萌える緑の台峯歩き

 今日は小雨が降ったり止んだりの一日となりましたが、昨日は風の冷たい曇り空ながら時には陽も射してくる歩くにはいいお天気でした。
天候も不順、社会的にも様々な不安悲惨なニュースもあるせいか、参加者も少なく12、3人だったので、それぞれのんびりと気ままな散策となりました。と言ってもコースはいつも通り、これが188回目になったと聞かされます。もうホタル観察会も近づいてきていて、その日取りも告げられました。
しかしここを来年4月に開園するための市による整備がいよいよ始まったらしく、それがこれからの懸念材料となりそうです。というのも安全とか法律などうを基準とした市の整備は、ここのような微妙な自然と地形をかえって壊してしまうことが多々生じてしまいそうだからです。まさにその気配は入り口辺りの仰々しいばかりの杭やロープの張り方にも示されていて、谷戸に下りる細い坂道や沼のほとりを歩く細道も拡幅されてしまうのは目に見えていて、そうなると蛍の生息も危ういものになりかねず、もしかして蛍観察会も今年で終わりになるかもしれないなあと思いつつ歩きました。
木々の多くが今一斉に芽吹きをして、雑木林はみずみずしい緑のグラデーションです。その緑の違いで樹木の種類を推測しようと試みるのですが、毎年のことながらなかなか覚えられず難しいです。
濃い緑はシイ・カシなどの常緑樹、鮮やか緑はシテやミズキ、黄色っぽい緑はクヌギやエノキ、白っぽい緑はコナラなどですが…。
葉の芽吹きだけでなく、同時にそれら樹木の普段は目につかない花の観察でした。そこにもちゃんと雄花と雌花があり、それぞれ簪のように垂れ下がっているのが雄花で、その近くに小さな雌花、それをコナラ、クヌギ、イヌシデなど手に取って観察、またヒメコウゾの不思議な形のそれらは、教えられなければ気が付きません。アケビの花もアズキ色の雌花雄花があり、それも初めて手元で眺めました。
また道端には地味で小さな野の花たち、カシオドシ、ウラシマソウ、ムラサキケマン、タネツケバナ、ツルカノコソウ、キランソウ、ヤブニンジンなど。ヒメオドリコソウは外来で繁殖力が強く、在来種のホトケノザを侵食してしまいそうだとのことなので、それを少しばかり退治することにするが手にあまります。
鳥は、昨日はヤブサメが見られたという事で、今日はその声らしいものを聞いたという人もありましたが、私には難しいです。またウグイスやシジュウガラの姿、また珍しいオオルリをカメラにばっちり収めた人もいました。
今日はゆっくり観察しながら歩いたので、少し時間を超過して解散場所に到着。      以上

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桜と土筆

このところの陽気で桜は一気に開花、都内では盛んに散っているようですが、ここから見える雑木林の桜色は、褪せてはいますがまだ健在です。先日の激しい風雨にもまれても開ききらない花はしっかりと枝にしがみついているのを見て、命と言うものの強さ、しぶとささえ感じさせらました。この辺りはソメイヨシノの親系で、開花も少し遅い、原種の大島桜(白っぽい)が多いので、いっそうそう感じるのかも知れません。
この暖かさと雨によって、草木はいっせいに萌えはじめ、六国見山頂から眺めた丘陵も、白や桜色から緑のグラデーションへと色合い華やかに染まりはじめ、鬱々とした気持ちもこの時ばかりは晴れる思いがします。
その道すがら土手に土筆を見つけました。スギナが一面に生えているのには気がついていましたが、今日あちこちにそれを見つけたのです。さっそくそれを摘んできて、といってもほんの10本ほどですが、食しました。茹でて水にさらし、卵に混ぜて卵焼きに・・・。全くのオママゴトですけれど・・・(笑)。

