エッセイ6

「遠野物語」の鳥の話
               絹川早苗
 五一話 山にはさまざまな鳥住めども、最も寂しき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌より駄賃附けの者など峠を越え来れば、はるかに谷底にてその声を聞くといへり。昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子と親しみ山に行き遊びしに、男見えずなりたり。夕暮れになり夜になるまで探しあるきしがこれを見つくることを得ずして、ついにこの鳥になりたりといふ。オットーン、オットーンといふは夫のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴き声なり。
 五二話 馬追ひ鳥は時鳥に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のやうなる縞あり。胸のあたりにグツゴコ(口籠)のやうなるかたあり。これもある長者が家の奉公人、山へ馬を放ちに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがつひにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野にゐる馬を追う声なり。年により馬追ひ鳥里に来て啼くことあるは飢饉の前兆なり深山には常に住みて啼く声を聞くなり。
鳥の話はこのほかに五三話があり、いずれも少年か少女が、何かのきっかけで小鳥になってしまうという話である。五三話は、姉が焼き芋の柔らかいところを妹に食べさせたのに、妹は、姉はもっといいところを食べたに違いないと思って姉を殺すと、姉はたちまち鳥になりガンコ、ガンコと啼いて飛び去る。ガンコとは方言で固いところという意味、妹は自分が誤解していたことを知って、同じように死んで「包丁かけた」と鳴くホトトギスになったという話。これらは鳥の鳴き声の「聴きなし」と羽根の色や形などの連想から生まれた話で鳥の前世譚とも言われる。五一話のオット鳥はコノハズクのことで、娘が恋人のことを呼ぶのに夫というのは不自然だが、類話は岩手県に多く、それらは若夫婦の話として語られているという。五二話の馬追ひ鳥はアオバトの方言名、奉公人といっても、たぶん少年であろう。これらの話はいずれも物悲しく哀切な色調を帯びている。 
 人が鳥になる話は、「白鳥の湖」のハクチョウ、グリム童話「七羽のカラス」など西洋にもあるが、その多くは魔法や呪いにかけられたからで、それが解ければ元の人間に戻る。しかしここでは、ある出来事や想い、執念などによって、自ずから人の身に起きてしまうことで、有名な「鶴の恩返し」も、逆の現象ではあるが、鶴の想いが人に変身させるのである。それが解けるというより、破られるのも人間の欲心で、魔力ではない。また「古事記」では、ヤマトタケルノ命は死ぬと八尋もある大きな白鳥になって飛んで行ったと記されている。鳥は羽根を持っているので、この世とあの世を往き来する、またはそのあわいに生きるものと見做されていたようだ。鳥に限らず動物一般も、変身しても皆同次元に存在していて(あの世でさえ)、『魔笛』の「夜の女王」のような異次元の闇の世界に行くのではない。しかし西洋とのこの違いも、言葉を解さないものは精神性、理性のないものとするアリストテレスに始まった西洋思想、キリスト教の教えがもたらしたもので、それ以前の、ギリシャ神話の時代では、人間も動植物もまだ地続きだったようだ。もともと古代人は、動物たちは人間とは違っていても人間と同じような心と感情を持っていると考えていたのではないだろうか。その意味でも「遠野」の世界は洋の東西を問わず、人類の、人間世界の淵源ではないかと思えてくる。
チベットには、仏典の一つとして、チベット人仏教徒によって書かれた『鳥の仏教』がある。この書は、長い間、本国のチベットでさえ偽経典として無視されてきたのだった。しかし民衆の間では、民話の「のど青鳥の物語」と合わせて、楽しく読まれていたという。のど青鳥とは、チベットでは神聖な鳥とされているカッコウのことで、内容は、そのカッコウに観音菩薩が化身して、訪れてくる様々な鳥たちに仏陀の真髄を説くという構成になっている。思想書というより大衆への啓蒙書の性格をもっているが、「鳥のダルマのすばらしい花環」というタイトル通り鳥たちの鳴き声や姿を髣髴とさせる語り口は翻訳で読んでも楽しく、原文で読むと音楽的でもあるという。最近見直され、インドで復刻されたこの小さな書は、チベット仏教の独自性を伝える仏典として、中国の弾圧から脱出した人々の間で大切にされるようになったという。また西欧にもそれが持ち出され、これへの強い関心を呼び起こしているとの事である。『鳥の仏教』(新潮社)の訳者・中沢新一氏も、これを翻訳した動機は「アニミズムをひとつの思考として、論理として、再評価すべき時代が来ているように感じられ」たからで、この書に「不思議な先駆性」を見出す。伝統的な仏教そのもの(他の宗教も同様に)も人間界だけでなく地球上のすべての生命圏を包みこむ惑星的なものに生まれ変わる時代に来ているのではないか、その意味でこの書はその方向を象徴しているとも述べるのである。
鳥については私も不思議な体験をした。犬猫大好き人間だが、上京後の集合住宅住まいでは、鳥を飼うことが多かった。その頃は飼っていなかったが、相棒が亡くなる寸前、ホオジロがやってきた。庭先にいるのを見つけ追い詰めると、難なく手でつかまえる事ができたのだった。よく考えれば飼い鳥が逃げだして、春の早い時期なのでまだ餌がとれず弱っていたのかもしれないが、その時は急死した彼が身代わりとして私に残して行ったのでは…と思ったのである。その後二年あまり私を慰めながら共に暮らし、一九九二年に彼の後を追った。その鳥の写真は他の死者たちと共に今も仏壇の上に飾ってある。 

