初夏の台峯歩き その一

夏と冬が入り混じったような日の多いこの頃、この日は風は少し冷たいけれど陽射しが強くからりとした一日でした。
初参加の人がなぜか多く、24、5人のかなり大勢になりました。
今回は、道端の雑草といわれるものたちを主として観察していこうという事で、プリントも作成されていましたが、こういうマニアめいたものよりも、もっと木の花などの写真にすればよかった、夜遅くまでかかって作ったのに失敗したと、Kさんは苦笑していましたが、目立つ木の花は名前を知らされればすぐ分かるわけで、道端のいつも見慣れている雑草の方が、知らない事が多く、初心者にとっても興味深いものだったと思います。
特に今回はイネ科のもの、しかしこれが一番難しい。地味で種類もいろいろあり、区別も難しい。そして大体において厄介者。私も狭い庭にそのつんつん、ひゅるひゅる伸びるそれらを見たら、急いで抜いてしまいますから。
でもよく眺めるとちゃんと地味ながら花も実もあり(イネ科というだけあって稲に似ている)姿形もそれぞれに特徴あり、風情あり、とKさんに代わって言えばそういうことになります。
先ずどこにでもよく見られる、イヌムギ、カモジグサ、スズメノカタビラ(これだけは覚えました)。イチゴツナギ、カニツリグサ、ドジョウツナギ、などは、昔の人の暮らしが偲べます。その他オニウシノケグサ、トボシガラ、など。またカヤツリグサ科も似たようなもので、これにはカヤツリグサのほかマスクサ、アオスゲなど。これはイネ科と同様、線の美しさがある、とK氏は言います。彼は植物の中でも、地味でひっそりとして、庶民的でどこか淋しげなものが好みです。
花としては、ヤブイチゴ、キツネノボタン、ウシハコベ、ヤブジラミ(目に見えないほどに小さな菊に似た白い花は確かに虱のようでしょうが、ちょっと可哀そうですね)。トウバナというのも、オドリコソウのような花ですが言われて見なければ分からないように小さいのです。
でも名前など覚えなくていいのだ、とKさんは言います。それは単なる記号に過ぎない。そんなことより、よくよく眺め観察するだけでなく触ってみたり嗅いだり、時には、噛んだり齧ったりもしてその植物と馴染む事だ。そうするとそれへの愛着が出てくる。それがそのものを知るということだと。
こうなればもう、オタクですね。そう言ってKさんは笑います。だから変わり者になってしまったと。
さてそんな風に雑草たちを観察し、ハルジオン、マルバウツギ、ミズキ(ナハミズキではなく)などの花を見ながら、第一の田んぼにやって来ましたが、今日はこれまでにします。

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コール・ミレニアム第8回定期演奏会

昨日の5月1日、蒲田にある会場アプリコ(大田区民会館ホール)に行く。
爽やかに晴れた新緑の一日、昨年と同じように一部が日本の合唱曲で、高田三郎没後10年メモリアルプログラムとしての合唱組曲「みずのいのち」(弦楽合奏とピアノ)、2部はこの合唱団がメインとしているレクイエム。今回はフォーレ(ニ短調作品48)であった。
残念なことにいつもの指揮者、小松一彦氏は体調を崩されたため荒谷俊治氏に変更。一日も早いご快復をお祈りします。
パンフによると、この荒谷さんは指揮を石丸寛氏、作曲を高田三郎氏に師事とあったので、今回も深い縁があってのことだろう。
昨年は世界的にも活躍で著名だった音楽家貴志康一の合唱曲を教えられたが、今回も初演(昭和39年)以来人気の高いというこの組曲を、楽しませてもらうことが出来た。
「みずのいのち」は、雨、水たまり、川、海、海よ、という題でそれぞれ水の相を人の姿や命の本質をも絡めながら描き歌い上げた5曲の組曲。作詞家の名前を見てああ、と思った。高野喜久雄ではないか!「荒地」の詩人で、物事の本質を、物自体の本然を究めようとする真摯な詩人である。私もその詩集を現代詩文庫だが持っている。帰ってからその経歴を一覧してみると、確かに高田三郎との出会いによって幾つかの合唱曲を手がけているようであり、また讃美歌や典礼聖歌などのあるという。演奏と歌声でその水の姿が生き生きとイメージされる。合唱団の女子は黒のドレスに水色のヴェールをまとい、ピアニストも水色のコスチュームだった。
その一つをここにも書き出してみよう。
 2曲目 水たまり
わだちの くぼみ
そこの ここの くぼみにたまる 水たまり
流れるすべも めあてもなくて
ただ だまって たまるほかはない
どこにでもある 水たまり
やがて消え失せていく 水たまり
わたしたちに肖ている 水たまり
わたしたちの深さ それは泥の深さ
わたしたちの 言葉 それは泥の言葉
泥のちぎり 泥のうなずき 泥のまどい
だが わたしたちにも
いのちはないか
空に向う いのちはないか
あの水たまりの にごった水が
空を うつそうとする ささやかな
けれどもいちずな いのちはないか
うつした空の 青さのように
澄もうと苦しむ 小さなこころ
うつした空の 高さのままに
在ろう と苦しむ 小さなこころ
休憩を挟んでの第二部は、フォーレのレクイエム。3大レクイエムの一つとされるこの曲の特徴は、あくまでも静かで透明である。儀式のためではなかったらしく、また「怒りの日」の部分がない事から批判もされたというが、フォーレ自身「死とは永遠の至福の喜びに満ちた開放感である」と述べているように、これは死を恐れる人のための子守唄だという。晩年の作であるこれは、彼自身のたどり着いた信仰の境地だったようだと、聞いたことがある。
この曲の時は、空色のヴェールは白に替わっていた 
 