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鶯鳴き始める。

予報通りに今日は、夕方ちかくから雨風強くなって春の嵐の感じです。
朝のうちはまだ穏やな曇り空で陽も射すこともあったので、雨にならない前にとこの辺り歩いてきたのですが、その時ウグイスの声をききました。どうしてか何時ものように声繕いをするような拙い声ではなく、もうきっぱりとした声で高く二声、鳴いたのにはちょっと驚き、本当にウグイスだったのか? と思ったほどでした。
前回ブログを書いたのは雪が降った日の事で、その後それ以上の記録的な大雪となり、国中が大騒ぎしたので、ピンポイントの私的状況など発信する気持ち余裕もなくなってそのままサボってしまいました。でもやはりウグイスの声をきくと、やはりちょっと報告したい気持ちになりったのでこれを書いています。いよいよ春になったなあ・・・と私自身感じたからです。
梅に鶯と言うものの花の蜜を吸いに来るのは大抵はメジロなど、でも梅はまだ春も浅いうちから咲きはじめ、長い間咲きつづけるので、どうしても春を告げるウグイスと対に考えられてしまうのでしょう。
三月は冬将軍と春の女神の争いの月、大体荒れ模様の日が多いことは昔から決まっていますが、それでも毎年その様相が異なるので、今こそが最たるものと思ってしまうのかもしれません。それでもやはり年々気象は荒っぽくなっていく感じです。
こういう荒れた日は、折角張り切って声を上げていたあのウグイス君は、どこにどうして凌いでいるだろうか、と思ってしまいます。

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大雪、その後。

今朝、外に出て驚きました。軒場からツララのようなものが垂れ下がっているのです。
ほんの3、4本のことですが、屋根に張り出すように積もった雪が解けて、その滴がツララとなって凍ったのでした。それほど今朝は冷え込みました。外の寒暖計は2度でしたが、まだたっぷり残っている雪のために風がとても冷たく感じられます。横須賀や千葉では雪になっているところもあるようです。
大雪の翌日、入っていなかった新聞は午後になって、前日土曜日の夕刊と一緒に届きました。バイクの音を聞かなかったようなので、もしかしたら歩いて配っていたのではないでしょうか。ほんとうにご苦労様です。またこの日は最初の雪かきでバイクぐらいが通れる細い道をつくったのですが、その後若い人たちの手で夕方ごろまでかかり拡幅されました。これでゴミ収集車も上がってこられることになったわけで感謝。肝心のゴミ収集車ですが、やはりかなり遅れて、午後遅くに来たようです。雪のためあちこちで難渋したのだと思います。
今少しばかり陽がさしてきましたがおおむね曇り空で、気温が上がらず庭の雪も解けずに固まり続けています。当日にやっと雪の中から救い出したヒイラギ南天(南天ヒイラギ?)やマンリョウは、最初それまでの雪の重みで腰を曲げてましたが何とか元に近い形に返りましたが、雪のためキンシバイなど枝が折れてしまいました、道路沿いにあるハクチョウゲが固い雪に根元から折り曲げられているのを発見して救い出そうとスコップで取り除く努力をしましたが、どういう事になるやら…。
まだ深い雪の下に埋もれたままの植物たち…そのなかで大きく膨らんでいた梅の花が、雪の滴をはらいながら一輪、一輪と咲いていく姿は誠にけなげです。