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エッセイ5

   河童の手いでたり
        岡島弘子
五八 小烏瀬川の姥子淵の辺に、新家の家という家あり。ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに行きし間に、河童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽に覆われてありき。家のもの馬槽の伏せてあるのを怪しみて少しあけて見れば河童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その河童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりという。
 その美容院に行ったあと数日してかならず恐ろしいことが起こることに気づいた。なかでも怖かったのは二〇一一年三月八日に美容院を訪れ髪を整えてもらったあとのことである。三月十一日のパーティに出席するための出発の準備をしていた。その最中に震度五強の地震にみまわれたのだ。これがかの東日本大震災で、各地に大きな被害をもたらし、いまなお復興もままならない状態である。計画停電、買占め、断水などと未曽有の出来事がつぎつぎ起こり、被災地からやや離れたこの地に住んでいる私もパニックに陥りトラウマとなった。
 この事件は日本全体をゆるがしたが、私の個人的体験もある。七月二十一日に訪れたあと、二、三日して、なんだかだるいのに気づいた。体温を計ると高い。病院に行くと胸膜炎と診断された。夕方になると熱が出て、咳も出る。抗生物質と咳止めと解熱剤を飲み、ほぼ一カ月かかってやっと治した。抗生物質は副作用でおなかが壊れやすくなるため、腹巻をしたり正露丸をまいにち飲んだりと、それはそれは苦労した。
 まだある。八月十九日に髪を整えてもらって数日後、今度は交通事故にあった。子どもの飛び出しである。子どもはかすり傷程度。自動車保険に入っていたので実質的被害はたいしたことではなかったが、精神的にダメージを受け、車の運転ができなくなった。
 まだまだある。口内炎が三カ月たっても治らなくて、歯医者に行ったところ、ガンかもしれないといわれ紹介状を持たされ大病院で検査をするようすすめられた。舌の裏にできているので、食べるのも喋るのもつらい。それから一カ月後ようやく治ったが、どうやらこじれた口内炎だったらしい。検査に行かなくてよかった。でも精神的にすごく追い詰められたのはいうまでもない。
 そしてインフルエンザ。香港A型で鼻水と熱に苦しんだ。
 こうしてみると昨年からの恐ろしい出来事はどれも私がこれまで生きてきたなかで初めて体験したものばかりである。
 おもいきって美容院を変えてみた。それからはなんとか無事にすごしている。ある日、新しい美容院でシャンプーをしていたとき、顔の覆い紙が吹っ飛んでしまったことがある。美容師が詫びながら話してくれたところによるとここのシャンプーは、水圧を高くして汚れなどをはたきおとす方法でおこなっている、とのこと。それを聞いて、ふと閃いたものがある。このシャンプーのやりかたでいくと髪の表面を削ることなく洗い流しているのではないか、と。ということは、前の美容院では髪を梳るようにして洗い流していたふしがある。そういえばシャワーの水流にまぎれて皿のようなものが剥がれおちていたような気配があったのを思い出した。皿ばかりでなく甲羅も。前の美容院でシャンプーするたび、河童は身体の一部を少しずつ失っていった。つまりいのちを削られていったのだ。私が体験したかずかずの恐ろしい出来事も、そのことと関係ありそうだった。
 国民百科事典(平凡社)によると,河童は水中に住む妖怪の一種で東北から沖縄までの各地に分布している。水を支配する神の化身、あるいは使者として信仰されていたが、信仰の衰えによってしだいに妖怪として数々の伝承を生むにいたった、ということである。
 五八話では河童は姥子淵に馬を引きずり込もうとした。こちらの世界を河童の世界に引き込もうとしたのだ。ここには挙げなかったが、五五話は、河童が女に子を孕ませる話である。いずれも代々続く名家での出来事。奇形児が産まれてしまった場合、河童の子として処理された、ということもありうるにちがいない。ここでは河童はその世界を拡げ、こちらの世界にくい込むことに成功している。五八話にもどると、馬を淵に引き込もうとしてかえって馬に引きずり出されて厩まで行ってしまった河童は馬槽の中に逃げ込む。村人に見つかってしまった河童は、村を去って、今は相沢の滝の淵に住んでいる、ということである。こちらの世界に河童の世界を拡げようとして失敗、いまは小さくなって暮らしているらしい。
 ちなみに私のあだ名は、河童の川流れ。ちいさいころは笛吹川で毎日のように遊んでいた。ある日川の真ん中に出てしまい、速い流れにひきこまれ、下流へぐんぐんと流されてしまった。私の泣き声を聞いた大人に助けられてから、この名で呼ばれるようになった。
 前の美容院で皿や甲羅を流されていのちが危なくなった。あれは私。
 そう、何を隠そう、私が河童なのである。

