってみたいとは思っていたが、去年クレー・センターが開設されたと知り嬉しく思った。
クレーの言葉に(描くとは、見えるものを描くことでなく、見えないものを見えるようにすることだ)という意味のことが書かれていて、それはもちろん詩にも通じることで、ほんとうにそうだとあらためて共感する。
また表現は違うけれども、(私は死者たちや、まだこの世にやってこないものたちのために描く)というような彼の言葉を読んだことがある。これは忘れられないものの一つだ。
この言葉はモーツアルトの音楽にも通じる気がする。今年はモーツアルト生誕250年祭で、毎日テレビやFMでモーツアルトを聴けるのも嬉しい。クレーもまた特にモーツアルトが好きで、よく演奏していたと知る。
話がだんだんずれるが、今までにモーツアルトの好きな曲はいろいろあったが、去年から今年にかけては、一番多く聴いたのが、ある理由もあって、KV136のディヴェルティメントだった。そしてそのたびにさまざまな幸福感をもらった。

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つむじ風食堂的

今日は久しぶりに春めいた一日だった。
用事があって近くの元町商店街まで出かけた。ユニオンというちょっとおしゃれなスーパーに立ち寄ると、明日のバレンタインデーのチョコレートが山積み。どれもおいしそうに見えてつい買ってしまう。
お昼がまだだったので、二階の窓際のカフェで、コーヒーとサンドイッチのランチを取る。
元町をゆく散歩の人びとや買い物びとを見下ろしながらのひとりのコーヒータイム。ところがなんと今日のコーヒーはまた格別に美味しくて、コーヒーを淹れるマスターもなんだかあの、吉田篤弘の「つむじ風食堂の夜」の食堂のマスターみたいな雰囲気なのだ。(ほとんど気のせい…!)。それにしてもこのコーヒーの味だけで今日は結構しあわせなのだから。(単純!) それに大好きな本が一冊でもあるということのメリットって、こういうところにも転がっているんだと自己満足。なにしろコーヒー一杯の味にもプラスαの余分な楽しみがみつかる。

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フィボナッチ・ドラゴン

昨日,画廊ASKで日詰明男展を見た。フィボナッチの龍と名づけられた光のインスタレーション。ちみつな論理的構成によって現出した天文学的時間に、われ知らずまぎれ込んでしまったようなふしぎな経験をする。その後銀座のあかるい通りを歩いていても、それは網膜にやきついたままで、中空に光る青いらせんのイメージは消えない。見たというより、ある別宇宙に明滅する星の間を通過してきた感じ。音楽と数学と光と建築の概念から生まれた現代の空間感覚が具象となったような印象的個展だった。
その後、新橋の画廊で宮崎次郎展を見る。2回目だが、こちらは赤の色が魅惑的なファンタジックな画の世界。ハーメルンの笛吹きがさまよっているヨーロッパ中世の街にさまよいこむ感じだ。宮崎さんがいつか大人のための絵本を描いてくれたら嬉しいのに、と思ったりする。
帰りに一緒だった絹川さんと新橋駅の前の小川軒でコーヒーをのみ、詩の話などする。久しぶりに春めいた陽気の一日だった。

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立春に

今日は立春。そう聞くだけでなんとなく嬉しくなる。昨日の節分の豆が窓際や机の上に残っていたので(と、いってもマンションなので,撒いたわけでなく、置いただけなのだが)、それをぽりぽりかじりながら、日差しのなかにいると、ああ、春がきた!と思いたくなる。
ところが外は、この冬一番の寒風で、西には雪をかぶった富士山がくっきりと浮かび上がっている。
この冬は、窓やガラス戸の結露が特別すごく、毎朝タオルで拭いてまわるのが一仕事だった。ひどいときはまるでガラスの面を川みたいに水が流れ落ちてくるのだから。
その寒さもあってか、20年近く育ててきた鉢植えのベンジャミンがこの冬に枯れはじめ、目下それが心配の種だ。去年の秋おそく植え替えをして、その後バルコニーに置きっぱなしで、強風にあおられていたのも悪かったのかもしれない。屋内に入れてから、上のほうからはらはらと葉を落としはじめ、今はどんどん下の方へと移ってきている。心配なので、ネット上で調べたら、結構似たような経験者の声が多く、とても参考になった。うまくいけば春には挽回することもあるというのだ。これはこのマンションへの引越し記念に亡き母が送ってくれたものなのだ。去年もおととしもいっぱい花をつけてくれた元気だったベンジャミンよ、何とか息を吹き返してね!と祈る日々だ。
そういえばこの冬の寒さで、もう一つ、ずっとバルコニーで元気にしていた「双子のかんきつ類」の一本が枯れてしまった。これは何年か前に有名になった、かのシューメーカー・レヴィー彗星にちなんで、その名をもらった鉢植えの2本だった。いまはシューメーカーの方だけが1本さびしげに風に吹かれている。

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