柳内やすこ「輪ゴム宇宙論」興味津々

輪ゴム宇宙論       柳内やすこ
 宇宙はごく細いパンツのゴムが一瞬にして悠久の時を駆けて
一周してつくられる。
 輪の本質は閉じていることである。歴史は閉じている輪の上
をたえまなく時計回りに進んでいる。従って歴史には始まりも
なく終わりもない。現在は最も遠い過去であり最も遠い未来で
ある。アダムとイブは過去の神話であると同時に未来の神話で
ある。宇宙に果てがないというのも同じ論理である。「ここ」
は宇宙で最も遠い地点である。胎児は母親にとって最も遠い存
在である。
 ゴムの本質は伸び縮みすることである。従って時間は速く進
むこともゆっくり進むことも可能である。宇宙が大きくなったり
小さくなったりするのもこのためである。ゴムの伸び縮みに
ついては後述の別次元の作用によるがまた変形することも可能
であるからまれにひょうたん形になってくびれた部分が接触し
た場合歴史の流れが8の字になり半分逆行してしまうこともあ
る。
 平ゴムの本質は表と裏があることである。従って宇宙は交わ
ることなく循環する一対の世界である。明白に二つの世界は生
者と死者の住みかである。ねじれたメビウスの輪であるからど
ちらが表なのかは定かでない。時間の進行はそれぞれの世界で
全く独立しているが魂は時間の流れを垂直に横切ることにより
互いの世界を行き来できる。
 ところで一方宇宙に果てがあるという場合がある。それは平
ゴムの幅のことを言及している。ごく細いゴムであるから宇宙
の果てはごく身近に存在している。
 ブラックホールはいたる所に存在する。白いゴムの上以外は
すべて暗黒の別次元なのだから、それは生でもなく死でもなく
無機物でもなく歴史も言葉も感情もなく輪ゴム宇宙にないもの
がすべてある完璧な別次元である。
 また歴史に始まりと終わりがあるという場合パンツのゴムが
最初に一周した時点とやがて使い古されて切れてしまう時点を
問題にしている。しかし両時点は輪ゴム宇宙外の別次元の作用に
関するものであるから我々輪ゴム宇宙の住民にはとうてい理解不
可能なのである。
                   
                 ※
 私も宇宙論に関しては、それなりの興味を持っています。だから、宇宙論のニュースや話題には
耳をそばたてて聞き入ることもしばしばです。
 しかし、こんなユニークな宇宙論ははじめてで、思わずお終いまで読んでしまった。
 そうすると、宇宙について新しいことは全くわからなかったけれど、輪ゴムについては今までと
全く違った認識を得るに至ったのです。
 それと同時に、もしかしたら宇宙は理性や科学によってわかるものではなく感触によってわかる
ものかも知れないと思いました。
 そして新しい世界に出会ったような気がします。
 この詩には何かとぼけたような感じが漂っていて、しかもどこかしら真剣なところもある、それが
この詩の魅力であると思いました。
 それは輪コム宇宙論という内容にあるのか、それともこの詩の言葉使いにあるのか、私にはよく
わかりませんが、今までにない詩の世界がはっきりと感じられます。
どんなささいなもの、どんな小さなものでもそれなりの世界をもっていて、それはみんなつながって
いるに違いないと思いました。
 