外は光と命のあふれる5月、いずれも穏やかで静謐、内省的な曲の響きに包まれた会場であった。
終演後、陽射しがふんだんに差し込む階下のロビーでは、舞台の上にいた人とそれを楽しんでいた人たちとの自由な語らいがあちこちに見られたのも、今回はいつもと様子が少し違っていた。皆さん、お疲れ様でした、そしてありがとう!

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春の台峯歩き

異常の春の気象である。都心にも41年ぶりに雪が降った翌日の日曜日、久しぶりに晴れて春の陽気になるという。わたしも先月は休んだ(お天気も良くなかった)ので、勇んで出かけた。
しかし着るものに迷ってしまった。前の日はストーブをつけて冬のセーターで過ごしたし、朝はまだその寒さが残っているのに、予報は日中気温は平年並みに上がるというのだ。集まった人たちともそんな事を言い合ったりした。
さて今回は、初めての人もかなりいて、20名くらいの大勢になった。
見所は、桜はもう終わりに近いので、次々に咲き出す足元の小さな野の花たちである。次にいのちが萌えあがるという感じの芽吹きと茂りはじめる新緑。その次は、クヌギ、コナラ、エノキなどの地味な花。これらは花と言ってもキブシににた簪のような小さな房でしかないが、それも雌花、雄花があって、それらを観察しながら歩いた。
何と言っても4月は、目が醒めるような鮮やかさと柔らかさをもった新緑の美しさである。これはこの月でなければ見られない。3月はまだ動きがなく、5月になると多くの葉は動きを止めるという。後はだ固くなるのを待つだけ。ちょうど赤ん坊の手も足も小さく柔らかく、マシュマロのように食べてしまいたくなるように可愛いのと同様、この新葉もすべてサラダにして食べられそうである。
しかし赤ん坊の皮膚も年経るにつれ固くなり、心も自我という鎧をつけるように、草木の葉も固くなって食べられないようになって行くのである。
緑と言ってもこの季節さまざまな色合いのヴァリエーションがあり、それが雑木林を美しいものにする。十二単重(じゅうにひとえ)などという色合わせの感覚、緑に対するだけではなくさまざまな言葉があるのは、それほど色彩が季節の推移によって微妙に変化する自然によるものかも知れない。とくにこの緑の変化はこの短い4月の間に生じる
目の前だけを見ても、鮮やかな緑はシデ、ミズキ、ある種のカエデ、黄色っぽい緑はクヌギ、エノキ、白っぽい緑はコナラ。
少しだけ色見本の表現を挙げると草色、萌黄、若草色、若葉色、若緑、浅緑、わさび色、柳色、薄緑、白緑、きりがないのでやめますが・・・・。
今年は寒さが何度もぶり返したためかまだ桜が残っていた。このあたりは染井吉野ではなく、山桜、大島桜が多いからであり、また八重桜もまだぼってりと。
野鳥は今渡りの時期なので、オオルリ、ルリビタキなどを期待したが見られず、ただ解散時間のとき、一人が上空を渡るサシバを発見して、声をあげる。いわゆる老人の畑という見晴らしの良い場所ではこのサシバの渡りを観察する人がいる。高いところなので、望遠鏡でなければ黒い点である。私はこういう観察はダメで、結局目撃は出来なかった。
案内者のKさんは博識だけでなく、いろいろ面白い事や為になることを言う人だが、今日も一つだけ書くと、「春は下から立ち上がる」のだそうです。春になると先ず地面に近い草が萌え始め、次に低い潅木・喬木のようなものが葉を出し、高い樹が葉を繁らすのはずっと遅くなる。それは先に高い樹が葉を繁らせると、太陽を遮ってしまうからであるという。自然はたくまずそういう風にあらゆるものに恵みが行き渡るように仕組んだというか、それをうまく使ってそれぞれが生き延びているというか、なるほどと思った。