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大雪の朝。

この辺りでも、予想外のこれまでにない大雪になりました。
東京では45年ぶりの大雪で27センチ、熊谷では43センチ、千葉では記録し始めてから最高の33センチとか報じられていましたが…。
わが家は坂道の中腹、道路も行き会う処に建っているので、吹雪模様になった昨夜、どうも雪のたまり場になったようです。朝起きてみると、猫の額ほどの庭には雪が深々と積り、郵便受けのある入口に出ることさえ出来なくなっていました。しかも今にも咲きそうになっていた南天ヒイラギの木が雪の重みで頭を垂れて道を塞ぎ、あまりに重たく雪を落とすこともできず、仕方なく玄関からではなく居間のガラス戸の方から辿ろうとしたのですが、それでも長靴を履いてもすっぽりと入って腰まである深さがあるので慌てました。もちろんバイクは下の坂を上がってこれませんから新聞も届いていませんでした。この辺りは坂道なので雪が降ると各戸雪かきをしなければならないのですが、それにしても今度の雪はやはりこれまでになく深いものでした。
ちょうどその時前の道の雪かきをしていた近所の若いご夫婦が玄関から入口までの除雪をしてくれ、
大変助かりました。ほんの5、6メートルぐらいなのにやはり大変で、こんな雪かきを雪国の人は毎日のようにするわけで…と思いやりながら言い合いました。その細い通り道も両側は5~60センチほどの雪壁になり、何メートルにもなる雪国からすれば笑止ものですが、なんとなく雪国を思わせるのでした。道路の雪かきをした細い道もやはりちょっとした雪の壁になっています。
でも細い道では2輪は上がってこれますが、4輪はダメなので、明日のごみ収集車はやってこないかもしれません。以前にもそういう事がありましたから。
雪晴れの朝は雪の反射で眩しいくらいに光があふれて、軒端から雪解けの滴が盛んにしたたっています。この家の屋根からも積もった雪が大きく張り出し今にも落ちそうになっています。
昨夜、玄関先に並べてあったメダカを入れた2鉢に、雪がどんどん降りこんでシャーベット状になっているのに気がついて慌てて屋内に入れたものも、今朝はまだシャーベット片が水面にまだ浮いているものの、水草の下にメダカはお互いに集まって生き延びていたようなのでほっとしています。
風流にもガラス戸の手前は雪見障子になっているのですが、雪見をして愉しむというよりは、この陽射しで少しでも雪が解けてくれるのを望むような心境にさえなっています。
今日はほんの少しですが、雪国の暮らしの一日となったようです。

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御前崎に行く。

大晦日から元旦にかけて御前崎に行ってきました。
長い間グループで栃尾又温泉で年越しをしていたので、大晦日の夜を独りで過ごすのはやはり少々寂しく侘しく、今年はその中の一人と御前崎で初日の出を観ようと思いついたのでした。
栃尾又のような素朴さが残るところが好きなので、灯台に近い御前崎ユースホステルに申し込みました。私はもうユースの年齢から遥かに遠いところに来てしまっていますが、いまだにその会員なのです。(シルバー会員と言う枠もあります!)
