今年の蝉

この夏、蝉が遅れているようだと、新聞が報じていた。
私もそれを感じていたのだった。
ああ、夏が来たなあ! と感じるのは、蒸し暑い長雨がある日急に明けて、真っ青な夏空になったような夕方、カナカナと細い声で鳴く、どこか哀しく寂しいヒグラシの声を聞いた時だ。
いつもは大体ここでは中旬である。鳴かないなあと思っていたら、台風6号が徳島に上陸した日の20日、各地に大雨を降らせていたがここは晴れたその夕方、ヒグラシが鳴いた。
しかしそれはどこか心許なげだった。その後、鳴かない。
今朝、入り口の戸の敷居に蝉がいた。ヒグラシで、まだ生きていたが、すぐ捕まえられるほどに元気がなかった。「どうして鳴かないの?」と言いながら手に乗せるとやっと飛び立っていった。
今日は一日晴れたのに鳴かない。気温もまだ猛暑まではいっていない。
もちろんまだミンミンも鳴かない。
地震や放射能のせいではなく、春先の低温の影響と新聞では言っていたが、これは先日の台峯の時も話題になった。蛍も例年よりも一週間遅れているという。
一般的に、なぜか昆虫の世界に異変が起きているという。今年からある昆虫がバタッといなくなった。25年見ているのに、また環境が変わったとは見えないのに…。森がしっかりしていれば大丈夫と普通言われているが、どうもそうではなく昆虫だけがということがある…と。
でも樹自体もあちこちで樹液が出なくなった、ということもある…とも。
そして自然に付き合えば付き合うだけ、観察を続ければ続けるだけ自然がよくわからなくなる、自然は一筋縄ではいかない、自然はいつも想定外の姿を見せるのだというのが、Kさんの意見でした。

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猛暑の台峯歩き

なでしこジャパンがワールドカップで優勝!
日本女子の素晴らしさに、サッカーをあまり見ない私でもやはり興奮した。
この場面だけしか知らない私だが、そこに至るまでの並々ならぬ過程、精進があることを知らされ、感嘆する。
底力というのは、文字通り深い底がなければ成り立たないのだなあ…。
日本の底力も試されるときに違いない。
それらに刺激されたわけでもないけれど、猛暑のピークと言われた昨日、台峯歩きに参加した。空は雲一つない快晴。
台峯というけれど、峯歩きというよりそれに囲まれた谷戸歩きなので、山間の日陰が多く、集合場所までの往復(舗装道路)が暑いだけで、室内にいるよりはよほど涼しいのです。
参加者も馴染みの人ばかりの小人数なので、のんびりゆっくりと熱中症にならないように歩きました。
2か所の田圃も健在、そこで青田を渡る風やシオカラトンボたちを眺め、また通称老人の畑という見晴らしの良い高台では、林間の丸太の切り株に腰を下ろし、快い風を感じながらいつまでもそこに留まりたい気持ち、ここで午睡をしていたい感じで小休憩し、それから谷戸に入って絞り水の流れや湿地や沼、半夏生の(今年は遅れていて、この時期でもまだ半分白い葉っぱと華穂が見られました)群落などを眺めながら歩きました。
今回は特にチョウに着目して歩くということで、資料のカラーコピーには特にアゲハの絵が沢山。
この辺りは6,7種類い覚えておけばいいそうですが、何しろ相手は飛んでいるので、動体視力のない私は指摘されそれを追いかけるだけでも大変!
去年は沢山咲いていた合歓の花は、今年は少なく、またカラスザンショウの花もまだ蕾。一体に季節としては遅れているようです。
けれどもここにも今の日本が抱えている憂いごとと同様、ここ自身の憂いがあり、今恵みとして感じている田圃もまた老人の畑で見ている景観も、今後大きく変わるかもしれない、その気配が着々と伝わって来ていることを聞かされました。
ここに通いつめ、手入れをし、観察を続け、役所とも交渉し、この自然を守ろうとしている人たちでさえ、無力を感じさせている現状というものを知らされます。
そんな悲しい日が来るにしても、今のこの姿を見ることができるだけでも恵まれていると感謝しつつ、こうやって歩くしかない…と。
これら憂いはどうやったら晴れるでしょう。

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地方の力(小野市を訪ねて)