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如月の台峯歩き

春も間近の日曜日、快晴だったのにまさに「光りの春」、もう一枚衣を重ねばならないほどの寒さでした。そのせいか、又花の少ないこの季節なので参加者も12人ほど、そのため説明者の話の通りもよく、じっくりと観察して歩く事が出来ました。
今回は、樹木の幹や葉を落としてしまった枝や梢を見て木の種類を類推できるように、その手がかりを少しですが教わりました。これが観察として一番難しいことは実感しています。桜や梅や松ぐらいは分かるとしても、葉も花もない幹を見てその名前などほとんど分かりません。
でもこれが一番奥が深く又面白いのだそうです。なぜなら日本は森林の国、だからそこに生えている樹木のことが分かれば、そこの自然の情況が読みとれるということです。その地形や成り立ち、気象や人の暮らし、歴史まで・・・・。そしてたとえばそこに自然を守るという事はどういうことか、又どうしたらいいか、どんな木を切ったほうがいいのかまたは残すべきなのかetc・・。フムフム、しかし私としてはとりあえず身近な樹木だけでも、幹を見るだけで名前が分かるのならいいなあという気持です。
やはりこの識別は、なれた人でも難しい。すなわち図鑑や写真があっても個別の木は環境や樹齢などのよって違ってくるわけですから。だからこのように歩いて目で眺め触ったりしながらしか体験的には覚えられません。それがこのようにゆっくり歩く事によって、今日はほんの少しだけ(全く蟻の涙くらい)ですが分かった気がしました。
今日よく観察した樹木は、このあたりは雑木林ですから、その典型的な樹木、クヌギ、コナラ、これらは昔は薪などの燃料として利用されたわけで(ドングリが出来る)、この辺は半々くらいの数で、それゆえ両方の違いを比較するのに都合がいい。またイヌシデ、これは雑木林として利用する木ではないそうですが、また何故ここに生息するようになったかも分からず、しかもここが南限だそうです。
それから姿のいいケヤキ、これは太鼓や木材として良質なので、江戸幕府が政策として武蔵野などの植林させたので、それがいまその辺りに残っているのだそうです。その他エノキ、ムクノキも大木になるので、昔から注目されていますが、その識別も難しい。それも今回、事実物を目の前にしてよく観察しました。
また、今回は冬鳥を見るのに季節としては適しているとのことでしたが、あのきりっとして美しい鳥、モズの雌と雄の両方を、Kさんが持ち歩いている精度の良い重たい三脚つきの望遠鏡でしっかりと見られたことは感動でした。また枯れた田んぼで虫を啄ばんでいるムクドリの群れ、又カシラダカ(これも望遠鏡でじっくりと)も見られましたし、天空高く舞っているオオタカ(らしい)の姿も見ることが出来ました。これらは一人で歩いていては見逃してしまうのですが、それらをたちまち見つけてしまう鷹のように目のいいKさんがあってのことだと思います。しかし、この冬鳥も、最近は渡来が少なくなったという事です。
その他、湿地帯では赤蛙の卵。これは理事の方たちが水溜りをつくってくれたお蔭です。
そこで、もう終わりに近いというハンノキの雄花に注目させられたりしながら、充実した山歩きを楽しみました。

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T温泉行き(承前)

