「ポットホール」 新井啓子

ポットホール  新井啓子  (世界を新しくするための詩2)
波を避けながら岩場を歩いていると
岩をなめらかにくり抜いた 穴をみつけることがある
桶の形の穴のなかには 丸まった石ころが沈んでいる
波がくると 石は揺れる 次の波で少しだけ浮かぶ
それから 波がくるごとに 少しずつ
側面に沿ってまわり
まわりはじめて 石は静かな調べを奏でる
若葉の迫る岸辺のささやき
甲殻類の行き来する磯の歓声
石はまわる まわされる
浅い夢の海岸の 砂時計の砂の落ちる音
人気のない洞窟でくりかえされる世代交代
荒波だけが吠えさかる夜にも
石はまわる まわされる
遠い記憶の島には 海に向かって めまいごと
かなしみを投げ入れたり よろこびを飛ばしたりする崖があった
原初に地面が盛り上がり 赤く割れたというその高い崖の上から
石は海に転げ落ちた
丘には薄紫の花が這うように咲いていた
眼下には悠々と海鳥が飛んでいた
夕陽に染まる断崖を落ちながら
石はかなたからうねり寄る この星の鼓動を聞いた気がした
穴から海水があふれると 石も穴を超えて出る
鼓動が石を揺らすから 石にも目覚めるときがくる
うたうたいたい
穴に新しい石が入り 新しい海草が揺れるころ
深い海の底で 石は 自分のうたをうたいはじめる

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「朝の少年」伊藤悠子

朝の少年   伊藤悠子 (世界を新しくするための詩1)
「暑いなあ」と大きな声で言いながら、少年が後ろから近づいてきた
「暑いねえ」と私
「寒いなあ」と追い越してから言った
「木陰にはいるとね」
「誰もいないなあ」
坂の横のバスの発着所を見おろして言っている
十四歳ぐらいだろうか
「バスだけね、運転手さんは休んでいるのね」
私はその少年に言うと同時に
私が手を引いている小さな子にも言うように言った
少年は階段を降り左の方に曲がるとき
こちらを向き大きく手を振った
私も片手を高く上げて返した
交差点を少年がひとり渡っていく
眞白い半袖シャツを着て
小説が始まる朝のようだ
渡り終えると
交差点の方に歩いていく私たちのために
歩行者用ボタンを押してくれた
こちらを見ながらひとつうなづいた
押しておくよ
ありがとう
少年は左の方へ
私たちは右の方へ
一本道を遠ざかっていったが
幾度も振り返り合図のように手を振った
そして少年は道を曲がったのだろう
誰もいないなあ

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五月ともなれば

五月ともなれば
雨が降っても木は香り
雨のなかを歩けば別の木は別の香りを放ち
晴れた日には家をあけ放ち
歌姫を呼んでみる
歌姫は砂漠で焦げつくような恋歌をうたっている
湖の底に舞い降りて湖を揺り動かし
海のうえを軽やかに歩き
空とぶ歌をうたっている
歌姫よ 歌姫よ
世界が壊れているというのに
あなたは恋の歌をうたっているのですか?
わたしは未知のひとに恋しているのです、と歌姫はいう
わたしはわたしを待っている多くのひとびとに
歌を届けなければなりません
わたしのうたがあなたに本当に届いたなら
今日だけはなにも起こりません
ひとは歌に夢中になるからです、と歌姫はいう
それから わたしはコンピュータのなかの
盲目の青年の歌うたいに来て貰う
なんとパワフルな、なんと美しい声だ、というひとがいる
どうしてこの青年に何万人というひとが集まるのだろう
この青年があたたかな声で愛の歌をうたうと
わたしたちのなかに愛のきれいな太陽が昇っていく
わたしたちにもこんなに愛があふれているのだと驚く
かれは目が見えないけれど わたしたちのきれいな愛の太陽を
見ることができるにちがいない、というひとがいる
そうして あの青年の歌をたくさんのひとが聴きに
やってくるのだ
こんなにあふれるほどの愛があるのに
わたしはなぜあんなに悲しかったかを思い出す
いつの頃からか
世界が壊れつづけていたから
五月ともなれば
雨が降っても木は香り
雨のなかを歩けば別の木は別の香りを放ち
晴れた日には家をあけ放ち
歌姫と青年の歌うたいを呼ぼう
世界をあたらしくつくり直すために