御前崎は新潟と比べて近いところと思うのですが、交通の便から言うと鉄道は乗り換えが1から2つあり、バスも終点から終点まで2つの路線で行かねばならない、ちょっと大変だと気兼ねのいらない人でなければ誘えません。
結果から言えば、宿は灯台の傍から初日の出を見るに最適のスポットの近くにあり、朝の6時50分頃が日の出と言う少し前に宿の主人に連れられて出かけましたが、少し霞んではいるものの(と常連のカメラマンは言ってましたが)ばっちり見られました。
またユースホステルも、最近は利用していないので最初はちょっと勝手を忘れて戸惑うこともありましたが古いながらも懐かしいい雰囲気がいっぱいでアットホームな感じ、食堂兼ロビーには薪ストーブが身体にやさしい温もりをはなち、この薪の炎が懐かしく毎年やってくるという常連客もいました。
料理も栃尾又と同様、大晦日と元旦は仕来りどおりの特別のご馳走で味付けもよく美味しく、年越しそば、元旦の御節からお雑煮までちゃんと出てくるというサービスぶり、これでいつもと同じ安い宿泊料と食事代と言うのは申し訳ないような気がするほどでした。
しかしそこにたどり着くまでの行程は想像した通り大変でした。電車は新幹線を使っても乗り換えねばならず時間もさほど短縮されないのですべて普通、しかし快速アクティーを使えば少し早くなるのでそれで乗り換えの熱海まで行きましたが、問題は静岡駅からのバスです。年末年始なので本数が減り、しかも2本目のバスの時の待ち時間が1時間以上もあって、大晦日なので店はすべてしまっているという有様、それ程冷え込んではいない晴れでしたからよかったものの着込んできて良かったと思ったものです。
という事で、電車で2時間半ほどそこからバスでも同じくらいかかってしまい、合計乗り物に5時間以上。帰りはバスの時刻表をもらってちゃんと時間を考え、早めに宿を出てバスは所定の1時間半ぐらいで調子が良かったのですが、折も折、強風のため熱海:湯河原間が一時不通になってしまいました。その後何とか復旧し、速度制限をしながらの運行になりましたが、アナウンスの指示に従って乗客はあちこちしなければならない羽目になり、往復とも時間がかかりあたふたする様はまさに東海道の弥次喜多道中でした。
でも食堂で相席になった一人は香川県からずっと一人で自転車旅行の最中で、これから横浜まで行き、そこから少し引き返して栄区にいる親戚の家に行くのだという頼もしい青年、またこれも横浜から一人でやってきたという気持ちのいい娘さん(この人もずっと電車は普通で来たとのこと)などとちょっと話をしたりして、こちらも元気をもらえる感じでした。また初日のスポットに案内してくれたご主人の話ではこの辺には民話が多く、オオネズミを退治してくれた猫の話などちょっとしてくれ、確かに「猫塚ネズミ塚」などもあるのでした。
宿もよく楽しかったものの、そこまでの旅程は大変で帰ったらくたくたになりました。
元旦からこれでは今年は多難の年になるのかなあと思いつつもそれも人生で面白いかもと覚悟を新たにした元旦です。

