原利代子「桜は黙って」  絵本と詩は双子のようなものかも知れない

桜は黙って     原利代子
南に住む人から 早咲きの桜の花が
蛍の丘老人病院に届けられた
病院はスタッフたちは
見事な桜の枝をかつぎ
入院中の患者たちに見せて回った
認知症で寝たきりの
イイノさんの部屋にも桜がやつてきた
上を向き 寝たままのイイノさんの顔の上に
満開の桜の花をかざして見せた
焦点の定まらない老人の目
しばらくは ただの空ろに ぼんやりとー
やがて その目がゆっくりと瞬きをすると
かわいた小さなほら穴の奥から
清らかな水が涌きでてくるように
イイノさんの目に涙が浮かんできた
涙はいっぱいになり 目から溢れ
ひとすじ またひとすじと
ほほをつたってこぼれ落ちた
花びらは その上に 優しくふりそそいだ
スタッフの口から
おおーっ という声が上がる
イイノさんの顔は桜色に照り映えていた
イイノさんは春の野の中にいた
しばらくすると老人は潤んだままの瞳を閉じ
また いつものように眠った
桜の花は その上で
黙って咲いていた
                       ※
 この作品を読んで、私はとても懐かしいような感じがしました。もう少し進めていうと、大人の絵本のような感じがしました。
 それは内容からくると考えがちですが、必ずしも私はそればかりではないと思います。その一つは、
この詩の一行一行がとても無駄がないということ、二つ目は大変平易なことばで書かれているということ、三つ目は一つ一つ場面がはっきりとしている、特に三つ目の場面がはっきりとしているということが
私には印象深く感じられました。
 そして、このことが絵本と詩がどこかしら似ているということであると思います。また殆どの絵本は懐かしく、大らかで、深い(夢と現実が交じり合う)世界を持っていますが、この詩にも私はそれを感じます。
 このことを特に感じるのは最後の(桜の花は その上で 黙って咲いていた)です。桜と人間が交流
しているような、とてつもない深さが感じられるのです。
 私は詩と絵本はもしかしたら、その出発点は同じではないかと思います。

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坂本真紀「あらゆるピアノのうえを」  はじまり

あらゆるピアノのうえを      坂本真理
あらゆるピアノのうえをわたってくる。いくつもいくつも並んだピアノのうえを、アップライトヒアノのうえを、
グランドピアノのうえを、歩いてわたってくる、踏みはずすことなく。あらゆる動物のうえ、あらゆる人間の
うえを、わたしは歩いてわたっていく。いちど殺し屋に狙われたら一発でいのちを落とすかもしれないけ
れど。紐はからだに結ばれていて、紐をたぐってどこかにある、もう一方のはじをたぐりよせるまで、わた
しは階段を走りつづける。かわいらしくてやさしいのは、ピンク色のゾウ、それから。ゾウはちいさな水
色。男は彼のおくさんと、女は彼女の家族とともに。わざと遠くはなれて歩いている。わたしはというと、
どう猛な動物ばかりが集められたエリア入口の鍵をあける。
 
                    ※
 詩とは冒険であると私は思います。そして、この詩を読んで、ここにひとりの詩人がいると思いました。
「あらゆるピアノのうえをわたってくる」これがこの詩の始まりであり、それ故冒険の始まりです。
 このあと、作者はいままで誰も見たこともない、生きたこともない世界に入っていきます。
そして、それがどんなふうに広がっているのか、どんな道があるのか、全くわかりません。
 もしかしたら、想像することさえできないのかも知れません。ただ、ことばだけがその世界を切りひらいていくことができるのです。
 ですから、人間がすべてを捨てて、ことばそのものになったとき、本当の冒険ができるのだと思います。
 この作品は決してこのようなことを語っているわけではありません。もしかしたら、私のひとりよがりかもしれません。でも、私はこの詩に何かしら、詩人のいのちのようなものを感じるのです。
 