TV番組、鶴瓶の家族に乾杯を時々見る。タレントが鶴瓶さんと一緒に、地方の訪れたい処に行きそこの家族と交流する、本当にぶっつけ本番の番組という。
その他にも各地の食材を探し、そこでぶっつけに調理する、走るキッチンとか、その他、民放でもそれに類した地方の魅力を探して放映する番組が最近増えたような気がする。
それらを見ていると、日本の地方がいかに自然に恵まれ、それらに育まれた人々の暮らしががいかに豊かでゆったりした生活をしているかと感じることが多い。それでそこで暮らす人々も自ずから心豊かで親切なのだ。
鶴瓶さんも今回の被災地にも尋ねるが、そのことだけでなく、三陸海岸をはじめとする東北地方の自然、そしてそこでの海・山の恵みがいかに素晴らしかったか、港がどんなに活気づいていたか、人々がいかに生き生きと働いていたか、 現況の悲惨な有様の向こう側の姿をあらためて気づかされるのであった。
しかしこういう現況であっても、その地の人々は屈することなく立ち上がろうとしている、そのことに感動せずにはいられない。
「地方の力」というものを感じる。大昔から、その土地に深く根付いた生活をしている人の力、というか、トポスの力、伝統の力と言ってもいい。そう感じ始めたのは、小野市を訪れた時からである。
心身落ち着かずにいたとき、朗報が飛び込んできた。水野るり子さんが小野市詩歌文学賞を受賞されたという。お祝いに駆けつけるのには少々遠いと思っていたが、これをチャンスとして私自身も旅をしようと思ったのだった。その上これを機会に、帰りには神戸(従妹が震災にあい夫を亡くしている)にも寄り、17年前に震災に遭ったその地の復興の姿を見、従妹とも話しをして来たいという欲張った考えもあった。
実は、小野市を私は知らなかった。関東以北の人はあまり知らないのではなかろうか。ソロバンや刃物の生産では有名だということや、近くに揖保の糸という素麺を産するということで知っている人もいるかもしれない。私は素麺はもっぱら揖保の糸だから馴染みなのに…。
新神戸から地下鉄で15分ほど行き、そこからは豊かな緑が迫ってくる中を箱根鉄道のような(それほどの山坂ではない)電車でとことこと1時間ほども走る。そこは周囲が森に囲まれた、広々とした平野の広がる、何やら映画「サムライ」に出てくる武士たちがこもった隠れ里、桃源郷のような感じのする(少々オーバーだが)町であった。
温暖な瀬戸内海気候と豊かな自然に恵まれているだけではなく、奈良時代から続く文化が国宝級の寺や仏像を交えて遺跡も多い。温泉まであるようだ。
そこには自然と文化も育ち花開き、歌人として著名な上田三四二を先人とした文化活動も盛んで、全国的で大きな、この詩歌賞はまだ歴史は浅いが、市民の「短歌フォーラム」は20年以上も続いてきているようである。
このような文化的イベントを開くにはまず財力がいる。そして何よりも市民の意識、文化度が高くなければならない。
そして実際の行動力も求められる。経済的文化的に豊かでなければできない事柄である。
ここにも「地方力」というものを私は感じた。
この、地方の力があるゆえに、国家とか政府とか、抽象的で中央集権的な日本のトップが、オタオタして頼りがいもなく、またたとえ誤った方向に人々を導いたとしても、この地方の力、そこで根を張って生きている人々の力が一種の復元力となって、日本を復興させる(あの大戦からも)のではないだろうか、と思ったりした。
これを書いている私も実は地方から出てきた人間である。しかしまだ貧しかった時に、その地を離れ、その後は根無し草になって、東京(近辺)という吹き溜まり、にたどりついた。いわばデラシネである。しかしそれだから、それが良く見えるのかもしれない。東京と言っても、下町などというのは一種の地方である。ここにも地方力があり、それが今見直されているような気がする。
そして、森に囲まれ、自然も人も豊かなこの小野市によって、森の深みにまで踏み込んでいくような水野さんの詩集『ユニコーンの夜に』に、賞が与えられたことは相応しく、何やら不思議な縁を感じた。 

