寒中の「台峯歩き」

この台峯を歩く会は、今日で151回目を歩みだします。自然を守る基本は、そこにどういう植物が生きているかということだということ、そこから自然の営みが見えてくるのだというのです。その姿を見続けるために毎月歩き、手入れをしていくのです。
さてこのところカラカラ天気の寒い日が続きます。
2、3日前が底の日で、その日はこの家でも氷が張りましたが、今日は張ってはいないものの寒さが累積した感じで、集まった人たちも口々に寒いと言い合います
それでも参加者は、16,7人、新しい人も2,3人いました。しかし目にする花はロウバイぐらいなので、今日は冬樹の幹の識別を専らに、ということになります。
これが大変難しい。例年やっているのに少しも覚えられず、また若木や老木によっても変わってくるのですから…。幹だけではなく、枝振りや枝の付き方(伸び方)がそれぞれ特徴があり、観察すれば識別できるのですが…。
これがなんの役に立つか…と言われれば、とKさんが笑いながら言います。何の役にも立ちません、単なるオタク的な楽しみにすぎませんが…と。でもそういう種類のそんな樹がそこに在ると、確かに認識することで、その樹と親しくなることなのでしょう。
暮らしの中で里山と深い関係であった昔の人は、そういう識別は普通の事だったに違いありません。
薪にするクヌギ、コナラは、ここにも多いのですが、ヤマグワ、カラスザンショウ、ムクノキは後に増えてきたものたちです。これらは生長が早く、昔だったらまた里山の所有者であればなるべく伐採したい樹だが、鳥には好まれる樹なので(その実を食べに寄ってくる)個人的には好意を持っているとKさん。
今日のもう一つのメインは、野鳥を見ることでした。
葉を落とした林の中では鳥の姿が捉えやすいからです。しかし今年は冬鳥が少ない、とのこと。
確かにこの家でも以前はうるさいほどやってきていたヒヨドリの声があまりしません。鳥の姿がめっきり少なくなりました。スズメも(今絶滅危惧種になってしまったようですが)来ません。
さて目撃した(ほんの瞬間の鳥の影も含め)鳥は、メジロ、ホオジロ、カワラヒワ、ヒヨドリ、トンビ、コゲラ、ルリビタキ、アオジなど。
この地に昔沢山いたのはホオジロで、スズメと同じくらいの数だったということです。
しかし今はその数を減らしている。それに対してコゲラは、今一番増えている鳥だそうです。
それはホオジロは草の実を食べていたからです。それら食料とする雑草が宅地開発によって無くなったからで、コゲラは立木があればよいからでしょう。
これらの事からも、植物が生き物たちの底辺を支えていることが分かってくるようです。
では今日はこれまで。

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T温泉行き 27年目 (今年で幕引きか?)