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植村初子「夜明け前AFTER DARK」決定

夜明け前AFTER DARK   植村初子
稲穂とねこじゃらしの野を
兄弟は雲にのって
かけつけた ロビーのソファで
仮寝をして時をまちうけた
父は死んだ。
(このことばを石にしたい)
病院の
浴衣を着せられ
三十分後には もう
県道を疾走。
深夜二時の
まだ重くない あかりを消した家々の
ぎざぎざするシルエツトの暗闇にの上に
一本の纜にぶらさがるゴンドラの
ディアーヌ。
車の窓からみあげる、
兄弟三人の月
家族の物語
王は父。
帰還後の銀色の美しい着物。
こんなことばでいいのかしら
娘が父親の死をいうのに
まっすぐ父に向きもしないで
なにかはしゃぐようで
しらじらと鍵盤が野のように広い
どこに指を落そうかと始まる音を想像し
手を空中にとどめる
でも…
道にアベリアが咲き
父は死んだ
神戸屋で秋のぶどうジュースをのむ
父は死んだ
白い槿が咲く
父は死んだ
生垣のむこうを調布駅南口行の
小田急バスが明かりをつけて通った
                  ※
 「決定的瞬間」という言葉はよく写真について言われますが、私はこの詩を読んで「決定的時」という
言葉を思いつきました。「決定的時」というのは、その前でその後でもないるそういった時のことです。
それがなぜ「瞬間」ではなく「時」であるのかというと「瞬間」は目で捉えるもので、「時」は心でとらえるものであり、従って言葉でしか現すことができないのです。
 なぜこんなことをくどくどとかいたかというと実はこの詩を読んでそういう感じになったのです。つまり、この詩は決定的時を書いたものだとおもったからです。
 「父は死んだ。
  (このことばを石にしたい)」この二行
 これがこの詩の決定的な時です。
 恐らく、この詩は「父は死んだ」ということのためにだけ書かれたものに違いありません。この詩を書いたひとは、この言葉を書くことによってはじめて「父が死んだ」ことを納得できたのだと思います。
 そうしないと詩人は「父が死んだ」という事実の前でふあふあして自分自身の存在か゜とても不確かなものに感じられたのだと思います。
 こういう時に誰でもが生きていく間にどうしても「決定的時」に出会い、それを引き受けなければならないのかも知れません。
 そういった状況で、詩というのは大きな力を発揮するのだと思います。

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木村透子「凍る季節」拡張する言葉

凍る季節        木村透子
血管を透かせた羽虫が這う
遅い午後の微光のなかを
二月の闇がむくむくと育っていく
からだが沈んでいく
足元からずりずりと
何かに引っぱられて あるいは
からだの重さで墜ちていく
けれど どこに
真っ暗な空間をただ下へ 下へ
手にも脚にも触るものはない
虚しく空を切りながら
冷たい闇を ああ―
目が馴れてくる
黒にも濃度があるらしい
緩い流れもある
流されている
いえ むしろからだが流れにのっている
わずかに右に傾くことで
ゆるりと渦を巻きながら
らせん状に墜ちていく
身をまかせれば案外楽にいられる
闇の底を覗けるのなら
それもいい
体液も凍るのだろうか
感覚も思考もざらざらとこぼれて
規則的な生命音だけがかすかにつづく
堕ちつづける
なおも
凍りきらない赤いひとすじが
わずかに意識をつなぐ
真っ赤なダリアがひらく
大輪の花の完璧な幾何学図形
花はゆるりと自転しはじめる
ものたちがらせんを描いて
吸われていく
花心の
ブラックホールに
                ※
 この詩人は物理的な世界(原子の世界から宇宙まで)と心的世界(思いこみや誤解から人類愛まで)を交流させたいという願望があるようです。
 それはたとえば初めの二行のなかによく感じられます。
 血管を透かせた羽虫が這う
 遅い午後の微光のなかを
 二月の闇がむくむくと育っていく
これらの言葉が息づくためには物理的世界だけてもなく、また心的世界だけでもないという感じがします。 
「二月の闇がむくむくと育っていく」ためには、どうしてもこの二つの世界が同時に必要であるとこの詩人はいっているようです。
 それをうけいれて読んでいくと、次の連に書かれていく内容は、平凡なようですが、それにもかかわらず今まで全く体験したことがないような異質世界を感じまする
 さらに四連めの「僅かに右に傾くことで ゆるりと渦を巻きながら らせん状に墜ちていく 身をまかせれば案外楽にいられる」と読んでいくと私自身がこの異質世界に迷いこんだ感じになつてくる。
 しかし、この世界は<五連目>「体液も凍るだろうか 感覚も思考もざらざらとこぼれて 規則的な
生命音だけがかすかにつづく 恐れともすっかり親しくなってしまった」
 でもねもしかしたら、これは3.11以降の私たちの世界とどこかつながつているのかも知れない。

