「夏茱萸」尾崎与里子 〔私〕と〔老女〕の距離

夏茱萸    尾崎与里子
かぞえていたのは
梅雨明けの軒下の雫と
熟しはじめた庭隅のグミ
そのグミの明るさ
私は〔老女〕という詩を書こうとしていた
眼を閉じるとひかりの記憶に包まれて
すぐに消え去ってしまう いま と ここ
時間のなかで自画像が捩れてうすく笑う
  
初夏の明るさに
この世のものではないものが
この世のものをひときわあざやかにしている
母性や執着の残片があたりに漂って
耳もうなじも
聞き残したものをきこうとしてなにかもどかしい
それはふしぎな情欲のようで
手も足も胸も背中も
そのままのひとつひとつを
もういちど質朴な歯や肌で確かめたいと思う
刈り取られていく夏草の強い香
ひかりの記憶
たわわにかがやく夏グミの
葉の銀色や茎の棘
〔老女〕はきらきらした明るさを歩いていて
   ※     ※      ※
 この作品は私には俳句の世界と通じ合うものが感じられます。
 
 私は俳句や和歌については殆ど知りません。それでも、タイトルの「夏茱萸」にはやはり俳句を強く
連想します。
 またそればかりではなく、「梅雨明け」「雫」「庭隅」という自然に対する細やかな気づかいが何よりも
俳句や和歌の世界を強く感じます。
 日本人の自然に対する「気づかい」は独特のものではないかしらと以前から思っていましたが、この作品を読んで再確認しました。
 それは自然に対する観察であり、感情移入であり、そして擬人化などがひとつになったものではないかと思います。
 ひとつにするのは日本語の力であり、やや大げさにいうと日本の文化の源であるといってもいいかも知れません。
 私はこの詩にそういうものを感じます。それをなんとも鮮やかに表現しています。
 <私は〔老女〕という詩を書こうととしていた>
 しかし、この詩のなかで〔私〕と〔老女〕との距離はとても現代的な感じがしました。
 それは決して短歌や俳句の世界では感じられないものでした。この詩はその部分が光っているのだと
 思いました。

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