映画『プライドと偏見』を観る

この映画は見たいと思いつつそのままになっていたが、幸い近くの館にやってきたので出かけていった。
私には非常に面白く、楽しく、いろいろ感じ、考えさせられることが多かった。
ジェーン・オースティン原作『高慢と偏見』は読書会でも取り上げたことがあって、その時アメリカで暮らした経験のある人から、これは向こうでは時代に関係なくベストセラー的な人気のある作品だというコメントが出たが、なるほどということがこの映像を見てよく分った。中心にあるのは、人間の誠実と真実の愛の物語であり、背景となるのはフランス革命の余波が押し寄せている18世紀末のイギリスの田舎町、爛熟のきわみにある上流社会と新興の市民階級のハザマに位置する、中産階級の一家が舞台となっている。
漱石がイギリスに留学するのもこの頃で、すなわち大英帝国の絶頂期(というのは衰退を内臓)にあたる。
昔読んだ時、題自体がよく理解できなかった。原文は「PRIDE & PREJUDICE」。映画では今日本でも普通になったプライド、いわゆる自尊心が使われているが、これのほうが適切だと思う。それが嵩じると、高慢になるのであるが。誰しもプライドを持っている。それが自立の発祥地点であり、それを確立することが個人として自立することだろう。しかし制度や環境によってそれがもてなくなる、または潰されることがある。
田舎の中産階級のこの一家は、夫婦と年頃の5人の娘から成っている。当事、娘には相続権がなく、たとえ今相応の財産があり裕福に暮らしていても父親が死ねば、一家は路頭に迷うことになるのだそうだ。こういう今では考えられない理不尽な法律が厳然としてあったのですね!(ここでも父の死によって相続権を持つことになる遠い親戚の甥が登場して、一家に自分の権威を見せびらかす)。
ですからそうならないためには娘たちに一刻も早く財産のある夫を与えなければならない。だからまた、娘たちの関心は、夫にふさわしい男をいかに見つけるかが最大の関心事とならざるをえない。
その中で次女のエリザベスだけは読書を好み(当事女は読書などはしない方がいい、ピアノ、絵画、ダンスといったブルジョワ女性の花嫁修業が大切)変わっていて、それらの常識に批判的で、すなわち自分の意見をしっかり持っていて、それをはっきり口にするいわゆるプライドの高い女性として登場させるのである(もちろん作者の分身でもある)。そして同じように階級社会という枠組みと常識の中に住む男たちの中での変わり者、ダーシーという上流社会の男を登場させ、最初は互いに誇り高いがゆえに反発し、誤解するのだが最後は互いの誠実さと真実の愛を認識し、階級を超えて結ばれるという結末だが、そこに至るまでのさまざまな事件によって当時の階級社会の有様、さまざまな理不尽、その暮らし、またその素晴らしさと愚かさなどについて映し出される。
すなわちそういう階級制度に縛られた社会の中で、自分のプライドを大切にした二人の男女が、その枠組みと闘いながら、それを超えて結ばれると言う、個性の自由と発揮をテーマにした物語であると読み取ることが出来る。
ここでは一人の男と女の、プライドと偏見だが、それは多分当時の階級社会へのそれを暗示し、象徴として描いているのではないかと、この映画を見たときによく判ったのだった。文字だけではなぜかしっくりと行かなかった。なぜならそれを日本の風土と社会の中で理解するしかないのだが、それでは良く分らなかったのだと思う。
漱石も確かオースティンに興味を示していて、最後に作品『明暗』のヒロインお延をそのような自立しようとする女として描こうとしたとか? こういう説を聞いたことがあるが、不確かなので断言はしないで置こう。こういうことを思ったのも、文字だけでは読み取れなかったのは私の浅学のためだが、映像の力を感じた。
ある小説を読む時、そのバックとなる社会や文化と言う土壌を知らないでは理解できないことがある。例えば谷崎の『細雪』(これも4人姉妹の結婚にまつわる話なので)、これも船場と言う土地やそこでの裕福な商家やまた日本の風土について、多少の知識がなければその面白さが味わえないように、この小説も映像で、田舎のブルジョワから一流の貴族の館や領地(全て今残っている館など実際のものを使ったと言う)を舞台にしているので、ストーリーや人々の会話が臨場感を持って初めてその面白さが理解できたような気がした。
最後に、これを見ながら感じたことは、言葉と言うものの使われ方の彼我の違いである。社交も恋愛も、また家族の間の交流も言葉によるのだと言うこと。何と言っていいかわからないのだが、言葉のあり方が日本とは大きく違うことが感じられたのである(当然だ、いまさら何をと言われるだろうが、)。なぜかひどくそれを感じた。
次にイギリスの階級社会というもののすごさと言うか、文化の厚みと言うか、日本とは桁違いの大きさ重厚さを感じた。日本の階級制度が紙と木で作られたものだとしたら、あちらのは固くて大きく重い石で作られたもののような気がして、これを壊すにはやはりフランス革命のような強烈な嵐が必要だったのかもしれない、それでもまだ壊れていない部分もあるのだからなどと考えた。
少々纏まりのない文章になったが、浮かんでくるあれこれを言わぬは「腹ふくるる気」がするので書きとめることにします。

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