緑の産毛(うぶげ)と愛国心

このところ雨が続き、春の気温になってきたので、向かいの雑木林がいっせいに芽吹き始めた。
まだほんのりと桜色が残っているところもあるが、その紅が濃くなったところは萼(がく)の色である。
幼い葉の色は実にさまざまで、萌黄、黄緑、薄緑、鶸色、若緑、浅緑、若草色、若葉色、(これを全て実景として識別したのではなく「色の手帖」の助けを借りているのですが)、その緑のグラデーションは微妙で、そのうえ新芽は正に柔らかな産毛に包まれていたりして朧である。鳥でいえば雛、動物でいえば幼獣の頃のふかふかと可愛く柔らかい感触。この頃の林は、いのちの美しさ繊細さが感じられて私は好きだ。緑の産毛に覆われた林は日差しを浴びて、いま長々と寝そべっている。
今朝の新聞に、愛国心の記事が出ていた。教育基本法を改正して、子どもたちに愛国心を教え込むのだという。一体愛国心とは何だろうか。
私はこの国に生まれ、育ち、生きている。もちろん西洋にあこがれたり、ロシア文学に共感したり、アラブのエキゾチシズムに魅力を感じたり、いろいろな国に行ってみたいけれども、やはりどんな豪華な屋敷に招待されても、我が家が一番良いと同様、この国にいるのが一番心安らぐだろう。オリンピックがあれば日本に勝って欲しいし、日本や日本人がほめられれば嬉しい。それは自分の家族に対すると同じことだろう。そういう感情、気持ちを、取り立ててなぜ教育しなければならないのだろう。
「国」を「愛する」ということは、具体的にはどうすることだろう。「あなた」を「愛する」とは、ということを人は恋愛や結婚をする前に勉強しなければならないのだろうか。
ここに「愛」について考えてみる。極限の愛とは、多分、自分を無にして、相手に自分を捧げることだろう。
エクスタシーの極限は、死の感覚で、それによって相手と合体し、相手の中に自己を融合させる感覚であろう。釈迦でさえ、トラの前に身を投げ出す、捨身という行為をした。宗教は全てその要素を持っている。宗教であればそれで良いだろう。そういうものだからだ。キリスト教でも殉教者は全て聖人となる。
イスラム圏でその原理をあくまでも貫くイスラム原理主義が、テロに組しているのもそれゆえであろう。
彼らは自分たちの神に対して、絶対的な「愛」を捧げているのである。
そう考えると、「国」を愛することを徹底すると、何かが生じた時、国のために命を捧げることが一番素晴らしいことだということになる。それが一番純粋で、美しい行為ということになる。愛が一番深いからだ。
そう考えると、今一番愛国者が多いのは、北朝鮮ではないだろうか。彼ら個人は国と一体化し、たとえ他国の人を騙し痛めつけたとしても、国のためになれば、英雄だということになる。ここに愛のエゴイズムがある。
藤原正彦『国家の品格』はベストセラーだという。ベストセラーといわれると敬遠して、読みたくなくなる方だが、これはつい買って読んでしまった。読みやすく書かれすらすら読めるが、とてもいい本である。その内容についてはここには書かない。それを読めば、私がこの文を書くにあたって枕のように置いた向かいの雑木林の意味が分ると思います。ただここではその著者が話した新聞記事(06.4.3)を、書くことにします。
氏によれば「愛国心」という言葉には二つの異質なものが含まれているという。「その一つが『ナショナリズム(国家主義)』。これは、自分の国さえよければ他国はどうでもいいという、戦争につながりやすい危険な考えであり、私は『不潔な思想』と呼んでいる。もう一つが『祖国愛』(パトリオティズム)だ。自分の生まれた国の自然や文化、伝統、情緒といったものをこよなく愛する考え方。祖国を愛する気持ちが深ければ深いほど、相手の同様な祖国愛を大切に・・・」することができると。
この二番目の愛国心に意義を唱える人は少ないだろう。私もこれには賛成です。ここで最初の議論に戻るのですが、それを育てるためには、ただ祖国の自然や文化や伝統や情緒を、大切にしてそれを子どもたちに伝えていけば良いだけではないだろうか。それらを、国が素晴らしいものにしていけばいいのである。恋人は、恋人自身が素晴らしいから愛されるわけで、愛されるためには自分で素晴らしくなればいいのであって、「愛せ」と強制はできないことと同じことだ。
ところがここに来て、なぜ「愛国心」を、教育のなかで強調し、それを道徳かなんぞの教科のなかで教えようとするのでしょう。もしかして国家のために自分の命を捧げることが、最も素晴らしいことだと考える子どもを育てようとする、すなわち国家の兵隊を作るための布石ではないでしょうか。なぜなら前述したように、その意味と実行を、教室の中で追求していけば、(宗教団体が、会合のなかで自分たちの愛について深く考えると同じように)国を愛する極限は、自分の命を国に捧げることなのだとなっていくからです。
そんな風にわたしは考えました。でもここに述べたことはまったく個人的な、思考の遊びに過ぎません。間違ったことも多いかと思いますが、これは私的な日記ですので、物言わぬは腹ふくるると言いますから・・・。