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ビートルズの イエロー・サブマリン

こんなに面白い元気のでるものは、ありません。
こんなにきれいなめちゃくちゃなものはものはありません。
こんなに幸せになるものはなかなかありません。
ビートルズがある程度成功して余裕があったからでしょう。

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Elvis Preslyの曲は

何の曲がお好きですか?
わたしはこの三つがすきでした。
もっとすきなのはありましたけれど、あまりいい画像がないのです。
かれの声、汗、すべて。もう一人、ジェームス・デーンもすきでした。
ほんとに時代って変ですね。
あの、きゃあきゃあのなかにわたしたちはいるのです。

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最近の歌姫は

なんてエレガントなのでしょう。
アンジェラ・ギオルギューというルーマニアのソプラノ歌手で1965年生まれだそうです。
有名なプッチーニのオペラで
おとうさん、お願い
わたしを あの人のところへ行かせて
でなけれゃ ベデッキヨ橋から アルノ川に
飛び込んでしまうから
おとうさん お願い
おとうさん お願い
といううたです。
もう一つのジャック・ブレルの古いシャンソンも素敵ですね。
このコンサートはオランダのベアトリックス女王のシルバーのお祝いのために唄
ったのだそうです。
シャンソンを歌うとき歌姫が男の歌手が唄いやすいように、ほんとの恋人みたいに振る舞う
ところが何ともいえないところで、ベアトリツクス女王もつい見とれてしまうのです。
こんな歌手見たことなかつた。

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オドロキのオドロキ

jp.youtube.com/watch?v=vMVHlPeqTEg&feature=related=ja
新聞にもかいていましたけれど
こんなにびっくりし感動したことはありません。
本当のエンターテイメントとはこういうものなのでしょう。

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「ぶどう畑のように」羅喜徳ナ・ヒドク たたずまいのある詩

ぶどう畑のように    羅喜徳ナ・ヒドク 
あの背の低いぶどう畑のように暮らしたかった
尾根の下に身を曲げて
低く低く伏せて暮らしたかった
隠れたか隠れていないかわからないように
世の中の外で実って行きたいと思うことがあった
口の中に残ったたった一言
ぶどうの種のように噛み
最後まで外に出したくなかった
丸い身を転がしてどこかに閉じ込めておきたい夢が
私にあった、何枚かの葉の後ろで
しかし私はもう世の中の酒樽に投げ入れられたぶどうの粒だったかも
しれない、熟しもしないうちにつぶされて赤い液になってしまった、
あまりに多くの言葉を口の中いっぱいに含んでむかむかする、私は
いつの間にか丸い身を忘れてしまったのかも知れない、ぶどうでない他の
身を失ってしまったのかも知れない、ぶどうでない他の身となり
ポチャッと音を出し、においになりもう一つの噂になって広がりながら
世の中を濡らしていたかも知れない
あの遠く背の低いぶとう畑の平和、
まだ私の体がぶら下がっているようだ
消えた手で消えた身を手探りして見る
秘密に実って行きたいと思うことがあったように
                      ※
 いろいろなことを考えさせられる詩です。
 幼い頃のことや青春時代やそして、つい二、三年前のことまで。
 私はこの詩を読んで、この詩のことを考えているうちに、いつのまか、自分のことを思いおこしていました。
 恐らく、この詩にはしっかりしたたたずまいのようなものがあるからではないかと思います。子供の頃、
毎日ながめていた遠くの山々とか学校の帰り道にぽつんと立っている大きな杉の木に感じるのと同じようなある種のたたずまいのようなものです。
 それにしてもぶどう畑のようになりたいとは、なんて新鮮な、なんて個性的な夢であり、欲望なのでしょう。その甘ずっぱい感じが思わず私の体のなかにひろがつてきます。
 そして、私もああ、そうだったのかも知れないと思うのです。
 
