フリ・フル・フレ

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今年のバレンタインアレンジです。ハートが多すぎだけど、まあいいことにします。壁掛けは造花の花びらで作りました。
 
   ほら、ここだよ
 背中が少しだけ痛いのは、きっと剝がれて消えた翼のせい。時間の軸を 
 ちょっとずらしてみると、あそこにもここにもうさぎ穴が見えてくる。テーブルには
 野菜の卵にヒマラヤの塩。さあ、お茶会の準備は万端。
上記の言葉は、青森在住の佐藤真里子さんの詩集『見え隠れする物語たち』の帯文です。
最近土曜美術出版販売から刊行された七冊目の詩集で、雪の結晶が浮き出た装幀はとてもステキな仕上がり。内容は冬の物語、春、夏、秋と季節でわけられた物語たちで構成されていてゆったりとした時間が流れています。パステルカラーのシフォンのような時間です。今年の冬は豪雪で大変。もちろん佐藤さんのお宅も例外ではありませんが、佐藤さんにかかるとこんな雪物語になります。
    フリ・フル・フレ
              佐藤真里子
 振り返ると
 足跡も消えて
 かいてもかいても
 フリ・フル・フレと
 降り積もる雪
 どこに消えたの
 あの色彩に満ちていた地上は
 すべてを白く包んで凍らせ
 レース模様の結晶が残るわた雪
 ヨーグルトにかけるお砂糖のこな雪
 地表の雪を吹きあげ頬を打つ地吹雪
 フリ・フル・フレと
 絶え間なく降る雪の向こう
 霞みながら駆けてくる白い馬が
 さっきまで
 暖炉のそばでめくっていた
 絵本*の温もりを連れてくる
 ページからこぼれたはりねずみは
 雪かきで汗ばんだわたしの胸を
 すすっと
 すり抜けて
 野苺の蜂蜜煮を大事そうに抱え
 恋人のもとへと急ぐ若者
 すすっと
 すり替わり
 はりねずみのわたしは
 雪かきシャベルを握り
 フリ・フル・フレと
 見上げる雪空に
 吸い込まれていく
             *絵本『きりのなかのはりねずみ』
      

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ソワレイ

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     ソワレイ                                            木下夕爾(1914-1965)
      1
 罠にかかった獣のやうに
 夕暮は戸口に来て
 すわっている
 わらくづほどの光をつれて
 あ 乾草いろの月がのぼった
 少年たちは
 ハモニカのやうに
 たうもろこしの実をくはへて
 紫蘇畑の方へ出てゆく
      2
 ゆふぐれが来て美しい網をひろげる
 そして捕へる まだあそんでいる子供たちを
 エエテルのやうに 空気は軽くいい匂ひがする
 僕は木かげの石に腰かける
 それはさつきまで夏が抱いてあたためていた白い卵のようだ
 あたりにすずしい時間が立止る
 僕はおとなしい家畜の眼をする
 樹脂が流れる方へ向つて 僕の耳はひらかれる
 遠い沼がマグネシウムのやうに光つている・・・・・・
 この詩を読むと、どこかなつかしい気持ちにさせられてしまう。淡いものがゆるやかに流れていて、とても美しい。

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内面への道

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トクサ10本と水仙のアレンジ ぐるぐるっとまいてあるのは、トクサにワイヤーを入れて作ったもの。スイトピーとか明るいものも入れると、もっと華やかになるかな!!!
 16才のアルバムにこんな詩が書いてあった。当時はもちろん大真面目なんだろうけど、何考えてたんだろうねえ!と人ごとのように思う今日この頃。
  
      内面への道
           ヘルマン・ヘッセ
 内面への道を見出したものには、
 熱烈な自己沈潜のうちに、
 知恵の核心を、つまりは、
 自分の心は、神と世界を、形象として比喩として
 選ぶに過ぎぬ、ということをほのかに感じるものには、
 すべての行為と思考とは、
 世界と神とを含む
 自己の魂との対話となる。

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老年

P1010846.JPGレモン3個使っての早春のアレンジです。
尾世川正明さんが1980年に出された詩集『花をめぐる神話』のなかに「老年」という詩があります。こんな旅にそのうち出れたらいいなと思っています。そのために今すこしずつ準備しています。
       老年
            尾世川 正明
  いつかある日、老いて背骨がきしみ、顔に
 は汚いしみが浮き、髪も落ち、白ぞこひに瞳
 もくもり、人々が私を腐肉を見るように嫌う
 とき、私は日々を託した習慣を逃れ、残され
 た自負を捨てて旅に出ることができるだろう。
  からだは町に縛られていようとも、こころ
 は全く見知らぬ方角へ、黙々として歩み去り、
 そのまま戻ってこないだろう。どこか遠い海
 辺に立って、石板に無意味な文字を刻みつけ、
 森に住み、葉脈の不吉な模様も読むだろう。