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エッセイ4

    悲しいまでに冷たい
           中井ひさ子
四一 和野の佐々木嘉兵衛、ある年境木越の大谷地へ狩りにゆきたり。死助の方より走れる原なり。秋の暮れのことにて木の葉は散り尽くし山もあらはなり。向かふの峰より何百とも知れぬ狼こちらへ群れて走り来るを見て恐ろしさに堪へず、樹の梢に上りてありしに、その樹の下をおびただしき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。その頃より遠野郷には狼はなはだ少なくなれりとのことなり。
四二 六角牛山の麓にヲバヤ、板小屋などいふ所あり。広き萱山なり。村々より苅りに行く。ある年の秋飯豊村の者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺一つを持ち帰りしに、その日より狼の飯豊衆の馬を襲ふことやまず。外の村々の人馬にはいささかも害をなさず。飯豊衆相談して狼狩りをなす。その中には相撲を取り平生力自慢の者ありさて野にいでて見るに、雄の狼は遠くにをりて来たらず。雌狼一つ鉄といふ男に飛びかかりたるを、ワツポロ(上張り)を脱ぎて腕に巻き、やにはにその狼の口の中に突込みしに、狼これを噛む。なほ強く突き入れながら人を喚ぶに、誰も誰も怖れて近よらず。その間に鉄の腕は狼の腹まで入り、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を噛み砕きたり。狼はその場にて死したれども、鉄も担がれて帰り程なく死したり。 
四二の物語は雌狼が自分の子三匹を殺されたどうしようもない怒りを、それに対して人間が生きていく為の鉄の思いが、実に端的に語られている。生きていく上での業までも感じさせられる。また、狼と鉄と戦い方が互いにいさぎよいのだ。四一に狼は群れをつくるとあるがそんなことはしない。雄狼はもちろん共にでなく群れもなさず雌狼一匹で戦うのだ。鉄は刀や鉄砲のような武器を持たない。ワッポロを腕に巻き狼の口に入れるところがかっこいい。そして、相討ちとなるのだ。同じ立ち位置にいる一匹と一人。私にはとても心地よかった。でも、それだけで物語に惹きつけられたわけではない。私は狼が好きなのだ。いや、あの日からからだの隅
に狼の影が座っている。それゆえ、鉄が狼の腹の底で掴んだものは深く鎮めている魂だと感じた。魂をわし掴みに取り出されたのだ。狼自身が消える。だからこそ、狼も鉄の腕骨を噛み砕きからだの底に置いてある魂を持ち去ったのだ。魂は取り出してはいけないのだ。そこには死があるのだから。魂は鋭く静かに感じあうものだと遠い日に知らされた。
・・・小学生の終わりに近づいた頃、母が死んだ。私はとまどい、気づくと母をさがし、そしてぼんやりしていた。そんな私は春休みに母の実家にしばらくあずけられた。山里深くにある萱葺き屋根は少々重たげで子供心になじめなかった。友達もいなかった。実家の裏が山に連なっていて、一人でぜんまいやわらびを採るのが私の遊びだった。祖母はいつも頷いてくれた。あの日「あぶないけん、あんまり奥へいったらいけんよ」祖母の声を背に聞き、山に入った。山桜がきれいだった。だが、風は冷たく樹間には、何かがおし鎮められているような気配があった。もちろん人影はない。樹の向こう側からあらわした姿を、私は犬だと思って「おいで おいで」と手を振った。しかし、その姿は微動だにもせず立ち、こちらを見つめていた。目の鋭さ、鋭いからだつきが、犬とは違うことを語っていた。遠野の物語の三六では・・御犬のうなる声ほど物凄く恐ろしきものはなし。とあるがうなり声も上げず突き抜けて見ている目があった。その目が私を惹きつけた。忘れられなくなった。
 四一では・・走り過ぎ北の方へ行けり。その頃より遠野郷には狼はなはだ少なくなれりとのことなり。とある。遠野郷から群れてこちらの郷に渡って来たのか。群れから外れた一匹狼だったのだろうか。私は毎日狼に会いにいった。もちろん祖母には内緒だった。言ったら悲鳴を上げただろう。だからといって狼と親しくなったわけではない。いつも三メートルほど離れて向き合っていた。いや、にらみ合っていた。互いにそれ以上近づいてはいけないという本能が働いたのかもしれない。ただいつも見つめ合っていた。でも、狼の気持なんてわからない。狼だって私の気持がわかるはずがない。気持が通じ合わない楽しさだってある。が、その日は違っていた。狼の鋭い目が、いっそう鋭くなっていた。からだが小刻みに揺れてた。私は食べられるかもしれないと神経を研ぎすました。不意に私のからだがゆるぎない冷たさを感じた。突き刺されたようだった。懐かしさをも伴って。魂だ。直感した。狼も私の心の底に鎮めている魂を感じただろうか。狼は目を細めると、小さく吠えるように空を仰ぎ、くるりと背を向け去った。
 その夜、星を見ながら、生きているものが心の奥深くに鎮めている魂を思った。なぜか涙がこぼれた。そして、狼の後ろ姿を思い、母の死を思い、自分の魂のなかに埋まるよう寝た・・
以来私の中のあの狼に会っていない。遠野郷の狼の死、鉄の死を再び思った。魂の行方を考えた。狼は鉄の魂をもっている。鉄は狼の魂をもっている。それゆえ、又どこかの郷でそれぞれ生きているのだろう。別に、狼が鉄の魂を持っているからといって、人間にならなくてもいい。好きなものになればいい。鉄だってそうだ。すべての魂が悲しいまでに冷たくて懐かしいものだから。  