明日はもう小寒、日本海側は大雪が続いているようです。
例年ながら雪深い中で過ごした日々から、雪のないカラカラ天気のこちらに帰ってくるとまさに夢の中にいた感じで、今年は特に大震災があったせいか感慨深いものがありました。
T温泉では、毎年2日に新年会も開かれており、常連客の多くが出ているようで(私たちも最初に誘われ1回だけは出てみましたがその後は止めました)これは50年も続いているそうですが、その参加者のカップルが、帰るとき私たちと同じ送迎車で「今年はお宅のメンバーの人数が少ないように見えますが…」などと声をかけてきて、互いに知らん顔をしていながら、ちゃんと見、見られているものだなあ…と感じたものです。
さて私たちメンバー、確かに今年は最小になりました。出発時は7名でしたが帰るときは4人になってしまいました。36畳敷きの広間に(これも昔は中広間という名称で、宴会は大広間のほうでしたが、時代が変わり大広間は幾つかの小部屋に仕切られ野草庵という食事処になりこちらだけが広間として残った)です。
そのようなこともあって、この辺が潮時かなと思いました。
毎年同じ温泉と宿での、暮れから正月にかけての3泊4日の27年間、そこには変遷があり一つの歴史が見られます。
行基上人が発見開湯されたと伝えられる国内有数のラジウム温泉で、宿は400年以上の歴史を持つ由緒のある湯治宿、そこにたまたま生前の相棒と訪れ、今度は正月を過ごそうと発案して6人のメンバーで申し込んだのですが部屋はもう満員でやりくりがつかず、とりあえず中広間に通されたのが話の始まりでした。
1983(昭和58)年の事です。
客室の設えはないものの広くゆったりしているうえに窓も大きい。その代り全員一緒で合宿のようなものだから、一人静かにというわけにはいかないが、広いので気心も知れた者たちなのでそれぞれ勝手に振る舞うことにし、また皆働き盛りで共に飲み食いしようと合宿気分で集まってきた同士でもあるので、誂えの部屋とも言えた。それで次の年から予約の取り合いの心配のないその中広間を最初から希望することにしたのだった。
それから27年、集まる者も年を重ね、宿や温泉の設備(クワハウスとか言って村のオンセンターのような建物ができたりして、またそれが失敗して少し前に戻ったり)、また交通手段も(新幹線時代の前は急行ー東京から上野まで出てーそこから急行で小出まで行き、その後もバスで温泉までたらたら行ってました。新幹線時代になっても私たちはしばらく抵抗して在来線を使ってましたが、だんだん接続が悪くなったのでとうとう新幹線利用、しかも浦佐からのバスが無くなったのでタクシーか宿の送迎を頼むしかなくなってしまったのでした。)変遷変化し、それは政治や社会現象とも連動して、ここにフォーカスされた形で一つの歴史が辿れるのを知りました。最初の頃は朝出て、向こうには夕方ごろ着いていたのに、今は新幹線で1時間半、そこから送迎車で30分ほど、まさに通勤並みになりました。
最初に出かけた6人のうち、発起した我々と親しかったカップルが中心で、私の相棒が亡くなった後、一人は早く去って行ったものの、残る4人が今日まで残るメンバーである。その後枝葉のように兄弟(姉妹)親戚、友達の友達…といった風に芋づる風に伸び縮みして、一番多いときは、20人にも膨れ上がっていた(記憶では13人ぐらいと思っていたがメモを確かめるとそうではなかった)。それは彼らがよく行くという渋谷のバーのマスターの家族や従業員まで同行という年であり、その時は店のワインを大量に持ち込み(持ち込みも許されていた)、私たちは大いに普段飲めない名のあるワインをご馳走になったものである。(彼らはそれを積んだ車でやってきた)。
そして最近は、幼児の頃に連れられてきた子どもが成長して、伴侶や子を連れてくるようにもなってきたが、これも例外的でやはりこの行事もこの辺が限度かなと、思っているところである。
私の相棒が病を得て退職し、亡くなった年までの2年間、私たち二人はこの旅に参加しませんでした。それでもこの行事自体は続いていたのである。しかしもう一組の主要メンバーの一人が今回は加わらないことになって、振り返ると私自身も正月を過ごすのにあまりにぴったりの環境、快適であるのを良しとして、疑似故郷への里帰り…という気分でやってきたもののやはり一種のマンネリ、縛りを自分にかけていたのではないかと思い始めたのです。
それで次回はどうするか、このまま続けるかこれでピリオドを打つか、予約の申し込みをする頃まで各自考えて貰うことを提案したのだった。
最初のうち、折角の機会だからと皆で連句の歌仙を巻いたことも思い出が深い。
詩を実際に書いているのは私だけだが、職業は色々ですが文系が多く読書家もいるので、歌仙の規則を書いたものを渡し、それを参考にしながらであるが、皆苦しみながらもそれなりに楽しんでいたようだ。これもメモによると1979(昭和54)年から1987(昭和62)年、また1997(平成9)から1999(平成11)の11年も続いたようだ。大抵は36首の歌仙だが、参加者10人の時は百韻も詠んでいるし、50韻も一巻ある。旅行中完成しないときには持ち帰り、それを郵便で回したこともある。まだやっとワープロ時代で、パソコン普及などはその後の事である。
いろいろ書けばきりがないのでこの辺で止めますが、やはり日本だけでなく世界もまた転換期になったこの年、私たちの上にもある転換が求められているような気がしたのでした。