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劇団民藝『審判』を観にいく

実はこれは『神と人とのあいだ』その他各地での国際裁判の総序論みたいにして書くつもりの第一作だったそうで、『夏・南方のローマンス』とこれとで後が進まなくなったものだといい、木下順二作、宇野重吉で上演されたものの36年ぶりの再演であるという。
いわゆる東京裁判、すなわち極東国際軍事裁判のA級戦犯(28人)の法廷場面を描いたものである。
この事実への知識は乏しく、また前もって本などを読むことなどしていないので、ただこれを観て考えたことだけの素朴な感想を書いてみたいと思う。
裁判というのは、『怒れる12人の男たち』でもよく知られているように、言葉による闘いの要素があって、ドラマチックな部分がある。これも舞台は法廷、そして観客席が被告席と傍聴席という設定で最後まで続く。確かに劇的要素はあるが、法というものの形式的、瑣末的、事務的な部分もあって、冗長で退屈な部分も多いわけで、その中からエッセンスの部分を選択し構成して、私にでも理解できるように一幕物の劇に仕上げてられている点、さすがだと思った。
これは、大きく3つの場面に重点が置かれている。一つは「ポツダム宣言」を受諾した時にはまだ入っていなかった、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」が、新たに付け加えられたということ、また裁判長の経歴などから、この裁判は管轄権がないとして、裁判長忌避を提唱する。この日本弁護人が大滝秀治で、新聞やテレビでも取り上げられていた。法律に疎い私にはその法的根拠が良く理解できなかったが、戦勝国が敗戦国を裁くということ自体、正義と公平に基づいた判決などそもそも望めないだろうというのが、素人の感想である。その中で、正義面をして裁判席に座る連合国に対して、必死に自国の誇りを守ろうとする一弁護人のけなげな姿を描こうとしているように思った。
2つ目は、インドシナ(今のヴェトナム)における日本軍の惨殺行為、フランス軍人への虐殺の問題である。しかしそれは、その時すでにヴェトナムはフランスの植民地であったわけで、それへの抵抗運動がフランス自国でも生じて軍隊も分裂しており、その事実も一種のゲリラに相当するかもしれないと考えれば、この法廷での日本の戦争犯罪ではないということにもなる。そう主張するのが弁護側で、そうではないというのが検事側だが、それを追究していくにつれ、フランスのすなわちそれまでの植民地政策の実態が、すこしではあるが露わになっていくのである。
3つ目はケロック・ブリアン条約ー「戦争放棄に関する条約」というが、この名称など私は知らなかった。
この法廷に参加している大国はほとんどこの条約に加盟しているのである。とすると、ほとんどの大国がこの条約違反をしているではないかということになる。
それを弁護人はついてくる。泥棒(連合国)が泥棒(日本)を訴追するのはおかしいではないか・・・・と。
この弁護人と検事は連合国の人間たちが担当するのだが、その弁護人(ここには日本人もいる)はたとえアメリカ人であっても、その国からはなれて、日本国のために弁護する態度には感服した。自分はアメリカ人だが、敢えて・・・といって母国を非難して、日本を弁護する。それは弁護士という立場ゆえである。
しかし時には自国の宣伝や利害、政治的なエゴも出てくる。ここに、人間が人間を裁くという、まやかしや矛盾も露呈する。
最後に原爆投下・・・・・。この種の兵器はヘイグ条約違反であるのだという。その使用は明白な戦争犯罪だと言う。だからそれ以後の日本軍の行動は「報復の権利」が認められるともいう。
しかしそれは戦争を早く終結させるためには仕方がなかった・・・のか。
ただこの原爆投下による現状だけはしっかりと見て欲しい・・・というメッセージを残しながら幕は下りる。
シリアスなまた真面目そのものである劇だが、現実もそういう真面目な場面がかえって可笑しかったり自ずとユーモアが表れたりするが、それを巧みに生かして、笑いも生じたりした。
これを観ながら、これは遠い話だが今にも通じていると思った。イラクのフセインを裁判にかける場合はどうか。フセインを最初盛り立てたのはアメリカではないか。北朝鮮が今持て余し物になっているが、本国でもほとんど知られていなかった金日成を掘り出し偶像化することに手を貸したのが、ソ連(ロシア)だというドキュメンタリーを先日テレビで見た。自分で作り出した鬼っ子に、手を焼いているのである。
しかしこの裁判をまやかしだと言ってしまうわけには行かない。そう言って、あの戦争を正当化する動きも強くなっているからである。裁判そのものはたくさんの問題があるけれど、日本が行った侵略や不当な行為、残虐行為がそれで消えるわけではないということである。
そして「東京裁判とはなんであったか」・・・
それは日本人の手によらず、全て「あちらさん」任せにしたのである。それを木下順二は言っている。もちろんそういう裁きも当然あるが、今、靖国神社が問題になっているのも「自らの手で戦争責任を追及しなかったこと」にあると、木下氏はあの世で言っているような気がする。その点ドイツは違っていたという。もちろんナチという大掛かりなものではなかったからかもしれないけれど、自国の問題としては、それをやってこなかったツケが今来ているのだろう。
細かいことはもう疲れたのでやめるけれど、一つだけ、パンフレッドによって知ったことをここに書いておくことにします。「戦争犯罪には時効を適用しない」という条約が国連第23回総会で成立して1970年に発効したのに、日本政府はこれに批准していない、とのこと。しかしこの文章は1976年なので、今は知りません。でもそれに批准しているとすると、靖国問題にも関係しますね。