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高塚かず子「大村湾」  面白いと生きるは似ている

大村湾      高塚かず子
ヒトはわたしを大村湾と呼ぶ
だけど私は湖だった盆地だった
大陸だった
どろどろの熱い混沌だったマグマだった
―――世界のはじまりのそのひと雫だった
ほんの四十六億年前には
わたしのなかを
泳いでいるスナメリ
大気も水も土もひとつに溶けていた昔
同じ混沌のひとつらなりのいのちだった
魂のように跳ねる魚も
ほほえみのようにひらく花も
心のように羽ばたく鳥も
祈りのようにうまれる赤ん坊も
核を抱いている真珠貝も
おびただしく浮遊している
ブランクトンも
この地球も ひとつの生命体(いのち)
 どこから来て
 どこへ行くのか
あ いま 太陽がわたしに溶ける
さざ波をくまなく染めて
              ※
 この詩は日本を見ているようで、私はとても幸せな気持ちになりました。
こんなふうに考えたり、ことばを使ったりすることができれば、みんな子どもから大人まで仲よくなれるにちがいないと思います。
 それにこの頃はごちゃごちゃして目も心も疲れてしまう世の中ですが、この詩を読んでいると元気が出てきます。
 特に私が「ああいいなあ、とてもいいなあ」と感じたのは最後の「あ いま 太陽がわたしに溶ける/さざ波をくまなく染めて」の二行です。私が太陽に溶けたような感じがしてびっくりしました。よく読んでみると「このわたしは大村湾」なのですから、私ではないのですけれど。
 そうわかっても、私には「私が太陽にとけているような感じがします」。
 そして、このことは決して間違っていないと確信します。それはとても愉快な感じです。子どもの無邪気というのはこういうことをいうのではないかと思うのです。

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「泥酔と色」中島悦子 詩という事件

泥酔と色    中島悦子
「せっかくですから」と言って、入った寺で濃茶をいただく。あ、
これ、入場料に含まれているわけですね。
あああ、そうですか。そうですか。
(入場券は財布にしまう。)
寺ってのは、いろいろな罪をかぶってくれるんですって。
コインロッカーの中に、朝早くから詰められる荷物は、たとえ                         ば、黄緑色の芋虫。その輪廻のまわりは早い。生まれ続ける芋
虫に、たった一週間であふれそうなコインロッカー。
その輪廻をめぐりを反省する。蝶にに生まれても反省する。魚に
生まれても反省する。もちろん芋虫に生まれても反省する。餓
鬼になり反省し、地獄へ行っても反省する。人間になった時は、
小さな紙に必ず記録して反省する。反省。
何にもなりたくなかった。
ただ、何かの染料にはなりたかった気がする。
自分自身が、完全な色となる日。
ひきこもりの松田君が、問題をだしてくれる。
「次のうち、低級アルコールはどれでしょう。①イソプロピル
アルコール ②ステアリルコール ③ラウリルアルコール
④ミスチルアルコール」
その痛々しい問題にどうこたえたらいいのかわからないうちに、
窓の外でふみきりの警報機が急に鳴り出した。
よく夢で殺されそうになる。絶体絶命、藁葺きの屋根の上に追
い詰められると、大抵飛び降りて逃げようとする。途中で、空
中に飛べる。それは不思議な光景なのだが、あの時、もう死ん
でいたのだろうと思う。
濃茶を飲む。 濃緑になる。
正月には、満員列車に窓から乗り込んで故郷をめざす。おみや
げがある。その袋が大きく重い。自分の荷物はほとんどない。
故郷とはどこか。これは現実か。
こころの声は誰にも聞こえない。奇声だけはやたらに聞こえる。
わたしの声もどこか奇声となって、しかし、それが普通に聞こえて
いるかもしれない。
どこかで気持ちを落ち着けるとしても、
染料といえば、ムラサキがいい。
ムラサキ科の多年草の根からとれる紫。
紫足袋にでもなって、
下々の女の足にまとわりついていればいい。
下々の女の。
染料になって。
                        ※
 これって一体どういう事なんだ!  これは何なんだ! あっちへ行ったり、こっちに来たり、走ったり、
立ち止まったり、これって一体どういう事なのか?
 というのが、初めてこの詩を読んだときの感じです。このことをもう少しくわしくいう前に、一つだけはっきりさせて置きたいのは、とにかく、<事>であり、やや大げさにいうならば<事件>なのだということです。
 たとえば、一連目、これくらい元気な詩は今までに読んだこともあるし、私自身も書いたような気がします。けれども、三行目の<あああ、そうですか。そうですか。>などという乱暴とまでいえるような調子にのった言葉は私は書いたことがありません。元気がよすぎて、ドタバタしている感じがしますが、でも気分は決して悪くない……。
 まあ、これはいいとして、一連目から次の二連目は殆どつながりには感じられず、ガチンと頭がぶつかる感じがします。でも、決して気分が悪いわけではない。
 さて、続いて三連目はこの詩のなかで、私のいちばん気に入った所です。
私は蝶になったり、魚になったり、地獄に行ったり、人間になったり、どんどこ移っていきます。もちろん、
私は反省なんかしません。こんなに早く移っていつては反省どころではありません。反省しないのは、
私の責任ではないような気がします。
 それは私がいつも大声でいいたいことで、私は反省が大の苦手だからです。
というわけで、この詩は私に自由に読んで、自由に解釈していいんだよといっているような感じがします。というと、何かしら悟りきった宗教と勘違いする人もいるかもしれませんが、そうではありません。
 この詩に私が最も近いと思うのは、私が中学生の時、五、六人の友達と一緒にいろんなことを自由に
話した時のことです。後になって考えてみると、その時、自分でも何をしゃべっているか、よく分からないのに、私は夢中で話しをしていたような気がしました。そして、相手には私の話の細かいところはわからなくても、
全体はわかってもらえたような気がしました。さて、このおしゃべりのような詩のなかから「色になりたい」ということが、一つの思想ののように私のなかに残りました。それは最後の連で決定的となつたわけてすが、おそらく、そのわけはこの詩が中学生のように自由に話す力をもっているからだと思います。