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臺洋子「静寂しじま」小さくて大きな世界

静寂しじま     臺洋子
闇の中で あなたの声を聞いた
触れることもなく 声だけで距離をはかり
あなたの顔を知らないまま 会話する
あなたの思い出や わたしの思い出
わたしたちの声だけが
行ったり来たり 浮遊している
かたちのない時が
はじまりのどこかにあって
それでも声は
魂のようにゆらゆらと響き合う
そんな場所で
いつか話していたような気がして
  
                     ※
 音楽にたとえるなら、この詩は小夜曲(セレナーデ)であると思います。
 圧倒的な感動というわけではありませんが、心の隅に息づいていてなかなか忘れられない感じがします。
 私がこの詩を好きなのは、言葉の流れ、リズムがとても自然で気持ちがいいということです。
 読んでみるうちに、いつのまにか、私は声を出して読んでいるような気持ちにさえなります。
 音楽というとね私はどんな好きな音楽であってもその全部を覚えていることはできない、でもそのうちのどこかしらの旋律が必ず心に残りまする
 さて、この詩でも全部覚えていることはないと思いますが
「かたちのない時が
 はじまりのどこかにあって
 それでも声は
 魂のようにゆらゆらと響きあう」
 この部分は決して忘れないでしょう。
 静寂(しじま)というタイトルについて本来、「夜の静寂(しじま)」とか「森の中の静寂(しじま)」とかというように、環境についていわれるものだと思いますがこの詩の場合、心が宇宙と融け合うような感じがしてタイトルとしては大変成功していると思います。

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三井葉子「秋の湯」のなかの「断絶」時間のなかで

断絶     三井葉子
夜中にデンワのベルが鳴って
いまから死ぬ

石原さん*が言った
わたしはちょっと考えたが
仕方がないので
どうぞ と言った
彼はそのとき死ななかったがさくらのような雪のふる抑留地シ
ベリアで凍っていたので、ときに解けたくなるのだ。
でも
凍っているからこそヒトとの間は断絶することができ
る。それこそがわたしたちが共生できる基なのだと彼は言った
のだ。
夕焼け雲が解けながら棚引いている
断絶も
共生も
もうわたしたちには用がないわね。
        *詩人・石原吉郎
         断絶―三井葉子詩集『灯色醗酵』から
 
                   ※
 
 嘗て私はこの「断絶」という詩を一度読んだことがあります。
 それはいつの頃のことなのかはっきりとは思いだせませんが、私が若かったということ、そして、この詩がとても大人びていて大胆な感じがしたことをよーく覚えています。
 「わたしはちょっと考えたが
  仕方がないので
  どうぞ と言った」
 この言葉を読んだとき、私はドキドキして何だか無性に「大人になるって大変なんだ」と思いました。
 
 今度、この詩を読んでみて、不思議なことにこの詩に対する感じは殆ど変わっていません。
 「大人になるのが大変」というのは「人間になるのが大変」というのに変わったような気もします。
 そして、はじめて読んだ時には殆ど気にかけなかった最後の゛断絶」という言葉が私の頭の上を雲のように流れていきました。
 さて、今回この詩は詩「秋の湯」の一部として発表されいるわけですが、私はこの詩のスケールの
大きさに大変感動しました。  
 そのスケールというのは「断絶」を原子とした宇宙のひろがりのような感じがします。恐らく、このスケールを支えているのは詩人と自死した友人との信頼であると思います。