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台峯歩き「下を向いて歩こう」の日。

昨日の日曜日、関東地方は冬晴れで富士をはじめ箱根から丹沢までの山並みもくっきりと見え、冷え込んだものの歩くには気持ちのいい日和でした。
今年最後の歩く会です。月に一回同じところを歩くこの会も、今日で150回(13年目)を迎えたのだそうです。
台峯を残そうと活動をする会はいくつかありそれぞれに意見はあるものの、お互い話し合いながら、出来るだけ今の姿が保全できるように手入れをし見守っていくということ。
絶好の日和ですが、「今日は下を向いて歩きましょう」とK さんは言います。
もちろん、下ばかり見ていては首に悪いから、時には空を仰ぎ美しくなった黄葉(紅葉)を眺めたり、耳を澄ませて鳥の声を聞きながらですが…と。
今年は本当に大変な年でした。
Kさんも親戚が被災して、何とか今は落ち着いているとか…。誰もがそれぞれに直接被害は受けなくても、心身ともに大きなものを抱え込んでしまった今、どうしても下を向いて歩いてしまうでしょうけれども…。
いえ、それだからではないのです。「今日は落ち葉や木の実をじっくりと観察しながらというのをメインにして歩きましょう」と言うことでした。この辺りはやっと黄葉(紅葉)が美しくなりました。やはり1週間ほど遅れているそうです。しかも台風による塩害で枯れたり色が悪いところも多いと。確かにこの家の前方の雑木林も白っぽくくすんだ色で、いつもとはちがう感じで海風は当たらないはずなのに…思っていたのですが、何とか見られるようになり、我が家のカエデも今が盛り、落ち葉掻きに追われるようになりました。でも今年はそれらを堆肥にしないで燃えるゴミに出すことにします。微量であっても放射能が累積するかもしれないと思って。
さていろいろな落ち葉のサンプルがコピーされた資料を持って歩くことになりますが、去年もまた一昨年も同じことをやっているのになかなか覚えられません。
ケヤキ、コナラ、クヌギの落ち葉は12月まで地面に残り、堆肥になります。
ミズキ、アカメガシワは、昔はなかったもので、新しく入ってきた種族、イヌシデ、エノキなどこれらの落ち葉を手に取って揉むと、粉になってしまうが、それは堆肥にはならない。すなわち葉肉が厚くすぐ分解しないものが腐葉土となって土の栄養になるとのこと。
それらの見分け方は、葉の形、ギザギザの付き方、葉柄の長さや色や付き方、葉脈の走り方などよく見れば同じようでいて違いがあって、人間と同様に微妙な違いで個性を発揮しているのに感嘆させられます。今は葉っぱで見分ける樹木図鑑のようなものもあるので、ここには書きませんが、Kさんのように何を見せてもすぐ答えてくれる、その識別方法を指導してくれる人と一緒に歩くのが一番です。でもそれを毎年忘れてしまう私なので、自分でもがっかりです。
この辺りは紅葉は少なく、寺院に植えられている園芸種のカエデ以外は、野生のイロハカエデとハゼ、カマツカというサーモンピンク色のものくらいです。でもエノキなどの黄葉も、青空の下太陽の光を透かして眺めると黄金に輝いて素晴らしい美しさです。
木の実としては、カラスザンショウ、スギ、ハゼ、エノキ、シデなどの実、それらの姿もまた落ち方もそれぞれで、皆種族の繁栄に術を凝らしているわけです。
2つの田んぼに先月、暖かさで青い葉をつけていると述べましたが、それに穂がついているのでした。しかも陰になっているところには霜がびっしり、可哀そうにも稲は無駄な努力をさせられているのでした。
野鳥は少なくなっているようです。それでも池には子連れのカルガモ、ヒヨドリやシジュウカラ
、コジュケイなど。
16日、政府は「原発事故収束」を宣言しました。もちろんこれからが困難だとは言っていますが。台峯から帰った夜、「NHKスペシャルシリーズ 原発危機」で初めて原発事故の現場の綿密で詳細な真相が放映され、それを見て愕然としました。やはり原発はメルトダウンしただけでなく、(3月12日午後1時に)メルトスルー(格納器が壊れて下に落ちる)までしていたのです。しかも事故の拡大を防ぐチャンスはありながら、それが分からなかった、スリーマイルではその危機管理がなされるようになっていたのに、それを学んでいなかった。日本の原発が危機に陥ることはないと、管理委員会は信じていた。「原発安全神話」を信じていたのは、彼らなのでした。そしてそれを政府は隠し続けた。私たちは真実を知らされないままでした。
そこでの現場関係者の実名インタビューで、そのことを認め、しかもまだ事故は収束に至ってはいないと言っています。
同じ日のお昼の「日曜喫茶室」は、今年最後でもあり、3・11の事もあって、いつもは常連客として登場する4人(安野光雅・池内紀・轡田隆史、荻野アンナ)にそれぞれ、そのことについて語り合う特別番組になっていて、そこで安野さんが、先の大戦の終戦間際、敗戦に敗戦を重ねているにも関わらず、大本営発表では、「転進」していかにも勝利しているように報じた方法と同じで、国民に真実を語らない政府の隠蔽態度は、その時と全く同様ではないかと憤慨していましたが、まさに3・11の後、天皇が姿を見せ、原発事故が知らされたとき、終戦(敗戦)時と同じことが繰り返された、同じアヤマチを私たちはまた繰り返してしまったと感じた人も多いに違いないのでした。今回は「原発安全神話」を、その時は「日本は神国だから負けることはない」という神話を信じていたのです。その他はすべて「想定外」だったのでしょう。
これからどうなるか、どうするか、多くの課題を残し、それを抱きながら今年も暮れていきます。
明日滅んでしまうかもしれないかもしれないけれど木を植えると言います。パンドラの箱に底に残った希望という命を来年につなぎ、少しは良い年になりますように、皆様もどうかよいお年をお迎えくださいますように祈りながら、今年最後のブログといたします。