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「かもめ食堂」とレシピ詩集

今日は春の嵐の一日。晴れた空が一瞬曇り、雨が降り、突風が吹く。雹が降ったところがあるかもしれない。「花に嵐」のたとえ通り、歩けば花吹雪である。このような中で映画「かもめ食堂」のことを書くのはすこし難しい。場所はフィンランドのヘルシンキ、気候風土がまったく違う感じだからである。だからこの日本の現実から離れて、映画の世界に、一気に飛び込むことにしよう。
これを見たのは、すこし話題になりかけた頃だが、書く機会をなぜか逸してしまっていた。なぜなら美味しいものを食べた後の満足感のようなものがあって、あれこれ喋る必要がないように感じたからである。とにかく気持ちがよく、気分がさわやかになり、豊かな森とカモメの舞う港町と青い空、すがすがしい大気の中でのんびり暮らす人々、その日常を感じるだけで十分な気がしたのであった。
日本女性のサチエが、なぜか一人で「かもめ食堂」を新規開店する。ガラス張りのシンプルで清潔な店構えだが、メインが3種のおにぎりというのが面白い(おにぎりは確かに美味しいですよね!)。もちろん他の料理もあるのだが、鮭の網焼き、豚のショウガ焼き、とんかつなど、日本の家庭料理である。それらが目の前で料理されるが、とにかく美味しそうで食べたくなる。
最初は訪れる人は誰もいない。しかし少しずつ興味を持って眺めて行く町の人も出て、また日本が好きな青年の登場など、ちょっとしたエピソードもあって、最後は満席になるという、その過程を淡々と描いただけのものであるが、そういう日常が、ゆったりとした時間の流れの中で豊かに暮らしているヘルシンキという町の人々生活とその空気を鏡となって写し出す。
女店主の小林聡美の他、片桐はいり、もたいまさこ、それぞれ個性的な俳優の組み合わせもよく、笑ってしまうシーンもあって、楽しい。女性3人だけの店というのも、今日の女性の生き方それぞれが背後に想像できて、これにも共鳴させられる。
「どうしてこの町の人は、ゆったりとした生活が送れるのでしょうか」というようなことをサチエが、青年に聞いた時、彼は言うのだった。「それは森があるからでしょう」と。それが心に残った。
それを見た頃、羽生槙子さんから『想像』112号が届いた。羽生さんは野菜作りを通して、環境問題から社会問題まで視野を延ばし、また実際の活動も地道になさって、いつも感服し、また畑の詩も楽しく読んでいるのだが、そこに友田美保さんが最近レシピ詩集といってレシピを詩にしたものをのせている。その一つをここに紹介する。
         酢みそ和え
  あたたかくなってくると
  ひんやりした 酢みそ和えが 食べたくなる。
  ちょうど わけぎが 畑で 育っている。
  わけぎをゆでて ワカメをもどし
  あおやぎを 魚屋で 買って来たら
  みそ さとう 酢 からしを ほどよくまぜ。
  わけぎとワカメとあおやぎを 和える。
  それに サワラの塩やきと
  菜の花のおひたしと
  フキノトウと入れた トウフのみそ汁。
  春の香りが するでしょう。
この詩も、読むと酢みそ和えが食べたくなる詩です。

