無限軌道 飯島正治

『薇』4号を送っていただいた。飯島正治氏の追悼号だった。その中から「無限軌道」を載せたい。
           無限軌道                                                                                 
黄ばんだ畳の野原を息子の鉄道模型の
ちいさな列車が駆けている
畳に耳をつけ眼を閉じると
レールを刻む車輪の音が大きくなる
縁の川にかかる積み木の橋を渡って
列車は過去の坂を下ってゆく
すると汽笛が聞こえ
ぶどう色の客車を引いた蒸気機関車が
扇状地のりんご畑の間を
ゆっくり上がってくるのだ
枝々のりんご袋を一斉にゆすって
列車が通り過ぎる
煙のなか車窓の一つひとつに
顔が浮かんでいる
おぼろげな父親の顔や軍帽の叔父
おかっぱの少女も見える
帰ってこなかった者たちだ
彼らを乗せたまま
列車は無限軌道を走り続けている
眼をあけると
ヘッドライトをまたたかせ
あえぎながら未来の橋を渡ろうとしている
””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
はるばるとした永劫の時間と今のこの瞬間が、一つになって見えてくる。
こんなにもありありと見える遠景。遠ざかる列車の車輪の音と、汽笛まで聞こえる。
無限につづく人々の記憶のつながり。ふいに懐かしさがよみがえる。
たとえ会ったことのない人々も私の記憶の中にいるのだと思う。

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ローズマリー

昨日、タクシーに乗った時、フロントの手前に一本挿してあるのは、どうやら
ローズマリーの一枝。
気になって、降りるときに、「それ、ローズマリーでは?」と訊いてみたら、
「そうなんですよ。これを置いとくと蚊が来ないんです!」とのこと。続けて
「窓のところなどに置いとくと蚊が入ってきませんよ」という。
ローズマリーは我が家にも何株かあるが、ほとんど使わない。そんな効用が
あるなら、使ってみようかなあと思いながら帰ってきた。で、半信半疑のまま
家にあるハーブの本をいろいろ調べたが、どれにも載ってはいなかった。
でも試してみる価値があるかも…。運転手さんからは時々教わることがあるし…。

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夜顔

この間、”夕顔が咲きはじめた”といいましたが、わが家のは、夕顔ではなくて、夜顔でした。
先日、朝日新聞の天声人語にも,載っていましたが。日本ではよく夕顔と間違えるらしい
です。
夕顔なのになぜ夜おそくならないと咲かないのか?と不審に思って、ネットで調べました。
そうしたら、ほんとの夕顔の花はかんぴょうの花で、我が家のバルコニーのとは違いました。
最近涼しくなってきたら、夕方おそめに開花して翌朝の明け方まで咲いています。
夜顔はヒルガオ科の花(まぎらわしい!)で、夕顔のほうはウリ科の花だそうです。
源氏物語の夕顔はヒルガオ科?それともウリ科?

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三崎口行き(北島理恵子)

北島理恵子詩集『三崎口行き』から紹介したいと思います。
巻頭の詩と、もう一篇です。
       遠景
                                       
                                     北島理恵子
     わたしたちは
     生まれる前の、海の水面のきらめきの話をする
     幼い頃布団の中で見た、怖い夢の話をする
     いまここにある
     かなしみは話さない
     廃墟
この街は とうに
消えてなくなっているはずだった
   
そうした ある日
地下鉄を降り
Aの出口を上がって
砂塵が舞う
乾燥した通りに目をこらすと
あの店の二階の
窓際の席が見えたのだった
狭い 階段だった所をのぼり
いつも座っていた椅子に腰掛ける
「火鍋はじめました」
と書かれた紙が
以前と同じ位置に貼られてあった
触るとそれは
ぼろぼろ 崩れ
目の中に降ってきて
溶けて ようやく終わった
当時 すこし派手めだった飾りが
かすかに赤い
ハエ取り紙のようになって揺れている
ここにはもう
中国なまりのカタコトの店員はいない
何時まで待っても
やあ と言って
向かいに座る人もいない
わたしという
客の形をしたものが いるのみである
”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
ひとりずつが、生きている時間のもつ、内面的な多層性。私たちは、詩という形で、
あるいは夢という形で、または追憶という形で、病という形で、そんな時間の一端
に触れることができる。その時間への感触を与えてくれるような、繊細な想像力を
感じさせる詩集だ。ほかにもいろいろあったが、短めのしかここに入れられず残念。
出版は「Junction Harvest」。これは.第一詩集とのことです。

