9月30日の夢(マスクの愛と死)

 宮崎の東国原知事が主演する映画のタイトルバックの撮影をしている。彼が田舎町の雑貨屋の前にいる。軒先からは長いロープで、マスクやコップが吊り下がっている。そのマスクに何度も手を触れながら、彼は吊り下げられたコップから水を飲む。
 そのシーンの撮影の後、地元のおばさんが言う。「この映画の原作は『マスクの愛と死』だってね」。それを聞いていたあるおじさんは「以前、この映画がまだ企画書の段階だったとき、ある人が『これから息子の不始末の処理をしに行かなくてはいけないが、マスクをするととたんに自信が出てきた』と言ったけれど、本当にその通りだと思う」と言う。

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9月28日の夢(半分の魚と血まみれライオン)

 横浜の南の方の海を埋め立てて、新開地を作る工事をしている。工事現場には左ウィングと右ウィングの二つのエリアがあり、左ウィング担当の人は左に開くドア、右ウィングの人は右に開くドアの部屋に暮らしている。ぼくはそのどちらでもない宣伝担当のオフィスにいる。
 左ウィングが先に完成したらしく、左ウィングのスタッフだけが招集がかかった。ぼくたち宣伝スタッフは集合しなくてもいいので、部屋でぶらぶらしている。しかし、デスクに座ってみて、何か変だと気づく。ぼくのデスクだけが幅が狭くなっている。おまけに、その上に載っていたはずのパソコンがない。両隣には見たことのない知らない女性スタッフが座っている。左の席の女性にそのことを言うが、彼女は「あらそう」とそっけない返事をかえす。どうやら、ぼくの知っているスタッフたちは隣の部屋で会議を開いているらしい様子が、開いているドアの向こうの気配で感じられるが、ぼくにはお呼びがかからない。
 防波堤で囲まれた海岸へ行く。一人の男が釣り竿の先の糸に、魚の切り身をつけて遠くへ投げる。魚の切り身は、石で水切りをするように水面をすべる。よく見ると、かたわらにクジラのように巨大な魚の上半身だけが垂直に立っている。どうやら下半身は切り刻まれて、男の釣り糸の先に付けられては、海に投げ飛ばされているようだ。それを堤防の上で見物していた何人かの女性が、男によって魚のかわりに海の中に投げ飛ばされる。そばにいた女性たちが、恐れをなして逃げようとすると、男は彼女たちに「なぜ逃げるのだ? 海に投げ飛ばされるのは、もしかしたら気持ちいいことかもしれないよ」と言う。ぼくも投げ飛ばされては大変なので、そそくさとそこから逃げ去る。だが、走っているうちに駅を通り過ぎてしまったらしく、いつのまにか東京の近くまで来てしまった。慌ててUターンする。
 蒲団に寝ていると、窓の向こうに雌ライオンがいる。ライオンは窓に向かって飛びかかるが、ガラスに跳ね返される。ガラスにはピンクの血しぶきがいっぱいに付く。見ると、ライオンは頭のあたりから大量に出血している。
 そのライオンがいつのまにか窓を破って、ぼくの寝ている部屋に入ってきたらしい。蒲団に邪魔されて、ライオンの動きは見えないが、気配だけが感じられる。逃げるわけにもいかない。もうぼくは十分に生きたから、このままガブリとやられて死んでしまってもいいかなと思う。蒲団の中に潜り込んで、隠れた方が安全かもしれないが、身動きする方が危険かもしれないな。

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9月27日の夢(花畑のような入道雲)