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このあたりの桜たち

東京・横浜のソメイヨシノは満開とか、昨日はお花日和ということなので、この辺りの桜たちに会いに行くことにした。向かいの雑木林も、仄かな芽吹きにほんのりと薄紅色が混じるようになってきた。
六国見山から明月谷に抜けるコース。4時を過ぎてからなので人もほとんどいない。
このあたりの桜は山桜と大島桜が多い。ヤマザクラはえび茶色の葉といっしょに花が咲く。オオシマザクラは花の色は白に近く、葉は緑色でやはり花と共に芽吹くようだ。だからソメイヨシノのような華やかさはない。染井吉野は染井という江戸の町に由来することからでも分るが江戸時代に品種改良されたもので新しい。
今のお花見の形も、庶民が享楽できるようになった江戸時代、特に江戸の庶民の習慣から来たのかもしれない。昔は、というよりこの辺のお花見は、花の下でというのではなく、丘陵の緑の中に点在する桜を遠くから眺めて楽しむものだったと、これは「台峯歩きの会」で聞いたことである。
頂上の桜は、まだ蕾が多かった。だがその花を見上げるよりも前方の丘陵の重なりの、あちこちが桜色に染まっているのを眺めるのが快い。ああ今年もまた春がきたのだなあ・・・と。そしてこういう感慨はこれから年を重ねるにつれ多くなっていくのだろうとも思うのだった。
そこから尾根伝いに明月谷へと下りて行く。そして明月谷に至ろうとする途中の眺望が、私のお気に入りだ。深い谷のこちらと向かいの、まだ幼い芽吹きの、微妙な濃淡をした緑の中に桜色が刷毛で描いたようににじんでいる・・・。このあたりはソメイヨシノも結構あるようだ。
この谷の喫茶店「笛」で休んでいこうとしたら、3月末頃から4月2日まで春休みをしますと書かれてあった。この間は木曜日だったので休業日、どうもこの店とはタイミングが良くないようで残念。
明月院に来るとすでに閉門しているが観光客の姿もあって、いっしょにぶらぶらと、ほぼ満開のソメイヨシノを見上げながら駅まで歩いた。それから雲頂庵への階段を上り、また線路の向こうの丘陵を眺めながら帰途についた。その丘陵の向こうが台峯の谷戸である。

