ドキュメンタリー映画『いのちの食べかた』

「食べる」ことを見つめれば、どうしても厳粛にならざるを得ない。
生きものは、全て自分以外の「いのち」をもらって生きている。しかしその「いのち」もまた、生きる権利をもって生まれてきたはずのものだからである。
昔は、その命のやり取りの現場に立ち会うことが多かった。しかし今はそれらは綺麗にラップされ、スーパーに商品として並べられている。人口が増えるにつれ食料の増産が不可欠で、私たちに馴染のあるのはブロイラー方式で育てられる鶏や卵のように次第に大規模な生産方式が考えられて来るのはやむを得ないことかもしれないが、その最極端というかグローバル化された大規模な食料生産工場(まさに工場のイメージである)の現場を撮影したドキュメンタリー映画である。(2005年、オーストラリア・ドイツ)
遥かかなたにまで伸びる工場の中で、ほとんど人の手も煩わさずオートマティックに
大量に処理され、解体されていく豚や牛や鶏。それら行程と現場を、全くナレーションなしに淡々と映していく。その機械的で整然とした画像は、時には美しささえ感じさせ、それゆえいっそう恐ろしさとおぞましさで胸がふるえる。
「誰もが効率を追究した生産現場の恩恵を受けている。それなのに、その現場を知っている人は本当に少ないのです。」と監督は語っている(パンフ中の言葉)が、効率よく最良の肉をとるためにどのようにするか、餌から育て方、処理の仕方まで、人の手によって管理され、全てを機械によって製品化していく生産現場が、生々しく映しだされる。もちろん動物だけでなく、リンゴのような果物、パプリカやトマトやキャベツ、キュウリなどの農産物も同様で、先が霞むほどの長くて大きいビニールハウスの完全に温度調節された環境に中で育てられ、収穫する人間も、移動する機械に乗ってである。そこには土などという厄介なものが無くても良い。養分をしみこませたスポンジのようなものに生えていたことが、収穫が終って枯れてしまった苗を片付けているときに分かったりもした。魚も例外ではない。日本での養殖なども規模の違いはあれ同じかもしれない。大地一面に広がった向日葵畑。その上空を薄い布をかけるように、飛行機が殺虫剤を撒いていく。その殺虫剤をガラス室のパプリカに無人の自走式散布機を撒いている。
大なり小なり、命をとることは同じではないか、という問いは当然出てくる。
しかし最良の肉を大量に作るために、生殖まで人の手で行い、しかも生まれてきた子豚・子牛を乳首にくわえさせたまま回転していく小さな空間に閉じこめたまま成長させるなどというのは、生命そのものを生きさせるのでなく単に肉を製造しているという感じである。傷のつかないまたは発育を促進するためか分娩させないで腹を割いて取り出したり、肉を新鮮にしておくために電撃波で気絶状態にしてぶら下げ、そのために固まらない血を逆様な状態なので十分に抜くなど(日本人のやる魚の活き作りなどを外国人が残酷と非難するが)、命を食べる人間の傲慢さを思う。
日本でも牧場では食牛を育てている酪農家がいるが、少なくとも手塩にかけてというふうに育て、送り出すときには胸を痛くする。そういう人間味があるのは小規模だからできることである。しかしブローバルな工場では、そういう人間性が全くなく、まさに工業製品と同じである。ほんの少数働いている人たちの無表情で無言に近い姿、一日中であろう淡々と豚の手首を、また切り鶏の首を落としている女性、そのような中でもお昼のパンをただ一人も黙々と食べている、そういう人間の姿も映している。
このグローバル化していく「食べる」ことの反対側に、アイヌやアメリカ原住民などの食生活があるだろう。アイヌは熊を食べるが同時にそれは神であり、姿を変えて人間に食を与えてくれているのだと、神として崇めた。その全てを利用し必要以外は捕獲しなかった。これは今でも昔どおりに暮らしている原住民たちの間では同様のことだろう。
ここまでになってきた私たちの食生活。
牛は中でも人間に近しいので、それが生殖のはじめから命を終える最後まで、工場の中で単なる食肉製造物として扱われている現場、盛り上がった筋肉をつけた牛たちの虚ろに見開かれた眼などを眺めさせられていると、狂牛病が発生するのも当然という思いにさせられる。
かつて宮沢賢治の作品について井上ひさし氏が「じゃんけんポンの法則」といわれたことを思い出す。出てくる熊と猟師と旦那の3者の関係は、じゃんけんポンの関係、すなわち熊は猟師に負け、しかし旦那には勝つ(無手の人間は襲える)、猟師は熊に勝つが、旦那には頭が上がらないという関係、すなわち唯一の勝者は無く、そういうバランスの中で生きているのだと・・・。
命の大切さは分かるが、同時に命という業をも持っているのである。
「食べ方の作法はどうでもいい。見つめよう、そして知ろう。自分たちの業と命の大切さ、そして切なさを。」とこの映画への賛辞を森達也氏が寄せている。
 

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