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ヤマと狐(医師と見舞客)

南川隆雄さんの個人詩誌『胚』36号のずいひつ欄に「狐のお医者」という話があった。出所は昨年復刻された画文集『炭坑(ヤマ)に生きる 地の底の人生記録』。この画文集は、著者の山本作兵衛が記録した炭坑の絵画、日記、ノートであり、ユネスコ認定の「世界記憶遺産」として日本では初めて登録されたものである。実は私も買っていて、この狐の絵と話はとても印象に残っていた。明治32年秋、作兵衛の住んでいた藁葺き納屋の壁一重裏隣の家の主人がガス爆発で全身やけどを負った。奇跡的に病状は好転しはじめたので、ほっとしてるときに不可思議な事件がおこる。ある夜おそくヤマのものじゃという集団がやってきた。二人医者もいる。乳飲み子を抱いた女たちや男たちが口々に災難の悔やみをのべ、医者が自分が治療すればよくなるといって包帯をはずし焼きただれた皮をむきはじめた。これではやくよくなるだろうと女房に言って夜明け前にはひきあげた。女房も寝不足の疲れがあってかうつらうつらして朝目が覚めるともう主人の体は冷たくなっていたという話だが、これが狐のしわざであったらしい。狐はガス焼け患者の火傷の皮が大好物で皮のためならどんなひどいことでもするらしい。絵を見ると狐が着物を着て座っている。しっぽもふさふさとでている。どうして気が付かなかったのだろうと思うかもしれないが、安物のランプひとつの暗いへや、女房は目が悪く、主人の弟は完全な盲人、あとは4才の女児がいただけである。麻は魔除けの力があるので、ガス焼け患者がでると冬でも麻の蚊帳を吊って寝かせるそうだが、それもしてなかった。それとこういう場合、黒豆を煮ておいて見舞客にはかならずその豆を手の腹にのせるそうだ。狐にはできないからである。それと狐は敷居をまたいだり座敷にあがるとき人間のように片足ずつができなくて両足一緒にとびあがるそうだが、目の悪い女房には判別つかなかったのだろう。「一寸眉唾ものだが実際にあったことだから致方がない」と作兵衛は書いている。
炭坑の問題は、きっかけのせいにしてはいけないが、あまり関心をもったことはなかった。それが数年前に、荒尾市の杉本一男さんから詩集『消せない坑への道』を読ませていただいて、その現実にびっくりしてしまった。といっても何ができるわけでもないが、頭の隅にはいつもあって、この画文集はすっと手にとっていた。この詩集はうれしいことに、第34回坪井繁治賞を受賞されている。杉本さんの年賀状(公開してすいません)には筆でこう書かれていた。  
  命を壊し  心を裂き  体に突き刺さる  ときが過ぎ   地の底の
  うたが聞える   龍よ   飛べ    よみがえれ  海よ山よ

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公園ニ咲ク花

今日は「公園ニ咲ク花」を読んで、びっくりした。平林敏彦さんの『戦中戦後詩的時代の証言1935-1955』に引用されていたのだが、斬新な言葉の使いかたにかたまってしまった。戦後の社会風俗を書いたこの詩は1945年12月5日付神奈川新聞に掲載されたものである。当時の様子を平林さんはこのように書いている。「・・・入社した当時からぼくがやりたかったのは文化欄だった。はからずもそのきっかけになったのが、未知の読者からの投稿である。手作りのものらしい祖末な封筒に入れた原稿を開封したデスクが、さして興味もなさそうな顔でこういった。「平林君、こりゃきみの領域だな。詩だよ、意味はわからんが読んでみたらどう?判断はきみにまかせるから」、「へえ、詩ですかあ?」とぼくは失望させられることも予想して、はんぱな返事をした。それがハンパじゃなかったのである。」とある。敗戦のわずか3か月後である。当時の状況を考えれば、モダニズム的手法で書かれたものすごい詩(モダニズムがすごいということではなくて)が投稿されてきたということであろうが。そんな時代とは関係なくとても心惹かれている。たぶん読んだのは初めてではない(と思う)。それなのに今日なにしろ気になるのである。詩とは不思議ないきものである。
     公園ニ咲ク花
             富塚漢作(中島可一郎)
 公園ノ花々ハ冷タイ。
 初冬の霜ノさかづきクミホシ
 風ニ背中ヲ打タセテイル。
  ア チュウインガム
 唇ハびろうどノヤウニ濁リ。
 腕ハかはたれ色ニヒカッテイル。
  ア チョコレート。
 気マグレナ黒髪ノ噴水達。
 小熊ノヤウニ物慾シサウナ黒水晶。
  ア ドロップス。
 妙ナアクセントガ咲イタリ萎ンダリスル。
 勲章ノヤウニ胸ノ刺しうガ伸ビ縮ミスル。
  ア ラヴユー。
 公園ノ花々ハ冷タイ
 初冬ニはるノ附文モラヒ
 日向ニ目尻ヲ焦ガシテイル。
        *本文のイの表記は昔のイ
  

