春になったのでモーツアルトを

jp.youtube.com/watch?v=jUGN2vMj3bY&hl=ja
 あのアインシュタインですら、「死ぬのは怖くないけれど、モーツアルトを聴けなくなるのが淋しい。」
 といわせたのはなぜだろう。
 久しぶりで「交響曲41 N.551」 を聴いてみた。昔はカール・ベームがすきだったけれど、この「ジュピターはイギリス国教会の室内楽のオーケストラでジェフリー・テイトというひとの指揮だつた。
 なかなかいいと思った。どうして大江健三郎の息子さんも谷川俊太郎もだれもかれもモーツアルトが好きなんだろう。だれが好きでもわたしも好きだと思うんだろう。
 Youtube は音はいまいちだけれど、それでもすばらしいと思う。
 モーツアルトの音楽を聴くと、わたしは愛されていると感じる。もう神さまは信じなくなったけれど、
だから、神さまに愛されるようなことはないけれど、自分が愛されていると感じるから、モーツアルトを愛するのではないだろうか?
 年をとっても、死ぬまで愛されているなんて何て幸せなんだろうと思う。そういうことはありえないと思っていたのに、そう感じることはやはりすばらしい。

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「ふるさと」新川和江  面白いところ

 
 
 
 
この詩の面白いところは
 「そうでしょ  おとうさん」とか
 「そうでしょ  おかあさん」とかいうとき
 まるで、おとうさんやおかあさんが ふるさとであるかのようにきこえてくるところです。
 考えてみると、自分のうまれたところですから、特におかあさんは そこから 自分がうまれたんですか
 ら、その通りなのですよね

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「Kの土地」小柳玲子  ぜんまい

Kの土地     小柳玲子
地下鉄のあとは何に乗ったろう
汽車は三つめで降りた
すすき野の中でバスに乗った
時計のぜんまいのようなものが
たえず空気の中から生まれ
バスの床に落ちていった
それは暗がりにすぐ見えなくなった
それからバスを降りた
山の中腹にKの家が見えていた
それは何のはずみか急になくなり
突然また現れるのだった
夕焼けを吸って壁も納屋も暗かった
そのあたり ぜんまいのようなものが
生まれては消えていた
K お元気ですか
久しくおめにかかりませんでしたね
あなたは——何故だろう とても幼くなった
それは双六ですか あなたが遊んでいるのは
めくらねずみや るみこちゃんの靴がありますね
みんなとても小さい
小さい
わたしには見えません
あなたの声ばかりがきこえる K
L どうして来たの
こんな遠い土地まで
頼りなく不審気にKは訊いた
「お正月だから」
私は そう答えた 何故か消え入りたかった
初夢にしても——さらにとりとめない声でKは言った
——ここは滅多に来る人はいないのだけど
うつくしい空気の中から
Kはいくつもいくつもぜんまいを拾った
L きみは駄目になっていくみたい
ほら こんなに壊れてしまって
夜あけ 霧
汽車は三つめで降りるのだった
バスは幾つめだったろう
すすき野で 券売機の前で
ぜんまいのようなものが
たえず 生まれ
帰っていく駅の名前を
つかのま 思い出せない時
K あなたは誰か
   ※   ※    ※
 何かしら発光体のようなものに書かれた物語。
 Kの土地を訪ねる<私>。
 しかし、殆ど現実味が感じられない。
 いろいろな物(ぜんまいやKの家など) が現れたり、消えたりする。
 淡い光芒とともに、恐らく、それは書かれているのが発光体の上だから。
 発光体というのは詩人の意識なのだろう。
 言葉は呼吸と同じようなリズムで自然に語られるので、内容が物語のような
 ものであるにもかかわらず、香りのようなリアリティがあります。
 そして、私は知らず知らずのうちに、私自身の失われた時を探しているような
 感じがします。
 <時計のぜんまい>とは詩人の失われた時間であり、私自身の失われた時間でもあります。
 この詩のなかで、<ぜんまい>があらわれないのは、三連目です。そこだけが、リアルであるから、
 失われる時間が現れることができないからではないかと思われます。
 幼い時の時はそれ程までに充実しているものなのかしら?
 そうなると、最後の<K あなたは誰か?>のKとはもうひとりの自分、もうひとりの私です。

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「夏茱萸」尾崎与里子 〔私〕と〔老女〕の距離

夏茱萸    尾崎与里子
かぞえていたのは
梅雨明けの軒下の雫と
熟しはじめた庭隅のグミ
そのグミの明るさ
私は〔老女〕という詩を書こうとしていた
眼を閉じるとひかりの記憶に包まれて
すぐに消え去ってしまう いま と ここ
時間のなかで自画像が捩れてうすく笑う
  
初夏の明るさに
この世のものではないものが
この世のものをひときわあざやかにしている
母性や執着の残片があたりに漂って
耳もうなじも
聞き残したものをきこうとしてなにかもどかしい
それはふしぎな情欲のようで
手も足も胸も背中も
そのままのひとつひとつを
もういちど質朴な歯や肌で確かめたいと思う
刈り取られていく夏草の強い香
ひかりの記憶
たわわにかがやく夏グミの
葉の銀色や茎の棘
〔老女〕はきらきらした明るさを歩いていて
   ※     ※      ※
 この作品は私には俳句の世界と通じ合うものが感じられます。
 
