エステルさんのこと

久しぶりに書棚を整理していたら、エステルさんの展覧会のカタログが出てきた。1987年のアートフロントギャラりーでの個展のときのものらしい。エステル・アルバルダネさんはスペインの女性の画家で、彼女の画は、日常のなかにあらわれる懐かしい異次元の風景を想わせる。木々や鳥たちの寡黙で鉱物的なやさしさ。海に向かって開いた窓で、小卓によりかかる物憂げな女性たち。卓上の果物に集まる光。窓辺に寄り添う二人の女。三日月の出る窓辺にひとりすわる女など。どんな暮らしのなかにもある物語の一シーンのようなそれらの画の静けさや秘密めいた懐かしさに心引かれる。私は「ラプンツェルの馬」という詩集の表紙に彼女の「鳥」という作品をいただいたのだ。
それが縁で、1988年にバルセロナのエステルさんのお宅に招かれたときのことを忘れない。閑静な別荘地にある彼女の家での夕食会だった。イタリアへ明日帰るというエステルさんの友人たちの送別会もかねていた。テラスに出ると満月がのぼっていて、はるか前方から地中海の波の音が聞こえてくる。冷えたワイン、実だくさんの魚のスープ、鶏のオレンジ煮などの後で、フルーツが出ると、エステルさんは庭から「マリア・ルイサ」というハーブを摘んできてお茶を入れた。(これは後で知ったが、レモンバーベナともいわれる香草で、消化によいとのこと)。その後アトリエに案内され、フィドという彼女の愛犬に紹介されたことも印象的。作品と同じく、彼女自身があたたかく魅力ある人柄で、そのときお土産にもらった手書きの青い大きな扇や、マリア・ルイサの小枝とともに私にとっての《バルセロナ》から切り離せない記憶になっている。その彼女への橋渡しをしてくれた北川フラムさんや、エステルさんの記憶を分け合ってくれる友人、唐澤秀子さんは私にとってとても有難い存在だ。
このカタログのなかに「ESPERANDO (待つこと)」という一枚の絵がある。夕暮れの窓辺で果物皿を手に誰かを待つひとりの女…。その背中を夕日の影が金色に染めている。私の好きな絵の一枚だ…。
だが、もういくら待っても彼女に会う時間はこないなんて。
エステル・アルバルダネさんが、もうこの世からいなくなってしまったなんて。
あのバルセロナの夕べのことを思い出すと、そんなこと、信じられない。

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たこぶね

昨夜読書会の仲間の積子さんから電話があって、いまTVの1チャンネルを見てる?
という。急いでつけてみると、なんと画面に「たこぶね」が大きく映っていて、
ちょうど話題の中心になっているところだった。
私たちは約10名くらいで、《たこぶね読書会》という小さな会をつくっている。
たこぶねの名の由来はアン・モロー・リンドバーグの「海からの贈り物」からもらっ
たのだ。子どもを育てるためにタコが貝をつくり、そこで卵を育てる…という知識
は得ていたが、実際に貝殻がどういう風につくられるのか詳細は分からなかった。
TVの映像では縦になった貝殻のなかに、タコが入って泳いでいるらしい。しかも
群れているとのこと。
そういう生態に驚いて、もう一度本やインターネットで調べてみた。するとメスの
タコが産卵育児用に貝殻を分泌して、(オスは小さくて貝殻はなく、繁殖用の腕の
部分をメスの貝殻に残して去っていくとか)そこで子どもが孵化するまで育てるという。
貝が破れたり穴があいたりすると、修理もする。貝殻は白く、その表面は美しい
さざなみ状になっていて、プラスティックのようにも見える。大きさは15,6センチも
あってアオイの葉のような形をしている。
メスは子どもが育つと貝を切り離し、自らは死ぬという。こうして空になった貝殻が嵐
のあとに、九州の沿岸などによく漂着するそうだ。いつか福岡の日嘉まり子さんか
ら、その美しい殻が送られてきて、いまも大事に箱にしまってある。これはアオイガイ
とか、タコブネとか呼ばれ、このような貝をつくるタコは6種類あるという。
英語ではPAPER NAUTILUSというそうだが、それもタコの祖先がオウムガイだから…と。
ところでなぜ会の名を「たこぶね」とつけたかというと、この貝は船乗りにとって順風と晴
天のシンボルでもあること、しかも子どもたちが孵化した後は、親だこは自らを切り離し
て、貝ごと大洋上に送り出すというかっこよさも一つの魅力だったからかもしれない。
そういえば読書会も10数年だが、今までのところ荒れ模様の日はなかったようだ。