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中村純「もしも、私たちが渡り鳥なら」母親論

もしも、私たちが渡り鳥なら――すべての母たちへ 中村純
(あなたを産んだ夜、何度も産みたいと思った。完璧な個体であるあな
たのからだ、あなたの人生。私のものではない。あなたの人生ははじ
まったばかり。放射能が振ろうとも。全ての母よ、渡り鳥のように
子どもを連れて安全なところに飛び立て、裸で産んだあの日のように、
素足で生きることを恐れるな。)
裸の凜とした肢体で 私たちはただの母だ
裸の凜とした肢体で 私たちは君たちを産んだ
君たちが産まれて
分娩室で裸の私たちの胸にのせられたとき
君たちは懸命に生きようと乳を吸おうとした
何もないことがしあわせだつた
私たちは裸でも生きていかれる
素足のまま 歩いてゆける
もしも私たちが渡り鳥なら
何も持たず
安全な食べもののあるところを目指して
きみたちを育てられるところを目指して
今すぐにでも飛び立てる
ただ母として ただの裸のいのちとして
今 私はただの母に戻りたい
君を産んだあの日
素足で世界に降りたって
世界と和解した夜
何度でも君を産みたいと願ったあの夜
はだかの私 はだかの君
お金も家もしがらみも仕事も何もかも棄てて
もう一度 君と生きることだけ考えて
君を連れて ここから飛び立ちたい
そしてすべてがはじまる
                       ※
 この詩は何にも難しいところはない。小学生からお年寄りまで、子どもも大人も、おかあさんもおとうさんも誰でもが、この詩の意味と作者の願いがわかるに違いない。
 こういった詩(誰でもわかる詩)を読む時に大事なことは、書かれた言葉をそのまま受け取り信ずる
ことではないかと思います。
 それは簡単なようでもあり難しいことでもあります。たとえば二連目の<何にもないことがしあわせだった 私たちは裸でも生きていかれる 素足のまま 歩いてゆける> この言葉をずうっと受け入れることは決して簡単名ことではない。
 それにもかかわらず、私たちは心のどこかで、「ああ そうだ」と了解しているのだ。
実は、この詩全体が、これと同じようにかかれている。
 そして、このことが、この詩の魅力の秘密であるとおもいます。
 ただ私なりに、この詩を読んで感じたことを言うと、何だかとても怖い感じがします。
 母であることは、とても怖いことでもあるのです、特に現代のような時代では。
 それにもかかわらず、わたしたちは一人ひとり渡り鳥のような母でなくてはならないと、この詩を読んで感じます。

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網谷厚子「瑠璃行」時を結ぶ言葉

瑠璃行       網谷厚子
夜を行く 星の輝きがとがった無数の針となって 空に
開く夜 幾度も傷ついた人々の深い眠り 透明な涙が溶
ける ねっとりと厚みを増した夜 深く沈んだ魂が ほ
んのり輝きながら 黄色や青 紫の珊瑚礁の上を 飛び
回る 空も底も賑やかな 夜を行く 死にいく意志そのものと
なって 弾丸となって 砕けていった魂 ふるさとに帰
えりたくとも帰れない悲しみが青く輝く 飛行機や駆逐艦
の残骸も 静かに眠る 珊瑚が生い茂り いくつもの塊
となって 水にそよいでいる 遙か彼方の島では 今で
も遺骨を探す金槌の音が響いている 一万数千の魂が
帰る日を待っている 目を凝らしても 明日は身えな
い いつも世の中は 不安でいっぱいだ 闇の中をかき
分けて 両手両足にたくさんの傷を作りながら 人は歩
いて行く いやされることのない肉体が 生きながら蝕
まれていく 何十年経っても 終わらない戦い 誤解と
中傷と憎悪と失意の渦に 否応なく誰だって いつだっ
て巻き込まれる 狭い地球の中で 人々は 犇めき合い
大地や海底に旗を立て 資源の領有を主張する 戦いは
永遠に続いていく 勝った負けた 負けた勝ったを繰り
返しながら 痩せていく地球 激しくなっていく戦い
増え続ける 帰れない魂 浮かぶ身体が 青く輝きなが
ら 珊瑚礁の上を漂い 珊瑚色の水から飛び上がり 瑠
璃色の天空へと 駈け上っていく 夜を行く 悲しみに
包まれて 冷たく 眠ろう
                ※
 この詩が書かれたのは、恐らく十年以上前のことだろうと思います。ですから、この詩と今回の東
日本大震災は全く関係がないわけですが、それにもかかわらず、私にはこの二つが無関係であると
は思えないのです。この詩が今回の大惨事を予告しているとは少しも思いませんが、私のなかでこの詩と今回の大惨事は密かに繋がっているような気がしてなりません。
 それはなぜなのか、ということは、決して説明出来ないのですが、あえて言うならば、それはこの詩の持っている強さによるものではないかと思います。この詩に書かれている言葉は、ものごとをできるかぎり正確に、そしてできるだけ多くの人に届くように語られています。
 それはこの詩全体について言えることなので、特に何行目、どの言葉とかいうわけではありません。でも、たとえば、はじめの
 「夜を行く 星の輝きがとがつた無数の針となって 空に開く」は特にそういう感じがします。
 前に、「ものごとをできるかぎり正確に」といいましたが、この詩人にとってものごととは目に見える
現実と決して目に見えない心のなかの出来事、この二つを合わせたものであると思います。
 そして「正確に」というのは、この二つの世界を必ず重ね合わせて見ることだと思います。
 これがこの強さです。