温泉行きに直接関係はないのですが、年頭に当って少しだけ。
帰った翌日の正月5日、BSの「日めくり万葉集」(もう再か再々放映になっていますが)を見ていましたら、次の歌が紹介されていました。
  「新(らた)しき年の始めの初春の
        今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)」 大伴家持
各界の人がそれぞれ心に残った一首を紹介するたった5分の番組ですが、とても興味深く聴きつづけていました。今回は、俵万智さん。育ったところが福井県なので・・いかにも新年に相応しいと。同じく家持もその福井、越前に国司として赴任させられ(左遷である)その地での正月の宴の席で作ったものである。
この歌は、4500首余りの最後に置かれたもので、これにはこの集を編纂した家持の気持が集約して込められているのだといったのは、篠田正浩さん。万葉集の時代、奈良時代は血まみれの権力闘争があった時代、しかも大伴氏は天皇に尽くしながら次第にそれからはじき出され排斥され没落していく過程でもあった。そしてこの集は家持の大伴一族の真情を守り抜くという信念から編まれたものであると。それゆえこの集は権力の非情さのアンチテーゼとして編まれているという。政治的にはそれら怨霊を鎮めるために「平安」と名づけ京都に遷都したのであるが、まさに今は「平成」、「昭和」という戦争に血塗られた時代から脱皮しようという願いもあるにちがいなく、何となく共時性を感じる。
新年と立春がたまたま一致しためでたい年であり、それを寿ぎ、この日しきりに降る雪
、そのようにいっそう益々吉事(よごと)、良いことが続きますようにという、情景とめでたいことを重ねながら詠んだ歌である。
口に出すことで良いことはやってくるという信念、「言葉」の力によって「事」を手繰り寄せようという家持の想いがあり、それがこの集に心血を注いだのだという篠田さんの解説が心に残った。
昨年は「源氏物語」を、さっとの走り通読であったが、やったので、今年は少し万葉集を読み込んで見たいという思いに駆られている。
そしてもっと言葉を信じ、言葉を大切にしようとも・・・。
以上が、雪の温泉から帰ってきた私の念頭の思いです。

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T温泉行き25年目も雪降り続く

からからの晴天が続いていたこの地に、昨夜から今朝にかけて雨が降りました。
やっとお湿りという感じです。でも日本海側はずっと雪が続き、大雪になっています。
新幹線によって列島横断がたちまちに可能になった今、大雪に閉じこめられたT温泉でのお正月は、たった2時間余の間に、まさに異国、または夢の世界からこの世界に戻されたという感覚になり、不思議な、懐かしい気持を抱きながらそれらを思い出しています。
例年通り今年も、暮れからお正月にかけて3泊4日のT温泉行きも、25回目になってしまいました。宿の人にもそのことを言われましたが、上には上があって、40回という人もあるようです。それだけ温泉自体が昔からいい湯とされてきたわけですが、この宿のもてなしもまたいいからでしょう。本当に最近ではここが正月に帰省する故里のような感じになってしまいました。
今年は一人が本当に異界である天国に旅立ち、7名になってしまいましたが、ほぼ常連だけのメンバー、一人は急に仕事が出来て一泊のみという状態です。
昨年と同じように暮れ近くから日本海側は雪が降り続き荒れ模様になって来ましたので、交通事情が心配でしたが、往復とも無事。上越新幹線は、雪への対策が十分にとられているので、かなり安心できるのでした。何年か前、大きく乱れた事がありましたが、それも確か雪自体というより電気系統の故障だったようです。実際私たちの往路も、大雪になっていましたが新幹線の遅れはなく、ただ在来線はストップしてしまったとか。宿への道路状態も、絶え間ない除雪と警戒によって、ほぼ正常どおり。しかしそういう風に大雪でも生活や行動に支障がないように計らうためには、並々ならぬ土地の人の努力と働きがその陰にあることを見逃すわけには行きません。やはり雪国の生活は大変だと思います。しかしそこにまた自然と向き合うことの手ごたえと、苦しみ喜びがあり、生きる事への実感もある。そのようなことを、観光客として快適な部分だけを味わわせてもらいながら、少しばかり擬似体験させてもらうという事ですが、細胞が目を覚ます感じがするのでした。
雪は三が日絶え間なく降り続けました。屋根に積もった雪が打ち上げ花火の音のような音を立ててときどき落ちてきます。メンバーも最近はスキーに出かける人もなく、専ら温泉三昧。後は勝手に本を読んだり、眠ったり。TVで箱根駅伝も見ましたが、こちら側の晴天を、雪に降り込められた中にいて眺めるということになり、つくづく山脈という自然の屏風が作り出す自然現象の面白さを思いました。ここの温泉は前にも話しましたが、人肌よりも低い温度なので、何時間でも入っていられるからです。最近は若い人もいるようで、水に濡れてもいい本を持ち込んで読書しながら浸かっている人もいましたが、今年は見かけませんでした。
料理も大晦日の鴨鍋をはじめ1日2日とそれぞれ違った鍋が中心で、刺身もまたその他の料理も土地の物産ばかり、海老や蟹や肉類といった金目のものは使わず、串に刺し炭火でじっくり焼いて頭から全て食べられる岩魚、天ぷらも山菜とキノコ類などと全てヘルシーで、しかも元旦はお屠蘇代わりに銚子一本、お雑煮、欲しい人には餡子餅、おせち料理は曲げわっぱに詰められた、いかにも土地のお母さんが作った家庭の味のするものばかりで、これは食べきれないので部屋に持ち帰りお昼用にする…といったものです。これら料理も昔からではなく、時代と共に変ってきたもので、宿の事情や世の中の動き、それらによって年々変化してきたもので、それらが判るというのも同じところに毎年行っているという面白さかもしれません。
お餅搗きも健在でした。始めは何の張り紙もなく(古い人たちによる新年会の案内は掲示されていたのに)、大雪なので男衆は雪掻きに駆り出されたりして今年はやらないか3日か、と思っていましたらいつもどおり2日に行うとの事、11時半に玄関に集まりました。いつものように2臼、昨年まで杵を持っていたお年寄の代わりに若い人が主人と一緒につきあげます。女の人が水をつかって裏返す方法でなく、男二人だけで杵で最後まで捏ね上げる方法を、実演で見せてもらいました。清酒と漬物も供され、小豆の餡子と黄粉、大根おろしに醤油、の三種、私は今年はその三種とも全部賞味し大満足。今年はよく撞き上がった、と主人の弁。(そんなこともあって、体重が少々増えたようです)
もう少し別の話もしたかったのですが、長くなりますのでそれは回を改めてということにします。

