志田道子「忘れていたもの」我々はどこから来てどこへ

忘れていたもの   志田道子

電車が鉄橋にさしかかると
明るい銀鼠色が
目の前にいっぱい広がった
誰も未だ
春のことなど思い出してもいないうちに
鋭い太刀が斬りさいていた
その真一文字の切口にだけ
日の光が射し込んで
水平線がどこまでも続いていた
空も
河口も
薄雲鼠色
河の真中を
扇子をだんだんと広げて行くように
白波の航跡を従えて
貨物船が音もなく
海に出て行こうとしていた
男は吊革にぶら下がって
片手でコートの胸の釦を確かめ
目を細める
ずいぶん長い間
使うことのなかった
肩甲骨の間の
翼の根っこが疼く
こんな静かな
昼下がりには

 「我々はどこから来て、どこへ行くのか」
この言葉を私はいつも忘れているようです。でも、突然思い出すこともあります。それはなんの前ぶれもなく私のなかに立ち上がってきます。
ひとりで海を眺めているときだつたり、あるいは大勢の人に交じって街を歩いているとき、「我々はどこから来て、どこへ行くのか」と思うのかも知れません。
この詩を読んではるかに遠い世界にさそわれる感じがしました。
突然、目に飛び込んできた青い海、それは「目の前いっぱいに広がった」「鋭い太刀が斬り裂いていた」水平線がどこまでも続いている。
たぶんこの詩人はひとりで自分の言葉を探していたに違いない。(それは私と同じではないかと思います)
「ずいぶん長い間 使うことのなかった 肩甲骨の間の 翼の根っこが疼く」「我々はどこから来て
どこへ行くのか」決して生と死のことたけではなく、私と鳥、私と魚たちとのことでもあるのでしょう。

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