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エッセイ3

  恋の行方はオシラサマ考
          福井すみ代
 六九 今の土淵村には大同という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞という。この人の義母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止れる鳥を落としなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪みて斧をもって後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時よりなりたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。・・・
 九月の下旬に訪れた遠野は、鮮やかな黄一色の稲穂、
群青色の山々が遠野を包み、穏やかな佇まいだった。
 東日本大震災後、数カ月経ていたので、一見平穏なように見えたが、遠野の宿泊所「たかむろ水光園」への坂道は壊れ、遠回りして行った。宿泊の建物と配水所の間には大きな鉄板が敷いてあった。
 私が行った直前まで園は自衛隊の宿泊所になり、早朝の食事の準備から、夜半まで多忙の日々が続いたとのことであった。
 遠野の市街は、「遠野物語発刊一〇〇周年」の平成二十二年の直後の年という事もあり、各施設はとても、充実し、工夫されていた。
 遠野市立博物館では、特に遠野物語についての行き届いた展示がなされていたほか、水木しげるが描いた
新作アニメ「遠野物語」が上映されていた。物語の代表的話である「オシラサマ」と「河童」の二作品である。色彩の美しさと、映像の巧みな運びで物語は生き生きと展開していった。 また、伝承園の御蚕神堂(オシラ堂)では、さまざまな千体ものオシラサマが展示されており、圧倒された。
 遠野物語六十九話は、オシラサマの起源説話として有名な、娘と馬の愛情物語で、私が田舎(静岡県)に疎開した時、似たような話を、祖母から聞いたので、とても興味を持っていた。この類話はすでに古く中国でまとめられた「捜神記」という説話集に収められている。こちらは大官の娘が馬に冗談に話した事を馬が真に受けとった物語であるのに対し、遠野物語では、貧しき百姓の娘がその家に一匹しかいない馬を真剣に愛し、夫婦になったという悲恋物語である。娘は死んだ馬の首に乗って天に昇って、オシラサマになったと書かれている。捜神記では、数日後に庭の桑の大木の枝の上で娘と馬が発見され、どちらも蚕と化して、糸を吐いていたと書かれている。
 柳田国男は、佐々木喜善から聞いた話をそのまま簡潔に叙している。説話の記録としての文は優れていると思うが、いかにも説明不足で、物足りなく感じる。
 柳田は遠野物語刊行後も遠野に関心を持ち続け、佐々木喜善に遠野譚の収集を奨めた。佐々木は多くの事実・話を集めた。しかしその発表は遅れに遅れ、佐々木の死後の昭和十年になって、その拾遺二九九話を付した「遠野物語増補版」が出版された。
 拾遺の中でもオシラサマの話は重視され十一話に及んでいる。その中でオシラサマの神体は男・女二体のものが多いが、もっと多数のものもあること、頭の形も,丸頭のもの、烏帽子を付けたものなどの外、馬頭形のものも少なくないことなどが書かれている。
 オシラサマの由来についても三例述べているが、その中に、父が馬を殺したのを見て、娘が悲しんで、私はこれから出ていくが、父が後に残って困ることが無いようにしておく。三月十六日の朝、庭の臼の中を見ろと言って娘は馬と共に天上に飛び去った。其の日になって臼の中を見ると、馬の頭をした白い虫がわいていた。それを桑の葉で養い育てたというものである。
娘が悲しむと共に父の生活の事を思いやるという、感動的な養蚕起源神話である。後世の人がオシラサマを信仰するのが当然と想わせるような話と思う。
 柳田は更に戦後の昭和二十六年になって、オシラサマ研究の集大成ともいうべき「大白神考」を出版している。更に其の後になっても自分の説の修正について語っている。其の関心の深さに驚くばかりである。柳田は、それほどオシラサマを重要な問題と考え魅力的なテーマと思ったのであろう。
私も庶民の家の神オシラサマを見て非常に惹き付けられた。それだけに逆に、あまりに明るく立派な建物の中で、例外的に大きく、素晴らしく豪華なオセンダクを着けたオシラサマが、常時陳列されていたり、数の多さを誇るような収集をして、一堂で展示がなされていたのに対して、どうも違和感を覚えてしまう。
オシラサマは気難しくて扱いにくい神かもしれないが、各々の家で祀られるのが最も好ましいと思う。 そのようにする環境造りをする施策が望ましい。
遠野は曲がり屋が多く、一つ屋根の下で人と馬が共に暮らし、養蚕もした独特の文化を持つ地域で、オシラサマ信仰の最も相応しい土地だと信じている。