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金恵英「やわらかな時計の中で」率直さということ

やわらかな時計の中で 金恵英
私か解読しようとする記号は
空から降り注ぐ雨だったり
頭蓋骨から降り注ぐ言葉だったり
二本の足の間から流れる精液だったり
二つの足の裏から逃げていく風だったりした
私が解読しようとする貴方は
ベッドに横たわり丸いおっぱいを晒したまま
犀月の日差しのごとく眠っては開いた唇に
私の舌を重ねれば赤いチューリップになる
愛撫した手がチューリップのスカートを脱がせば
ぽろって落ちてしまう花びら
首だけ残ったチューリップ
私が解読しようとする絵は
モナリザの微笑みをあざ笑う
分かりそうで分からないなぞなぞのような
記号でぎっしりの
柔らかな時計の中で道を尋ね
か細い指にモナリザの服は脱がされる
肌の色した玉ねぎのように
一枚二枚と剝がすほど
何もない!
白い血を増殖する時計が
体の中でちくたくと回り
私が解読しようとする肉体は
真ん丸の月のごとく萎れていく
                 ※
 私はこの詩にある率直さを感じます。
それは日本の詩には殆どみいだせない民族の資質なのだとさえ感じられます。
この率直さは、子どもが持っているような正直さであると思いますが、しかし、それだけではなく、
互いに引っぱり合ったり、はじけ合ったりするようなエネルギーを感じます。
たとえば、「私か゛解読しようとする」という言葉は、この詩を一つの建物にたとえるとするならば、その柱にあたると思います。
この言葉にも、私は一種の率直さを感じます。それは何か未知なものに全身で向かっていく率直さです。
はじめ読んだだけではやや理屈っぽいこの言葉も何回か繰り返し読むと、それ自体が言葉の肉体
性のようなものを持っています。
「頭蓋骨が降り注ぐ言葉」
「二つの足の間から流れる精液」
「私の舌を重ねれば赤いチューリップになる」
「愛撫した手がチューリップのスカートを脱がせば」
とかといった表現はイメージというより、言葉と言葉のぶつかり合いのような感じがして、私はあまり
詩のような感じがしません。その代わり、私はどこかでこんな言葉を使ってみたいと思ったりもします。
これにもあの率直さがあると思うのです。率直な言葉はいわばことばの元素のようなもので、互いに
ぶつかり合って大きなエネルギーを発散させたり、また時には全く新しい世界をつくリだすかもしれません。それを「やわらかな時計の中で」可能にするのです。

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小島きみ子「ひそやかな星のように」いのちは星のように

ひそやかな星のように    小島きみ子

 いつの間にか雨が止んで、灰色の岸辺にでは、春の初めに咲く
花の木がそよぎはじめた。その蕾は次第に膨らんで、ひそやかな
星のようだった。冬を連れ去っていく風の音を聞きながら、枯
れ草の上を歩く時、白い雲に流された影を、私は、鳥が獲物を
追う目になって、影のなかを見つめる。私たちは、見えるよう
な愛を求めていたのか。空は、泣きじゃくる子の波打つ髪の毛
のように揺れていた。

 ふと、懐かしくて、影のなかに向かってなまえを呼ぶとき、
きっと言うのだ。それも明るいきっぱりとした声で。(僕)は
あなたの思うとおりにはならない。(僕)は(僕)を守るよ。そ
れでも、どうか元気でいてください。(僕のmama)と。私は
再び影のなかの、草の種のような、小鳥の目になって言うのだ。
私の母へ。(mama  私は、あなたの思う通りにはならない。そ
れでもどうか元気でいてください)