 中頃の連はさておいて、私がこの詩でもっとも強く惹かれたのはおしまいの四行です。この四行で、このぶどう畑はいまも彼女とともに(私とともに)あると思えるからです。

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「エッグスタンド」蟹澤奈穂  瞬間の人生ドラマ

エッグスタンド      蟹澤奈穂
静かな午前の光のなか
白い卵の殻を
スプーンでかつんとたたいて
あなたは
何かを聴き取ろうとして
耳をそばだてる
聴くんだ 遠くから響くあの音を
ここがどんなに穏やかでも
泡立つ波に風が吹きつける
あの 嵐が生まれた場所のことを
きみは 思い出さなければ
いけない
たくさんの街をとおって来た
広場で 大声で叫んでいた人びとのように
みんなに加勢することはたやすいがね
大切なことは
孤独をわすれないようにすることだ
たったひとり
心の奥底に降りてゆけ そして
嵐吹きすさぶ場所を
思い出せ
それから
耳をすませて聴くがいい あの
止むことのない
風の音
そしてふいに あなたは
エックスタンドを
倒す
                      ※
 わかりやすい詩だと思います。それはこの詩が私の前にすくっと立って何のごまかしもなく、こちらを向いている気がするからです。
 この詩の一つ一つの言葉はよけいな飾りや気取りがなく、それが私にはとても気持ちよく感じられるからでしょう。
 同時にこの詩の強さも感じられます。その強さは幼い頃から、この詩人がずっと持ちこたえている純情
さかも知れません。
 それと、もう一つ私はこの詩に独特のユーモアというか、ゆとりのようなものを感じます。それはたとえば<白い卵の殻を スプーンでかつんとたたいて>です。ここには音もあり、かつんとたたかれた痛さも感じられてまるで、私自身もたたかれているようです。もしかしたら、詩のなかの他者とは、こういうものなのかも知れない。そして、この詩のなかで話者や対者が入れ替わったりするのも、そのことと関係があるような気もします。とにかく、何かが<越境>している感じがします。この<越境>が私にとってユーモアのように感じられるのです。そのはじまりが<卵の殻のかつん>です。
 おしまいに<そしてふいに あなたは  エッグスタンドを 倒す>と読み終わると、一分間のひとり舞台を見たような感じがします。それは詩としてはユーモラスであり、ゆとりであるような感じがするのです。

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Paradise 中本道代  パラダイスへの道

Paradise 中本道代
遠くで雨がふっている
遠いところ
バルドよりも遠いところ
ブロギイナよりも遠いところ
晴れやかに
透明のしずくが群がって落ちる
そこに人は行けない
そこで人は死んでしまう
ある種の生きものにとっては
そこは何でもないところ
もっと遠くでも雨がふっている
硫酸の雨
そこに行こうとしただけで死んでしまう
すこしも近づくことができず
もっと遠くでも
もっと遠くでも
   裏側の宇宙
   晴れやかな
   そこから想ってみることもできないほど遠くに
   私たち
   純粋なる接近
                  ※
 この詩人が感じている世界、見ようとしている世界、私たちに伝えようとしている世界、それはいずれにしろ、彼女が深くかかわる世界があるようです。
 それは何かしら、この世には実在しない世界のようです。しかし、彼女にとっては<実在する>のかも
知れない。
 <遠くで雨がふっている>その<遠いところ>はどこなのか?
バルドでもなければ、ブロギイナでもない。しかも、バルドは物語や神話に登場する土地や国の名前のようです。
 彼女が説明すればするほど、遠いところはますます遠くなり、ますます、その現実世界からは遠くなるのです。それにもかかわらず、彼女はその場所について一生懸命私たちに何かを伝えようとしているようです。
 話は突然飛びますが、以前私はイギリスの車椅子に乗った物理学者ホーキング博士のベビーユニバース(小さい宇宙)にびっくりし、感動したことがあります。
 そのベビーユニバースは私のすぐ側に、その入口があるということでした。この詩を読んでいて、なぜか私はベビーユニバースのことを思い出したのです。
 もしかしたら、人はそれぞれベビーユニバースのような世界を持っているのかも知れない。そこでは、日頃みんなと一緒に生きている場所では見えないものが見えるのかも知れない。
 たとえば、硫酸の雨のような恐ろしい雨、それは宇宙の裏側にあるのか、意識の裏にあるのか、いずれにしても、遠くにあるのか、それともすぐ間近にあるような気がする、この詩を読みながら、こんなふうに思いました。

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