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台峯緑地保存の基本構想

今日も真冬並みの冷え込みとなったが、昨日も寒かった。
台峯歩きもこのところ予定があったりして休みがちであったが、その緑地をこれからどのように保存していくか、その基本構想を市民に提示する市の説明会が昨夜行われたので、出かけねばならないだろうなあと思ったのだった。市内の5ヶ所で行われ、近くのその会場が最後であった。
本当は、昼間も外出したし、夜で寒いし、行きたくなかった。しかし意を決して出席したのだった。
思い切って出かけてみて、よかった。
これまで役所のやり方をあまり信用していなかったし、緑地が残ったのは嬉しいが、きっとがっかりさせられることが多いにちがいないと思っていたのである。役所もずいぶん変わってきたものだなあというのが実感だった。
詳しいことは書けないが、保存の基本理念の方向としては台峯緑地のすぐれた自然環境をできるだけ壊さないように、そのままの形で残すようにすること。もちろんそこが、人の自然とのふれあいや自然教育の場ともなるように考えるが、自然体系を壊すような手の入れ方はしないこと。所によっては人間の方を檻に入れるような形で近づけないようにもすることがあってもよく、単純に緑を守るというのではなく、自然そのもの、また専門家や市民の意見にも耳を傾けながら試行錯誤して計画を進めて行きたい、というのが大まかな内容であった。
もちろんここに至るまでの地道な市民レベルの活動があったわけで(私は含まれていません)、前から登場してもらっているこの地を丹念に歩き回り生態系を観察研究しておられ、毎月案内をしてくださっている久保廣晃氏たちの熱心な働きかけもあったにちがいないが、今のところこのようないい形で市が進めようとしていることに安堵した。
実際そういう気持ちの発言をした若い男性もいた。彼は台に住んでいるとのことで、(この「台」にも「台峯」とは別の緑地があったのだが、こちらの方は最近全て開発され60余戸の宅地になってしまった)
そこの緑地が次々に切り払われていくのを間近に眺めていて、胸が痛くなったのだが、こちらの方のこのように貴重な谷戸が残ったことが嬉しく、市や担当者の尽力に感謝するという趣旨であった。それを聞いて市の担当者は、そんな風に市民の方から言われると非常に嬉しい、その声が何よりの励みになるという言葉には実感がこもっていた。所有権という問題があり、行政の担当者も大変苦労するのである。
そういう発言や説明を聞きながら、緑に対する人々の意識、そして行政の対応に時代の推移を感じていた。実は私たちがこの地にやってきた時、同じようにというよりももっと大々的な宅地開発の波が、押し寄せていたのである。六国見山の中腹を開発する、いわゆる「円覚寺裏山を守る」住民運動が行われており、来たばかりの私たちも、柄になくそれに巻き込まれ、矢面に立った経験がある。結果はもちろん多くのそれと同様、開発は推進された。
25年以上も前のことだが、そのときの行政側の対応を思い出したのである。人々の意識も、行政側の態度もずいぶん変わったなあと思ったのはそういう訳があった。そしてその運動に一緒に携わった、今ではあの世に行ってしまった人への報告をもこめて、このことを書いておきたかった。
説明会でも出たことだが、緑を守ろうといっても、そもそもその主体者もまた、かつては緑の侵入者であるという、矛盾を抱えている。常に被害者であると同時に加害者であるという人間の両面を考えておかなければならないだろう。