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秋の「台峯歩き」(異常気象)

土曜日は前線通過のため台風並みの風雨が吹き荒れましたが、日曜日は晴れて南風が吹き込み20度を越す暖かさとなりました。そのためか「台峯歩き」の参加者も総勢で9人という少なさ、でもこのくらいがちょうどいい人数だ、とKさんは言います。あまり多いと声の通りが悪く、Kさんの説明も聞き取れなくなるので、出てきてよかったと思いました。
というわけで今日はゆっくりのんびりと、皆で気ままに道中を楽しみます。
でも誰もが心の底では、不安の霧が辺り一面に漂っているのを感じているに違いありません。昨日のような気象は11月としては珍しいと、Kさんは言います。この台峯の生態系にも色々な異常が生じていると。たとえば今年は蜘蛛の数が少なかった。それは餌がすくなかったに違いないし、また今丸々太っていなければならないものが痩せている。気象が荒々しく変動するのもその異常の一つだし、また夏に逆戻りしたような日もあったためか、新緑があちこちに見られる。新聞にも桜が一輪咲いた写真が載せられていましたが、ここでも桜が数輪咲いているのを目撃。
ここにある2か所の田んぼでは、刈り取られた後の株からまた稲が伸びていて、一面の青田になっていました。二期作の土地ではないので、それは枯れてしまいますし、木々の新緑も冬の寒さで、春芽を無駄にしてしまうことになります。あちこちで様々な天災が起こっていますが、こういう身近な自然にも異常が生じているようです。
しかも第2の田んぼに来たとき、手書きの立て看板がいくつも立っているのに出くわしました。崖(最近この辺りに宅地が建つにあたってコンクリの壁になってしまった)になっている上部に
どうもまた宅地開発されるらしく、それへの反対抗議の文面です。そこに家が建つと深い谷になっているこの辺りの日照はいっそう遮られます。「蛍も棲む、有機栽培の田んぼの稲も育たなくなる、開発反対」というのをはじめとする数枚のタテカンです。
とうとうここもまた…という思いです。ここだけではなく、先日も取り上げましたがこういう事態はいたるところで繰り広げられているというのが現状です。この地の緑はまさに屏風かカーテンの緑の壁です。ひと並びだけ樹木があって、その両側が宅地であるところが大部分です。
市の行政や保存の現状について詳しい人の話では、世界遺産への登録は、観光客を呼び込もうという商業的な計算であって、本当にこの地の自然や文化を守ろうという姿勢はほとんどない、今では地方に行けばどこでもあるその地の資料館(寺院による宝物館は別にして)のようなものもここにはなく、発掘による様々なものは記録も分類もされないままトロ箱のようなものに入れられ放りっぱなし、そしてじわじわと法の網をくぐる違法開発は後を絶たず、それを防ぐ方策も立てられない。これではその資格はないだろうと。
暗い話ばかりになりましたのでちょっと話題を変えます。
この辺りの紅葉(黄葉)は今月末から来月にかけてゆっくりしたものですから、今回もそれほどの彩は見られませんでした。そもそも楓のような木は少ないので、あまり綺麗な彩りはなく地味なものですが、それでも最近は紅色も見られるのはハゼ類が多くなったからだろうとのこと。今黄色に色づいているのは、エノキ、アカメガシワ、クワなどで、ヌルデやどこにでも巻きつくヤマイモの葉の黄色も緑の常緑樹の中で目立ちます。紅色ではコマユミとかカマツカとか、教えられてプリントの図を見てわかりましたが、一人では見つけられないでしょう。高山の鮮やかな紅葉の一つ、ナナカマドも出口辺りにあるのを教えられました。
鳥類では、アオジやクロジやウグイス(地声)、ヤマガラが鳴いていると言いますが私にはなかなか聞きとれません。
秋の青田の上を蝶が舞っているのも見られ、またヤマトシジミかウラナミシジミかという、小さな蝶が羽を休めているの、アカスジという昆虫の幼虫(この時期は赤い筋ではなく黒に白い筋を持っている)という不思議な虫も教えられました。このようにゆっくり観察していくと、人間には想定できない自然の不思議さ美しさ、巧みさにただただ感心するばかりで、その奥の深さを思い知るばかりです。そして私たちも、その中の砂粒のような一員として、ただ今を生きていく外ないのでしょう。

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「インド音楽 シタール演奏」を聴きに行く。(大震災8か月目)