 私は俳句や和歌については殆ど知りません。それでも、タイトルの「夏茱萸」にはやはり俳句を強く
連想します。
 またそればかりではなく、「梅雨明け」「雫」「庭隅」という自然に対する細やかな気づかいが何よりも
俳句や和歌の世界を強く感じます。
 日本人の自然に対する「気づかい」は独特のものではないかしらと以前から思っていましたが、この作品を読んで再確認しました。
 それは自然に対する観察であり、感情移入であり、そして擬人化などがひとつになったものではないかと思います。
 ひとつにするのは日本語の力であり、やや大げさにいうと日本の文化の源であるといってもいいかも知れません。
 私はこの詩にそういうものを感じます。それをなんとも鮮やかに表現しています。
 <私は〔老女〕という詩を書こうととしていた>
 しかし、この詩のなかで〔私〕と〔老女〕との距離はとても現代的な感じがしました。
 それは決して短歌や俳句の世界では感じられないものでした。この詩はその部分が光っているのだと
 思いました。

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「投光」関中子   町に住む

投光    関中子
町の奥に住んでいる
町の東側に向かいずんずんずんずん歩くとわたしの住処につく
そこはかたつむり通りの向かい側になる
柿の木森の東隣ですすき原の西
くぬぎトンネルをぬけたところ
くぬぎトンネルに入る前に夜になると
西に沈んだはずの太陽がそっと隠れたつもりのような
太陽の幼子団地と名づけた建物群が散らばる
北の大地は太陽の幼子団地に仄かに照らされて地上に浮かぶ
そこで輝く変身山は一番迫力がある
さらに人が乗った噴火流が北に西に南へと見え隠れる
隠すものと隠されるものと
沈黙するものと声高に話すものとどちらも素敵に見える
時々 妙にもの哀しく見える
輝かない窓がいくつかあり
これがあたりまえならその言葉を人目に触れさせまい
その窓の奥のできごとのひとつふたつ
窓の哀しみ わたしの胸の淋しさ
わたしは別れた双子の兄弟姉妹などいないのだし
わたしの窓はあの幼子団地にあるはずもない
わたしは町の奥に住んでいる
町の東側に向かいずんずんずんずん歩くと住処につく
そこはかたつむり通りの向かい側になる
柿の木森の東隣ですすき原の西
くぬぎトンネルをぬけたところ
三年前までは葛の葉橋を渡ったが
それは熊笹砦の思い出話になった
空に向かって葛の花びらを投げた
まっすぐに投げた
でもたちまち勢いを失ってははらはらと熊笹砦に流れた
熊笹砦から西南を望むと町で誰かがまっすぐに
空に投光するのが毎晩見える
雨の日も 風の日も 曇り空の日も
まっすぐ まっすぐ見える
わたしの夢に形があるとしたらこんなふうに
空に向かって行きたいのでは?
     ※     ※     ※
 この作品は全体としてとても観念的であり、思考的であると思います。
 でも、私には思考しているひとの体や息づかいが感じられたりもします。それがこの詩の不思議さだと思います。
 はじめの二行<町の奥に住んでいる 町の東側に向かいずんずんずんずん歩くとわたしの住処につく>が特に私には印象的でこの二行によって何かが始まる感じがします。
 何が始まるかといえば、町のなかで何かが起きているようで、それに立ち会うような感じです。
 そして、その起きていることが幻想と観念(思索)が融け合っているような———私はこの二つがうまく
融合しているようには感じ取れないのですが———ことが起きている。
 こうしたことが必ずしも、うまく表現されているとは思えないのですが、それにもかかわらず、私は感動するし、元気づけられます。
 つまり、町のなかでひとりの人間が哀しかろうが、淋しかろうが、一生懸命生きている、このことが伝わってくるからです。
 内容的にはそういうことが書かれていないにもかかわらず、そこで生きているひとの息づかいや体の
動きが感じられる、それがこの詩の不思議さであり、新らしさであると思います。
 こうしたことのすべてを支えているのは<わたしは町の奥に住んでいる 町の東側に向かいずんずんずんずん歩くと住処につく>この二行です。
 町というのは、幻想と思索の産物かも知れません。

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「てのひら」伊藤悠子  二つの視線

てのひら   伊藤悠子
四階の窓辺から
誰もいないバス停を見つめている
まっすぐ落ちていく蝙蝠のように見つめている
バス停も
草も
あれほど遊んだ草たちも
もはや昇っていくように
わたしより上だ
わたしが落ちていくので
なにもかも上になって遠ざかる
懸命に思い出す
てのひらだけを
きっとよいものだから、死は一番最後にとって置きなさいと
幼子をあやすように言った人の
てのひらを
誰もいないバス停に見つめている
 