 寝ていると、一人のはずなのに、部屋の中で足音がする。首筋に息までかかる。刺客がやってきたのかもしれない。このままナイフで殺されてしまうのだろうか。金縛りになった体をようやく起こして、部屋の隅を見ると、壁際に子猫がうずくまっているのが見える。なあんだ。猫だったのか。それにしても、どこから迷い込んだのだろう?
 隣室は病院になっていて、境のドアがあいて、院長が顔を出した。このドアから子猫も入ってきたのだろう。ドアの向こうではみんな忙しそうに働いているのだから、ぼくも起きなくてはと思い、隣に行く。そちらには二つのオフィスがある。手前がぼくの在籍するSCという会社で、隣がSPという会社だ。どちらもとても狭く、ごたごたとしている。
 SPのオフィスには一日一回清掃タイムがあり、全員で家具・什器の類を磨いている。足の踏み場もなく、散らかった室内で、ぼくは何か小さなものを水洗いしようとしている。そこには奥さんとその姑がいる。土間で犬のように姑は生活していて、用便も垂れ流しだ。それを奥さんは真空掃除機のようなもので、空気の圧力で吹き飛ばして掃除する。吹き飛ばしたのはいいが、汚物の撥ねが奥さんの顔に、まるでそばかすのように点々とくっついてしまう。奥さんは鏡で自分の顔を見て、泣き笑いをする。彼女は毎日、こんな辛い介護の生活をしているのだ。
 SPの部屋を出て、SCの部屋に戻る。部屋の一番奥には経営者の若い専務のデスクがあったはずだが、専務もそのデスクも見当たらず、ぽっかりとスペースが空いている。おまけに、ぼくの隣にあった友人のデスクもなくなっている。会社の外に出てみる。友人にはアルツハイマーの父親がいて、その父親といっしょにこの会社で働いていたのだが、父親がとうとう亡くなったらしく、携帯電話でそのことを誰かと話している。ぼくはそれには気づかないふりをして、崖のような斜面の石段を降りていく。そこは学校の校庭のように広い。ここはつくば市だ。東京の方向の空には入道雲が拡がっているが、雲はお花畑のようにカラフルだ。そして雷鳴も轟いている。

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9月25日の夢(輪投げ)

 会社で休日出勤までして、長い間やっていた仕事がやっと終わった。K女史(ぼくの前任の編集長)らに祝福されて、会社を後にする。
 と、ぼくはなぜか走っている。大柄な見知らぬ若い女性と輪のようなもので手を繋ぎ合い、パラリンピックの盲人マラソンの選手のように、引っ張られて走っているのだ。走っている道路は、ぼくが子ども時代を過ごした名古屋の山添町らしい。
 突然、その女性がぼくを振り向いて、「遊んでいく?」と尋ねる。思わず「うん」と頷くと、彼女は「輪投げをしましょう」と言って、ぼくをさらに引っ張っていく。
 そこで、ぼくは巨大な手袋をつけさせられる。これでは指に力が入らず、正確に輪投げをするなんて、不可能だ。そういう状態で、いくつ輪を屋根に投げ上げられるかを競うのだという。ぼくはその手袋をうまくはめられないで、ごそごそしているが、はっと気づいた。これは、その女性がぼくを捕らえるための罠に違いない。
 周りに人がいないすきに、うまく隙をついて、ぼくは逃げ出すことに成功する。

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9月23日、お彼岸の夢

 先輩詩人のS氏から戦中体験を聞く。戦中は日本国内で放浪生活を送っていて、真っ黒な泥の地面に寝て、汚い虫を食べて生きたいたという。戦後の日本は復興したけれど、当時の真っ黒で汚い日本が海に近い銀座の街にはまだ残っている。真夜中の人通りの途絶えた銀座のビルの隙間には、まだあの真っ黒な泥の地面が残っている。そして、そこにはあの汚い虫たちが沢山生き残って、うごめいているのだ。でも、S氏には楽しい思い出もあった。放浪の途中、ギターを貰い、仲間二人とバンドを組んで歌っていたのだ。彼はその頃のままに、ギターの弾き語りで「誰か故郷を思わざる」をきれいなハーモニーで歌う。ぼくもコーラスの二人のうちの一人として、その演奏に参加する。
 海へ行く。そこは映画館で、30年前に死んだ父がぼくに映画を見せようとしているのだ。しかし、ぼくはスクリーンの反対側を向いていたので、父はぼくを抱え上げ、スクリーンの方を向かせてくれる。
 映画の主人公は、飛行機に乗りたくてたまらない少女と、その少女をだまして飛行機の中でいじめたいと思っている、年長と年少の少年二人。少女は「飛行機に乗せてあげる」という少年の申し出に、喜びのあまり、持っていた袋の中の穀物を全部こぼしてしまう。そして、実際に飛行機の中で少女は少年たちにいじめられるが、彼女の純真さに年少の少年は同情し、ひそかな恋心が芽生えて、最後には少女と心を通い合わせる。
 ぼくはこの映画を前にも途中から観たなと思う。そのときはちょうど、このあたりから観たのではなかったっけ。障害物があって、スクリーンがよく見えないので、ぼくは箱の上に立ち上がって、スクリーンの右斜め後ろから映画を観ている。ふと見ると、父は反対の左側から映画を観ている。
 最後に、主題歌が手書きの歌詞のテロップとともに画面に流れる。作詞者の名前として「平山」という名前が書かれている。ぼくは父に「平山さんって誰だろう?」と尋ねる。父はぼくに「この平山さんだよ」と言って、本を見せてくれる。この映画について書かれた本であるらしい。

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9月19日の夢(パフォーマンス試験)