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「二兎」3号エッセイ2

    ザシキワラシと水底で住む
                   佐伯多美子
 一七 旧家にはザシキワラシといふ神の住みたまふ家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。をりをり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎といふ人の家にては、近き頃高等女学校にゐる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き違ひ大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物をしてをりしに、次の間にて紙のがさがさといふ音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思ひて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時の間坐りてをればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思ヘリ。この家にも座敷ワラシ住めりといふこと、久しき以前よりの沙汰なりき。この神の宿りたまふ家は富貴自在なりといふことなり。
 ザシキワラシは男の児だったり女の児だったり。家に住んでいたり姿を見た人もいる。その、実在は気配。気配が住んだり姿を見せることは気配に身をゆだねると現れるよう。神々のいる気配のよう。気配は人以前からずっとあって。現在だって気配に生きている人もいるかもしれない。
食べるのも気配。電車に乗るのも気配。愛情も気配。空気を読むのも気配。言葉も…気配。
 気配で満ち足りる生き方。
そんな人、きっといる。そういう人、(ふいに)足を掬われて、さらわれて(現実はしばしばそういう人の足をさらう)自分で気づいた時は自分ごと消えている。だから、他人には気づかれにくい。だがたしかに「いた」のだ。でも、それは「存在」したのではなく、ただ「いた」のだ。それは事実なのだが証明するものはなにも、ない。アリバイなし。
 五四 閉伊川の流れには淵多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近き所に,川井といふ村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取り落としたり。主人の物なれば淵に入りて探りしに、水の底に入るままに物音聞こゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機を織りてゐたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまはらんといふ時、振り返りたる女の顔を見れば、二、三年前に身まかりたるわが主人の娘なり。斧は返すべければわれがここにあることを人に言ふな。その礼としてはその方身上よくなり、奉公をせずともすむやうにしてやらんと言ひたり。そのためなるか否かは知らず、その後胴引などいふ博奕に不思議に勝ち続け金たまり、ほどなく奉公をやめ家に引込みて中位の農民になりたれど、この男は疾くに物忘れして、この娘の言ひしことも心付かずしてありしに、ある日同じ淵の辺を過ぎて町を行くとて、ふと前の事を思ひ出し、伴へる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその噂は近郷に伝はりぬ。その頃より男は家財再び傾き、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人はなんと思ひしにや、その淵に何荷ともなく熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。
 気配に生きる人。足を掬われ、さらわれた人は水底に住む。水底の家。そこは、瓦礫に埋もれているかもしれない。常に水底の泥が噴き上がり視界がゼロ。光りも届かなければ暗黒。そこに住む人の眼は退化していくか異様に発達していく。形あるものを見るより、気配を見る、習性ばかりが発達していく。
 そこに住む人は、噴き上がる泥に、泥まみれになり泥の塊のようにも見える。泥の塊が息をすると、人の型が現れてくる。泥人間。立ち上がる時は、両手を水底にしっかり着け、両足を踏んばり、背中を山のように盛り上げ、背中から立ち上がる。泥人間が立ち上がる。
その時、「Wouu…」という声にならない呻きに似た声を発する。
泥人間が立ち上がると、泥が崩れ落ちて、気配だけの人型が水底に立っている。
 「wouu…」という呻きに似た声は、眠りについている未明にもよく発せられるようだ。そして、手足をバタバタ、ずんと強い力で突っ張り突き出し…。いつの間にか紛れ込んできた猫が、枕元にいつも一緒に寝ているのだが、
「猫が逃げ回っているぞ」
これは、水底へ時々訪れる男の数少ない証言であった。
気配はここにもある。それは、たいがい「死」と、そして「狂気」を孕む。
 ほら、目の前にも、背にも張り付いて。指先にも、言葉の影にも。殺意と狂気の気配がただよい潜んでいる。
引き受けて、日を暮らす。それは、もう逃がれられない。から…。
 それから、生きることはひどく孤独らしい。それが恐ろしくて、ごまかしをずいぶん、して、きた気がする。これからも、そうして生きていくのだろう。素敵な人とダメ人間と、猫と、言葉と、これからもいてくれるだろうか。そして、ザシキワラシがいてくれれば、いい。(?)(…)
どんどはれ