恒例になったシタール演奏を去年は風邪のため出かけられなかったが、今年は出かけることができた。震災8か月目の次の日である、ということもあってか何故か身に染みた。
インドの代表的な弦楽器シタール(共鳴胴は乾燥したトウガンからできている)と打楽器(小太鼓やつづみに似ている)、それにタンブラーという始終低音を奏でているシタールより長くて細身の弦楽器によるもので、堀之内幸二氏の独奏、そして合奏(タブラ=龍聡氏)であった。
演奏する曲は、一日の時間帯や季節の巡りに合わせたもので、朝のラーガ(旋律)、夜のラーガなどと言われ、またその旋律も演奏者個人の感性による即興性も加わって演奏されるという。聴いているとその微妙な変化による単調なリズムと旋律は眠くなるようであるが(実際私も途中うとうとした)、それは心地よく、終わってからも暫らく身体の中に旋律とタブラの響きが残っているようである。今もこれを書きながら脳裏にその音が微かに聞こえてくる。たぶんその音楽は、建築物のように構築され練り上げられたものではなく、風や波の音、せせらぎや木の葉のそよぎに似ているからかもしれない。
背後のスクリーンには、昨年行われたインド・ツアー旅行で撮った実景が映され、特に演奏の時はベナレスのガンジス川に夕日が沈んでいく光景が映し出されているので、震災の多くの死者たちへの思いも重ねられ心に染みたのかもしれない。
そして帰ってきて、7時のニュースでやっと初めて福島第一原発に報道陣が入ることができたということを知った。ただそれは細野原発相と同行するという形でとのこと。そして吉田所長へのインタヴューを聞いたのだが、それは爆発事故を聴いたとき、放射能は人間の手ではコントロールできないので、もう死ぬかもしれないと思った、といった率直な発言がなされているのを聞き驚いた。現場を見た記者の、事故の凄まじさに言葉も出なかったという報告と合わせて、やはり初めから今のようになる可能性は分かっていたのだと思いで愕然とした。やはりパニックを起こさないように隠されていたのだ。そして、しかし今は何とか安定している(しかし今後どうなるかは不明)、だから安心するようにということである。
何とか安定するまで漕ぎつけたので、所長も当時の本音を漏らすことができたのであろう。
私は慌ててこの日の新聞を見返した。しかし最前線(原発事故の復旧作業基地になっている「Jヴィレッジ」)に報道陣が入ったと報じられているが、インタヴューも原発事故の現場も報じられていない。パソコンを開け、そこでのニュースを見ると、インタヴューの記事はあった。しかし聞いたのより和らげられている感がした。今は安定しているから安心するようにという意見が前面に出ている。ところがそのうちその記事が消えたのである。この日はニュースが犇めいていた。今日本にとってはTPPが切実な問題である。トルコでも地震があり、タイの洪水はなかなか収まらない。ヨーロッパの問題、オリンパスもあり巨人の内紛、しかもこの日女子のフィギュア(これは私も楽しんだ)もあった。それらの報道で消えてしまったのである。しかしまたその後、記事は復活した。
心安からぬものがあったが、朝の新聞では第一面に、大きく原発事故の現場や所長の発言が掲載されていて、安心した。
私個人で自分を振り回していたことに苦笑しながらも、これらを考えるに、下衆の勘繰りと言われるかもしれないが、福島原発事故の現場視察は、実際は、8か月目の11日に行われ、その報道記事の発表は12日ということにしたのではないかということである。報道記事をよく読むと11日に入ったということは書いてあるが、12日に入ったとは書いてなく、「初めて公開される」という書き方になっている。すなわち11日の視察内容、記事を調整して12日に公開、発表するという事なのだ。
ここでそれらを非難しているわけではない。所長も死ぬ思いで事故の収束に懸命になったであろうし、作業員たち、記者たちも高放射能の中で必死に自分たちの職務を果たしている。みなそれぞれに懸命に持ち場で頑張っていると思うけれど、報道、マスコミというものはこういうものだということを、やっといま痛感しているという事だけを、自戒を込めてここで書いておきたかった。