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「荒川静香」現象と「イザベラ・バード」

荒川選手が故郷に帰っておこなった凱旋パレードに、7万人以上が詰めかけたという。TVでも新聞でもその大歓迎の様が映し出されていた。日本では珍しいことではない。本人も喜びと感謝の気持ちを十分に表していたが、内心は少しばかりうんざりだと思っているのではあるまいか、と思うのは私だけだろうか。
群集にマイクを向けると、当然その演技への感動や励ましを述べるものがいるが、多くは「見ました」「見られなかった」、と「見た」か「見られなかった」かが重要で、あたかも初めてきたパンダか、多摩川に出現したタマちゃんを見に来たような感覚であるような気がする。
この物見高さは、人間であれば当然だが(類人猿もそうらしいが)、どうも度を越しているように感じられるのは、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を最近読んでいるからかもしれない。
原文を読むのは大変なので、それを講義式に解説しながら読みすすめた「イザベラ・バードの『日本の奥地紀行』を読む」(宮本常一 平凡社ライブラリー)という新書であるが、すこぶる面白い。彼女は19世紀の女性としては特筆すべき大旅行家で各地を旅行していて、日本にも明治11年夏、3ヶ月間、東国と北海道を旅した。これはその時の記録である。女性であることからかえって先入観やそれまでの知識で眺めるのではなく、鏡に映すように物を眺め、細かに観察して、借り物でない分析力、批判力で記述している点、感嘆させられる。
これによって近代化がやっと始まった当時の東日本の世相が、まさに鏡に映すように浮かび上がってくる。このイザベラ・バードによる日本観を初めに言っておくと、この著書の巻頭に置かれた引用文のように日本は「穀物や果物が豊富で、地上の楽園のごとく、人々は自由な生活を楽しみ東洋の平和郷というべきだ」という記述に近いというのが、彼女の大まかな感想である。
もちろんそこには農村の想像できないほどの貧しさや、奇妙な風俗風習、またずっと付き添った通訳のずるがしこさや、役人の実態などマイナス面もきちんととらえているが、総体的に日本と日本人に好意を持っている。そんな彼女であるが、その日本人について、最も困り、奇妙に思ったのがこの物見高さだったのである。
障子と襖の日本家屋であるから、プライバシーが全然ないことが、英国女性としては我慢できないことであった。「障子は穴だらけで、しばしばどの穴にも人間の眼があるのを見た。私的生活(プライバシー)は思い起こすことさえできないぜいたく品であった。絶えず眼を障子に押しつけているだけでない、召使たちも非常に騒々しく粗暴で、何の弁解もせずに私の部屋をのぞきに来た。」
これは例外なく全ての場所で行われた。ある町に入って人に会うと「その男は必ず町の中に駆けもどり、『外人が来た!』と大声で叫ぶ。すると間もなく、老人も若者も、着物を着たものも裸のものも、目の見えない人までも集まってくる」。そして宿に着く頃には大きな群集となって押しかけてくる。・・・「何百人となく群集が門のところに押しかけてきた。後ろにいるものは、私の姿を見ることができないので、梯子を持ってきて隣の屋根に登った。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、子ども50人ばかり下の部屋に投げ出された。」という状態になるのである。
即ちイザベラを道中悩ませたものは、付き纏ってくる「蚊」と「人間の眼」であったようだ。しかし彼らは皆おとなしく善良である。害を加えようとはしない。ただ見たいだけなのである。
イザベラが女一人で、馬でしか辿れない奥州や北海道の奥地を安全に旅行できたというのは、世界でも珍しいという。その頃のヨーロッパ、彼女の母国であるイギリスでも外国人の女の一人旅は、実際の危害を受けなくても、無礼や侮辱の仕打ちにあったりお金をゆすり取られたりするのに、日本ではそうではなかった。馬子でさえ、びっくりするほど親切だったと、イザベラは書いている。
これが私たち日本人の先祖の姿であり、性癖であるようだが、今でもそれは変わらないのかもしれないと思わせられる。というのも、もう一つ最近目にした記事があるからだ。
これは俳優の石田えりさんが某新聞に、有名になりたい人は多いだろうが大変だということを書いたコラムだが、彼女が一人落着いて、美味しいコーヒーを飲もうと小さな喫茶店に入った時のことである。
あいにく土曜なので満席になり、その時一人が彼女に気がつき、観察開始。「次に私に背を向けて座っていた2人のうち一人が席を移って観察開始。四つの遠慮のない目玉が近距離から、私の毛穴の位置まで確かめる勢いだ。その間、3人とも、無言。身動き一つしない。思わず笑おうとしたら、目玉がいっせいに私の歯に集中したので、わたしは驚いて口を閉じてしまった!」この無作法さは何だろうと、彼女は思う。一目見てギョッとする人がいても、そっと放っておいて上げるのが思いやりではないかーと。このようなことをあちこちで経験し、いまだ慣れることができないと。
個人を尊重する国では、たとえ有名人でも、いや有名人であるがためにかえって、そこにいても知らぬ顔、そ知らぬふりをしてその人が自由な気持ちになれるように計らってやることが多いと聞く。
大したことではない、有名税だといえば言えるだろうが、民族性というのは変わらないなあという思いと、だから今の世情を見ていて、かつて来た道をまた辿るのではなかろうかという思いもするのである。
広瀬中佐という人物を若い人は知らないだろうが、わたしは辛うじて知っている。日露戦争の英雄として熱狂的に国民から迎えられ、愛国心をそそった人物である。だが実は、功績といえば、旅順港に軍艦を沈めて敵艦が港を出ないように封鎖をする使命を帯びただけの、言ってみれば特攻隊のような役目をした人で、ただ杉野という部下がボートに乗り移ってこないのでそれを探しに爆薬を仕掛けた軍艦に戻っていく最中、敵の弾に当たって戦死したということから、部下思いの英雄像に作り上げられたのである。
その肉片が付いた(?)という軍旗が、全国を巡り、人々から大歓迎されたそうである。
この時期から、日本は戦争への道をひたすら辿ることになる。
私はれっきとした日本人だから私も決して例外ではない。日本は良い国だし、人間も決して悪くはなくおとなしい。今では個人主義もかなり根付いていると思う。しかし群集心理というか、群れになると個人の壁が訳もなく消滅し、個人の自由も、またそれへの思いやりもなくなってしまうのではないかと、自戒を含めて思ったのだった。