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『二兎』3号エッセイ1

『遠野物語』から各自好きな話を選んで書きました。番号は、本文引用部分です。 
    いかなる執着のありしにや
                徳弘康代
九九 土淵村の助役北川清という人の家は字火石にあり。…清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、*先年の大津波に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、遙々と船越村の方へ行く崎の洞のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はと見ればこれも同じ里の者にて津波の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言うとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明けまで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩いたりといえり。            *明治二九年三陸大津波
七七 …おひで老人の息子亡くなりて葬式の夜…軒の雨落ちの石を枕にして仰臥したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるようなり。月のある夜なればその光にて見るに、膝を立て口を開きてあり。この人大胆者にて足にて揺がしてみたれど少しも身じろぎせず。道を防げて外にせん方もなければ、ついにこれを跨ぎて家に帰りたり。次の朝行きて見ればもちろんその跡方もなく、また誰も外にこれを見たりという人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形と在りどころとは昨夜の見覚えの通りなり。この人曰く、手をかけてみたらばよかりしに、半ば恐ろしければただ足にて触れたるのみなりし故、さらに何もののわざとも思い付かずと。
 去年の夏、母を訪ねた時、母がこの間珍しく私の夢を見たと言った。私が押し入れの中にいて、母が私に「なにしゆう(何してるの)」と言った、というものだった。母に会う数日前、私は引越しをして、押し入れの中に入って汗だくで掃除をしていたのを思い出した。それが母の夢に出てきたのだ。不思議なようでもあり、起こりそうなことでもあり、母子というのはそういうものかと思った。八二歳の母にはレビー小体型認知症の症状が出ていて、その特徴的なものに幻視がある。他の人には見えないものが、はっきりと見えるらしい。震災の後、母のところを訪れる母にしか見えない人たちがたくさんあった。毎夜、大人も子供も、老若男女、動物も虫も。子供がソファに寝ていったとか、男の人がそこを通ったとかいうもので、母はその人たちに夜中よく起こされていた。昼間でもやってきていたようで、特に虫はたくさん湧いて出た。
 遠野物語九九・七七は、この世にいないはずの人が現れる話である。この他にも二二・二三・七九・八一・八二等、幻と呼べそうなものが登場する。二三に「いかなる執着(しゅうじゃく)のありしにや」と記されているが、この執着は死んだ人の方にあるのか、生きている人の方にあるのか、それとも相互にだろうか。思いを強く残した人がそれを発して、何かの気配を知る感覚、あるいは「症状」といわれるものを持っている人がそれを汲むのだろうか。大きな災害の後でこの世という私たちの社会があの世にいる人々への強い執着であの世の人々と呼び合い続けているのか、それが一八九七年に起きたように二〇一二年にも起きているのかもしれない。生きていた柳田がこの話を書きとめ、今生きている私たちがそれを読む。もう少しすればみんなあちら側だけれど、こちら側の人への執着が文字という記憶になって遺されている。
 たまに、あの世とこの世のあわいを行き来できる人がいる。その人たちには、あちらとこちらの境目辺り、そのどちらにあるか定かではない人たち、生きものたちの執着が見える。その人たちの「ここ」は、あの世でもあり、この世でもある。あの世とこの世はともにここにある。その近さ、あるいは同一感が遠野の世界のように思える。七七の石を枕に寝ている男は月明かりに妙にリアルで、母が私に話す「昨夜あった人」もいつも妙に現実的だ。九九の男女は、生き残った男の死んだ人への執着が見た幻覚なのだろうか。その幻覚は男を暫く煩わせ、その後現実へと向かわせる意味をもつものだったのかもしれない。それにしてもリアルな、この世でもそのまま起きそうな出来事は、津波で失ったものを近くに感じる人々と、亡くなった人々の魂が同じところにあるという気持ちを起こさせる。
 最近母を悩ませているのは二人の男の子で、その子たちの保育園の園長さんにその子たちがここにいることを知らせたいと母は言う。子供たちが助けを求めているというのだ。それを周囲の人に言ってまわっている。母は真剣だ。玄関から入ってきたのではない人たちのことは普通の人には見えないのだから、そのことを話すとお母さんが変に思われるだけ、その子たちはお母さんが助けるしかない、と言うと、どうやって、と聞かれた。天国へ行くように、成仏するように言ってあげられるのは、その子たちと話せるお母さんだけ、と母にこたえて涙が出た。