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猫の額の野原

秋も深まってきました。昨日は肌寒い一日、今日はかなり強い風が吹いています。
季節の変わり目は変動が大きいとはいえ今年の秋は特に心騒がせられること多く、日々野分が吹きすぎていく感じで心が落ち着きません。
先の日曜日は台峯歩きの日でしたが残念ながら休んでしまったので、この庭のことを描くことにします。猫の額ほどの庭ですがそれでも庭らしく整えるのは大変で、飛び石のあるところだけは草取りをして、という風に放っておいたのですが、今秋の野原のように野草の花盛りになりこの風情もいいものだと眺めています。ミズヒキソウ(あちこちにはびこり猛々しいくらい)、ホトトギス(これは通路にぐんぐん芽を出していたので相当間引いたのですが)、イヌタデ(と思われる小さなもの)、ツユクサ(瑠璃色一色と花弁の周囲が白いものの2種、しかしこれはもう終わりに近い)、一番華やかな彩りを加えているのがシュウカイドウ(秋海棠)です。心臓型の大きな葉っぱの上に桃色の胡蝶のような花を群がり咲かせて、穂花とは違った派手なのでこの庭舞台のプリマドンナといったところ。
その他どこから飛んできたのか、紫色のカタバミを大きくしたような(アゲハチョウを頭を中心にして並べたような3つの葉があり、夜になると蝶が羽をたたむように閉じる)葉を持つ草が、一つの植木鉢を占領した上地面にも下りている。図鑑を見ても特定できない。繁殖力強く、黄色い小さな花も咲かせるのでカタバミ類だと思うのだが、観葉植物的なアクセントをつけている。野花は蕾を沢山持っているので、しばらくは次々に花を咲かせるのである。これら野の花に押されたのか、日当たりが悪いせいか、植えたムスカリは今年はとうとう花は一輪も姿を見せなかった。
あとは南天の実が赤くなり始め(万両の実はまだ青い)、これは樹木ですが山査子(サンザシ)の実も赤くなっている。
ツワブキが花芯を伸ばし始めた。
この辺りでは、今群がるセイタカアワダチソウの黄色とススキの蘇芳色が富士を遠景にして秋を感じさせている。紅葉はまだうっすらである。
しかし先日、円覚寺裏の六国見山麓の、河津桜も植えられた土手(宅地開発をされることになっていて長年争いが続いていたこの辺りの奥まった一画をやっと円覚寺が買い取って残ることになった)に行ってみると、その一画の下草がすっかり刈られて丸坊主になっていることを知った。確かに夏草が茂り茫々になっていたから当然だと言えるけれど、そこにあったセイタカアワダチソウの一群れとススキは見事で、ちょうどその上に白い半月までが添えられていて、絵になる光景であったのにと、残念に思った。そこにはもう少しすると、チガヤの一群れが白い穂をそよがせていたりして目を楽しませてくれたのにと、効率の良い機械による丸坊主の土手のあっけらかんとした風景を見ながら、機械に頼らない台峯の手入れの事も思い比べるのだった。しかし雑草と言われる野の花たちは逞しいので、やがてここにも飛んできて蔓延っていくことだろう。

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「台峯歩き」の続きと台風通過。

台風は上陸後足早に、列島を縦断していきました。
激しい突風や雨に驚かされながらも、ここは特に何事もありませんでしたが、被災地ではまた何重苦になることやらと、そして各地でも様々な被害が出ていることなど見聞きするにつれ、胸が詰まり言葉になりません。
それでも今朝は向かいの空き家の大きな庭木が、道路に枝や葉っぱを大量に落としたのを片づけたりで、野分の後始末に追われました。
まだまだ長閑な台峯、それゆえここでは書く気持ちがなくなりますが、とりあえず簡単に記すことにします。
嬉しかったのは、田んぼがまだ健在で、稲穂を垂らしていたことです。
 稲穂が掌に重たく
 ここだけはもう黄金色の秋です
 鈍重な夏がなかなか腰をあげないことも
 籾を肥らせることになったのでしょうか
 大気の猛烈な渦が大きな足跡をつけていかない限り
 今年は豊作のようです
 シオカラトンボが飛び交っています
 やがて渡ってくるアキアカネに
 その場をゆずるころ
 爽やかな顔をした秋が
 顔をみせることでしょう
そんな風に眺めながら思ったのですが、さっそくの台風15号の来襲です。
そして台風一過の後の爽やかな秋空というわけにはいかず、今日も30度を超す残暑です。
田圃の稲穂は、どうなったことでしょう?
あと少しだけ。
 釣舟草が咲きはじめた茂みの奥のほうで
 古い幻燈写真のように
 南蛮人が ナンバンギセルをくゆらせています 
 丈高くなったヨモギは
 キク科の小さな白い花をむらがらせ
 つる草の仙人草も 白い花を目立たせています
 アンテナ状に枝をはる秋分草
 白花さくら蓼
 
 小さな白い花の多いこの辺りの初秋
 南蛮からおとずれ棲みついてしまった
 アカボシゴマダラ蝶が おおらかに羽を休めています 
 

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いまだ残暑の台峯を歩く(緑地伐採のその後)