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下駄は脳にも良いそうです。

月に1度の放送(FM)になった日曜喫茶店で、「下駄の効用と楽しみ」という話題で歌舞伎役者の片岡愛之助さんと足の研究家(?)の加城貴美子さんの二人がゲストとして話していた。
夏になると、日本的な生活習慣や暮らしの知恵が見直されるが、節電というエコ生活の今年は特にであるように思われる。簾や葭簀、グリーンのカーテン、打ち水、風鈴や金魚鉢や団扇やなどなど…、ステテコまでも今年は姿を変えて登場するそうだ。それらは高温多湿を凌ぐ過ごし方を、わが先祖が知恵を出し合って作り出したものだからでしょう。
下駄も西洋人には面白く映るようで、『東北奥地紀行』を書いた英国の女性探検家イザベラ・バードも大勢の下駄の音の賑やかさに驚いている。
また小泉八雲は、路地の下駄の音に、日本的な情緒を感じると好ましく感じていたという。
しかし今日、下駄で通勤電車に乗れば、白い目で見られるし、ホテルやレストランでは断られるだろう。
しかし、しかし、蒸し暑い夏、下駄は気持ちがいい。子どもの頃は下駄を履いていたし、実は今でも家では下駄か草履である。近くのポストまではこれで行く。
ところが今、子供の健全な心身の発達にも、下駄が見直されているそうである。
裸足で過ごさせる幼稚園などがあるが、下駄はそれ以上に良いそうである。足の指の機能を発達させるという。足裏には全身のツボが集まっているというのは周知のことだが、そのツボを発達させるという。外反母趾というのも下駄であれば生じない。
特に、脳の発達にもいいそうです。(勿論子供にとってで、私のような昔人間にはもう影響ないけど)、一位が下駄で、次が裸足、いくら運動靴を発達させたところでこれに敵うものはないのでは。と言っても下駄を履いてスポーツは出来ませんね。
裸足のマラソン選手アベベを思い出します。
その上、下駄は大変経済的、エコでもあります。一足あればそれを歯がちびるまで履けます。鼻緒を付け替えさえすれば。特に子供は成長するので、靴だとすぐ合わなくなるが、下駄だとアバウトなので、一足で大人になるまで使い切ることもできる。
私はユニットバスのタイルの上で履くのも木のサンダルを使っていましたが、それが余りに古くなったので買い換えようと探したのですが、なかなかありません。木の感触が良く、またカランコロンという音も好きだったのです。
やっと見つけたのは某デパートのジャパンというコーナーで、しかも高級なものになっていて、昔の素朴なものではなくなっていました。まだ残っている古い下駄屋さんを探せばよかったのですが、思い切って買ってしまいました。台は日田の杉ということ、鼻緒というか甲のベルト状のものは藍染のしっかりしたもので、履き心地もよく満足しています。

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やっと「蛍」の続き。

身辺も心も落ち着かず、続きのブログをやっと書きます。
今日は早くも猛暑、また大雨や土砂災害、ここでは感じませんが余震も頻繁に報じられます。台風5号も北上中、なんとこの国は災害の多い国だろうと改めて感じ、そういう国にどうして原発を沢山作ったのだろうと、それを見過ごしてきた自分へのやり場のない苛立ち(こんなことを感じても何の役にも立ちませんが)も含めて、思います。
今のところ読書もほとんどしていませんが、少し前に読んだ故・米原万里のエッセイ集中「最良の教師」という項目があり、昔から青少年の教育についていろいろな哲学者がその方法について考察し論じているその中で、彼らが一致して認めていたことを要約すれば、「欠乏と必要性、要するに満ち足りていないことこそが人を懸命に努力させ頭と肉体をフル回転させる最良の教師なのではないか」ということであるそうだ。そして哲学者・教育者ルソーは反語法を用いて「子供をスポイルするのは簡単だ。彼が欲しがる玩具を全部買い与えてやるがいい」と言っていると。そして震災を知らずに逝った彼女はこう結んでいる。「何だか、モノに溢れる二十一世紀初頭の日本に住むわたしたちのことを言われているようで、ゾーッとしないのだけれど」。(『心臓に毛が生えている理由』)
被災地の大人たちの立派さは勿論ですが、それ以上に子供たちの姿が印象的なのも、この悲惨な現実に胸が痛くなるにもかかわらずそれが子どもたちの潜在能力を引き出しているような気がして、明るいものを感じます。この災厄が良い方向へと転じる機縁となりますようにと祈りつつ。
閑話休題。さてホタル観察会ですが、今年はやはり蛍は少ないようでした。遅れているのかもしれませんが。6時半に集合、暗くなるのを待って谷戸に入ります。大体7時ごろからです。それから1時間ちょっとぐらいが蛍が光り飛び交う時で、9時になるともう見られなくなります。たったの2時間弱、それが彼らの命を懸けた生涯での一大イベントなのです。この日朝は雨がぱらつき、前日まで雨でした。この日も取りやめになるかもしれないと、毎日のように通って蛍の出方を観察しているMさんは言っていましたが、Kさんは、少ないけれど見られますよとということで、出かけることになったのです。
雲が多いのでかえって辺りは真っ暗というより薄暗い感じ。しばらく歩いているうちに一つ二つと見つける人が出てきました。そしてある所の草むらにキラキラ光るところが出てきました。これは平家ボタルです。
源氏ボタルのほうが早く、平家はもう少し遅いはずなのに、今年は一緒に見られたのです。この二つは大きさが違い光り方が違います。源氏のほうが大きくまた点滅も間隔が長く、平家は姿も小さく点滅も小刻みです。そして源氏は樹間にいて上空を飛びますが平家は低い草むらにいることが多く、それで踏みつけないように気を使います。
今回はまず平家が現れて、そのうちに源氏が姿を見せました。その頃になるとあちこちで光りはじめ飛ぶ姿も見られ、歓声が起こります。
せせらぎや沼沿いに谷戸の奥まで歩き、またそこから引き返します。でももう帰りの時は数が少なくなっていました。数としてはせいぜい37~8頭ぐらいだとKさん。多いときは200くらいも出るのにやはり少なかったようです。
しかし蛍に出会えただけで満足です。皆そういう気持ちのようです。
なぜ蛍を数えるのに「頭」を使うのでしょう。昔の人は昆虫の中でもやはり特別なものとみて、馬や牛など同じ扱いをしたのでしょうか。
「今年も蛍に会えて満足しました」というと「本当に、桜と同じで蛍も短い期間に年に一度しか会えないものだから、日本人にとってはやはり特別なものに感じますね」と同意されました。
蛍は外国ではあまり良い印象を持たれず不吉なものにされることが多いと聞きます。でも日本では平安の昔から風情あるものと好まれています。虫を賞で、虫の声を雑音としてでなく音楽として愛するのも、やはり日本文化独特のものかもしれない。