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「二兎」3号続き3

    マヨヒガ      佐藤真里子
うすい骨の器に浮く
やわらかな森
側頭葉の果てにある
わたしの家
窓からの陽射しを
いっぱいに入れて
黴臭い図書部屋を
明るくする
本、一冊、一冊の
背表紙に触れながら
奥へ進んでいくと
とっくに抜いた棘の疵が
ちりちりと痛みだし
この森に踏み入るひとの
靴音がする
急ぎ、鏡に向かい
長い髪をほどき
唇に紅を引く
…さあ
…お入りなさい
…ずうっと待っていたの
歌うようにつぶやき
でも
爪先から
ゆっくりと
消えていく
   
    囲炉裏端で    坂多瑩子
嫁にきたときの古い家で 父方の
祖母はひとりになった 
その家には
死んでしまった人たちがいっぱいいた
それで祖母は
いつもニコニコしていた
おじいさん たまにはおいでませ
みんないなくなった囲炉裏端で
祖母の声に
おお こわっ
震えたあたしはまだ二十歳まえ
だったけど
それにしても
とんでもないこと
死んだら出てこないで 
あたしは何回も
念をおした 出てきそうな人たちに
二人の祖母に 伯母たち それから母にも
気がつくと女ばかり
女ばかり明るいリビングで
出てこないでよといった相手に
あたしは
熱い茶をすすめる
湯気が遠のくと
一瞬なつかしい声を聞こうとして
どうぞ ごゆっくり
なんてね
    
   卵売り      水野るり子
そこは海辺の集落だった。屋台には小さなざ
るに入った卵が並べられていた。老女が丸椅
子に腰かけて 夢のなかをのぞいているよう
な目をしていた。
「あの…」と呼びかけると 人なれしてない
犬みたいにちらと私を見て すぐ目をそらし
た。考えてみれば用事などなかったのだ。声
をかけたのはおそらく人恋しい夕暮れのせい
だった。
卵をひとつ手に取ると 殻はふしぎに柔らか
だった。なかほどにうっすら裂け目がついて
いる。そこから卵のなかをのぞこうとすると 
手のひらで何かがそろりと身動きするような
気配がして…のぞくのをやめた。
ふいに老女が目を上げて「お望みなのかえ?」
といった気がした。私は反射的に一歩後ろに
下がり 卵を置いた。夕陽のなかで卵の数は
不用心にふえつづけていた。
いつのまにかどの卵にも黄色い毛糸の紐が結
わえられていた。何かのおくりものなのだろ
うか。浜からの風に黄色い毛糸がかすかに震
えていた。吐息のようだった。卵たちをそこ
に残して 急速に日が沈んでいった。     
    

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『二兎』3号つづき2

  川の背中    岡島弘子
かなしばりにあって
車がみんなとまる あの
横断歩道のような
川の背中をわたると
せきとめられた流れのうずに いっしゅん
甲羅が光って消えた
バーコードのような
川の背中
読み取り機をピッとあてると
エビ カニ さかな
いろいろな品物の名と値段にまざって
皿も一枚あらわれる
ピアノの鍵盤のような
川の背中
弾くと
しっと あせり しゅうちゃく
うらみ おそれ ぜつぼう
陶酔やあこがれ
さまざまな感情のすきまから
河童の高笑い
ひびきわたる
東京のビル街
どこでも川の背中にかえて すばやく
河童が影を落とす

  遠野の森               絹川早苗
その谷戸に入るとき かならず
案内人は 帽子を取り 頭を下げ
「入らせてもらいます」と 声に出して言う
入っていったときと 出たときの
人数の合わないことが たまにある
歩いているとき ふと後ろを振り返ってみると
だあれもいなくなってしまったことも・・・
町に近く 人家もせまる この小さな森も 
迷いこめば 遠野に通じている
フクロウの声に誘われ 
近くの雑木林に足を踏み入れた
陽が落ちると 月のない森は たちまち
薄墨色にとけだし 風景は輪郭をうしなっていく
ここまでは街灯が至ってないことを 
はじめてのように気づく
なじみの道なのに 方向さえ見失ってしまう
時を越えても変わらない鳥の声が
“ごろすけほうこう” と 
声をかけてくるのも苛立たしく 
さまよったすえ やっと
はずれに立つ一本の街灯を見つけ
アスファルト道路に 生還した
 