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最後の椅子

                  コップのなか
              震える指でコップを包み
              なかみを、じっと、みつめているので
              どうしたの、水、飲まないの?
              シズノさんに声をかけた
               だって、こんなに透明で……あんまり、きれいなもんだから……
              そそぎたての秋のまみずに、天窓から陽が射して
              九十二歳の手のなかの
              コップのみなもが、きらり揺れる
              きょう、はじめて,水の姿と、向かいあった人のように
              シズノさんが、水へひらく瞳は
              いつも、あたらしい
              雲が湧いて、ひかりが消えた
              ふっと、震えが、止まっている
               それから、ほんとうに透きとおった静止が、コップのなかを
               ひんやりとみたす
              くちびるが、ふちに触れると
              ちいさい、やわらかい月が揺れて
              茎のような一本の
              喉を、ゆっくり、水が落ちる
前詩集『緑豆』で、その静謐さと透明な感性で、蒸留水を味わうような爽涼感を与え
てくれた齋藤恵美子さん。彼女の新しい詩集『最後の椅子』 から一篇を引用させて
いただいた。『緑豆』とはまた異なるスタンスで、老人ホームという現場から、ひとりずつ
名を持つ人たちとの関わりや、人の生きる姿を語るこの詩人の表現に対する腰の強さ
にあらためて感心する。
    

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塩壷温泉

中軽井沢から少し入った塩壷温泉の周囲は静かだった。猿やクマがしきりに出没するら
しく、窓には錠をおろせとか、夕暮れの散策には注意せよと書かれている。でも、あいに
くの雨でサルたちと出会うチャンスもなく、緑の木々に包まれた部屋で一日中「ペンギン
の憂鬱」を読みふける。物語は案外淡々と大きなドラマもなく進行するのに、退屈せず、
結構引き込まれて、さいごの意外な結末まで一気に読んでしまった。激流にもまれる一
枚の木の葉にも等しい個人の暮らし。だが、流れに運ばれる一枚の葉っぱにとって、
周辺の水は案外不動に澄んで見えるのかも。時代の中を運ばれていく個人の一日一日
の暮らしのように…などと現在の自分たちの日々に思いを馳せてしまう。
宿の露天風呂の近くでは、しきりにゴジュウカラ?みたいな鳥が飛び交って、ピンク色の
高原の残りの花が揺れていて、竜神の池の青い水面に雨粒の後が絶えない。
帰る日には雨も上がったので、長野県と群馬県の県境いの路をゆっくりドライブする。
真っ赤なツタウルシが緑の木に巻き付き、黄葉しかけた木々の間に朱色のウルシが
美しく映えている。ツタウルシが巻き付いた木は枯れてしまうので、以前は落葉松など
を守るためツタウルシを刈り取っていたが、今は手入れもせず放ってあるという。
というのも落葉松は、以前は貴重な材として、建物に使われたいたが、今は輸入の材に
頼って用いられなくなったからという。だから周辺の林は荒れてきているのだとか。
雨上がりの白糸の滝に寄ると、ひんやりと澄んだ空気はイオンで充たされているようだ。
浅間山から多くの地層を潜り抜けてきた生きた水が、目の前に無数の絹糸になって
流れ落ちている。

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すすきと吾亦紅

画を描いているNさんから突然届いた”すすきの穂とわれもこう”の風雅な一束…。
早速白い壷に活けて、部屋の一隅におく。室内はすっかり秋の野原の匂いだ。
背後からまるい月がのぼってくる…。
「音楽」と同じに「植物」も、いっきょに私をもうひとつの次元に連れていってくれるふしぎ。
お庭から、わざわざ秋の風情を送ってくれたNさんのこまやかな心遣いをしみじみ感じる。
おかげで、しばらくひとり秋の野原をさまよっていられそう。

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ミヒャエル・ゾーヴァ

ゾーヴァの画と出合ったはじまりは、「クマの名前は日曜日」の,あの洗濯熊のカード一枚
からだった。なぜかひかれて「ミヒャエル・ゾーヴァの世界」を買ってしまった。不思議な
魅力がある。何事もない静かな一軒家と雲と林のたたずまい。(何かがこれから起こる
のか、それとも起こってしまった後なのか)。
窓辺に座るクマおじさんの背後にひしめいている不穏な動物たち…ペンギン?ネコ?
ブタ?カエル?それになぜかヒトの手が!
会食中のテーブルの背後でニヤニヤ笑いをしてるイヌの顔。
黒い三角巾で前足を吊ってこちらをひたとみつめているしろい猫…etc.。なぜだか川上
弘美のある作品を不意に思い出したりする。童話的でユーモアと毒があり、立ちのぼる
のはひそかな悪意。もちろんオブラートにつつんで飲みやすく調合してあるけれど。
だれかさんの足もとに、ちっちゃな亀裂が口をあけている。(だれかさんの後ろに蛇がい
る)という世界。そんな不気味な気配…とおかしさにつられて、つい頁をめくってしまう。
この家でも夜中のバスタブでブタが飛び込みの練習をしているらしい。あのポチャンと
いう音は…。そしていつの日かブタが一匹、朝食のスープ皿を泳いでいるにちがいない。