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冬の台峯歩き

きりっと晴れた冬空が続きます。
冬型の気圧配置、日本海側は大雪というのに、この辺りは乾燥した快晴の日々、雪か雨が恋しくなるくらいです。
この季節、白い富士山が一番くっきりと眺められます。先日あの富士で無残な遭難事故があったのだなあ…とあくまでも清楚な姿をみせてすらりと佇んでいる富士を仰ぎ見るのでした。
そんな先日の日曜日、恒例の台峯歩きに参加しました。20人くらい、トラスト運動について卒業論文を書くためにという大学生も2人加わっていました。
この辺りはまだ紅(黄)葉が残っています。でもやはり温暖化のせいか時期が早まっていて、本来ならばクリスマスの時期に当る様子だとの事。
この冬の時期、森の構造を見るのには適しているそうです。高い木は大抵落葉樹です。でも温暖化によってだんだん常緑樹が増える傾向にあり、埼玉の方が落葉樹が多く、三浦、湘南地方は常緑樹化していく傾向にあるそうです。潮風に強いのも常緑樹だからです。確かに海岸線にあるのはたいてい松林ですね。でもこのあたり松や樅の木が最近は見られなくなった、昔は山の天辺には大抵松があったと。
里山の将来については、結局は判らないのだといいます。人間の生活とも深く関係しているからでしょう。
第1の田んぼ。第2の田んぼも同様ですが、これらは昔の山沿いにある田んぼの姿を残した数少ないものだといわれます。山奥の田んぼほど、歴史は古いのだそうです。先ず棚田のように規模が小さく自然の地形に沿った曲線をも残した畦、冬場も乾燥せずに(ここでは特有の絞り水によって)常に湿っている。有名な米の産地の田んぼは、広々とした四角い田んぼで、冬は乾燥していて、稲作の時期だけ水路を通して水を引き込みます。広くて四角いので大型の機械を使うことが出来、それだけ収穫量も多く安定しています。それに対してこういう所は、人の手が必要なところが多く、採算が取れない。しかも収穫は2分の一ぐらい、税金その他いろいろ考えれば結果として一般の米作農家の10分の一ぐらいの採算にしかならないそうです。これでは残してほしいと頼む事は難しい事です。これらが何時まで残っているか、ただただ毎年願いながら眺めさせてもらうだけです。
見晴らしのいい、「老人の畑」で、まだ紅・黄葉を残してしっとりした色合いに染まった向かいの林を眺めやりながら日向ぼこ。しかしこの時期、冬越しする野草たちが春に向けて青々と新葉を生やしているのが見られます。昔畑があった草原に(松虫などを観察した草地)それらを眺めに歩き回りました。ここだけではなく道すがらあらゆる道端の草の赤ん坊たちが柔らかな芽や葉を出しているのです。それらを見て歩くというのが、今回のテーマでもありました。
ハコベは有名ですが、同じようでもウシハコベもあり、ムラサキケマン、アレチノマツヨイグサ、オオアレチノギク、ハルジオン、ヤブタビラコ、カモジグサなど、また一人前(?)になったセイタカアワダチソウ、ヤエムグラ(あの厄介者)、アケビなどは知っていても、幼い時の姿は教えられなければ分かりません。
この季節鳥を目撃するにもいい時期、しかも日本海側が大雪の時、このあたりは鳥が多く見られる。たぶん避難してきたのであろうとのことですが、今日はあまり見られませんでした。サシバなどが見られるといいのですが、大空を旋回していたのはトビでした。しかし白い小さな点のように飛んでいるのはヒメアマツバメだというのですが、わたしの目にはあまりはっきりとは捉えられませんでした。同じとき、白い鳥のようなものがゆっくり飛んでいくのが見えたのは、実は高みを飛んでいる飛行機であり、ああ飛行機も人間の造った鋼鉄の鳥なんだなと思ったものです。暫くして、爆音が届きました。
この間の大風で落ち葉が沢山落ちたようです、と言われた通り山道には乾いた落ち葉が積もっていたので、それらをさくさくと踏みしめながら、新雪の中を歩くような心地よさを味わい、冬場の散策を楽しみました。