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今年も蛍に出会えました。

先日の日曜日は台峯歩きで、続いてその夕べはホタル観察会となっていて、少々強行軍でしたがどちらも参加してきました。
朝の台峯歩きでは、ホタルブクロも今年は特に沢山咲いていて、田植えが終わった青田の上ではシオカラトンボが飛び交い、カルガモが子ガモをつれて若い苗の間を泳いでいるのが眺められました。花ではヒメジオン、コヒルガオ、そして可哀そうな名前を付けられているけれど小さな可愛い花を咲かせているヤブジラミなど。
雨の季節、白っぽい樹の花が多く、特に椎の木の花は強烈な匂いで存在を示すようです。その他、緑一色に見える山並みの中に白っぽくなっているところはクマノミズキやアカメガシワだということでした。
しかし一体に今年は草木の季節は遅れているようだとのことです。蛍の季節には見られる半夏生(半化粧)も、まだ青いままでした。春の終わりに寒い日が続いたせいのようです。その頃私たち人間も大震災とそれに伴う原発事故のショックで落ち込んだり右往左往していたのでした(まだそれは続いてはいますが)。それでも季節はちゃんと巡っている、それに私たちは励まされ慰められています。この台峯歩きも私にとってはそんな効果があるような気が、今回特に感じました。それで、朝と夕べの両方ともに出ることにしたのでした。
そんな朝の歩きで、私たちは容易くは見られない光景に出会うことができました。まず田んぼにカルガモの訪れがあり、しかも子連れであったこと。それを眺めている時、フェンスの上でカマキリの子が孵化して、アリくらいの大きさのそれでも立派な鎌を振り上げた子どもたちを見たこと。そしてガビチョウ(蛾眉鳥:もともと中国で鑑賞用に飼われていもので、この辺りに棲むようになった)の番が枯葉を咥えて巣作りをしているのを間近に見られたという事。
まさに春は、そういう世代の引き継ぎのとき、新しい時代の始まりのとき、新しい何かが生まれる時でもあるでしょう。
「初夏」というのはあるけれど…とKさんが言いました。「若夏」というのがまさにこの季節だ、と。
また長くなりましたので、蛍については稿を改めます。