(アップの順番が前後しましたが、これは19日の朝に見た夢です)
 作家のRさんから手紙が来ていた。よく読みもしないでいるうちに、電話で別荘へと誘われ、出かける。そこでは、RさんのNGOで新たに採用する職員の試験が行われていて、ぼくにもパフォーマンスの実技試験の審査員になるよう、依頼される。応募者たちはここへ来るまでに、パフォーマンスの台本や道具をしっかりと準備しているらしく、皆しっかりと演技をしている。Rさんはぼくにもそのパフォーマンス試験を受けてみるように勧める。ぼくに与えられたテーマは「青」だ。
 ぼくは慌てて青い色の絵を何枚か集める。それらも参加者たちが描いたものらしい。ちょうどスカイブルーのインクで印刷された新聞があった。一面には第二次大戦を指揮する軍服姿の天皇と戦場の大きな写真が並んでいる。これらの絵と新聞を小道具にして、あとは即興で演じればいいだろうと、いろいろ作戦を考えるが、その間に他の応募者の実技審査をしなくてはいけないので、なかなか考えがまとまらない。気がつくと、いつの間にか実技のステージに、お尻を向けてぼくは座っていた。いかん、いかん。慌てて振り向くと、さっき一生懸命用意したぼくの小道具が、いつのまにか職員に片づけられてしまっていた。焦るが、結局、ぼくはテストを受けなくて、よいことになる。

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9月20日の夢(ダンゴという動物)

 ここはアフリカ。人によく似たダンゴという動物がいる。ちょうど黒人とゴリラのハーフのような感じの二足獣である。このダンゴと一人の黒人の男とが同じ獲物を取り合った。それに怒った黒人は、ねぐらに帰ろうと川を泳ぎだしたダンゴを、両手に持った日本の棒ではさみつけ、水中に沈ませようとした。しかし、ダンゴの方が力が強い。反対に男の右目を殴りつけた。男は右目にハンセン氏病を病んでいたが、その眼窩を殴られて骨折してしまい、危うく溺死するところだった。そこへおばばがやってきて、「いくら医者が接吻してくれたとはいえ、その前に胞子が閉じてしまっていたのだろうよ(意味不明だが、夢の原文通り)」と男に言う。それから、12歳くらいの息子を振り返り、「おまえも安全圏というには少し大きすぎるから、伝染しているかもしれないよ」と言い聞かせる。

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呉智英くん

 自宅の部屋に蒲団が敷いてある。先輩詩人がここで寝ていたらしい。だんだん、その蒲団が一つの問いに見えてきた。その問いに答えなくてはいけないと思う。
 場面変わって、高校のクラス会に出席している。呉智英くん(中学・高校と実際にクラスメートだった。もちろん本名は別だけどね)も来ていて、教室で席から立ち上がってぼくに向かい何かを言う。ぼくは「うっせいなあ。俺は昔と人が変わったんだよお」と答える。
 それから自宅に戻り、冷蔵庫を開けながら、「ぼくは何も変わっちゃいないさ」と、一人ほほえむ。

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9月15日の夢(四次元投稿)

 ぼくの編集する「SとS」誌に、作品を投稿してきた詩人が、自分の作品に「四次元」をセットしていることが分かった。四次元をかけると、どうなるのだろう? 四次元が「時間軸」だとすれば、作品の時制がずれてしまうのだろうか? いや、そうではなく、その作品が印刷されたときに、この世界にとても危険なことが起きる気がする。だが、皆、その危険性をよく分かっていないみたいなのだ。作者に「四次元」を削除してもらうことにした。

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9月14日の夢(出張報告会)

 夕方、会社にいると、浜松に出張に行っていた何チームかが新幹線でいっしょに帰ってきた。口々に「今回ほど、どのチームもこてんぱんにやられたのは初めてだ」と言う。二階の楕円形の大きなテーブルの周りに、全社員が集まり、報告会のようなことが始まった。
 最初はぼくの関わっている仕事に対するクライアントの直しの報告だ。なるほど、これは根本的に仕事をやり直さなくてはいけない。でも、こんなふうに一つ一つの仕事の報告を、関係ない全社員が聞いていたら、夜中になっても終わらないだろう。
 お腹の空いたぼくは、途中でふらりと退席し、階段を下りて、外に出る。ちょうど12時を過ぎたところで、外は真昼だ。まだこの時間ならレストランにも空席があるだろう。ぼくはいくつかのレストランを覗く。どの店も確かに空席があるのだが、ぼくは入店する勇気が出ずに、うろうろと歩き回るばかりだ。

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