「Kの土地」小柳玲子  ぜんまい

Kの土地     小柳玲子
地下鉄のあとは何に乗ったろう
汽車は三つめで降りた
すすき野の中でバスに乗った
時計のぜんまいのようなものが
たえず空気の中から生まれ
バスの床に落ちていった
それは暗がりにすぐ見えなくなった
それからバスを降りた
山の中腹にKの家が見えていた
それは何のはずみか急になくなり
突然また現れるのだった
夕焼けを吸って壁も納屋も暗かった
そのあたり ぜんまいのようなものが
生まれては消えていた
K お元気ですか
久しくおめにかかりませんでしたね
あなたは——何故だろう とても幼くなった
それは双六ですか あなたが遊んでいるのは
めくらねずみや るみこちゃんの靴がありますね
みんなとても小さい
小さい
わたしには見えません
あなたの声ばかりがきこえる K
L どうして来たの
こんな遠い土地まで
頼りなく不審気にKは訊いた
「お正月だから」
私は そう答えた 何故か消え入りたかった
初夢にしても——さらにとりとめない声でKは言った
——ここは滅多に来る人はいないのだけど
うつくしい空気の中から
Kはいくつもいくつもぜんまいを拾った
L きみは駄目になっていくみたい
ほら こんなに壊れてしまって
夜あけ 霧
汽車は三つめで降りるのだった
バスは幾つめだったろう
すすき野で 券売機の前で
ぜんまいのようなものが
たえず 生まれ
帰っていく駅の名前を
つかのま 思い出せない時
K あなたは誰か
   ※   ※    ※
 何かしら発光体のようなものに書かれた物語。
 Kの土地を訪ねる<私>。
 しかし、殆ど現実味が感じられない。
 いろいろな物(ぜんまいやKの家など) が現れたり、消えたりする。
 淡い光芒とともに、恐らく、それは書かれているのが発光体の上だから。
 発光体というのは詩人の意識なのだろう。
 言葉は呼吸と同じようなリズムで自然に語られるので、内容が物語のような
 ものであるにもかかわらず、香りのようなリアリティがあります。
 そして、私は知らず知らずのうちに、私自身の失われた時を探しているような
 感じがします。
 <時計のぜんまい>とは詩人の失われた時間であり、私自身の失われた時間でもあります。
 この詩のなかで、<ぜんまい>があらわれないのは、三連目です。そこだけが、リアルであるから、
 失われる時間が現れることができないからではないかと思われます。
 幼い時の時はそれ程までに充実しているものなのかしら?
 そうなると、最後の<K あなたは誰か?>のKとはもうひとりの自分、もうひとりの私です。

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