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新年

 あけましておめでとうございます
元日は毎年、親戚ごちゃごちゃで過ぎてしまう。のんびりするのは二日から。箱根駅伝を見ながらうろうろといった感じだけど、今朝は訃報がとびこんできた。それほど近くにいた人ではないけど、昨日ふっと思い出していた。ほんとに一瞬だったけど。やはり寂しいものがある。今年は少しでも良い光がみえますように。
    新年      
            小柳玲子  
   ー昨秋、父を亡くした。元旦、墓参に立ち寄ったら結構楽しそうであった。安心した。
 「やあやあ、久しぶりだな。元気か?正月だ、おめでと
 う、おめでとう。幾つになった?」
 ー九十と十か月だよ、おまえ。ところでそっちは幾つに
 なった?
 「おれ?おれは二十さ。永遠のハタチだ」
 ーそうか、ハタチか。おまえはそのあたりで死んだもの
 な。永遠もへちまもない。あたりまえだ。いや、新年おめ
 でとう。
 「で、おまえの愛らしい奥方はどうした、元気か?」
 ー八十六だ。愛らしくない、梅ぼしばあさんだ。ぼけ
 ていて困る。去年は焚き火で百万円燃やして、手をあたた
 めた。
 「そうか。人間はみんなボケる。フリージアのようだった
 お嬢ちゃんたちは相変わらずかね?」
 ー一度もフリージアのようではなかった娘たちもみんな
 ばあさんになった。そのまた子どもたちもオヤジとオバン
 だ。
 「歳月は待ってくれない。仕方なし。おれは永遠のハタチ
 で・・・悪いな」
 ーハタチ、ハタチとうるさい奴だな。ところで正月から
 なにをしている、こんな所で。
 「そうだ、最近おまえのいとこのいとこが死んだという噂
 だ。おれは昔逢ったことがある奴なんで、迎えにきてやっ
 たんだ。結構ここも道が複雑なんだよ。おまえのいとこの
 いとこに逢わなかったか?」
 ーおれのいとこはおまえで、そのいとこはおれだ。簡単 
 なことをややこしくいうな。
 「そうか。おまえのいとこのいとこはおまえか。ずいぶん
 老けたな。九十と十か月か。老けても仕方ないか。おれは
 ハタチだ。悪いな。いやよくきてくれた。正月だ。まず
 はめでたいおめでとう、あけましておめでとう!」
         詩集『さんま夕焼け』から
   (ー昨秋 のところは小文字で二行書きだが、表示できなかった)

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風は昼さがりに

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家のまわりはとても静か どちらかというと年配の人たちが住んでいるので、外まわりはとっくにすませてある。窓なんてどの家もきれい!!! 同じ年配でもあたふたしているのは私ぐらいか?で掃除はもうあきらめて、今年は黒豆や小豆をもらったので昨日からせっせと(?)台所に立っている。ごまめに身欠きニシンに栗きんとんにぜんざいに・・・・作るのはいいが誰が食べる?という疑問ありだが、作りだすとこれが意外と止まらないのである。
つい最近、森口祥子さんが詩集『風は昼さがりに』を土曜美術出版販売から出された。森口さんは詩誌『青い階段』でご一緒させてもらってる先輩である。能ある鷹は爪をかくすタイプ。帯に一色さんが「森口さんはいつもひとり、考え込むようにじっと何かを見ている人だ。・・・・・その視線があまりにも優しいので、世界にはいつも穏やかな風が吹く。・・・』と書かれているが、そうそんな感じの人。でも結構ちゃめっけあるし、声が低いから一見孤独っぽく見えるだけかもしれない。それになにかも底なしっぽいし。詩集のタイトルになった詩を紹介します。
     風は昼さがりに
              森口祥子
 木漏れ日の中を
 風は静かに吹き抜けて行った
 果たされなかった約束のように
 もういいんだ と
 ひとり言をつぶやいて
 声が消えてゆくのを
 待った
 枯れ葉のように落ちてきた
 蝶が
 ぬかるみの上で
 黒い斑点のあるオレンジ色の翅を
 ばたつかせる
 リュックに付けた鈴を
 リズミカルに鳴らしながら
 二人連れが追い越してゆく
 こんにちわ と
 小さく呼びかけて
 声の行く方を見つめる
 燃え始めたばかりの
 ナナカマドの向こうに
 遠く ベイブリッジが見える
 立ちつくして
 私は今を肯定する
 林は風を待っている