台風が二つも接近中で大雨・土砂災害が多発しているのに、この辺りはまだ残暑で、雨もほとんど降りません。
昨日は台峯歩きの日、朝から30度を超えそうな日でしたが参加してきました。
歩くといっても日陰が多く、高い樹木の谷戸の道中なので、家に閉じこもっているよりも気持ちが良いからです。それだけでなく前回のブログで、台峯付近の緑の傾斜地がまた大きく開発されそうだと述べ、陳情の署名を集めていると、ここでもお知らせしましたが、その後のことを知りたいと思うところがありました。
結果を先ず言いますとかなりいい方向に進んでいるとのことです。
というのも先日建設常任委員会があり(それで陳情の署名を急いでいたのです)それに間に合い、数日後の市議会でそれを審議してもらえる運びになったそうで、その席でこれまで案件が大規模伐採で、また緑を守る法案の1つ保存地区に隣接する「特別保全地区」になる予定の地であるのに関わらず4,000㎡の広さであること(1,000以下でないと認められなくなる)、それゆえそれは法案が成立する前の(この10月予定)駆け込み開発であることは見え見えで、委員たちはそれを認識していなかったそうで、地元や会の人たちが声を上げてやっと明らかになったのだそうです。それで市議会では建設許可は継続審議となりそう、また「特別保全地区」の法案も一か月早く9月に発効させる方向になったとのことです。
私も近隣の人だけでなく丁度読書会の分科会であるF会の集まりがあったりして署名を頼んだりしましたので、その甲斐があり喜んでいます。ご協力ありがとうございました。
その場所は、ブログでもよく登場させている、コースの目玉である休憩場所、通称「老人の畑」と呼ばれている見晴らしの良い丘の上の目の前に見える所でした。昔はその辺は段々畑であったらしく、その後樹木(桜の大樹も何本かあったそうです)が生い茂り林になっていますが、登記上は農地でありそれが何度か転売されて開発業者の手に渡ったらしい。
帰りにその入り口になるところも見てきましたが、うねうねした急な坂で(この両側は住宅地)頂上に近い辺りの広い一画、平坦なところに(段々畑があったところ)住宅が建つのはもう仕方ないにしても、崖地を大きく壊したり手を入れたりすることがないよう、市の管轄指導を願うということらしいです。今は技術が発達して自然に逆らって何でもできる時代ですから。
実はこういう問題は、ここだけではなくあちこちで起こっています。
こんなことを書いていると長くなり肝心の今日の歩きが書けなくなってしまいましたので次回に回します。実はこの日はマツムシの声を聴く夕べも同時にあったで、それも書く予定でしたが…。
ただ一言、今日TVでたまたま見た93歳の現役画家の堀文子さんのインタビュウーの中で、こういういう言葉があり心に残りました。晩年になってあちこちを旅した堀さんは「風景は思想である」とつくづく感じたそうです。その土地の風景はそこに生きる人々が自然を取捨選択し、その国の人々がつくった一つの思想であり、日本にもそれが大正時代まではあった…と。外国でも日本と同じような近代化の波はあるけれど国土が広いので、まだそういう思想のある場所が残っている…と。
「世界遺産」にしたいという市自体に、またそれを推進しようという人たちにそういう思想があるだろうか、またそれがこの国にできるだろうか。

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「洞門山緑地」その後(報告)。

台風12号の直撃はそれましたが、四国などでまたもや災害。気持ちの落ち着かない日々が続きます。本当にこの国はなんと災害の多い国でしょう! 特に今は、そういう時期にあたっているのでしょうか?
さて「洞門山」の事を覚えていらっしゃいますか?
2008年のちょうど今頃から、盛んにブログに書きました。JR横須賀線が北鎌倉駅に滑り込む頃の左手の線路沿いの緑地、裏の道に通じるトンネルの赤い石門からそう名付けられているここに、開発の手が伸びてきたので住民の反対運動がおこり、「台峯」歩きに参加している私もそれに加わって、署名やら業者による説明会への出席などもしたのですが、その経過をここにも集中的に書いたことがあります。
鎌倉に入る玄関口のような緑地、それへの保存を願う署名には近辺の人たちだけでない広がりを見せ、私も読書会の方たちだけでなくこのブログを読んでくださった方からも協力していただいたりしました。
その後いろいろ経過がありましたが、やっと保全する形で守られることが決まったようです。
それは新聞に報じられ(地方版やタウンニュース紙)ましたが、本当に大丈夫なのかを台峯歩きの時に確かめてからと思っていましたが、先月は雨で歩きませんでしたので延び延びになっていました。実際どのような形で保存されるのか、これまですでに崩されたところもあるので、どうなっているのかわかりませんが、実際の様子は又にして、報告することにします。
なぜ今書くことにしたのかというのは、実は台峯歩きの理事の方から電話があって、台峯に続く「都市緑地候補地」と言われるところがまた、急に大きく伐採されて、そのあたりが開発されそうだとのこと、それで急きょ署名を集めてほしいということ、それで昨日今日と近隣のお宅を回って、少しばかり書いてもらったからです。
ここだけではありません、そういうことがあちこちにあり、もちろん私有地なので強制力はなく、個人の事情もあり、古い姿を守るなど自体難しいことですが、「遺産」に登録してもらいたいという足元にはこういう問題が山積していることも事実です。
洞門山が保存されることになりそうなその理由は、業者が心を入れかえたというよりも、その地に至る経路、狭くて本数も多い踏切と交通量が多い幹線道路と同時に通学路でもある狭い路地を使っての土砂や重機の搬入や運搬が大変だということにやっと納得したというのが実情のようです。
ではここでは洞門山のその後のご報告とご協力のお礼まで。