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映画『ハンナ・アーレント』を観る。

岩波ホールで上映されているこの映画はなぜか評判のようで、混み合っているとのこと。でももう、少しは落ち着いているだろうと思い、出かけてみた。最近は神保町からはすっかり足が遠のいていたので、街をぶらついてみたくもなったのである。
上演50分前ぐらいに着いたのに、入場券売り場は列ができ、整理をする人が立っていた。開演時にはほぼ満席となった。
さて映画の題名となっているハンナ・アーレントは、ニューヨーク在住、ナチの大虐殺のとき強制収容所送りになったが、運よく脱出できてアメリカに渡り、今では大学の客員教授の職にあり著書には『全体緯主義の起源』などもある高名なユダヤ人哲学者の女性である。
映画は、ユダヤ人を強制収容所送りにした責任者 アドルフ・アイヒマンが逮捕された場面から始まる。彼がイスラエルで裁かれるとき、裁判の傍聴を要望し、それは「ザ・ニューヨーク」紙に傍聴記を書くことを希望することによって叶えられ、戦後初めてイスラエルに到着し、志を同じくした友人一家とも再会を果たすのであったが…。
裁判を傍聴したアーレントの筆はなかなか進まない。だがアイヒマンに死刑判決が下されたのをきっかけに、やっと執筆を再開し発表し始めたが、発売直後、その発言が「アイヒマン擁護」であるとされ世界中からパッシングされるのである。
イスラエル政府からは記事の出版を中止するよう警告され、その結果大学からも辞職を勧告される。彼女のもとには非難中傷の手紙が続々届く。ネット時代の今であれば、パソコンの炎上という事態であろう。しかし決してそうではない、擁護など微塵もしていない、という事を学生たちへの講義という形での反論を決意する。
大教室に集まった学生たちをはじめ大勢の聴衆を前に、堂々と言語で戦い、誤解を解く演説をすることを図り最後には拍手も起こる。私たちもそれを一緒に聴くことになり、その正論には頷かされることになる。
パッシングされる箇所とはどういう点かというと、アイヒマンが彼女の想像したような「凶悪な怪物」などではなく「平凡な人間」だったという驚きがあり、それ故に記事を書きあぐんでいたわけだが、それをそのままに感じたとおりに書いたことによる。彼が極悪非道な、邪悪な人間であったわけではなく、ごく平凡な、普通の凡庸な人間であり、それ故にこのような悪を生じさせたという表現である。
それをアーレントは「悪の陳腐さ、凡庸さ」と言う。
これはドキュメンタリーではなく演出されたものだが、裁判でアイヒマンが尋問を受ける場面は実際のフイルムを使っている。彼女は言う、「世界最大の悪は、平凡な人間が行うものです。信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間的であることを拒絶したものなのです。」そしてこの現象を「悪の凡庸さ」と名付けると。これがアイヒマンを擁護したものと受け取られた。その上、彼女はユダヤ人指導者の中にもアイヒマンに協力していた人たちがいて、それがいっそう犠牲者を増加させたとも。もちろんこれは強制されたものであり抵抗出来なかったからであるが、それらの発言はユダヤ人を激怒させたのである。
そしてただ一人残っていた、同郷の古くからの友人も、冷たいまなざしを向けて教室から出ていくのである。
一緒に亡命してきた夫だけは最後まで彼女の理解者であったことにはほっとさせられるが、その後も生涯、「悪」について考え続けた哲学者であったようだ。
アイヒマンが、特に凶悪でも悪魔的な人間でもなかったという事については、戦後社会で生きてきたからかもしれないが、アーレントほどの驚きはない。むしろそうだろうという考えの方である。犯罪者が捕まってみれば多くがいかにも悪で乱暴者であるより普通の人間、むしろ真面目で大人しい、そうとは思えない人の方が多いからである。
しかしそのような普通の、平凡かつ凡庸な人間こそが最大の悪をなすというのは、本当に怖ろしい。
なぜそういう結果を生むのかという事が、ここでは非常に大切なことだと私には思えた。アイヒマンは繰り返し言う。自分の手では何もしなかったと、ただ上からの命令を伝えただけ、業務を真面目に遂行しただけだと。即ち彼には思考と判断力が全く欠如していた。自分の業務がもたらす結果を想像することすらできなかったのである。
考えることを放棄した葦、それは人間である止めた事を意味し、それこそが「悪の無思想性」で、「表面にはびこり渡るからこそ全世界を廃墟にしうる」とアーレントは考えたようである。
映画はこのようにすこぶる真面目で深刻な問題をはらんでいる内容で、アーレントと有名な哲学者ハイデガーとの学生時代の恋愛なども絡めてはいるが、そんなに楽しいものではないのに、どうして評判になって観客を集めているのか私には分からなかった。もしかして今と言う時代に不安を感じた人々が何かに引き寄せられる形でやってきているのかもしれない。
けれどもなぜ彼女の記事がそれほどまでにパッシングをされたのだろう。確かに彼女の指摘は正しく、私にもよく分かった。反論のスピーチも拍手で締めくくられたのである。しかしそこに私は立ちどませられた。
確かに彼女の言い分は正しく、アイヒマンを弾劾はしても擁護などはしてない(むしろ公平な目線である)。そして趣旨ももっともである。しかし何かが足りなかったというか、人々の心の奥底に潜む或るものを彼女にも理解できなかったのではないだろうか。それは何か? 私にも分からないし表現も出来ないが、人間と言うものの複雑微妙さ、業のようなものが存在するからかもしれない。考えさせられる重たい映画に思えた。