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モーツアルト オペラ『魔笛』と「レクイエム」

混声合唱団コール・ミレニアムの第4回定期演奏会(22日)に出かけた。
今年はモーツアルト生誕250年ということで、その最晩年の対照的な二つの曲。
『魔笛』はもちろん全曲ではなく、ハイライトだけを編成したものをナレーター(真理アンヌ)の説明によって展開されていく。私のようなものには飽きずに楽しめて良かった。私のピアノの楽しみ方に似ている。クラシックやポピュラーのサワリの部分だけを練習し楽しんでいるように・・・。
「パパゲーノ」と「パパゲーナ」、「タミーノ」と「タミーナ」の響きもよく、コミカルで楽しく、主題は愛と誠の精神で、宗教宗派を超えた平和希求のメッセージがこめられている。今日の「社会の混乱時にあってこそ、流麗なモーツアルトの音楽に潜む高邁な理想を身と耳で確認しながら、いっときの心の平安を得たい。」とプログラムには記されてあった。
「レクイエム」は、死神のような男から依頼があって書かれたといわれる、まさに死の床にあったモーツアルトの未完のレクイエムであり、暗い。しかし真に力を失い、絶望している人間は明るい曲よりも暗いトーンの曲の方が、心に安らぎを与えられ悲しみも浄化され、そこから立ち上がる気持ちも徐々に湧いてくるのである。天才モーツアルトの幅の広さを実感じさせられる組み合わせ。
合唱はコール・ミレニアムとコール・リバティスト。指揮は小松一彦。管弦楽はフィルハーモニックアンサンブル管弦楽団など。
出かける頃、雨は降り出し、帰りも雨で、雨に閉じ込められたモーツアルトの空間であった。

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「二人展」と「パウラ・モーダーゾーン=ベッカー展」

一昨日、「二人展」に行く。
これは水野さんがすでにブログに入れているので、それを読んでくだされば雰囲気がよく分る。私も楽しませてもらった。弓田弓子さんの野菜の絵など、自分でも描きたくなる気持ちをそそられるほどだが、シニックでユーモラスな素描はセンスがいる。難しいと思う。坂多瑩子さんのフラワーアレンジメントもそういうセンス、彼女の詩のように飛躍があって面白い。カタツムリができるとは思いがけなかった。
誰もいないとき、こういう喫茶店が少なくなったことなど、マスターと話をした。彼もカメラが趣味で古いカメラなど展示、儲けよりも小さいなりに文化の香りのする雰囲気をつくりだしたいのだそうだ。そのうち横浜詩人会の菅野さん、荒船さん、浅野さん、そして弓田さんも顔を見せたので、しばらくお喋りをして帰ってきた。
場所は新杉田のギャラリー喫茶「ラパン・アジル」。
昨日は神奈川近代美術館 葉山「パウラ・モーダーゾーン=ベッカー展」に行った。
近いのになかなか行く機会を見出せなかったが、やっと訪れることができた。環境が素晴らしい。幸い雨も上がって青空の下、春の気配が感じられる裏山と足元に穏やかに広がる海に抱かれた広やかで白い美術館、半日のんびりと過ごすのには好適なところだなあ・・・と思う。
パウラ・ベッカーは日本ではあまり馴染みがないように思えるが、リルケなどが高く評価した時代に先駆けたドイツの女性画家である。
ベッカーに心を惹かれ長年その画業を追い続けてきた早稲田大学大学院教授の佐藤洋子先生の講演がこの日にあったので、それを聴きに行ったのであった。2003年に出版された佐藤先生の著書『パウラ・モーダーゾーン=ベッカー 表現主義先駆の女性画家』によってその全貌が日本でも紹介されるようになったようだ。予約制であったが、満席であった。
講演の題は「画家パウラと彫刻家クララ」というのだが、リルケの妻であったクララとリルケ本人、そしてベッカーの北ドイツのブレーメン郊外の芸術家村における暮らしと交流が語られただけでなく、カミーユ・クローデルとロダンの話などへとそれはつながり、更に展覧されてなかったベッカーの画だけでなく、夫のモーダーゾーンと暮らした家など、長年にわたり実地を訪ね歩いたスライドなどが次々に紹介され、盛りだくさんで話は尽きないようで時間のたつのを忘れた。
展覧会の感想としては、先ず自画像が多いことである。そして対象の多くが女性で、女性の初夏秋冬を描きたいと本人も言っていたようだが、女でなければ描けないものがそこにはある。裸の少女があり、老婆がある。そして赤子を抱いた母親の姿があるが、それは男が描くような母子像ではない。ドイツであるから森、という自然を描くことはしていて、画家である夫の影響も見逃せずそれもなかなか力づよく、またセザンヌに惹かれたと考えられる静物の色彩感覚も美しいのだが、晩年離婚を考えるようになるのもその画の上での差異によるもののようで、ベッカーは内面をもっと描写したいと焦っていたようだ。
写真を見ると落着いたやさしそうな人だが、ドイツ女性らしいしっかりした強い意志を感じさせる眼差しを持っているようで、しかし佐藤先生の話によると大変お洒落な人だとのこと。確かに自画像の多くはネックレスをつけている。
だが惜しいことにベッカーは、和解した夫の最初の子を出産後、その産褥熱から引き起こされた病のために永眠。31歳という夭折。その間にこれだけの多彩な(日本の浮世絵にも関心があり、それを取り入れたものがある)画業を残したというのには感嘆させられた。
朝まで雨、そして青空と太陽を見上げての昼間であったが、帰りはまた雨になってしまったという気まぐれな春の陽気の、だが運の良い一日ではあった。