遠野の深い森に入りこんだ恋人どうし 
たがいを見失い 探しまわったあげく
果てには 飛びたっていく 
鳥になって…

    トーノ、言の葉     広瀬弓
トーノより粗品をお届けします
きのう遠野の旅人から
便りがあった
見えない風の匂い
古人のように
丘から湧き出す音を思う
一面のハルジオンの野原
白い花の上はゆらゆらゆらぎ
空と気の狭間はふるふるふるえ
と の 
 な い 
言の葉が浮かぶ
○遠野郷のトーはもとアイヌ語の湖という語
より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり。
○上郷村大字来内、ライナイもアイヌ語にてライ
は死のことナイは沢なり水の静かなるよりの名か。
百年前の便りに
柳田国男はそう記した
木洩れ日のまだらの中の
光の井戸を行くごとく
ハルジオンの扉が閉じかけます
春の内臓から
音がはみ出した
現れる息の匂い
トーノ、言の葉
ざわめく風にのって
静かな水がやって来る
時の湖底を旅人の影が渡っていった
  

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『二兎』3号の続き1

P1010991.JPG
   遠野、空の影         佐伯多美子
うすいねずみ色の 空
水底に映り 濃いねずみ色なり
水底に棲む 背すじのすらり伸びた女
美しい立ち姿
うすいねずみ色なり
うすいねずみ色の 空
ゆるやかに流れ
空の影
揺れ
濃いねずみ色が 揺れ
水底が 揺れ
ふと
女の影に 声もなく呼びかけ
空の影に 呼びかけ
女の影を追うと
ねずみ色が濃さを増し
水底に
童女が笑いながら映っている
揺れながらゆれながらゆれながら
ゆれながら
辺りは 春の景色
遠野の
ゆれる影の色に染まっていく 

   水の声      福井 すみ代
県道から山道に入った
沢の水音が聞える
遠野五百羅漢の入口
夏の名残りの太陽がどこかへ隠れ
森の色になった
滑る小道を昇る
細い清水が石を叩き走る
苔むした洞がある
自然に生えたブナが天を突く
木の肌に手を当てる
冷たい
耳を当てる
水音
地の底から
湧きあがる静かで力強い脈動
何百年もの間
きびしい寒さにも嵐にも
耐え続けた声だ
隣りのブナの声を聞く
リズムも音色も違う
心が揺れる
私は両の手でブナをしっかり包んだ

   もういいかい     中井ひさ子
目にあてた手が冷たい
四方へ走り去った足音を聞く
もういいかい
鋭い爪で杉の木の皮を剥がす
剥がしても 剥がしても 
遠くから まあだだよ
祠の横の隠れ穴に
ひとり座って目を瞑っている子ども
草陰に鳴き声を潜めるキツネ
太い尻尾がよろり風に揺れる
枯れ草の中にもぐりこんだ
涙目のウサギ
ねじれ木の下で
化けかたを忘れたタヌキ
鐘つき堂からかわいた鐘がなる
もういいかい
ゆっくり振り返る
鬼の顔
隠しても隠し切れない牙が
口から鈍くひかる
夕焼けがぽきりと切れた

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詩誌『二兎』3号

二兎3号ができました。
特集は『遠野物語』です。10名が書いています。すこしずつご紹介できたらと思います。
まずトップバッターは徳弘さん。
ーまえがきよりー
『遠野物語』100周年(2010年)を迎えた頃から、何人かの有志で、少しずつ『遠野物語』や、その周辺の記録などを読んできました。今回はそんな集まりの中から、それぞれのテーマを選んで詩とエッセイをまとめました。
『遠野物語』は読むほどにその奥が広がり、分かれ道もあり、私たちの暮らしの根に響くものがひそんでいるのを感じます。当分遠野の旅から足を洗えそうもありません。河童、ざしきわらし、まよひがなどを巡るさまざまの物語のざわめきに耳をかたむけていると、心惹かれるケルトの妖精たちの声の木霊まで遠くから聞こえてくる気がします。
約束         徳弘康代
             
ねえ
さきにしんだほうが
のこったほうのしぬときに
むかえにくることにしませんか
それは一分後かもしれないし
七十年後かもしれないけれど
なまえをよべば
ここにくることにして
そのあとで いっしょに
行きたい所へ行きましょう
たとえば
月の裏側 とか
えいえんの五月の芝生の上 とか
ねごこちのいいベッド とか
たぶん わたしたちの
ここ は いつも ここ で
まだ なまえをよばれない
たましいたちが
あちらこちらで
たのしい再会を
おもいながら
さんぽしている
 

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