幻のサクランボ農園
佐藤真里子
六四 金沢村(※かねさはむら)は白(しろ)望(み)の麓、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六、七年前この村より栃内村の山崎なる其かかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷ひ、またこのマヨヒガに行き当たりぬ。家の有様、牛馬鶏の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとするところのやうに見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるやうにも思はれたり。茫然として後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してつひに小国(をぐに)の村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて実(まこと)とする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来たり長者にならんとて、婿殿を先に立てて人あまたこれを求めて山の奥に入り、ここに門ありきといふ処に来たれども、眼にかかるものもなくむなしく帰り来たりぬ。その婿もつひに金持ちになりたりといふことを聞かず。(注 上閉伊郡金沢村)
東北の寒村に生まれ、小学校に入学するまでは、そこに住んでいたせいか、子供の頃にはこのマヨヒガによく似た大人の体験話を耳にした。マヨヒガに行き当たった者が、再び訪れようと、どんなに探しても、二度とは見つからないということが、どの話にも共通している。子供だったわたしは、その話を本当の事として信じていた。怖いけれど、探し当てたいと思った。この六四番の話にあるような、欲深い気持ちからというよりは、自分が生きている世界の他にも別な世界があり、マヨヒガはその境界、入口のような気がしたからだ。子供時代は、現実が厳しかったので、別の世界を望んでいた。大人になったいまは、この世界が不平等に満ちていることを痛感するたびに、マヨヒガの存在を思うようになった。この世だけがすべてなら、余りにも酷い現実が山ほどある。マヨヒガは、別な世界の境界、入口なのだと、いまも信じたい。
あのサクランボ農園は、マヨヒガのような異界との境界、入口として、現実と交差していたのだろうか。4年前、母を亡くしたばかりの従妹を慰めようと、サクランボ狩りに誘ったときだった。従妹とは子供の頃に、長く一緒に暮らした時期があり、思い出話が尽きなかった。おしゃべりをしながらも、同じ場所を何度も歩きまわっていることに気がつく。新聞広告で知り初めて行くサクランボ農園には、なかなか辿り着けなくて、諦めかけていたから、奇跡のように突然に現れた、地味で粗末な看板を見つけたときは嬉しかった。矢印の示す方へとわたしたちは進んだ。通りから少し入った小道が、急に、深い山奥の道になって、何か異質の濃密な空気が流れていた。さほど歩かないうちに、サクランボ農園に着いた。周囲の景色が見えないほど、サクランボの樹がいっぱいで、とても広い農園だと思われた。入口には、賽銭箱のような半ば朽ちかけた木箱があり、たぶん、そうだと思い、サクランボ狩りの入園料のつもりで、そこにお金を入れた。無人であることが、不用心というよりは、むしろ不気味に思われた。そんな不安も、すぐに消えたのは、なかに足を踏み入れると、楽園のような眺めが広がっていたからだ。どの樹にも、枝が折れるくらいに、サクランボがたわわに実り、まるで、咲く花のようなつぶつぶの小さなあかりが、樹という樹に灯されていた。大好きなアメリカンチェリーもある。他にも知らない品種がいくつかあり、それぞれが魅力的な甘さだった。わたしは従妹といっしょに来ていることも忘れて、独りで勝手にあちこちの樹をめぐり歩く。満腹感を無視し、夕暮れが迫っているのも気にせずに、次から次へと、摘んでは口に運んでいる。やがて従妹が近くに来て、もう、そろそろ…と、声をかけるまで、果物好きで、しかも食いしん坊のわたしは、止めることを知らなかった。帰ろうかというときになって、なんとなく辺りの様子が不自然であることに気がつく。あちこちに、摘みとるために上る脚立があり、収穫したサクランボを入れる容器が積まれているし、なかには、サクランボが入っている容器もある。ここで、作業をしている人が、何人かいるような感じなのに、姿が見えない。辺りは、夕暮れどきになっていた。ついに、人の姿を見ることはなかった。ただ、誰かがいるような、生温い気配だけが漂うサクランボ農園を、わたしたちは、そっと、立ち去った。次の週に、もう一度、行ってみたが、この辺りと思う場所には、あの地味で粗末な看板は無かった。試しに入ってみた小道も、どんなに歩いても、農園には行き着かない。それ以来サクランボが実る季節になると、記憶を頼りに行ってみるのだが、未だに探し当てることができない、幻のサクランボ農園である。
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