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something2+AUBE 朗読会

鈴木ユリイカさんが編集・発行している『something』の2号が発刊され、『AUBE』の会と合同の朗読会への誘いがあったので、その2号には私も書かせていただいたので出席した。
昨日の夕方から、場所は明治神宮前の、とあるビルのスタジオ。
『AUBE』の人たちとは初めてであり、『something』の2号の執筆者も出席した人では山本楡美子さんのほかは面識がなかったけれども、皆いい詩を書く気持ちのいい人たちで、大変刺激され愉しい夕べを過ごすことができた。
『AUBE』はときどきもらっていたので、その活動は知っていたが、月に2回「世界の名詩を朗読する」企画が、ほとんど欠けることなく15年も続けられていたことを知り感嘆した。そのほかに会員それぞれの作品の朗読もあるのである。それがこの日297回目であるという。その選択や構想や準備はすべてユリイカさん1人ということを聞き、その情熱と尽力に舌を巻いた。もちろんテープ録音その他の仕事でずっと支えてこられた裏方のお友達がいらしたから続いたのであるけれども。
この日も両詩誌の作品全ての朗読がなされた。出席者は本人、欠席者は誰かが代読して、それを全てテープにとり、各人に送付するとのこと。それで休むことなく次々と朗読が続き、それに対するユリイカさんのちょっとしたコメントなどで2時間たっぷり、緊張し充実した時間であった。新潟、長岡、福岡から駆けつけた人もあって、全国的な広がりも感じた。2号の発行所の書肆侃侃房は福岡で、社主の田島安江さんも出席していたが、私も福岡出身ということから互いに親しみを感じて話をした。ネットの時代、出版業も少しずつ様変わりしているのだなあ。
会が終わってから、楽しみの食事は近くのそれほど高くなくておいしい中華の店に案内してもらって歓談し、滅多に来ることのない表参道の洒落た夜の街並みをほろ酔い加減で少しばかり楽しんだ。
ユリイカさん、AUBEの皆様ありがとうございました。

カテゴリー: 北窓だより | 2件のコメント

『スーパーサイズ・ミー』の続き

肝心のことを言い忘れたので追加します。
監督がこれを撮るきっかけになったのは、2002年11月、TVニュースで、肥満症で苦しむ二人のチィーンエイジャーが、「肥満になったのはハンバーガーが原因」とマクドナルドを訴え、「大量に食べたのは本人の責任」という判決結果だったことを見たからだという。
どちらが正しいか、それを証明してみようと思ったのだそうだ。なぜならアメリカでは37パーセントの子どもが肥満症に悩んでいるから。自己管理の甘さだけだろうか?
真摯な問いかけのこの映画には、大きな反響があった。しかし政府とF, F会社はこの映画がきっかけになった訴訟が続発するのを防ぐため、それら訴訟を禁止する通称「チーズバーガー法案」を、2004年3月に米下院で可決した。しかし同時に前回に述べたようにスーパーサイズは廃止され、「ゴー.アクティブ」というヘルシーな新セット・メニューも発売したという。またマクドナルドが数百万ドルをかけた”反「スーパーサイズ・ミー」”キャンペーンがオーストラリアで展開されたり、さまざまな社会現象を引き起こしてもいるようである。
マクドナルドではフライドキチンもハンバーガーと同じく、どこの部位というのではなく、あらゆる部位をぐちゃぐちゃに混ぜ込んでから固めたものだそうだ。いろいろな添加物も入れた、いわゆる加工された肉なのである。今輸入牛肉が問題になっているが、そういうマクドナルド的な考え方が濃厚なアメリカということを、十分に意識していなければならないだろうと思った。

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