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「なだ いなださんを偲ぶ」台峯歩き

 昨日の小春日和の穏やかな日曜日は、今年6月に亡くなられた「なだ いなだ」さんを偲ぶ台峯歩きの日でした。いつもは20名前後なのに45名ほどにもなり、歩くには少々大勢すぎましたが止むを得ないことでしょう。この台峯歩きは、なださんが立ち上げたものです。最初の名称は、「なだ いなだ と台峯を…」と付いていたはずです。
 この辺りが開発されるという話を聞いて、近くに住むようになっていたなださんがそれは大変だと、声を上げられ、その許に有志や土地の人たちが駆けつけたのが15年前、開発をストップさせようと、台峯トラスト運動の一環として、その年の11月から、毎月一回皆で歩こうという事になったのが始まり、今回で181回、延べ4000人ぐらいが参加したとのこと、これら数字は昨日の偲ぶ会でM理事の話からの紹介。(私は、なださんがほとんど出てこられなくなってから参加しました)
 ひところはもうダメかと思われた時もありましたが、世の趨勢もあって2004年12月にここの保全が決定。これで願いは叶ったのですが、現状のチェックのためにもとこれまで通り続けられているのです。
 「偲ぶ会」を兼ねた山歩きですから、はじめの1時間は、会長や理事や案内者の話や参加者の思い出話などに当てられました。そこでの話、裏話をちょっとしますと、実はなださんは、あまり山歩きが好きでも得意でもなかったのではないかとのこと、というのも、かなりの年齢になっていたこともあるが山歩きは下手だったとのこと、倒木がくぐれなかったり、木道では滑ることが多く、でもそういう事を見ればかえってどういう風に山道を整備すれば良いかの参考にはなった(笑い)など、しかしそういう不慣れな苦手なことに年を重ねても飛び込もうという、その勇気にかえって感銘を受けたとも。
 また なださんが立ち上がってくださったことで、この台峯が世に知られるようになり、保存への道筋もつくようになったのは事実でその功績は大きいと。というのもここは名所旧跡があるところではなく、ただ昔ながらの尾根や谷や沼があるというだけの土地、(しかしその何でもない風景こそが今になっては大切なものという事が私たちにも分かる時代になった)、それになださんの名前が冠せられたことでスポットライトが当てられ、いろいろな人や知恵も集めることができたのでした。
 またこの会は、よくあるような山歩きの好きな人だけが集まるというような、同好の士の会ではなく、また会員としての義務も制約もない、ただ月の第3日曜日に、歩きたい人がただ集まって(会員でなくてもいい)歩くだけの、非常に自由な今の言葉でいえば「ゆるーい」関係の集まりで、これもなださんの姿勢に通じる所があるかもしれません(なださんは陸軍幼年学校で学ばされた反動としてフランス文学へ傾倒した)。 また開発反対と言ってもプラカードを掲げて闘争するのではなく、ただその地を歩くだけの地道な抵抗、これもなださんが最も嫌った権威や権力(『権威と権力』岩波新書)への反抗の一つの姿でもあるでしょう。とにかく医者としても、常に患者という弱い立場に立ってものを観ようという姿勢が人をひきつけると同時に鋭い文明批評ともなり、共感を呼ぶのだと思います。
 なださんは、晩年「老人党」を立ち上げ、弱者が暮らしやすい社会づくりや平和を訴えたが、面白いことに台峯歩きのコースで尾根筋で一番見晴らしの良い場所(皆で一休みするところ)を通称「老人の畑」というが、これも何だか両者通じているのであった。
 その上に、最初にこの台峯は、名所旧跡があるわけでもなく、何でもない風景だと言ったが、これもなださんのペンネームに通じているようで、今では不思議な感じがしてくる。「なだ いなだ」というのはスペイン語で、「何もなくて何もない」のだそうですから。
 10時ごろから大勢でぞろぞろ台峯に向かった。今日はほとんど見るような花はなく、ノイバラ、ムラサキシキブ、ノブドウ、スズメウリ、ガマズミ、などの小さな草や木の実が見られるだけであったし、蝶も越冬するキチョウやルリタテハなど。少々急いで正午過ぎ出口に至るが、その挨拶にこれからもどうぞ台峯歩きに参加をと言いながら、実は観察しながら歩くには4、5人が一番いいし、せいぜい20人まででないと…いう言葉に皆は苦笑。矛盾しているがどちらも本音ではある。
 なださんは、がん宣告後もいっそう精力的に仕事をし、あと33冊は本を書きたいと述べている。これは遺稿集となった最後のエッセイ集の「まえがき」にあり、その著書の題は『とりあえずきょうを生き、明日もまた 今日を生きよう』で、ラテン語のCarpe diem (その日を摘み取れ: ラテン語)を具体的に表現したものである。ご自分でもこれは、まさにハイ状態だと仰っているが、このメッセージを私もしっかり受け止めねばと思った。
 
 

