最後の椅子

                  コップのなか
              震える指でコップを包み
              なかみを、じっと、みつめているので
              どうしたの、水、飲まないの?
              シズノさんに声をかけた
               だって、こんなに透明で……あんまり、きれいなもんだから……
              そそぎたての秋のまみずに、天窓から陽が射して
              九十二歳の手のなかの
              コップのみなもが、きらり揺れる
              きょう、はじめて,水の姿と、向かいあった人のように
              シズノさんが、水へひらく瞳は
              いつも、あたらしい
              雲が湧いて、ひかりが消えた
              ふっと、震えが、止まっている
               それから、ほんとうに透きとおった静止が、コップのなかを
               ひんやりとみたす
              くちびるが、ふちに触れると
              ちいさい、やわらかい月が揺れて
              茎のような一本の
              喉を、ゆっくり、水が落ちる
前詩集『緑豆』で、その静謐さと透明な感性で、蒸留水を味わうような爽涼感を与え
てくれた齋藤恵美子さん。彼女の新しい詩集『最後の椅子』 から一篇を引用させて
いただいた。『緑豆』とはまた異なるスタンスで、老人ホームという現場から、ひとりずつ
名を持つ人たちとの関わりや、人の生きる姿を語るこの詩人の表現に対する腰の強さ
にあらためて感心する。
    

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