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ドキュメンタリー映画『いのちの食べかた』

「食べる」ことを見つめれば、どうしても厳粛にならざるを得ない。
生きものは、全て自分以外の「いのち」をもらって生きている。しかしその「いのち」もまた、生きる権利をもって生まれてきたはずのものだからである。
昔は、その命のやり取りの現場に立ち会うことが多かった。しかし今はそれらは綺麗にラップされ、スーパーに商品として並べられている。人口が増えるにつれ食料の増産が不可欠で、私たちに馴染のあるのはブロイラー方式で育てられる鶏や卵のように次第に大規模な生産方式が考えられて来るのはやむを得ないことかもしれないが、その最極端というかグローバル化された大規模な食料生産工場(まさに工場のイメージである)の現場を撮影したドキュメンタリー映画である。(2005年、オーストラリア・ドイツ)
遥かかなたにまで伸びる工場の中で、ほとんど人の手も煩わさずオートマティックに
大量に処理され、解体されていく豚や牛や鶏。それら行程と現場を、全くナレーションなしに淡々と映していく。その機械的で整然とした画像は、時には美しささえ感じさせ、それゆえいっそう恐ろしさとおぞましさで胸がふるえる。
「誰もが効率を追究した生産現場の恩恵を受けている。それなのに、その現場を知っている人は本当に少ないのです。」と監督は語っている(パンフ中の言葉)が、効率よく最良の肉をとるためにどのようにするか、餌から育て方、処理の仕方まで、人の手によって管理され、全てを機械によって製品化していく生産現場が、生々しく映しだされる。もちろん動物だけでなく、リンゴのような果物、パプリカやトマトやキャベツ、キュウリなどの農産物も同様で、先が霞むほどの長くて大きいビニールハウスの完全に温度調節された環境に中で育てられ、収穫する人間も、移動する機械に乗ってである。そこには土などという厄介なものが無くても良い。養分をしみこませたスポンジのようなものに生えていたことが、収穫が終って枯れてしまった苗を片付けているときに分かったりもした。魚も例外ではない。日本での養殖なども規模の違いはあれ同じかもしれない。大地一面に広がった向日葵畑。その上空を薄い布をかけるように、飛行機が殺虫剤を撒いていく。その殺虫剤をガラス室のパプリカに無人の自走式散布機を撒いている。
大なり小なり、命をとることは同じではないか、という問いは当然出てくる。
しかし最良の肉を大量に作るために、生殖まで人の手で行い、しかも生まれてきた子豚・子牛を乳首にくわえさせたまま回転していく小さな空間に閉じこめたまま成長させるなどというのは、生命そのものを生きさせるのでなく単に肉を製造しているという感じである。傷のつかないまたは発育を促進するためか分娩させないで腹を割いて取り出したり、肉を新鮮にしておくために電撃波で気絶状態にしてぶら下げ、そのために固まらない血を逆様な状態なので十分に抜くなど(日本人のやる魚の活き作りなどを外国人が残酷と非難するが)、命を食べる人間の傲慢さを思う。
日本でも牧場では食牛を育てている酪農家がいるが、少なくとも手塩にかけてというふうに育て、送り出すときには胸を痛くする。そういう人間味があるのは小規模だからできることである。しかしブローバルな工場では、そういう人間性が全くなく、まさに工業製品と同じである。ほんの少数働いている人たちの無表情で無言に近い姿、一日中であろう淡々と豚の手首を、また切り鶏の首を落としている女性、そのような中でもお昼のパンをただ一人も黙々と食べている、そういう人間の姿も映している。
このグローバル化していく「食べる」ことの反対側に、アイヌやアメリカ原住民などの食生活があるだろう。アイヌは熊を食べるが同時にそれは神であり、姿を変えて人間に食を与えてくれているのだと、神として崇めた。その全てを利用し必要以外は捕獲しなかった。これは今でも昔どおりに暮らしている原住民たちの間では同様のことだろう。
ここまでになってきた私たちの食生活。
牛は中でも人間に近しいので、それが生殖のはじめから命を終える最後まで、工場の中で単なる食肉製造物として扱われている現場、盛り上がった筋肉をつけた牛たちの虚ろに見開かれた眼などを眺めさせられていると、狂牛病が発生するのも当然という思いにさせられる。
かつて宮沢賢治の作品について井上ひさし氏が「じゃんけんポンの法則」といわれたことを思い出す。出てくる熊と猟師と旦那の3者の関係は、じゃんけんポンの関係、すなわち熊は猟師に負け、しかし旦那には勝つ(無手の人間は襲える)、猟師は熊に勝つが、旦那には頭が上がらないという関係、すなわち唯一の勝者は無く、そういうバランスの中で生きているのだと・・・。
命の大切さは分かるが、同時に命という業をも持っているのである。
「食べ方の作法はどうでもいい。見つめよう、そして知ろう。自分たちの業と命の大切さ、そして切なさを。」とこの映画への賛辞を森達也氏が寄せている。
 