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台峯歩きをしながら、フクシマを思う。

大震災後から初めての台峯歩きです。この時期、田んぼではカエルが鳴いているだろうと思いながら参加しました。
思った通りで第一の田んぼでは盛んに鳴いていました。今の季節鳴いているのはシュレーゲル・アオ蛙です。コロコロッと澄んだ声でなく可愛らしいアオガエル。そして思いました、福島県川内村のモリアオガエルは、どうしているだろう…と。
川内村は、福島原発20キロ圏内に入っている村です。
この村に、30年ほども前になりますが、私は友人に誘われて訪れたことがあります。
何もないけれど豊かな自然だけはたっぷりあると言われた通り、広々とした阿武隈高原に降り注ぐ爽やかな光と清らかな渓流や豊かな海をわたる風、そこでの自然の恵みに満ちた村でした。
その村の沼(平伏沼)には、国の天然記念物に指定されている、モリアオガエルが生息しています。
その生息地としてはもう一つだけあって、それは岩手県の八幡平大場沼だということです。
その時、その沼には時期ではないこともあって行きませんでしたが、村にある「天山文庫」には訪れました。ご存知のようにこれは蛙の詩人(と名付けられるのはお嫌かもしれませんが)草野心平さんの文庫を中心に村人たちの協力で建てられた記念館風の文化施設です。
しかし今、そこには放射能が降り注ぎ、警戒区域になってしまいました。天山文庫も無人です。
その自然に恵まれた故郷に、村人たちは何時帰ることができるでのしょうか?
モリアオガエルは、どうしているだろう、とジュレーゲル蛙の盛んな鳴き声を聞きながら思いました。何とかこの田んぼは、田植えはまだのようですが今年も生き残れそうです。
でも米どころである東北地方は大津波に襲われ塩害で、多くの田んぼが耕せなくなってしまいました。そうでない場合でも、フクシマのように放射能汚染によって稲を植えることができず(稲だけでなくすべての農作物を)むざむざと放棄して立ち去るしかない事態の無念さを思うと、見ているだけの私でさえ胸がかきむしられる思いがします。
この日の夜、ETV特集で「放射能汚染地図」という番組を見ました。
またこの日、一号機が実は最初からメルトダウンしていたということが初めて公開されました。
そして他の号機でも、油断がならないというような、深刻な状態になっていることも、初めて私たちは知らされました。
TVの番組は、チェルノブイリや東海事故などこれまでの原発事故の調査団として携わってきた科学者二人を中心に、NHKの記者やカメラマンとともに事故発生当日から計数器を持って(これも独自に開発された測定器なども持って)車で各地を走りながら数値を観測したものを中心に構成されたものです。しかし現役の科学者は、属している機関から「自主的な動きはしないように」と釘を刺されているとのことだが、若い方の科学者はまだ幼い子供がいて、そんな子供たちのためにも正確な数値、記録をきちんと残しておいてやりたいという、それが動機でそのため辞職して、独自に調査を始めたのだということである。その分析は、広島・長崎その他の科学者のネットワークによる協力によってなされ、そのこれまでの2か月の経過を追いかけていると、時にはチェルノブイリを上回るホットスポットがあったり、予想を上回る数値であったりで深刻、政府の公式発表がいかに事態に追い付かず片手落ちで住民たちを苦しめているかが察せられ早い収束などありえない気がして気が滅入ります。
シベリヤから帰ってから50年、数羽から始めて3万羽にまで増やした鶏をすべて餓死させねばならくなった養鶏場主、射能汚染下に留まりながら母馬を無事出産させてやりながら仔馬を含めた競走馬をすべて手放さねばならない牧場主、また受け継ぐことになる広い田圃でコメを作ることと将来の夢としていたが今や農業を続けることさえできなくなった若者など、これまでの成果やこれからの夢をすべて根こそぎ崩壊させてしまう原発事故。これは氷山の一角で、一人一人それぞれがこれに似た運命に遭遇しているということ。これが天災ではなく人災だということに悲しみと怒りがこみあげてきて、台峯歩きで疲れていたのになかなか寝付かれませんでした。
というわけで肝心の台峯歩きの話が脇道にそれてしまいました。続きを書くかもしれません。

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『東京焼盡』(内田百閒)と『いのちと放射能』(柳澤桂子)を読んでいます。

