「ぶどう畑のように」羅喜徳ナ・ヒドク たたずまいのある詩

ぶどう畑のように    羅喜徳ナ・ヒドク 
あの背の低いぶどう畑のように暮らしたかった
尾根の下に身を曲げて
低く低く伏せて暮らしたかった
隠れたか隠れていないかわからないように
世の中の外で実って行きたいと思うことがあった
口の中に残ったたった一言
ぶどうの種のように噛み
最後まで外に出したくなかった
丸い身を転がしてどこかに閉じ込めておきたい夢が
私にあった、何枚かの葉の後ろで
しかし私はもう世の中の酒樽に投げ入れられたぶどうの粒だったかも
しれない、熟しもしないうちにつぶされて赤い液になってしまった、
あまりに多くの言葉を口の中いっぱいに含んでむかむかする、私は
いつの間にか丸い身を忘れてしまったのかも知れない、ぶどうでない他の
身を失ってしまったのかも知れない、ぶどうでない他の身となり
ポチャッと音を出し、においになりもう一つの噂になって広がりながら
世の中を濡らしていたかも知れない
あの遠く背の低いぶとう畑の平和、
まだ私の体がぶら下がっているようだ
消えた手で消えた身を手探りして見る
秘密に実って行きたいと思うことがあったように
                      ※
 いろいろなことを考えさせられる詩です。
 幼い頃のことや青春時代やそして、つい二、三年前のことまで。
 私はこの詩を読んで、この詩のことを考えているうちに、いつのまか、自分のことを思いおこしていました。
 恐らく、この詩にはしっかりしたたたずまいのようなものがあるからではないかと思います。子供の頃、
毎日ながめていた遠くの山々とか学校の帰り道にぽつんと立っている大きな杉の木に感じるのと同じようなある種のたたずまいのようなものです。
 それにしてもぶどう畑のようになりたいとは、なんて新鮮な、なんて個性的な夢であり、欲望なのでしょう。その甘ずっぱい感じが思わず私の体のなかにひろがつてきます。
 そして、私もああ、そうだったのかも知れないと思うのです。
 
 中頃の連はさておいて、私がこの詩でもっとも強く惹かれたのはおしまいの四行です。この四行で、このぶどう畑はいまも彼女とともに(私とともに)あると思えるからです。

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