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「黒い運動」小野原教子 フェルメールの絵

黒い運動      小野原教子
南側の窓に木が並んでいて林のようになっている
季節の風は心地よくいつまでもここにいたい
あなたからの贈り物をもらう約束をしてわたしの黒い
ビーズの髪飾りを大きなライターに巻いてみた
なかみはなんだろうと想像してみてあふれだす透明な
いろたぶんきっとそれを注いでみると喉は喜ぶ
筆圧が強く誠実なかんじで埋められている面積の
広くて大きいのを指で触ってみる裏からも触る
傘の先から黒い水が垂れてきて雨は絵の具のように
なっているのは塗料それとも木を燃やした跡?
  
  
                         ※
 私がこの詩に惹かれるのは、この詩の形がはっきりとしているからです。この詩はそれぞれ二行づつで、その二行が同じ数の文字でそれぞれ同じに造られています。
 全体の姿は優美な橋や瀟洒な建物のようにすっきりとしています。こうするためには、言葉の選び方や並べ方を
ひとつひとつについて、かなり注意深くする必要があるのだと思います。時には、その言葉本来の姿を加工しなければならないこともあると思います。でも、その苦労のあとは殆ど
目に残りません。
 たとえば、いちばん初めの連。二行目の形式は保たれていて、しかも言葉は殆ど自然に書かれています。これと同じような五連でこの詩は成り立っているわけですが、一連一連の意味のつながりよりも、形の統一が感じられて私はそのことにとても惹かれます。
 
 ただそうして何度か読んでいくうちに、オランダの画家、フェルメールの絵がふっと頭に浮かびました。
フェルメールの絵はすべての物を気持ちのいちばん深いところにひっぱりこんでくる。
 それはどういうことかというと、私たちが日頃見たり、感じたりしている風物がそれが絵をとおして気持ちのなかに浸みこんできて、とても満ち足りた気分になります。
 はっきりとはわかるわけではないのですが、恐らく、その秘密はフェルメールの絵の形式にあるのではないかと思えます。私は、詩にも必ず形があると思います。それは、いつもはっきりとわかるわけではありまんが。
 それはそれとして、最後の連についてはとても怖い感じがしました。黒い水が流れているのはどこなのか? 私の部屋なのか? 私の家のなかなのか? それとも私の体のなかなのか?