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暑熱のなかへ逆戻り

2,3日涼しい高原にいて、昨日新幹線から東京駅に降り立ったら、まるで蒸し器のなかみたいで、心もからだもびっくり仰天。
赤倉ホテルは、後ろに妙高山を背負い、目の下、前方には野尻湖や斑尾山を一部とする連山がはるばると広がり、いつもマンションの窓から都会の一部を見下ろしている暮らしと大違い。雲海の中に沈んでいるような気分だった。だが、せいぜい三日の休日で、また暑熱のまんなかへ戻ってきてしまった。
でも、せっかくの高原のホテルの一室でどんな時間を過ごしたかというと、目前にせまった読書会
のテキスト、岡本太郎の『沖縄文化論』を読んだくらいだ。もっともこれはノルマというには、結構おもしろく、刺激的で、かつて夢中になって読んだ彼の著書などをまた読み直したくなっている。
そういうわけで書棚からひっぱり出してきた、彼の『自分の中に毒を持て』が机上においてある。この暑さに対抗するにはよほどの毒が必要かもしれない。

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蚊おとこのはなし

夕顔が咲きはじめた。まだ一輪、二輪ずつだけど。夕顔も(西)の領域に属する花だなあと思う。なぜか西には気持ちが向かう。詩集『ユニコーンの夜に』で、西のうわさ、という作品を二篇書いていて、これは西に棲む女家主を書いたものだった。この「西のうわさ」シリーズにはまだ続きがある。ここに載せるのは2005年に『幇』8号に発表したもの。
        蚊おとこのはなし
                                  水野るり子
 
夏おそく
蚊おとこたちが
西の方から訪ねてくる
ひとり ふたりと
わらじを脱いで上がりこみ
縞の烏帽子も脱ぎ捨てて
ねむたいわたしの耳のそばで
わやわやと
女家主のうわさをはじめる
(ああ 耳がかゆい)
蚊おとこたち…
西の夕やみにすむ
女家主の一族郎党か
(彼らは本来饒舌なのだ)
その豆粒ほどの脳髄を
芯までトウガラシ色に染め
ほんのひと夏の
はかない身の丈で
せいいっぱい勝負するかれら
ちっちゃな血のしずくから
生まれてきた連中だ
「女家主はカワウソだ
川で星の数ほど魚を食う」
「いや女家主は巨人なのだ
異形のものを生み拡げる」
「いや女家主は羊歯の一味だ
やくたいもない菌糸をのばす」
(だがいつだれがそういった?)
(だがいつどこでそれを見た?)
蚊おとこたちは口々に
女あるじのうわさをするが
その正体をまるごと見たものはいない
焦げくさい西の空から
巨大なヒキガエルにも似た女家主の
おおいびきがとどろいてくると
蚊おとこたちの宴は 雲散霧消…
雷雨が夢のなかまでびしょぬれにして
東の方へ駆け抜けていく
ねむたいわたしの耳に
蚊おとこたちの薄いわらじの跡だけつけて