 かっての私たちが暮らした、キッズクラフのその家では、放
課後の子どもたちが、ボランティアの青年と遊んでいたる黒い
髪の少年たちのなかに、ブラウンの髪の少年が混ざっていて、
彼は誰よりも速く野芝の上を、カラマツの木々の間を、走り抜
け行くのだった。その枯芝のなかに、小さな札と囲いがあっ
た。「花の種が(芽)をだします。踏まないでください」私の
影の上に重なる芽の、青い影を踏んだのはだれ。

 森の小道を、別れてゆく人と散歩する。まだ花の咲かない桜
の樹皮は、夕べの雨で濡れて、新しく生まれてきた子どものよ
うに、光った息をしていた。私たちは、樹にもたれて、苦しめ
られた仕事のいろいろなことを思い出す。あなたは、また再び
言ったのだ。きっと戻ってくる、また一緒にやろうって。その時、
つややかに光る木の枝を折るように、白い雲の間を渡って行っ
たのは小さな獣、それとも辛夷のはなびらだったのか。
                  ※
 この詩のなかで、不思議な、でも、そんなふうに私も考えていたのかもしれない、と思ったのは、
三連目に書かれていることです。
「(僕)はあなたの思う通りにはならない。(僕)は(僕)を守るよ。それでも、どうか元気でいてください。(僕のmama)と」
「私の母へ。(mama 私は、あなたの思う通りにはならない。それでもどうか元気でいてください)」
というところです。家族の絆とか、つながりをこんなふうに、きっばりと、しかも冷たくではなく、ある種のユーモアが感じられるように、言ったのは、とても面白いと思いました。
この詩全体についていうと、自然そして宇宙と人間がどこか深いところでつながっているような感じ
がして、そのことを感じるままに言葉にしたような気がします。
 それは特に一連芽によく現れています。たとえば
「私は 鳥が獲物を追う目になって、影のなかを見つめる。私たちは、見えるような愛をもとめていたのか」に私は感動しました。
一連目と同じ四連目も自然と人間が融合するような世界が書かれています。
こうしたなかに、二連目の家族の営みが挿入されているのが面白いと思います。
この詩はどこかイギリスのターナーの水彩画を思い起こさせます。

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伊藤啓子「おとこの家」家というもの

おとこの家   伊藤啓子
あの家には玄関がなかった
遊びにおいでと言われても
どこから入ればいいのかわからなかった
茶色い犬はおとなしく
くったり眠っていた
お祭りの日
あの家で
ひっきりなしに動く人影を見た
どこから出入りするのだろうと思ったが
いつの間にか笑い声がさざめいていた
一度だけ
台所の出窓が開いていたことがある
バラの花びらを詰めたビンと
サボテン鉢植え
腹の足しにならぬものばかりだった
遊びにおいでと言われても
花びらを口に含み
サボテンの棘で指をくすぐるような
女のひとが出てきたとしたら
とても気が合いそうになかった
              ※
 私は十八歳のとき、東京に出てきて以来、一軒家に住んだことはなく、アパートかマンション暮らしであり、それは私の住まいということはできるけれども、私の家ではない。
 その違いはとても面白く、家を舞台とした映画やテレビのホームドラマなどに見とれたりすることもある。
 そういう私にとって、この詩は「おとことおんな」の詩というより、「家」という詩という感じがします。それと、この詩全体が何かひとりごとのようなリズムがして、そのことも私の家と関わり合いがあるような気がします。私が家について考えたり、話したりしようとすると、とこかしら、ひとりごとのような気がするからです。
 もしかしたら、家というのは現代の人々にとって、そういうものかもしれません。たとえ、その人が今一軒の家に住んでいなくても。つまり、家はそれ程、かっては濃密な存在であり、物語性をもっていたということだと思います。
 こうしたことが、この詩の余白にあるような気がします。それはたとえば<犬がくったり眠っていた>ことだったり、<台所にバラの花びらを詰めたビン>が見えるということ、これらの後に余白がひろがっているような気がします。

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