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「石段、橋」塚越祐佳  新しい乗物

石段、橋    塚越祐佳
石段をあがるたび
水面が膚をさすりながらさがつていく
石からわきでる
とまらない
湯気がわたしの体温をうばっていって
もう胸まであらわになっている
石段をあがるたび
頂上の神社は遠のき
羽虫のように雪
わたしの白目になりたがる
温泉街のはずれに
収集された外国製のオルゴール
囲いの外にはとどかない響き
(離陸ラインはまっすぐすぎて)
窓にはよみがえる手形に着地する
石段をあがるたび 
土はかたくかたく
山がおんなに姿をかえる
ヨーロッパに連れられ
夢見た温泉街
捨てられた旅館の向こう側
には橋があってわたりたいのに
おんなはビョーキで
鹿のようにビョーキで
でも橋はきてくれなくて
(最上階の部屋だけが茶色に明るく)
湯気が分厚くはりついていくのを
水面はうながすように
ながれて
去り
白目に雪がつもった
わたしははだか
おんなは湯気を越えられないでいる
はみだす呼吸音
鳥居のあいだに
わぎりになった太陽が
膜をはっている
臓器たちが
はじめての光りに
とまどうまえに
剥がしていれば
見えたのは
きっと
山間の橋
                    ※
 
  実はこの詩の内容はよくわからない。それにもかかわらず、私はこの詩をもう一度初めから読みたい
と思い、何度か繰り返し読んだ。
 それは、この詩がまるで古い写真と全く新しい近未来のような世界が共存しているからだ。ふつうは
あまり違った世界を読んでいくことは困難なことなのだが、この詩の場合はそれができる。
 この異なる世界はとても巧みに組み合わさって、それをばらばらに離すことはできない。たとえば第
一連目がそうした感じが強い。
 しかし、先に述べたように異なった世界を取り出すことはできない。二つの異なる世界と私は言ったけれども、それは世界でなくてもいいのだろう。
 とにかく、異なっていることが重要なのかも知れない。この異なる世界を飛翔することがとても重要なことであり、それは何かしらエクスタシーをともなうような言葉の運動なのだ。
 それで私は内容がよくわからないにもかかわらず、この詩を何度も読みたくなるのだろう。
 あらゆる詩の源にこの詩に似たような言葉の冒険があるような気がする。

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「夕月」丸山由美子  不思議の国のアリス

夕月   丸山由美子
山河のページをめくりかけたままの
指の形をして
夏の白い娘が断崖から落ちていく
咲いている間ずうっと
名前も知らなかった野の花が
びっしりちいさな実をつける頃
                   ※
 この詩は余白のうつくしい詩です。
 それは<夕月>というタイトルに対してまず私そう感じます。
 <夕月>は余白のなかで漂っている。そんなふうにイメージされるのです。そして、この余白のイメージ
はこの詩全体を支えているような感じがします。
 最初の連の一行目と二行目、二行目そして三行目が終わったあと、ここにはひそやかではありますが
しかし確実に余白があります。
 そして初めの三行とお終いの三行、この間にはここにも余白があり、それは大きな深淵のような感じ
がします。
 恐らく、この詩人はこの余白をとおして、不思議の国のアリスが鏡をとおしてもう一つの世界へ入って
いったように、大自然のなかへ入っていったのではないでしようか?   

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映画「イル・ポスティーノ」ラドフォード 詩が生まれるとき

 最近、「詩が生まれるとき」とか「詩が生まれるところ」とか「詩人」とかという本がたくさん出ていますが、あんまりたくさんあるので、分からなくなることがあります。
 でも、この映画をみると、実に明快にみんなわかっちゃうんですよね。すばらしい映画。すばらしい人間
。でも、映画のなかだけでなく、主人公の俳優マッシモ・トロイージがこの映画のcrank inの後一日して死んでしまうので、悲しいです。