もうこれ以上大震災、原発事故についてブログを書かないと言いましたが、あと一回書きます。
なぜならそれがチェルノブイリを、或る点では超えるかもしれないと言われる状況になってきているようだからです。
今私は原発事故に対するTVのニュースをほとんど見ないし、見たくありません。だらだらした事後報告や状況説明などは新聞を見ればわかりますし、見ていると感情が波立つばかりですから。
最近それらに対応するものとしてタイトルに書いた2冊を読んでます。
『東京焼盡』は、先の大戦下の終戦の年の一年間(昭和19年11月1日~20年8月22日)にわたる百閒による克明な日記です。「本モノノ空襲警報ガ初メテ鳴ッタノハ」19,11,1、で、その日を第一日として終戦直後の21日までの300日、この間に東京は一面の焼け野原と化した。まさに焼尽である。その実態を鮮烈に、しかも克明に伝えているのには驚嘆する。若いころから百閒は日記を書き続けていて、それも文章修業との一つとしていたそうで、これもその一つにすぎず、その部分を戦後ひと纏りとして出版したのだが、「語調の潔さと凄絶さ、誠に見事に、帝都の壊滅を伝えるにふさわしい格調を伴っている」という評の通りである。
しかもこれは、いわゆる知識人などによる思想的、思索的なものではなく、また荷風のようにいかにも文学者的な感慨を伴うものなどではなく、至って庶民的な日常生活の中での行動や思い、生活感覚がその視点から書きつづられているので、今の非常時にも重なり臨場感さえ帯びてくるのだった。
空襲が激しくなったとき、絶対に疎開などしない、「何ヲスルカ見テイテ見届ケテヤラウト云ウ気モアッタ」と「序ニ代ヘル心覚え」にある。まさにその通り、よくも毎日のように空襲があり、食糧は乏しくなり、薄い粥でさえままならぬ中、よくこれだけ正確に(空襲のあった時刻や来襲した敵機の数や焼けた地域のことなど)把握し書きとめたことかと感心する。そして空襲に怯え夜もよく寝られず、防空壕だけでなく表に寝なければならず寒さに震えながらよくもこれまで書き続けたその散文魂に打たれました。3月10日のもっともひどい下町界隈の住居ではなく山の手(四谷あたり)であったのでまだ余裕はあったのかもしれないが、それも5月25日、焼夷弾によって自宅消滅。その日の記述がまた圧巻である。この時百閒は、70歳に近く、また病気持ちであった。奥さんと二人、何を持ち出すかと考える所など(この時、最後まで飼っていた駒鳥と鵯を、小さな籠に入れて持ち出そうとするところを読んだとき、最近読んだ『ある小さなスズメの記録』を思い出した。このスズメも大戦中も飼い主によって守られたのであるが…。結局火の手の中を逃げつつ果たせなくなってしまうのであるが、これも飼い鳥は火を見るとその中に飛び込んでいくらしいので、同じ死ぬなら一緒にと思ったらしい)、細々とした日々の生活が語られている。
しかしそこには百閒独特のたくまざるユーモアもあり詩情もあり、単なる記録とは違っている。
詳細は書くときりがないので止めますが、この中でも人々はやはり淡々と暮らしていく(暮らしていかざるを得ない)姿、百閒自身も嘱託とはいえ職場の日本郵船に水曜と土曜を除く毎日、出勤し続けているのである。その間、電車が不通になったり、空襲警報になったり。家の近くに不発の焼夷弾があり、自宅からの退避命令が出たので、と奥さんが四ツ谷駅まで出迎えに出たり、またお米が足りなくなり、借りたり、焼酎をもらって喜んだり、久しぶりにキャラメルを数個もらって、これがこんなに美味しいものかと感激したり、そのような庶民としての生活が具に書きとめられている。
その中でも今日の事柄と関連させて興味深かったのは、たとえば近くで爆弾が落ち火の手が上がり、もう少しでここもと思ったがそうではなく終わった時、焼け出された近所の人が表を通っていく姿を記した所である。「焼け出された人人が列になって通った。火の手で空が明るいから、顔まではっきり見える。東京の人間がみんな江戸っ子と云うわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持でゐられるのかと考えた。着のみ着のままだよと、可笑しそうに笑いながら行く人もあった。」
次の『いのちと放射能』は、チェルノブイリ原発事故に驚き生命科学者の柳澤桂子さんが、その後の残留放射能とその影響などについて書き(昭和63年10月)、それを文庫本として出版した(2007,8.15)ものに、付記として「新潟県中越沖地震で、柏崎刈羽原発で火災が起き、微量の放射能が大気と海に漏れた。この発電所は活断層の上に位置していることがわかった」を加えたものを、2011年4月5日に2刷したものである。
その「はじめに」の文章だけを紹介します。
「原子力発電に対する反対運動が盛り上がりを見せていることをたいへんうれしく思います。いろいろなものを読んでみますと、私たちは何も知らされていなかった、だまされていたのだという感をぬぐいきれません。
 けれども、もし、私が経済産業省のお役人だったら、あるいは電気会社の幹部だったらこの問題を阻止できたかどうかと考え込んでしまいました。…中略…
 ただひとつ、私は生命科学を研究してきたものとして、はっきりと言えることがあります。それは『放射能は生き物にとって非常におそろしいものである』ということです。そのことをひとりでもそれ多くの人に理解していただくように努めることが『私のいま、なすべきことである』と思います。」
ということで、ここにはなぜ放射能がおそろしいかが、誰にもわかるように説明されているのです。私もこれからこれを読むことにします。
参考までに、4月18日の朝日新聞の世論調査によると、原子力発電は今後、やめると減らす、を合わせて41%、増やすと現状程度と答えた人は56%、と出ていました。以上

