茅葺の家 山本楡美子
ある作家が書いていたことだが
電車の窓から子供の頃に住んでいた家を見つけると
(あった、あった、今日もあった
と安堵でいっぱいになるそうだ。
線路沿いの小さな家は
陽の当たり方によって
ある日は幸せだったり
ある日は淋しかったり
わたしにも
まだあるかどうか確認する家がある
青梅の
古びた茅葺の家。
その家の前に立つと
若くて逞しい父と色の白い母が
太った赤ん坊といっしょに
ちょうど山の上の畑から帰ってくるところに出会う。
信仰などというものがあった古い時代にもどって
桶の水と囲炉裏の火は大事に守られている。
わたしは遠くから帰ってきた者のように
酒とさかなでいっときもてなされ
頭をさげて辞するのだ。
だが去るときは、もうどんな人影もなく
古い家の佇まいだけ。
数年前、ここで見たことのない父母に出会った時は
初めて、とうの昔に父と母を失ったことを理解し
泣きながら帰途についた。
この作品はとても分かりやすい詩です。それは書かれていることばが普段私たちが話したり、書いたりしている、そのままのことばだからです。それともう一つ、この詩は起承転結の形をとっていて、つまり物語と同じ形を持っているからです。たとえば、<ある作家が書いていたことだが>にはじまり、各節は
物語の時間に沿って展開していきます。ですから、殆ど何の違和感もなしに最後まで読めるのだと思います。
ただ、私がびっくりしたのは、最後の三行です。<数年前、ここで見たことのない父母に出会った時は はじめて、とうの昔に父と母を失ったことを理解し 泣きながら帰途についた>
劇が終わって幕が降り、物語が終わった瞬間に、その幕が落ちて、全く新しい世界が始まったような気がしたからです。それまで、私はふるさとというのが懐かしく、どことなく寂しく、それと同時に、こころを和ませてくれるものと感じながら、この詩を読み、それに共感してきたわけですが、このお終いの三行を読んだときに、もしかしたら、この詩人にとって本当のふるさととはその先にさらに詩人の旅を続けよ
といっているのかもしれないと思ったからです。たぶん、私たちは一生懸命生きようとすると、ふるさとよりももっと遠くへ、もっと遙かな所へ終わりのない旅を続けることになるかも知れません。この詩はことばのリズムにも無理がない、分かりやすい詩ですが、とても不思議な詩です。
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