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水木さんが描く「福島原発」(32年前のイラスト刊行へ)

このタイトルの記事に引かれ、この本を取り寄せて読んだ。
これは『福島原発の闇ー原発下請労働者の現実』という、ライターという身分を隠して実際に現場に労働者として潜り込み、まさに身を挺して取材したルポ(堀江邦夫)に水木しげるさんも実際福島原発にまで出かけて見学、内部の写真資料などをもとにして制作したイラストを加えて刊行され(32年前)、今では幻となった本の再刊である。最初それほど乗り気でない風に見えた水木さんも次第にのめりこみ、自らの末端の兵士として死にかかった体験と重ね合わせて気合の入ったイラストとなったというが、その緻密さと迫力によって原発の内部に連れ込まれたような臨場感と怖ろしさを感じ、昨夜は奇妙な夢を見た。
私たちは今瓦礫と化した原発建屋しか目にしないが、あの内部は、まさに「パイプの森、ジャングル」であったようで(その内部のイラストもすごい)、その狭い隙間に身を捩りこむようにして作業をし、またその防御服は不完全で、また線量計も故障することも多く、そこで働く人は一種の使い捨てである。
折しも今朝の新聞では、原発の周辺は、居住長期禁止にとなり、夕刊では「居住禁止 最低10年」と言い、土地を国が借り上げる方向で検討に入ったとある。
いよいよこれまで隠していた原発の闇が、次第に臆面もなく晒さざるを得なくなったようである。
読書会で借りてきた、『原発のウソ』(小出裕章)と合わせ読むことによって、いっそう怖さが増した。この著者は原子力学者であり、はじめは、原子力推進派であったが、研究を重ねるにつれ、その危険性に気づき反対をずっと言い続けてきたのだという。しかしそれゆえ、原子力の世界では異端として無視されてきたのだという。
こんなことを書くとき感じるのは、これまで何も考えずそれを見過ごしてきた怠慢といい加減さによって自分自身も加担者であったのだという思いである。
しかし、原発事故が報じられ、天皇の姿が国民の前に現れた時に感じた、あの終戦時と同じようなことが今回も繰り返されたということも、これらを読んでいて分かった。
日本の原子力産業は、まさに国策であった。それゆえに国民になるべく現状を秘し、下請け労働者の間でも、原発に対する批判めいたことを言ってはならないという(昔の非国民という言い方のように)無言の圧力があったという。それゆえ事故でこのルポライターが肋骨を折る重傷を負ったとき労災にしない(労災隠し)ようにと言われたという。それを象徴するかのような、東電福島第一原発構内に立つ記念塔(無災害150万時間達成記念)がある。
この当時、そんな労働者が2~3万人いたというが(2009年には7万5000人という)。こういう人たちが
日夜、放射能を浴びつつ原発の汚泥を掃除したり、点検や修理をしたりしていることなど意識することがなかった。
また法律を厳密に適応すれば、国民の被曝限度量は1ミリシーベルト(一年間に)と決められているが(ちなみに作業員は、一日の許容限度量が1ミリシーベルト、すなわち一日で一年間の限度が許されている)、これでは福島では通用できないから、これが守られない。それですでに放射能値の高いところは、これを20ミリシーベルトまで引き上げる検討を始めたと、『原発のウソ』では書かれているが、(今朝の新聞の記事では「政権が避難の目安としている20ミリシーベルトを超え…」とあるので、すでにもうそのように変更されているようである。すなわち今や「『安全を考えて』基準を決めるのではなく、『現実の汚染にあわせて』基準を変えようとしているのです。」の通りになったようです。
また、被曝量がどのくらいになれば危険で、どこまでが安全かと誰も知りたがるが、その境目(しきい値)はない、とのこと。すなわちどんな低レベルであっても浴びることは危険で、それは年齢に反比例するようです。子供が一番危険。
しかも放射能は、人間の五感では感じられず、被曝してもそれを症状としては初期は出てこない。なぜならそれは放射能というべらぼうなエネルギーが遺伝子を傷つける、最後はバラバラにするだけだからである。ここまでが安全とは言い切れない。
そしてフクシマ原発は、広島原爆の80万発分の「死の灰」をまき散らしているということである。
今やそういう不安の中に私たちは置かれているのだということだけが、現実なのである。
そして原発は地球温暖化を防ぐということはむしろ逆で、電力が足りなくなるということや、コストも膨大であることなど、すべてウソであることもいろいろ勉強させられました。

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