運ばれた花 峯澤典子
カウンターの周りが薄く明るんだ
朝早いカフェで
向かいの花屋にランジス市場から着いたばかりの花が
並べられるのを見ていた
細いが よくしなう枝を持つはずの庭薔薇は
ほかの花よりも
器から大きくこぼれ
手折られた苦しみのかたちを
乱暴に 解いてくれる風を待っていた
本来のうねりをしずめ
自分の花影にもたれた枝は
数日前 公園のベンチに座っていた男を思わせた
男は服の色も判別できない木影で
寒いのだろうか 膝に何枚も新聞紙を広げ
そのうえに両肘をつき 額を支え
少し波打った白髪まじりの髪と痩せた首筋
湿った長い手足を
雨あがりの匂いにさらし
手折られた姿で 風を聞いていた
視線を合わせるのも そらすのも
こうした花に姿を重ねるのも、不遜、と知りながら
目はなぜ瞬時に識別するのか
底に満ちる孤独を
底が深ければ深いほど
見つめたあとは すべもなく離れるしかないというのに
すべての花が店頭に並べられ
花屋の扉がいったん閉まると
手折られた庭薔薇も男も 朝日に溶け
丸まった新聞紙だけが
風に運ばれていった
※
光とか色とか風というものは、本来それ自体は形もないし、言葉や絵の具などで描くには適していない。でも、もしかしたら、そこにしかないもの、そこでしか現れないものもあるのかも知れない。
たとえば、それは能の世界だったり、イギリスの風景画家ターナーの世界のようなものだ。
私はこの詩を読んでいると、そうした世界を同じようなものを感じる。
たとえば一節目の終わりの二行
手折られた苦しみのかたちを
乱暴に 解いてくれる風を待っていた
にそれを感じる。そしてねその内実は次の節に注意深く語られている。それを読んでいくといつの間にか、私も能やターナーの絵にはいっていくような気持ちになる。
しかし、その世界は決して幸せなものではない。
底に満ちる孤独を
底が深ければ深いほど
見つめたあとは すべもなく離れるしかないとい
うのに
しかも、不思議なのは、こうしたことが日常のカフェで起きているということである。そこに私はこの詩の
現代性を強く感じる。