五月の贈りもの

 もうノカンゾウの季節が巡ってきた。オレンジ色の花がいまバルコニーで満開だ。満開といっても一日花なので、夕方にはしおれ、翌日は次の花が咲く。数えてみたら今日は28輪。日の光がさすといっそう美しく、うっとりする。夕日の時にも。わすれ草といわれるだけあって、この花を見ていると憂さを忘れるというけれど、それはほんとうかもしれない。
 
 明日から富山へ荒川みや子さんと旅をする。ペッパーランドの創刊同人だった前田ちよ子さんと10数年ぶりに三人で会えるのが楽しみだ。なんとなく胸のなかがざわざわ…。荒川みや子さんの故郷である滑川にも寄れるかも。彼女の詩集「森の領分」を吹き渡っている、すがすがしい大気に触れることができるかもしれない。私はあの詩集が好きだ。あの詩集で荒川みや子という詩人に出会ったのだ。
 すがすがしい大気…といえば、つい先日、元町の魔女とハーブのお店《グリーンサム》のオーナーである飯島都陽子さんのお宅での楽しい飲み会に参加させてただいた。なんだか時のはざまにふと現れた爽やかな詩の一篇のような時間だった。「魔女の贈りもの」という名のショウチュウもおいしく、それ以上に美味なのは会話の味。飯島ご夫妻と愉しいそのお仲間たちに乾杯。五月のくれた思いがけない贈り物のような一夕だった。

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ぺんてか

久しぶりに、樋口えみこさんから連絡があって、ホームページ「ぺんてか」に私の詩を載せて下さるとのこと。ありがとう!というわけで、昨日、更新された「ぺんてか」をのぞいて、4月の詩を読ませていただいた。いろんなおもしろい詩をみつけた。私の詩は『ヒポカンパス5』に載った「月変幻」というもの。中上哲夫さんの詩を引用させていただいています。
 
ぺんてかをご覧になるには、http://homepage3.nifty.com/penteka/ をあけてみてください。
                       ※
 ヒポカンパス6号までを無事出し終えたので、7月21日に「ヒポカンパス解散記念朗読会」を詩誌ホテルと共同で、ひらくことになった。昨日、その打ち合わせ会をしたので、いずれ詳細をご案内させていただきたいと思います。よろしくお願いします。

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異邦人たちのパリ

 詩が書けないのに(書けないから?)、新国立美術館の「異邦人たちのパリ」展を見に行った。今日はミロの「絵画」という作品の前で思わず立ち止まってしまった。いま与えられている詩のテーマとつながっているので、刺激を受けたのだ。夢や無意識の表現ということではミロの作品は示唆的なものだった。その他ではパスキンの人物画がおもしろく、ジャコメッティの意外性のある彫刻作品にも出会えた。これらはポンピドーセンター所蔵作品なのだが、かつてパリで見た筈の作品も初めてのような気がして、まじまじと見ることになった。
 それにしても私は現代の美術作品のほとんどに、観念的なアイデアや仕掛けをまず意識する羽目になり、脳の中の出来事として納得してしまう傾向があり、これはやっぱり自分が美術の現場にわが身を置いてない故かと思ったりした。現代詩もそうだが、現代芸術が一般性を得ることの困難さは共通しているのだろう。直接的な身体性というものが追放されていって…、だが同時に、そこに別次元の興味を感じる自分もいるということなのだけど。