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「エアリアル」シルヴィア・プラス皆見昭訳

Ariel
Stasis in darkness.
Then the substanceless blue
Pour of tor and distances.
God’s lioness,
How one we grow,
Pivot of heels and knees!–The furrow
Splits and passes, sister to
The brown arc
Of the neck I cannot catch,
Nigger-eye
Berries cast dark
Hooks—-
Black sweet blood mouthfuls,
Shadows.
Something else
Hauls me through air—-
Thighs, hair;
Flakes from my heels.
White
Godiva, I unpeel—-
Dead hands, dead stringencies.
And now I
Foam to wheat, a glitter of seas.
The child’s cry
Melts in the wall.
And I
Am the arrow,
The dew that flies,
Suicidal, at one with the drive
Into the red
Eye, the cauldron of morning.
天駈ける精(エアリアル)シルヴイア・プラス 皆見昭訳
暗黒(くらがり)の中の静止(とどまり)。
それから限りなく青い
岩の地平の彩りの噴き出し。
神の獅子は天駈ける、
わたしたちは一つになり、
かかとと膝は要だわ。裂けて
過ぎて行くわだち、逃げる
首の茶色の弧の
いとしい分身(かたわれ)。
暗黒のひとみの
木の実が暗いひずめを
投げ上げる。
黒くて甘い口一杯の血と、
影たち。
わたしを空中に
ほかの何かがほうり出す。
股も、髪も、みなすべて。
わたしのかかとから雪片を。
真綿のように白い
裸のゴタ゜イヴァさながらに、私ははぎ取る、
死せる手を、死せる厳しいこの世の規則を。
今や私は
麦の間に光る泡、海のきらめき。
子供の生ぶ声は
壁の中で溶ける。
そして私は
走る矢となり、
わが身を断つため
大気を割って飛び去る露になる、
煮え立つ大鍋、
真赤な朝の眼(まなこ)へと。
                   ※
 それでも、この詩はすばらしい、朗読する声もきれいに澄んでいる。
でも、若いときこの詩を読んだときは気がつかなかったけれど、この詩にも、死が打ち消しがたく
埋め込まれているのは、驚きだ。エアリアルはシェクスピアのテンペストなどに出てくる精霊で普段は
目に見えない透明な妖精。この詩の中ではプラスの馬の名前らしい。グウィネス・パルトローがシルヴィア・プラスになって映画に出ているらしいが見てみたい気がする。

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「二本の足が自分の家なのだとあなたは言った」田口犬男

二本の足が自分の家なのだとあなたは言った チェ・ゲバラに 田口犬男(世界を新しくする恐るべき詩)
1(自分が誰なのか分からないので)
自分が誰なのか分からないので
ぼくたちは
知ろうとするのだ
せめてあなたが誰だったのか
2(捧げられた幾千もの詩行の中に)
捧げられた幾千もの詩行のなかに
あなたは蹲っている
美しすぎる修辞に塗れて
あなたは身動きがとれない
愛の言葉が喉につかえて
あなたは息をすることが出来ない
3(闘牛士のような眼で)
闘牛士のような眼で
あなたが睨み付けたのは
猛牛ではなくて 歴史だった
間に合わせの武器弾薬と
あふれるほどの愛
自分はいったい誰なのか
歴史が歴史自らに
尋ね始めた
4(二本の足が
  自分の家なのだとあなたは言った)
二本の足が
自分の家なのだとあなたは言った
川の辺(ほとり)で
青空の下で
ジャングルの奥地で
その家は
胡座をかき
立ち上がり
ときに跪いた
家には窓がついていて
いつでも世界を窺っていた
5(愛と怒りで
  充分に満たされていたので)
愛と怒りで
充分に満たされていたので
風船は空へと吸われていった
より高い所で
破裂するために
だが今では人が破裂している
澄み切った眼差しで
時に穏やかな
微笑さえ浮かべて
6(大地は飲み込んでいく)
歴史を傍観する傲慢と
歴史を動かそうとする傲慢が
せめぎ合っている
大地は飲み込んでいく
勝利を 敗北を
砲弾を 野の花を
数え切れないほどの死者たちを
大らかに咀嚼して
ゆっくりと飲み下していく
だが飢えは
いっこうに治まる気配がない
7(星は行き倒れた)
星は行き倒れた
ボリビアの山中の苦い村で
夢の瞳孔が開いた
座礁しなければ
辿り着けない遙かな岸辺に
あなたは打ち上げられたのだ
虚空を見つめ続けたまま
全身で全世界を映す
鏡になって
8(山が連なるように
  人が連なることは出来ないか)
山がつらなるように
人が連なることは出来ないか
木々が目覚めるように
人が目覚めることは出来ないか
川は夢中で流れていた
影はゆっくりと落ちていた
誰も叫んでいないのに
山から谺が帰って来た
9(死んで良かったことがひとつある)
死んで良かったことがひとつある
それは喘息が治ったことだと
あなたは笑いながら言うだろうか
銃口を向けられることも
銃口を向けることも最早ない
怒りに震えることもない
だがあなは密かに眼を凝らしている
遠く煙る地上の未来に
山が連なるように
そこでは人が連なっている

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