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紅葉し始めた台峯。

このところ冬と夏が入り乱れた感じのお天気が続いていますが、昨日の日曜日は何とか秋らしい日和となりました。いつもの台峯歩きの日で、幸運でした。
その前日は南風が入って大雨になりましたが、こういう降り方は3月によくある現象でこの季節には珍しいとのこと、しかしまた12月並の寒さのときがあったりして、そのせいか今年は紅葉が早いとのことです。
前にも書きましたが、この辺りの紅葉はゆっくりしていて、また地味でもあります。11月末から年末にかけて変化していきます。見頃は12月に入ってからでしょうか。この時期紅く目立つのはハゼの木です。アカメガシワやエノキの黄葉、ケヤキの褐色、カエデは種類や木によってはまだ緑のままのものもあり、むしろ山芋の葉などに見られる草もみじの方に目が行きます。案内のKさんは、こういう微妙に変化していくもみじ、地味だが味のある推移をしていくこのあたりの秋もまた好きだというのです。そういうこともあって、今日は、木の実、草の実に特に注目して歩くということになりました。ドングリなどはすぐ頭に浮かんできますが、全ての木や草は実をつけるわけで、改めで眺めてみればその多くは秋にあり、特に草の実(種)がいかに独特の形をもち、子孫を増やすための戦略に長けているかが分かり、感心します。皆さんの衣服にどんな草の実がくっ付いて来るか、最後に皆で見てみましょう・・・とKさん。
上空にトンビが舞っています。その他、今日見られた鳥は、カシラダカ、アオジ、セキレイ、ヒヨドリでした。
第一の田んぼ、第二の田んぼとも稲刈りが終っていましたが、暖かさのためか青い稲が切り株から生えていました。最初の田んぼには稲を干している稲掛けも見られましたが、この光景も何時まで見られることでしょう。
台峯の入口から遠望する山並みも今日はよく見え、雪を頂いた富士も眺められましたが、何となく霞がかかっているようでやはり春の感じ、冬季のようなくっきりとはしていません。雪も少し前より少なくなったようで、やはり少し解けたのではないかーと。
このコースの展望台である老人の畑の手前の 大木となったカラスザンショウもたくさんの実をつけていましたが、ここには沢山の鳥がそれを食べにやってくるとのこと、(この実はかんでみるとどこかサンショウの香りがするが食べたくはない、害はありません)すなわちこれらの木や草の実は鳥たちの、また昆虫たちの冬に備える食料であるわけです。ですから雑草や下草を刈る場合もそのことを考えて、手をつけねばならないのです。
Kさん手製の実録資料図鑑による「くっつく実の植物」だけを列挙してみましょう。
イノコズチ、ヌスビトハギ、ミズヒキソウ、キンミズヒキ、チジニザサ、センダングサ、ミズタマソウ、チカラシバなどです。
最後にわたしの衣服にくっ付いてきた草の実は、センダングサ、ミズヒキソウ、イノコズチでした。それらは持ち帰らないで、なるべくここに落としていってください、そうすると、彼らも発芽する機会がもてますからと言われてそうしましたが、ナイロン製でほとんど付かないだろうと思っていたものにもちゃんと付いているのには感心しました。

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冷泉家の歴史と文化(つづき)

