『紙屋悦子の青春』を観にいく

上映期限が残り少ないと知り、慌てて観にいく。昨日(教育基本法改正案衆議院通過の日)の事である。
今年4月に急逝した黒木和雄(監督)の最後の作品で、戦争レクイエム3部作(『父と暮せば』ほか)で反響を呼び、これもそれに続くものだが、元の脚本が舞台上の戯曲(山田英樹原作)のためか、台詞が絶妙で笑いが絶えなかった。笑いながら自然に涙がにじみ出てくる良い映画だった。ちょっと小津映画を思わせるところもあった。
ここに登場する人物は誰も戦争に反対してはいない。むしろ日本が勝つと信じ(?)、信じようとして堪え忍び、お国の役に立とうとしている庶民である。筋は単純で、悦子という若い女性にともに思いを寄せ合う二人の海軍士官、その一人と見合いをすることになって、その日を中心にした何日間かの話、本土決戦を覚悟させられた日本人の或る日常の描写である。
その相手と結ばれた二人が、老人となり病院の屋上で共に回想する構成になっている。
『父と暮せば』は広島弁だったが、ここでは鹿児島弁、それが又良い味を出している。
舞台は悦子が身を寄せている兄夫婦(両親は出張中に東京大空襲で死亡している)の家だけで、それは全てセットだそうで当時の暮らしのさまざまな細部が復元された感じで、ちゃぶ台をはじめ火鉢や茶箪笥や台所に竈や水がめなどが、懐かしいと言うか、今の物があふれ贅沢になった暮らしが改めて振り返らせられてしまう。そこでの兄夫婦のちょっとした口げんかや見合いの話のやり取り、又見合いの場面での当時の若い男女のぎこちない対面風景などが当人たちが真面目なだけにたくまぬユーモアとなって笑わせられる。
茶の間が中心なのでどうしても食べ物が出てくるが、夕食は一汁一菜と漬物だけ、その一菜が一昨日のサツマイモの残りという場面から始まるのだが、それをいかにも美味しそうに食べるのである。ご飯が白米と言うのは、やはり地方だったからだろう。終戦間近の4月、庭に咲く桜が象徴的な点景となるが、それが蕾から満開になって、散るまでの時間が描かれる。
お見合いのもてなしで、取って置きの静岡茶を入れようとするのだが、その美味しさを皆でつくづく味わう場面や、これも兄嫁の才覚で配給されたものを取っておいた小豆で作ったお萩を食べる場面など、そういうささやかな満足に幸福を見出せた時代だったことを思う。物があふれる事が果たして幸せであるかどうか。
幸せであるのにどうしてそれが実感できないのであろうか。
実は悦子は二人の中の一人、しばしば訪れていた好青年の士官の方にひそかに思いを寄せていて、それを兄嫁も気がついているのだが、見合いを申し込んだのはもう一人の方で、彼も一目ぼれしていたのだった。実は好きな方の少尉は特攻志願をしていて、そのために親友に悦子を託そうとしたのである。
結末は言わなくても分るが、終戦間際にその優秀で秀麗な士官は沖縄沖で自爆する。見事に敵に体当たりして名誉の戦死を遂げるのである。これは実話を基にしているとのことだが、そういう経緯が悦子に当てた遺書とも言える手紙で語られる。
それを読むときに聞こえてくる幻聴ともいうべき潮騒の音・・・。士官たちが訪ねてくる時の背後の電柱が十字架を象徴しているようにも見え、一本の見事な櫻もまた当然全体を象徴しているわけで、これを監督の黒木和雄さんはあの時代を生きた若者たちに捧げるレクイエム」と言われたそうだが、同じく4月に逝かれた監督に対して、観客の一人としてレクイエムのような気持でこの拙い紹介をさせていただくことにしました。

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