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毛虫

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風邪をひいたり筋肉痛おこしたり、もたもたしてるうちに明日はもう大晦日になってしまった。今日のスーパーはさすが混んでた。かけ声につられて、ついつい余分なものまで買ってしまう。なんやかやで一日終わり、疲れ果てたと思ってたとき友人がマンゴーのケーキを作ってきてくれた(とたんに元気になったけど)。写真がそのケーキ。食べない前に写真とればいいのに、食べたあとで気がついて・・・・味も最高・・・かたちももっときれいだったのだけど、なにせやわらかいので、Kさんごめんなさい。ごちそうさまです。
楽しい詩をひとつ紹介します。誰でも一度や二度は経験あるのでは?私もはらはらしながら見てたことあります。まっすぐにというのがとてもいいです。
    
     毛虫
          福富健二
  毛虫が渡っている まっすぐに渡っている
  住みなれた庭からどこへ行くのか
  朝の日差しに包まれ 脇目もふらず
  毛虫が渡っている まっすぐに渡っている
  潰しそうになって いそいで歩幅をひろげる
  ひろげて行き過ぎる わたしの足元を毛虫は渡り続ける
  自転車が通り 幾人かの人がわたしを追い越して過ぎる
  振り返ると 毛虫はまだ渡っている
  舗装の道の中央を ようやく越えて 渡っている
  向かいの生垣を目指しているのか
  小さい黒い点 まっすぐに まっすぐに 渡っている
  通勤の人が また来る いそぎ足で来る
  そして 遠くからは 車が来ている
  車が一台 みるみる 近づいて来る
  毛虫に向かって ぐんぐん ぐんぐん 追って来る
  毛虫は渡っている まっすぐに まっすぐに
  朝の日差しに包まれ 脇目もふらず
  毛虫は渡っている まっすぐに渡っている
        詩集『ぼくは手紙を書く』から

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針穴くぐり

今日、詩誌『ぶらんこのり12号』が、がさっと届いた。東京の中井さんと福岡の坂田さんと私の3人で始めた詩誌である。一年に2回発行ということぐらいしか決めてない、自由というかのんびりしてるといおうか、それでももう6年もたってしまった。発送はこれからだが、坂田さんの詩を紹介したい。
 針穴くぐり      坂田よう子(「よう」は火へんに華)
食欲の秋だというのに
いとこのかやちゃんは
ダイエットの真っ最中だ
やせっぽちのくせに
それ以上やせると消えちゃうよ
そう言うと
針穴をくぐりぬけたいんだ
と言う
昔からわけのわからないことを口走って
まわりをけむにまくのが
おとくいだったかやちゃん
あいかわらずだと思いながら
ながめると
背中のあたり腕のあたりが
すきとおってきている
何日かたって
ランニングを始めたという
かやちゃんに出会う
いよいよ出かけるよ
植木に水やっといてね
すっかり気配だけになってしまったかやちゃんは
耳元でささやくと
わたしに鍵をおしつけて
そのまま走り去った
どこ行くの
かやちゃんの気配にむかって
さけんだけれど
かすかな笑い声が聞こえただけ
さっそくかやちゃんの住む
アパートに出かけてみると
テーブルの上に針をさした針山が
出しっぱなし
かやちゃんらしいや
そう思いながら
裁縫箱に片付けて
ベランダの植木に水をやる
あれから何年もたったけれど
かやちゃんは帰って来ない
老朽化が進んで住人がいなくなった
アパートは取り壊された
すっかり空き地になったアパートの跡に
たたずんでいると足元に
どこか見覚えのある裁縫箱が
転がってきた

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