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緑が重たくて

先日、詩誌「鹿」100号が送られてきた。これは浜松の埋田昇ニさん発行の詩誌。
巻頭に小川アンナさんの作品が載っている。アンナさんは私の日ごろ敬愛する先輩
詩人で、この詩誌が送られてくるたびに、私はいつも真っ先にアンナさんの頁をさがす。
そのいさぎよい生き方にしっかり裏打ちされた彼女の詩の魅力を味わうためだ。
小川さんは1919年生まれとのことだが、その作品に流れる一貫した強さ,美しさ、
生きることへの深い省察や憧れなど、詩にたたえられたエネルギーの深さははまぶしい
ほどだ。このように自然体で書かれていて、しかもこのように「詩」であること。それは
小川さんの今までの生き方の修練と結びついているに違いない。
92年にペッパーランドから「母系の女たちへ」という本を出したのだが、その巻頭にも
小川アンナさんの作品をいただいた。今日はそのうちの一篇をご紹介したい。
                 緑が重たくて
            卵の黄身のような月が地平に近く浮かんでいる
            二階の窓の青葉の向こうに
            生なまと月球の内にうごめく胎児の姿さながらの陰影を宿して
            緑が重たくて
            どこかで人が死のうとしているのではないか
            
            自然は豊饒の中に死を蔵しているものだから
            今宵
            バラやジャスミンの香にまじって一きわ匂うのはみかんの花だ
            火星の観察を了えてかえる子供らの声がする
            木立のなかでは巣立ったけれど餌の足りない雉鳩の子
            すすりなきのまま睡ってしまった
            
            私の死ぬ時もきっと地球は重たすぎる程美しいのだろう
            いや
            核の爆ぜる時でも地球は美しいのだ
            そのむごたらしさの想像に耐えぬもののみが声をあげる     

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風のほとりで

                 風のほとりで
                風が吹く 風が吹く
                木の葉そよがせて
                風が吹く 風が吹く
                はてしない時の谷間を
                ひとすじの風の流れのほとりに生まれ
                人は今 この星でヒトの時代を過ごす
                風が吹く 風が吹く
                海を波立たせ
                風が吹く 風が吹く
                今日一日の哀しみ
                ゆるやかな風の流れのほとりで出会い
                人は夜 この星の仲間たちと眠る
                風が吹く 風が吹く
                空をこだまして
                風が吹く 風が吹く
                何億年の彼方へ
                絶え間ない風の流れのほとりを歩き
                人はまだ この星に残す言葉を知らない 
                           曲、堤政雄  詞、水野るり子  

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サーカスのライオンとジャズ

                 サーカスのライオン
            空は美しく晴れていて 雲ひとつなかった
            ちょうどこんな昼過ぎだ
            サーカスのライオンが脱け出したのは
            だれかが檻のかぎをかけ忘れ
            だれかが九人のハンターを狩り集め
            逃げまどうライオンを追い詰めたのさ
            道は限りなくまっすぐで 隠れ場所さえなかった
            ちょうどこんな街角だ
            サーカスのライオンが撃たれたのは
            だれかがライオンを指さして
            そろって九人のハンターが銃を上げ
            逃げ場のないライオンを狙ったのさ
            空はいつまでも暮れないで 鳥一羽啼かなかった
            ちょうどこんな夕暮れだ
            サーカスのライオンが棄てられたのは
            みんなでライオンを始末して
            みんなで九人のハンターをほめたたえ
            流れ出た血の痕を拭き取ったのさ
                               曲:鶴田睦夫、詞:水野るり子
(今朝はシンシアのお土産のジャズのCDをかけながらの朝ごはん。
朝からのジャズはめずらしいのだけど、なんだかいつもの目玉焼きとパンと
ヨーグルトの味が違う。ジャズのフリーな気分が心地よい。このCDは、
BILL FRISELLの「EAST WEST]。一枚目はニューヨークで,もう一枚
はロスでのライブ。ギターとベースの掛け合いのリズムがなんともいえない。)
             
            
 

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シンシア

ニ年ぶりでアメリカからきた友人シンシアと会う。彼女は現在シアトル在住。東洋美術史
をワシントン大学で教えている。私が91年に夫と共にケンブリッジを訪れていたときは、
何から何まで親切に世話し、案内してくれた。おかげでとても愉しい三ヶ月を過ごすことが
できたのだった。
昨夜は、きらきらと点灯中のみなとみらいの大観覧車など眺めながら、新潟の銘酒
”〆張鶴”を飲み、延々とおしゃべりした。ラヴラヴの彼氏のことにはじまり、現在の
大学での仕事やアメリカでの暮らしぶり、身辺でのブッシュの不人気ぶりなどまで。
とにかくエネルギッシュ! 帰りぎわ、山のようなスーツケースの上にカメラとパソコ
ンのバッグ、さらに幾つもの荷物を盛り上げて駅の階段を駆け下りたそのバイタリティ
にはあきれっぱなし。仕事も万事その調子で、これは年齢の差だけではない!と実感す
るばかり。けれど明るい彼女と会うと私はいつも元気になることは確か。年末にまた会え
るのがたのしみだ。

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