 わずか16行の作品で、決して長いのではないのだけれども、私は久しぶりにスケールの大きな世界
をこの詩に感じました。
しかも、同じく胸がきゅんとなるようなリアリティも感じました。
 この詩には、恐らく、二つの視線があります。その一つは<四階の窓辺から 誰もいないバス停を見つめている>ともう一つは<てのひらを 誰もいないバス停に見つめている>のこの二つから生まれています。
 そして、この二つの視線は大変精妙に、というか「奇蹟」のように融け合っています。
 この融合をどう感じるかによって、最後の二行は<てのひらを 誰もいないバス停に見つめている>大変ちがったものになるのではないかと思います。
 大きなスケール、大きな深さを私はこの詩に感じます。
 ここまで、書いて、私はリルケの「秋」という詩を思い出しました。
「けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある」 富士川英雄訳
 

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ああ いい 泣けてくる! これがほんとの幸せ!  

 http://jp.youtube.com/watch?v=RXa72ownSFU
めちゃくちゃに めちゃくちやに
これがほんとの幸せ! こんなふうに一秒も無駄にせず
生きたい 生きたい 悔しい  悔しい 羨ましい
まぶしいばかりの 始まり
藤原基央 you tube− BUMP OF CHICKEN
上のURLをクリックしてね。
かわゆい かわゆい かわゆいよ。
ガラスのブルース

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動物たちは

http://hk.youtube.com/user/something6

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動物たちはどうしてるの?

最近、とても変なことを考えることがある。たとえば、私は「しろくまのおかおえほん」とか「しろくまの妹が生まれたよ」とかいう絵本を翻訳したりすると、まるで次から次へ「しろくまシリーズ」がでる。
 確かに、しろくまたちは危ないし、氷山から落ちたり、飢え死にしたりしているらしい、しろくまたちのことを考えたりすると、絵本なんか出している場合ではないような気がする。奈良の鹿たちのことをテーマにしたドラマができたりしている。また、CBCではどこかの動物園でラッコの親子がゆったりとみずのなかでランデブーしていたのか何回も放送されたりして大変愉快でした。
 このようにこの頃人間などよりよっぽど動物や植物がテーマになってきているような気がする。人間は人間に飽きたのだろうか?
 
  まあ、そういうわけにもいかないけれど、いつか図書館でこどもの本で見たきれいな絵本が思い出される。その本は、きれいなマフラーをした女の子が、ペンギンをみていて、どうして、わたしはペンギン
でないのかしら? ペンギンならこんなに寒いとき泳いでも平気なのに、とおもうわけです。
 それで、象、きりん、さる、かば、ばんだと次々に会い、どうしてわたしはかれらではないのかしら?
と思うわけ。とても目のさめるようなきれいな絵本だったので、私はいつまでも、いつまでもぼんやりみていたわけだけれども、動物になりたくてもなれない女のこは突然「ま、いっか」というわけですね。
 ずっとたってから、なんだか、びっくりしたわけですね。
 すると、このあいだ、テレビでおかあさんのおなかの中に、ちいさなカメラをいれて、赤ちゃんの空豆
のようなときから、撮影したわけです。私は人類が初めてダ・ビンチの解剖図、おなかの中の赤ちゃん
を見たときよりもショックを受けたの、その小さい生き物、つまり、胎児の喉のあたりに確かに一瞬、
エラがみえたのでした、それは一瞬で消えましたけれど。こうして人間の胎児はエラができたり、尻尾
が生えたりして、あるいは手にミズカキができたりして、だんだん人間の赤ちゃんになることでした。おど
ろいたことに、人間だけではなく、生きものにはみんな遺伝子があって、それぞれ全部違うということでした。まるでトマトも一個一個違うパスワードやIDをもっているみたいに。
 しかも、この遺伝子はこの地球上のすべての生き物の遺伝子をひきついで、そうして、もしかしたら、
波のようにうねりながら進化しながら、ちゃんとお父さんやおかあさんからひきついで、たった一個の遺伝子を持って、生まれてくるわけですね。
 つい最近まではそんなこと知りもしませんでした。急に文学の人間と神しかいなかった世界から、アリンコやら、鹿男あおによしなんかがあらわれてきて、すこし気持ちが悪いくらいです。

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私はずいぶん長い間

 私はずいぶん長い間この街から自然がなくなったり、のんびりした楽しいこと
がなくなったりしていることを嘆いたりしていた。これから、空気があまりよくないこの場所で歳を重ねてだんだん体力がなくなって、友達もすこしずつへっていくのか思っていた。しかし、彼を見たことによつて、何か思考に変化をきたしたたようだ。何かに挑戦することは何にでもいいということが解った。たとえば夫は漬けたり、ねかみそにキュウリや茄子や大根を漬けるのを楽しみにしている。息子はもっと漫画の世界に挑戦するために都心の神楽坂に引っ越していった。さて、私は何に挑戦したらよいのだろう。ノートの「やりたいこと」のコーナーに「初めは一ヶ月に一篇の詩を書き、それから一週間に一篇の詩を書き、その
次に毎日詩を書きたい」と書いた。「飛行機に乗って友達に会いに行きたい」
とも書いた。「やらなければならないこと」のコーナーに「洗濯と掃除」と書いた。

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