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映画『東京家族』を観る

 山田洋次監督のこの映画が、近くで上映されたので観に行った。小津の代表作として世界的にも有名な『東京物語』は、1950年代、高度成長期に至る前の核家族化とその末の老齢社会化を予兆するような内容だが、それを今日に置き換えたときどう描かれるのだろうかという興味もあった。
 まさにこれは山田監督自身が字幕にも書いているとおり小津安二郎の『東京物語』へのオマージュであってそれ以上には出ないように思えた。老夫妻(この年齢設定も今日では老齢という年ではなくなっているだろう)の暮らす長閑な町も、尾道ではないとのことだが似たような近い土地、笠智衆の役が橋爪功で、始めは誰か分からないくらいで、笠智衆のような根は頑固だが茫洋とした雰囲気を出そうとしている懸命さは感じられるものの、やはり笠の独特の風格はなかなかまねできないに違いない。東山千栄子の妻の役は吉行和子だが、こちらは適役に思えた。3姉弟の設定も、長女が美容師、長男が医者という点は同じである。最後の戦死した次男、そして今は未亡人になったその嫁を演じる原節子が、後半部で老夫婦を支える重要な人物となるのだが、その部分だけは今の社会に照合させて、戦死ではなく父から全く認められていないフリーターの舞台芸術家、そしてその婚約者が3:11の大津波の被災地先で同じくボランティアをしていた女(彼女も被災者の一人)で、それを蒼井優に演じさせている。しかし登場する場面は短く原節子のように都会の片隅で咲いた百合の花のような存在にはなっていない。
 重要な場面はほとんど、細部にわたって「物語」を踏襲している。ただ長女や長男のいずれにも泊まることができずホテルに泊まらせられることになるのだが、それがうるさくて眠れないような宿ではなく、横浜の「みなとみらい」の大観覧車が見える豪華ホテルという点、あまりに広くて豪華で、勿体なくて一泊で出てきてしまうなどは、皮肉を込めたユーモアかと思わせられたりもした。
 けれども型があるという事は、どうしてもそこから出ることは難しく、大都会における今現在の家族の在り様、また故郷というべき地方の在り方などをそれ以上描くことはできないだろう。あくまでも小津監督に対する敬意と愛惜を表した映画なのだと思った。
 そして思うのだった。宮崎駿の最後といわれるアニメ映画「風立ちぬ」も時代に対する愛惜である。
いま次々に時代を画した有名、著名人が亡くなっていく。そして世の巨匠といわれる人たちもエネルギッシュに仕事を推し進めるというよりは、すでに事なり回顧の心境に今は至っているのでは…と思われるのである。そして時代もまた、一つの転機、爛熟期になっており、良くも悪くも大きく変わっていくのだろうという思いが深くする。私自身もその去っていく時代の一人であるが…。

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台峯歩き、又もや雨。

 先月に続いて今月もまた雨になってしまいましたが、「台峯歩き」の理事の方たちはこういう日も集まって、いろいろ話し合っておられることでしょう。でもこんな風に続いてダメになる事はこれまではなかったようで、偶然とは言え最近の異常気象についてつい思いを馳せてしまいます。台風26号の伊豆大島に与えた甚大な被害、またもや同じコースで近づいている27号など、自然というものの非情さや理不尽さを思わずにはいられません。
 特に今年は災害が次々に押しかけてくる感じで不気味ですが、今日の朝刊に「デザイナーベビー?」という見出しで、これがアメリカで特許が認められたと報じられていて、これも言いようもない不気味さを感じました。
 これは親が好む遺伝子で望みどおりの子どもを造る技術で、これができれば日本人でも「青い目の金髪」の子どもを産むことができるという事。もちろんこれは癌のリスクが低いような…などの利点を考えたからだとしても、まさに遺伝子という生命の究極にまで人は手を付け始めたという現実です。当然「生命への冒涜」と科学者からも批判が出ているのしても、「進歩」を目的とするのが科学である限りこれを止める力はないでしょう。
 理想的なクーロン人間ばかりが住む世界など私は暮らしたくありませんが、自分の欲望によって「自然」に手を付け始めた人間の行き着く果ては結局そういうものにならざるを得ないものか…、災害が次々に起こるのも、自然からの報復かもしれないと思うと暗澹とした気持ちになります。
 とにかく伊豆大島が27号の被害からどうか免れますようにと、ただ祈るだけしか私にはできませんけれど…。
 

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