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「不思議動物園」

 4月20日、作曲家の堤政雄さんの「不思議動物園」というコンサートにいった。堤さんは現代音楽を中心に、歌曲やシャンソンなども、広いジャンルでの音楽活動を続けておられる。私は以前から、子どものためのミュージカル「海のサーカス」の台本や、シャンソン「かもめの島」「サビという馬」や、CD−ROM詩集「 うさぎじるしの夜」などでも、いっしょに楽しい仕事をさせていただいた。その日の会場はルーテル市谷センターで、静謐さと気品の漂う会場だった。
 当日は現代音楽の作品をいくつか聴くことができ、また歌曲では「ペッパーランド」誌に載せた私の詩『かぜひきみのむし』(堤政雄作曲)のようなユーモアあふれる曲のほか、おもしろい歌詞の曲などもいくつか演奏され、なかなか変化に富むコンサートだった。このコンサートのおかげで、私はとかく敬遠しがちだった現代音楽への関心を呼び覚まされた。またどこかユーモアあふれる堤さんのトークに会場からは、しばしば笑い声も起こった。
 彼は以前から妖怪という存在が好きだったようで、いくつもの曲が、時にザワザワした妖しい空気を孕んでいて、もしかしたら背中合わせで異界に触れていたのかもしれない。とにかく私はその日、音楽の力…としかいいようのないものを肌身に感じ、同時に友人である彼がそのようないい仕事をしておられることに、なんともいえない嬉しさと励ましを感じたのだった。
 ここに、ちらしにあった彼自身の紹介文を引用させていただく。
《ここ数年来、私は埼玉県奥武蔵の山里に住み、わずかばかりの畑で野菜を作りそして日々作曲にいそしむ生活を送っています。自然の静けさのなかでは、風のささやき、木の葉の調べ、鳥の歌声などと共に、けもの、妖怪など有形無形の気配が交錯します。それらは豊かなインスピレーションを私にもたらしてくれます。
 そのようにして生まれてくる作品の中から、今回は主にいわゆる現代音楽の技法、諧謔と異形のイメージそして叙情への回帰という三つの性格を持つ曲を選びお送りします。 》
                     
             かぜひきみのむし  詩:水野るり子、  曲:堤政雄
              みのむし みのきて ゆられていたら
              風にふかれて はなかぜひいて
              あまいあめだま なめたってさ
              みのむし みのきて 夢みていたら
              風にふかれて 小枝に 打たれ
              せなかほつれて すきまかぜ
              みのむし しぶしぶ みのぬぎすてて
              くぬぎ林を お散歩したら 
              はっ はっ はくしょん はっくしょん
              みのむし はやあし もどってみたら
              風にゆらゆら 一張羅のわが家
              おおきなおとこが 高いびき
 
 
 

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「いっしょに暮らしている人 」(2)

この羽生槙子さんの詩集には、”いっしょに暮らしている人”についての詩が、このほかにもいくつか載っていますが、今日はちょっとまた違う味わいの作品を紹介してしまいます。
これは夢についての詩のようです。
                        旅芸人のはなし
              「わたしたちみんなで 家を捨てて
               旅に出ることになったの
               ピカソの絵の旅芸人のように
               サーカスをする人たちのように
               旅は海
               夕暮れ 海辺でわたしたちが地引き網を引くと
               魚ではなくて とりのからあげがあがってきた
               とても大きいからあげだった
               きたないような きれいなような
               けれど 地元の人たちが来て
               そんなおおげさなことをしてもらっては困る
               と言うから わたしたちはまた
               荷物をたたんで旅をしたの」
              夢のはなしを 朝 わたしは家族にしています
              そこから 波瀾万丈の暮らしがはじまった夢
              家を捨てて みんなで旅に出るはなし
              旅芸人になるはなし
              その先を わたしがもう覚えていないはなし
              だから だれも知らないはなし
              そこでわたしは何をし
              わたしの家族は何をしていたのだったでしょう
              わたしたちは 赤や青の服を着ていたようでした
              だれか上半身裸で だれかタンバリンを持ち
              地引き網は藻がからみ
              さびしくて サバサバして
              けれどお互い話したいことが次々あって歩き続けていた
                          ※
おもしろい詩ではありはませんか。その家族たちは(自分も含めて)今もどこかでその続きを暮らしている…そんな気がしてきませんか。私はこの詩の中で、2連目の「地引き網は藻がからみ」という1行が、この詩にリアリティを与えている気がします。詩の1行の力は不思議です。私は不思議な詩が好きです。                     

