「逃げてゆく愛」ベルンハルト・シュリンク

「逃げてゆく愛」 ベルンハルト・シュリンク
 あまりに夢中になって、この作者の「朗読者」を読んで映画も観たため、大変名作でもあり、とてもうまい小説でもあるのに、何と言っていいのかわからない程悲しくなるので、こういう悲しみからはそんなに
早く立ち上がれないと思って、わたしはこの本をどこかへ隠してしまった。だいたい、この本はアマゾン
で売ろうと思っても、10円とか、20円とかしかうれないので、それに紙質が悪くすぐ焼けてしまっているので売るといっても気がひける商品でもあったのだ。こんなによくない本をどうして新潮社は売るのかと思ってしまう。しかし、文学も詩も、音楽も映画も絵もコンピューターも続いて行かなければならないので、わたしはまた図書館から「逃げてゆく愛」を借りてきて読んだのだ。だいたいわたしはなぜ「朗読者」
をよみはじめ、そしてひとごとではなく思われた原因は何かといろいろ考えた結果、第二次世界大戦後
の悲劇、ユダヤ人が600万人も殺されたという事実をあれほど映画やニュース やその他もろもろの情報で
知ったあと、いつもユダヤ人の方からあれほど攻撃や訴えを受けた後、ドイツ人はどう思っていきてきた
のだろう?という関心が世界中にひろがったあと、あらゆる悲しみとともに、この本は広がったのだろうと思える。それは、わたしが原爆のことを考えるときに、たしかに何か伝わった来るものがあったからだろうと思われる。「朗読者」をよんで、いちばん底の方で感じたのは、次のことであった。私か゛この世に生まれてきて、しかも日本という国に生まれてきて、わたしはわたしなりに生き、そして努力したことも、さぼったこともあったけれど、運がよかったことも、ついてないこともあったけれど、まあ、なにも後悔もしていないし、できなかったことは、自由にいきるために放棄したのだから、おおむね満足しているし、幸せであったと思う。いや、過去形ではなく、今も満足している。しかし、原爆だけは、わたしの個人の生き様と関係なく、少なくとも私の生の目に見えない部分を20%くらいは損なってしまった。と思っている。このヒバクシャ
でもなんでもない個人がそうかんじているのだから、ましてヒバクシャはどう感じているのだろうと想像してしまう。
こういうことを誰かに話そうと思っても、なかなか話しにくいので、せめて「朗読者」の作者はどう思っているのだろうと考える。そして、その必然的な答えがあの小説のなかにあり、悲しくて悲しくてもう立ち上がれないくらいに思えるぐらい厳しい。しかし、それを読む世界中の読者はじゃあ私の場合はどうなの?と考えることができるからだ。
 そして、「逃げてゆく愛」はなかなか面白かった。何があろうと果敢に生きていくドイツ人たちが短編のなかにちりばめられていて、どの場合も、良しと肯定できるようになっていて、とてもとてもいい具合た゜った。なかなか賢く、なかなか複雑でありながら、戦後生きたドイツ人はたくましく希望がもてた。ああいうふうにわたしもいきようと思った。

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