冷泉家とは一体何なのだろうか。実は私はよく分かっていなかったのである。藤原俊成、定家から延々800年続いてきた「和歌の家」と言う程度の知識である。それゆえに和歌の勅撰集をはじめとする和歌集だけでなく「明月記」や「源氏物語」などの写本まで、重要文化財が8つの倉にどっさり納められていて、それをずっと守り続けてきた家系だというぐらいの判りかたであった。
冷泉という姓も、天皇の場合のように(朱雀帝、桐壺院など)その家の在り場所で呼ばれる例で、3兄弟の二条家、京極家に対して、末っ子の藤原為相邸は冷泉にあり、彼から一族は始まるからである。だから本当の姓は藤原であったが、近年になって藤原では同姓が多すぎるので、区別するために冷泉を名乗るようになったのだという。
さて冷泉家というのは何か。言って見れば、和歌の「家元」という事である。日本の文芸・芸能の多くは家元制をとることが多い。お茶やお花から、能や歌舞伎やその他、一子相伝の家元によってその芸は受け継がれてきている。そんな家元である。
現代詩はそういう日本の和歌的抒情から先ず抜けだそうとしるところから始まった。もちろん短歌や俳句を書いていた人が詩を書き始めたり、また反対に詩人が短歌や俳句を取り入れたりすることがあったりするが、初期はむしろそれらに傾こうとする事を潔しとしなかったのではないだろうか。今でもpoemとして根っこは同じであっても決して
それらに手を染めない人もいるし、私もちょっとだけ短歌や俳句を作ってみたりしたが、それぞれにおくが深いわけであるし、そちらには行かなかった。
現代詩はそういう伝統から見ると異端児的である。しかし冷泉貴実子さんの言うように七五調というリズムは、遺伝子の記憶として自分の中にある。もちろん伝統が全て良しというわけではなく、たとえば花柳幻舟さんのようにと例を挙げ、家元批判の気持も分かるけれど自分たちはただ祖先の遺産を守り続けてきたと話された。
芭蕉のいう不易流行なのだろうが、現代詩に関わってきたものとしては、その伝統の素晴らしさ、力に感嘆しつつもちょっと複雑な気持にもなるのだった。
これら家宝の数々については、新聞にも宣伝され、東京都美術館で展覧される事になっているからここには書かないが、面白いと思ったことを少し。
大体において、日本では祭政一致は平安朝以降は無くなり、実権は武士が握り、また明治以降は、政治の中心まで東京に移り、貴族は公家ということになったが、政治に携わることをしなくなった彼らは一体何をしていたかということである。
一体何をしていたのか?
それは年中行事を行っていたのだという。すなわち新春のための準備(掃除、餅つき、飾りつけ)からお正月の行事、その後節分、お花見、端午の節句や七夕、お月見などなど四季折々の行事を、昔行われていた通りに今も踏襲しているのである。明治以後、東京に逝ってしまう公家たちも多い中で、冷泉家だけは昔のままの750坪の古い屋敷に昔のままの年中行事を延々と800年間続けてきたのだという。まさにここには「源氏物語」の世界がそのまま残っているのである。
「源氏」を読んでいると、ここには政治のことは出ていないので、貴族たちはいわゆる年中行事を行いながら管弦の遊び、詩歌の作成や朗誦に明け暮れている場面ばかりであるが、まさにその世界を今日まで守り、引き続いているという事を知って驚嘆した。
それが一体何の役に立つか、また何故そうするのか、分からないが、しかしそれが文化というものではないだろうか。それが大切な事だと先祖から言われているので、それをただ自分たちはやっているだけだとも。
しかし8百年間、当代で25代にわたる期間守り続ける事はやはり大変だったようだ。日本本土の爆撃にも、京都であったことから免れたが、その後の経済バブル期を切り抜けることは大変だったようで、そして今日は相続税の問題など、やっと新聞による発掘で学術調査が入り財団法人になったことで、これらが守られたのである。
そういえば、今の天皇家の仕事も公務のほかに、宮中のさまざまな行事も大切な仕事のようで、冷泉家と同じようなものだなと、思い至ったのであった。
もう一つ、この冷泉家の存続に大きな役割をしたのが、あの「十六夜日記」を書いた阿仏尼であるということを知った。はじめに書いたように3兄弟の末っ子の為相が一代目になるが、その母親がその阿仏尼。彼女は女でありながら息子の相続問題で訴訟を起こしはるばる鎌倉幕府に訴えにきた、しっかりした文学的な才もある人で、それが認められて家の復興が遂げられたのである。上の二人は、父親からは目にかけられていたのにもかかわらず、政争に巻き込まれて家は断絶。まさに祖父に当たる定家の有名な言葉「紅旗征戎わがことにあらず」が、この家を守ったのである。
これは「源氏物語」が世界に誇れる文学作品であるように、倉の宝物と同時に、家という生きた文化財もやはり世界に誇るものであろう。ただその家に生まれた人は宿命だとはいえやはり大変だろうなあと思った。

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