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「憲法の集い」のつづき

今朝、花に嵐という感じの激しい風が吹き目が覚めてしまい、なんとなく胸騒ぎがしましたが、はたしてテレビによると、とうとう原発事故はチェルノブイリと同等のレベル7になってしまっていました。
このブログは私にとって呟きのようなものであり、でもツイッターというようなところには加わりたくなく、ここでは一応公開ということであっても守られているようで安心して書けたわけですが、もうこの件については書く気持ちすら失ってしまいました。
続きは各講師の話の内容をと言いましたが、皆著名な方、有名人で、著書もいろいろあるので
それら読めば自然にどんなことを話したかぐらいは推察ができ、私が紹介するまでもないこと
です。
それぞれの人柄の表れた興味深い話で、すべてに惹きこまれ、頷かされ教えられたりもしましたが、それをここで話しても何の面白味もありません。そしてこの問題を書き続けているのは、たぶん自分の不安をこういう形で放出しているにすぎないのだと気づいたのです。それゆえ最後にただ一つだけ書いて、やめることにします。
それは今回の原発事故のことです。これに私が敏感に反応したのは、テンノウヘイカの姿が出てきて、それが終戦の場面を思わせたからです。ああ、また私たちは(私と書くべきでしょうが大きな問題なので、どうしてもこう書いてしまう)、同じような過ちをしたのではないだろうかという思いでした。私の中で原発が戦争と重なったのです。
私は先の戦争のとき、児童期でしたから、変節とか責任というようなものからは免れていました。そして戦後の民主主義教育、自由平等、平和と戦争放棄という中で育ちました。けれどもいつの間にか、原爆を受けた国として、「過ちは2度と繰り返しません」(これも曖昧な表現ですが)といったにもかかわらず、昔日本国民が知らず知らず侵略戦争へと巻き込まれていったように、原爆に相当するものを持って、放射能を地球上にまき散らすに至ってしまっているのではないかという思いに突き動かされたのです。
今度の災害は、講師の内橋さんが言っていたように、単純な天災ではなく人災を含んだ複合災害だというところに、複雑な思いと戸惑い、強いショックを与えているといいましたが、その通りです。単なる地震や津波ならば、いくら想定外でも人間はその前にひれ伏すことしかできません。しかしいったん根こそぎ倒された草木でもまた自然の力によって甦ることができるかもしれないのです。しかし原発は人間自身がもたらした災厄で、不毛です。戦争と同じです。
知らず知らず私も、原発を作ることに加担していたのです。なぜなら、私は電気というものを使っていた、すなわち原発の恩恵を享受していたからです。戦後、戦争責任ということを問われたとしたら、震災後もやはり原発事故責任ということも問われなければなりません。その時、その問いは自分自身に向けられることになるはずです。
これも内橋さんの話です。真偽のほどは、私には証明する知識はありませんが、国には原発を作り始めたころから、100基の構想があったということです。今日本には54基あります。建設予定の物も何基かあります。最終的に120基だそうです。それらは国民的な合意もないまま作られていったのです。それに至るため極めて緻密な国家的戦略がとられた。その戦略は3つあります。(メモによるものですから少しは言い回しが不完全)
1、原発は安全という、緻密な説明というか証明。すなわち原発安全神話を作り出す。
2、学校教育。原発は安全、必要、といった教育を子供たちに行う。(これは最近新聞でも見ました。その教育をした校長先生が、子供たちにどう説明していいか悩んでいるとの記事)。また今日の朝日(夕刊)10面に資源エネルギー庁は、小学校高学年向けに作った副教材(福島第一原発の映像)のDVDの配布を中止したという記事。そこには「日本の原発は格納容器などに守られ、常に放射能も監視しているから安全だ」と案内している職員の姿が映っているとのこと。そのほか広報誌のこともそこには書かれています。
3、原発賛成の著名人、文化人を動員して宣伝。
これらのことが国家戦略としてこれまで続けられていたのだといいます。
これは戦前の軍国主義の方法論と同じであり、国民をある方向へ向かわせる国家戦略なのだというのです。そして原発反対を唱える科学者は、ドンキホーテと名付けられるらしい。
そして福島原発が何とか収束しても、それを機会にして原発を見直す方向に行こうとは考えてはおらず、ほとぼりを冷ましてまた作り続けるだろう。
そのほか今日の「不安社会」についてもいろいろ話されましたが、この原発のみにとどめます。
アメリカの原子力学者の言ったというスロー・デスの中に私たちは入ったのでしょう。しかしたとえそうであってもここから逃げ出すことはできません。同じ地震国であるニュージーランド(日本人学生が地震に巻き込まれたばかりの)は、それゆえ原発は作らないそうで(産業の違いもろもろあるにせよ)、それでその地に移り住んだという某有名人のようなお金持ちでない限りは。
またくだくだしい呟きをしてしまいましたが、もうこれで止めることにします。あとは自分自身の中で考えていくしかありません。

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「憲法の集い 2011鎌倉」‐井上ひさしの言葉を心にきざんで‐に大勢が参集!

