「投光」関中子   町に住む

投光    関中子
町の奥に住んでいる
町の東側に向かいずんずんずんずん歩くとわたしの住処につく
そこはかたつむり通りの向かい側になる
柿の木森の東隣ですすき原の西
くぬぎトンネルをぬけたところ
くぬぎトンネルに入る前に夜になると
西に沈んだはずの太陽がそっと隠れたつもりのような
太陽の幼子団地と名づけた建物群が散らばる
北の大地は太陽の幼子団地に仄かに照らされて地上に浮かぶ
そこで輝く変身山は一番迫力がある
さらに人が乗った噴火流が北に西に南へと見え隠れる
隠すものと隠されるものと
沈黙するものと声高に話すものとどちらも素敵に見える
時々 妙にもの哀しく見える
輝かない窓がいくつかあり
これがあたりまえならその言葉を人目に触れさせまい
その窓の奥のできごとのひとつふたつ
窓の哀しみ わたしの胸の淋しさ
わたしは別れた双子の兄弟姉妹などいないのだし
わたしの窓はあの幼子団地にあるはずもない
わたしは町の奥に住んでいる
町の東側に向かいずんずんずんずん歩くと住処につく
そこはかたつむり通りの向かい側になる
柿の木森の東隣ですすき原の西
くぬぎトンネルをぬけたところ
三年前までは葛の葉橋を渡ったが
それは熊笹砦の思い出話になった
空に向かって葛の花びらを投げた
まっすぐに投げた
でもたちまち勢いを失ってははらはらと熊笹砦に流れた
熊笹砦から西南を望むと町で誰かがまっすぐに
空に投光するのが毎晩見える
雨の日も 風の日も 曇り空の日も
まっすぐ まっすぐ見える
わたしの夢に形があるとしたらこんなふうに
空に向かって行きたいのでは?
     ※     ※     ※
 この作品は全体としてとても観念的であり、思考的であると思います。
 でも、私には思考しているひとの体や息づかいが感じられたりもします。それがこの詩の不思議さだと思います。
 はじめの二行<町の奥に住んでいる 町の東側に向かいずんずんずんずん歩くとわたしの住処につく>が特に私には印象的でこの二行によって何かが始まる感じがします。
 何が始まるかといえば、町のなかで何かが起きているようで、それに立ち会うような感じです。
 そして、その起きていることが幻想と観念(思索)が融け合っているような———私はこの二つがうまく
融合しているようには感じ取れないのですが———ことが起きている。
 こうしたことが必ずしも、うまく表現されているとは思えないのですが、それにもかかわらず、私は感動するし、元気づけられます。
 つまり、町のなかでひとりの人間が哀しかろうが、淋しかろうが、一生懸命生きている、このことが伝わってくるからです。
 内容的にはそういうことが書かれていないにもかかわらず、そこで生きているひとの息づかいや体の
動きが感じられる、それがこの詩の不思議さであり、新らしさであると思います。
 こうしたことのすべてを支えているのは<わたしは町の奥に住んでいる 町の東側に向かいずんずんずんずん歩くと住処につく>この二行です。
 町というのは、幻想と思索の産物かも知れません。

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