大学にひとりの作家が

 大学にひとりの作家が現れた。普段、大学なぞいったこともなかったのに、その日はその作家をみるために、というよりその作家の話をきくために、教室に入っていくともう満員で私は立っていなければならなかった。どちらかといえば、わたしはせっかちというか、退屈やさんというか、気まぐれやさんというか、とにかく自分ひとりで生きているひとなので、ひとの話を立ってきいたことなど殆どない。それでも、きっとその講師のお話がおもしろかったのだとおもう。わたしはお終いまで聴いて、それも満足してかえってきてのだから、自分でも驚いてしまった。その男の声を前にラジオで聴いたことがあった。そのひとは礼文島
の話をしていたのだと思う。わたしは田舎からやってきたにんげんで、とにかく、自分をあまり格好のよくない、田舎まるだしの人間だと思っていたので、恥ずかしいやらなにやらで、あまり口がきけない女のこだったわけだけれど、教室の教壇に立って話しているそのひともなんといってもへんなしゃべりかたで、どもるような、ひとつのことをなんども言い直すような、なんともいえない、話し方だった。あとになってあの話
しぶりをきいて、あれが日本でいちばん有名な小説家であり、そしてのちにノーベル賞までもらう作家だとは全く想像できなかった。かれはとにかく、わたしに自信を持たせてくれたのだ。ひとまえで話すとき、
あんなにどもったり、つっかえたり、言い直したりしてもとにかく自分のいいたいことをいえばいいのだと
いうことに気づき、ひとに希望をもたせてくれるひとはわたしにとって初めてであった。
 そして、この頃の面白い本というので、2冊か3冊の本の話をしただけであった。それがまた面白かったのだ。一つは田山花袋の「蒲団」という小説の話だった。それはもうすこし退屈だったし、内容も
もう忘れてしまった。その次にその頃でたばかりのアメリカの黒人作家ジェームス・ボウルドウィンの「もうひとつの国」another country だった。わたしは講演の帰りにすぐ新宿の紀伊国屋によってすぐその本
を買って夢中になって読み、少なからず満足したのであった。わたしはおおいに興奮した。最近はじめて
私などには信じられない大人っぽい性のはなしだったからである。しかも、なかなかいい小説だったのだ。白水社の本の頁を開くと、落ちに落ちた黒人の若者が映画館のなかで叫んでいる。「ねこそぎもっていったくせに、まだ俺からもっていこうとしているてめぇはどこのどいつだ。もはやこれ以上は俺にはなにものこってねえ。ねこそぎもっていきあがれ。」なんという孤独と哀しみと闘いがこの黒人の若者を翻弄しようとしているのだろう。しかし、わたしがもっとも、ひかれたのは、この主人公のホモセクシャルの話ではなかった。
 彼の妹がタイピスト秘書をしているのだが、その彼女のボスと恋愛関係になっているのだが、すこしづつ
屈辱的な立場になっているのに、どうしてもかのじょは性的にボスから逃れられないという話だった。
 それを大江健三郎さんはぽそぽそとまだ二十二歳になったばかりの私たち学生にはなしたのだった。
それは衝撃的な話だったのだ。その本のことをクミコに話したら、読んでみたいと言った。自分でかって読めばというと、かんかんに怒り、わたしはあんたから、いちども本をかりたこともないといった。わたしはびっくりして、大学にも行けず、離婚して、すぐオフィスに勤めなければならなかった彼女の立場をすっかり
忘れていた。わたしはすっかり考え直して、読んだばかりの本をもって、有楽町のビルへあがっていって
クミコにその「もう一つの国」を渡したのだった。クミコもそれに感動した。そういうわけで大江健三郎さんはあのしゃべりとおなじようにすらりとした文体を離れて次第次第に複雑な要素を構成する物語を書くようになったが、わたしたちには新鮮に思えたのだ。

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