4月11日の今日、震災から1か月です。
冬のような寒さのため遅れていた桜も、このところの暖かさと一昨日の雨で急にいっせいに開花し始め、この辺りもほぼ満開、そのほかの花たちの開花、木々の芽生えとともに柔らかな美しい春景色を描きはじめました。被災地の人の目からみればこれは、まさに夢の世界のように思えるのではないでしょうか。(しかしこののどかな春の景色も、その上には放射能が浮遊していることを思えば、不安の靄が晴れませんが)。そして今報道などによる被災地の悲惨で無残な光景は、まさに私にとっては悪夢ではないかと思えてきます。しかしそこでの悲しみや苦しみ辛さは、ただ思いやることしかできず、何もできないのです。ただ自分の無力と言葉のむなしさを感じるばかりです。
そういう中で昨日に続き今日がまた始まるといった日常が続きます。そんな日常でさえ失い、それを取り戻そうと必死になっている人のことを、せめて考えながら、これを今書いています。
4月9日は井上ひさしさんが亡くなってからちょうど1年目、この鎌倉・九条の会の発起人の一人である氏をしのんでこの会が持たれました。
「むずかしいことを普段のやさしい言葉に的確におきかえ」憲法や平和について語りかけてくださっていた井上さんにとって「平和」とは、「日々の暮らしがおだやかに続くこと」でありました。まさにそれが根底から脅かされようとしている今、この会は「井上ひさしの言葉を心にきざんで」をテーマにして開催されたのでした。
これも非常に奇しき偶然というか、少し前に書いた「遠野講座」と同様不思議にも3・11の大災害に出会ってしまったのでした。この案内は2月初めにもらい、さっそく予約をしていたのですが、はたして開かれるかどうかと危ぶんでいたものです。
その日は運悪く前日から雨になってしまいました。夕方はもう上がっていましたが一日中どんよりした雲が空一面広がっていました。
この集まりはいつも参加者は多く、大ホールにもかかわらず前回も満員で、当日売りはキャンセル待ちだったことを思い出し、お天気も悪いことだしとは思いつつ開場(開演前30分)より30分近く早く行ったのですが、すでに長蛇というよりエントランスいっぱいに行列がとぐろを巻いていました。プラカードで示された最後尾に付いたのですが、そこには2列と書かれた文字が4列と訂正されていたことかも分かるように、次々に人波は押し寄せていたのです。やはり戦争を知っている年配者、中高年が多いですが、中には杖を突いた白髪の高齢者もあちこちみられ、皆「粛々と」指示に従い待っている様子でした。もちろんすでに満席でしたし、入場してからも1・2階はすぐに満席、3階はまだ残っているといわれている時、舞台の両袖にも椅子が並べられ、舞台にもどうぞとアナウンスがあり、最初は尻込みしていた人もだんだん上がっていき、最終的に50人近くにもなりました。
説明によればこの会を支えた人の数は150人、実際に駆け回ったスタッフは50人だそうで、大変手際よく運ばれました。「福島・九条の会」の人も駆けつけたとのことです。
(このことからも分かるように、この盛会ぶりは、ただ大津波といった天災だけではなく、それに重なる原発事故という、明らかに人災といえる災厄故であったと思われます。それが戦争や憲法問題と結びつきます。チェルノブイリに近づきつつあるかもしれない今)
さて肝心の講師の顔ぶれは次の通りでした。
(一応パンフレット通りに書きます)
大江健三郎(作家 九条の会呼びかけ人)
 ・九条を文学の言葉として
内橋克人(経済評論家 鎌倉・九条の会呼びかけ人)
 ・不安社会を生きる
なだ いなだ(作家 医学博士 鎌倉・九条の会呼びかけ人)
 ・靖国合祀と憲法
3・11があったから思われますが、最後に
小森陽一(東大教授ー日本近代文学 九条の会事務局長)さんが駆けつけて閉会の辞とともにメッセージを話されました。
当日は、ちょうど井上さんの最新刊「グロウブ号の冒険」(岩波書店)の校正をやっている最中で、帰れなくて泊まり込むことになったとのこと。これも奇遇ですね。そしてこれは会場でも販売していましたが文芸誌『すばる』の最新号(5月)に「井上ひさしの文学」の座談会が連載として始まり、それに小森さんも加わっています。
内容についての概略(今回の大災害にもかかわる内容なので)を少し紹介ながら考えたかったのですがあまり長くなるので次回にします。
東北を何よりも愛され、そこを舞台に次々と小説、戯曲などを書かれた井上さん(「新釈遠野物語」もありますし)。テレビの人形劇で人気のあった「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったといわれるのは岩手の大槌町沖の「蓬莱島」、そこも津波に襲われている。
そこでのテーマソングの歌詞を引いて被災者の人を励ましている若い人の新聞投稿者の声を、この講演会で紹介していましたが、それをここに書くことで次につなげたいと思います。
 「井上さんの作品には、世の中の不条理が克明に描かれると同時に、『希望』がある。日本人の弱さが垣間見えたかと思うと、信じてやまなかった日本人の強さも描かれていた。」と書きそれがこの歌詞に凝縮されている思い、苦難の生活を強いられている東北の人たちに、いまは笑う余裕などないかもしれないが、この先この遺志が人々の支えになると信じている、井上さんも天国から願っているに違いないと結ぶ。22歳の大学生である。
その歌詞=「苦しいこともあるだろうさ 悲しいこともあるだろうさ だけどぼくらはくじけない 泣くのはいやだ 笑っちゃおう 進め」。          以下次回

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