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「いっしょに暮らしている人」

お彼岸の朝、TVで9.11のドキュメントと、それに続くイラク戦争の映像を見ていて、心がささくれ立ち、血が流れはじめる。もう、辛くて途中で消した。
その後、羽生槙子さんの「いっしょに暮らしている人」という詩集をまた読む。少し心が落ち着いて、頭上に晴れ間が見え、日差しがほのかにみえてくる。こんな風にして人びとは毎日暮らしている。ここに当たり前の生活があるのに、と。
                       平野
           庭では すすきの垂れた穂に
           のらねこの子ねこがあきずにとびついて
           あの人が娘家族のところに行くので
           わたしは
           ゆで栗とゆでぎんなんと梅干しと
           ぶどうを持っていってもらいます
           栗は人からいただいたもの
           ぎんなんはあの人が
           勤め先のいちょう並木から拾ってきたもの
           梅干しはわたしが漬けて干したもの
           ぶどうも人からいただいたもの
           木の実ばっかり
           秋ですから
           あの人はりすのおみやげみたいのを
           持っていってくれるでしょう
           大きい川が流れる土地を
           銀色の帯のような川を
           あの人は四つもわたっていくでしょう
           関東平野を横切るのでしょう
           あの人はあした
           孫娘の保育園の運動会を見に行くでしょう
           関東平野の秋の日ざしを見にいくのです
           子どもをそりにのせて走る
           競技にまじって走ったりするのかもしれません
           あの人は
           秋の木蔭のチラチラする光を
           頭からかぶりに行くのです
           遠い山々からの
           木枯らしの前ぶれみたいな
           風の中に立ちにも行くのでしょう
           あの人は 木の実のおみやげをいっぱい持って
           銀色の川を四つもわたり
           平野を横切り
           空の青に顔をひたしに
           秋の運動会に行くのでしょう
                      ※
 この語り口と、歩行するリズムの心地よさに、自分の呼吸をつけながら、想像力が共に旅をしていく。
長く暮らして老いを迎えつつある日々の夫婦の暮らしの中で、このようなナイーブなまなざしを持って、パートナーへの想い(生きることへのなつかしさそのものみたい)に、ある角度から光をあて、詩作品に取り入れることは、とても難しいことではないか。ナイーブに、気取りのない表現で。
 これは多分羽生槙子さんの「言葉」へのながい修練と、また生きることへの持続的な意識のあり方からのみ生まれたよき収穫なのだと思う。
 そして、これはまた女性であるからこそ書けた詩かもしれない。現代詩のなかで、家族や夫婦の関係についての、(人と人との関係についての)あるあたらしい表現意識ではないか。それは、当然詩人の生きてきた、ぬきさしならないありように負っているのだけれど。
次回、もう一篇魅力的な詩を引用させていただきたい。
   
               

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Fiddle-Faddle

 ペッパーランド同人の荒川みや子さんが、今度「Fiddle-Faddle」という個人誌を創刊された。小さくてお洒落な詩誌だ。すべて手づくり…印刷も装丁も。それを一冊づつこよりで綴じて、一枚の葉っぱがふわりと舞い降りてくるように届けられた。
 彼女はこれをとても楽しみながらつくったとのこと。ほんの数頁のかろやかな詩誌だが、荒川さんのながく暖めてきた大切な夢がやっと孵ったようだ。こよりを探すためだけでも、あちこち、街じゅうを歩き回ったのではないか。
 40部発行の「Fiddle-Faddle」。巻頭には彼女の詩一篇。頁をめくると、私の第一詩集「動物図鑑」についての評が書かれている。次号から私の仕事について、何回か連載してくださるとのこと。これは大変ありがたいことだ。 詩とは作者だけのものでなく、読者(評者)によって光を当てられることで、その意味もひろがるものであると実感する。
 こういう彼女の仕事で一番嬉しいのは、詩作品だけでなく、それが載っている場(詩誌全体)の隅々にまで、作者の歓びの気配が感じられること、そこからからだの声が響いてくることだ。
 「Fiddle-Faddle」とは、辞書でひくと、(ばかばかしいこと、とるにたりない些細なこと)という意味がある。こういう名づけ方も彼女らしい気がする。(FIDDLEはヴァイオリンのもう一つの呼称)
 数日前、発行を祝って、横浜の「カサ・デ・フジモリ」で一夜、スペインワインを飲みながら、彼女とあれこれ詩の話や、(とるにたりない些細な話)などを愉しんだ。久しぶりのスペイン料理もおいしくて、店の陽気な雰囲気や、一仕事を終えた彼女のリラックス度にも感染して、一夜の食事と会話を心から楽しんだ。
 

