魚の重さ

昨日に続いて今日も詩誌『ペッパーランド』から。1993年13号の特集は「からだの声をきく」。随分まえの出版だが、思想の科学社『からだの声に耳をすますと』(著者ステファニー・デメトラコポウロス)副題は「よみがえる女の知恵」という本がある。子供を産み、育て、また病人を看とり、死んでゆく人を見送る。太古から女は自分の赤ん坊が死ぬのではないかと心配し、死別すればその悲しみを負ってきた。確かに女のほうが、開き直りの図太さというか、死を受け入れ、死と和解することは男よりたけている。常に男とは違う死に直面してきた、それが女性の精神の基層にあるそうだ。これは何を意味するのだろうか。女のからだを通して宿るものが、女にどんな影響を与えるか、この本は答えを与えているのか。しっかり忘れてしまっているので、もう一度読んでみたいと思った。話が脱線してしまったが、水野るり子さんは、あとがきでこんな風に書かれているので、この本を思い出したのだ。
「私はからだというものを、ふつうにいう身体というイメージだけでとらえず、もっと深い生命の根にある混沌とした力を負ったものとして考えたい。それは通常の意識だけでは触れ得ない部分でもあり、従って夢や意識下のイメージにも関心を向けてしまう。・・・・・・」
私たち人間は、何と得体のしれないものをかかえこんでいるのかと考えてしまった。
では、詩1篇  どんなからだの声が聞こえますか。
      
    魚の重さ    水野るり子
 ある夜 死んだ父がやってきて
 口ごもりながら
「もう・・・死んでも・・・いいか?」と訊く
 父の背中にはかすかに傷口があいていて
 そこからたえずあぶくが漏れている
 ・・・いつのまにか父はほっそりとした灰色の魚なのだった
 (それが逝く日とわかったので)
 魚の父を わたしは両腕に抱いて
 「・・・さよなら」といった
 魚はふいにわたしを抱きしめ
 すばやいくちづけをした
 そしてゆっくり水の底へ沈んでいった
 こうして夢の中でふたたび父が死んだとき
 わたしはやっと憶い出した
 わたしたちが魚であったこと
 いまも真実は魚であることを
 わたしのいのちが重いのは
 わたしのなかの魚が重いからだ
 わたしが病むのは
 わたしのなかで魚の水が減っていくからだ
 ぐったりと魚の重さでよこたわり
 えら呼吸をくり返していると
 病んだわたしの胸びれをぬらして
 とおくからひんやりと潮がみちてくる
 どんなに長くひとのからだになじんでも
 わたしは いつかほどかれて
 一匹の魚へともどっていく
 もう小さな傷口もかくすことなく
 魚は その日 放されて
 深い水のなかへ還っていく
ここまで書いて思いだした。私も魚になった母と魚になった父を書いたことがある。無意識の領域でつながっていた???
  
       
 

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