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はなを くんくんその他

昨夜、絵本「はなを くんくん」の結構ながい紹介を入れてエントリーする直前に、なぜかすべて一瞬に消されてしまうという事故がありました。で、今日はもう「はなを くんくん」について書くのはやめますが、これは今ごろの季節にぴったりの絵本ですね。冬篭りしていたクマたちや、カタツムリや、リスや,野ネズミたちが、みんなみんな、森でいっせいに目を覚まして,はなを くんくん!みんないっせいに駆け出して、さて彼らの鼻が嗅ぎ当てたのは何?全篇灰色の頁に、最後に天から落ちてきた一滴の光の精のようなもの!今年は暖冬だったのでかえってこの春の歓びは薄いかな…と思っていたら、このところ急に冬の嵐。うっかり冬篭りの穴から出たら大変ですね。用心、ご用心。
                              ※
今日は以前から見たかった映画「カモメ食堂」をやっと見ることができた。すぐ近くの館で上映してくれたので。小林聡美も好きな役者だし、もたいまさこの味がまたユニークで、フィンランドの澄んだ空気と、なによりその食堂のたたずまい。(ふと、吉田篤弘の「つむじ風食堂」を連想した。全然ちがうタイプだけど)。またムーミンの話もなつかしく…。そしてなによりあのおいしそうなコーヒーの匂いがしてきて、すぐにもあんなコーヒーを飲みたくなり、タクシーを拾って家に飛んで帰って、豆をひいて、下手なりにコーヒーを自分で淹れて、やっとくつろいだ次第。こういうお話はまさに地上数十センチのファンタジーですね。

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百合の芽

 鉢植えの三つの百合の芽が、昨日から今日にかけて、3本とも 地中からとつぜん顔をのぞかせた。確か中国のどこかのお寺の鬼百合の子孫だったと思う。去年、九州の日嘉まり子さんが送ってくださったむかごを鉢に埋めたものだ。去年は10センチくらい伸びたままで変化無く、どうしたのかなあ…と気になったが、冬にはすっかり地中に消えてしまった。今年も春になってやっとそれがよみがえってくれたので、どうなるか楽しみだ。
 この2,3日家の中の鉢植えのマダガスカル・ジャスミンも急速につるを伸ばし始めた。なんと光に敏感な植物たち!

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ねずみ女房(2)

 ねずみ女房の続きを書きます。矢川澄子がこの本について、堂々たる姦通賛歌と書いたことを、清水真砂子は(その言葉を否定するつもりはありません。それどころか言い得て妙と、ひざを打った)とまず書いている。そして、(「これ以上何がほしいというんだな?」と問う夫たちに妻たちは答えられないまま、でも何かが足りないと感じているだろう。…現在の暮らしを捨てようというのではない。そうではないが、遠い遠い空の星が見たい…。はるかなものが…)と彼女たちは思っている。 これは日本にこの本が紹介されて30年が経とうとしている現在も、おそらく多くの女たちが抱えている思いに違いない…。)と。
 
 (ねずみ女房は夫に、これ以上何を?と問われたときも、答えられなかったが、別に恋がしたいと思っていたわけではない)。そして辛い思いで鳩を逃してやったとき(なぜ、めすねずみは鳩の背に乗っていっしょに飛びたたなかったのか?)と。けれど、もし作者がそんな風な結論にしていたら、この作品はつまらない通俗小説で終わっていただろう。彼女は鳩を逃す時点で、もう飛びたつ必要の無い一種の高みに達していたからだ)という。(男と女の問題がここでは主題でななく、作者はもっと遠くをこのねずみに見させている。めすねずみは日々を丁寧に生きながら、一方で、その目は遠くを見ていた、はるかなものへの憧れを決して手放すことはなかった。だから好きだった鳩を逃がしてやり、その深い喪失の悲しみの果てに、遠くの星を自らの目で見ることができたのだ、と書いている。物語のおしまいの言葉は「おばあさんは、見かけは、ひいひいまごたちとおなじでした。でも、どこか、ちょっとかわっていました。ほかのねずみたちの知らないことを知っているからだと、わたしは思います」となっている。
 清水真砂子は(ただ憧れを手放さなかった人だけがのぞき見ることのできた世界。そういう人だけが手にすることのできる落ち着き、あるいは静謐を、この年老いたねずみ女房の上に見ています。そして…私たちのすぐそばにもひょっとして『ねずみ女房』はいるのではないでしょうか。)と。
 一見どこにでもいるような見かけはふつうの人々。でもその内面からにじみ出る静かな輝きについて、その内部に刻まれたかけがえないドラマについてふと考えてしまう物語です。そして経験を言葉にするということの意味についても、人が生きるとはどういうことかについても、あらためて考えます。そしてまた書評のよみかた、そのおもしろさについても。

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