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木漏れ日の家で

映画「木漏れ日の家で」を見た。ポーランド映画。監督・脚本はドロタ・ケンジェジャフスカ。
以前岩波ホールで上演されたときに行きそびれたのを、近くのシネマ・ジャック・ベティでやっていたので見に行く。めずらしくモノクロ映画である。
ポーランド、ワルシャワ郊外の森のなかに、木漏れ日に一面のガラス窓が輝く古い木造の屋敷がある。91歳のアニェラは、ここで愛犬のフィラデルフィア(フィラ)と長く暮らしていた。淡々と老女と一匹の犬の暮らしが見つめられていて、ほとんどこれという事件も起こらない。その分見るものは彼女の内面に同化して、彼女とともに双眼鏡で森深い庭の出来事や、隣家の情景を眺め、そのすてきな共演者である犬のフィラの表情に一喜一憂する気分になる。犬のフィラはその演技で受賞したとのことだ。この共演ぶりが興味津々だ。
老いていく孤独な一人暮らしの中で、息子への期待を裏切られ、孫の言動に失望し、しかしその森の家での日々の暮らしを深く味わっているアニェラの表情はとても魅力的だ。それは彼女が生きてきた自分の時間へのゆるぎない信頼からくるものかもしれない。彼女は最後まで自らを閉ざすことなく、毅然と信念に従って生き、若い音楽仲間たちに自らと屋敷とを解放し、思い残すことなく世を去るのだが、そこには老いの閉ざされた暗さはなく、孤独をこえたふしぎな明るさがある。
ラストシーンでカメラがはじめてこの屋敷の上空へと、はるばる上昇し、大きな広い空の下の森に囲まれたこの古い屋敷を俯瞰図のなかにとらえるシーンは感動的だった。野の果てまで続く、あの白い花房をつけた樹木はなんだろうと思いながら、ポーランドの自然の豊さを想った。
アニェラを演じたダヌタ・シャフラルスカのすてきな微笑に引き付けられたが、この名女優は95歳になる今も舞台で現役をつづけているという。またこの女性監督ドロタ・ケンジェジャフスカの作品をぜひ見たいと思った。
作家の金原瑞人が書いている。「ろくに起伏がなく、じつに退屈で,じつに眠気を誘う映画…のはずなのに、じつに生き生きとしていて、じつに心に食い込んでくる映画だった。
なにより忘れられないのはファーストシーンだったかで、アニェラが屋敷の二階から外を眺めている姿を外から撮っている場面だ。四角く区切られている大きな窓のガラスを、カメラがしっかり撮っている.格子のひとつひとつにはめられている、気泡の混じったガラス、表面にでこぼこのあるガラス、皺のあるように見えるガラス……四角いガラス一枚一枚が個性と存在感を持って、迫ってくる。そう、この古々しい屋敷の窓ガラスはずいぶん昔につくられたものなのだ。おそらく半世紀以上、もしかしたら一世紀以上前のものかもしれない。……監督、撮影の力量というのはこういうところで推し量れるのだと思う。」
この映画はシネマジャック・ベティで8月5日までやっているそうです。

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兎  (岬 多可子)

            兎             
                                  岬 多可子
夜の飼育小屋で
たくさんの兎がしずかに混じり合っている
声というものがないので
区限ということがない
小麦粉のドウとドウを捏ねてひとつにする
そんなふうな混じり方
そして また
そこからひきちぎられたように
濡れたにぎりこぶしが
夏の赤い穴の中にころがっている
粉のような虫が
小屋の錆びた鍵穴から 大量に湧き出て
どこかへと長い長い列を作る
にじみでていく夜というものが
兎というものの全体なので
生死を数えることはできない
  ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
これは岬多可子詩集『静かに、毀れている庭』のなかの作品。ひさしぶりに兎の詩を引用
できて嬉しい。この詩からは「生命」とか,「類」というもののもつ不条理な重さ,哀しさを感じる。
3連の(夏の赤い穴)とはなんなのか、(ひきちぎられたようにころがっている…濡れたにぎりこぶし)
とはなんなのか。生き続けていく生命の奥底にひそむ不気味な営為やエロスを感じる。詩で
なければ表現できないある感覚だと思う。とくに最後の連が印象的だ。

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「牛」 吉井 淑

 詩集『ユニコーンの夜に』を巡って、詩友の方々からさまざまな言葉の贈り物をいただく機会がここ二度ほど、連続してあって、爽やかな緊張感と喜びの日々だった。もちろん今後に向けていろんな形での刺激をもいただいた。これはめったにないことでもあるので、今週は少し孤独にその余韻を味わいながら、同時にこの夏の暑さにも驚いていた。
 
今日は詩を一つ。
                 牛      吉井 淑        
         曲がりかどで牛に出会う
         板塀から染み出たように立っている
           かわたれどきの空き地でも
         ひっそりと
         黒牛のかたちに闇が濃くなっている
         川のほとりに住んでいたころ
         土手の斜面を上がると牛がいて
         空いっぱいに腹が広がっていた
         たくさんの虻が飛び交って
         ぬうっと振り向いた瞳はよく光るのに
         なにも見ていないのだった
     
         草を食むためにだけ一歩二歩進む
         耕さない牛が
         どこをどう歩いてきたのか
         ずっと私の側にいる
         虻を払うように
         ときどき尻尾で叩きながら
         
         街頭の下に大きな影を倒している
         毛深い腹に潜り込むと
         みわたすかぎりの星空
         土手の空
         そこから森への小道
         はぐれていく
         
         ぴしりぴしり
         尻尾の音   
 
   ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
このところ原発問題とからんで牛または牛肉問題で大騒ぎになっている。騒いでいるのは我々人間、そして牛たちは寡黙である。もくもくと藁をはむだけの彼らのすがた。(板塀から染み出たように立っている…)(ひっそりと黒牛のかたちに闇が濃くなって)くる、その影は隠喩に満ちている。ここにあらわれる牛は、存在自体の影のようだ。それはみわたすかぎりの星空や、森への小道につながっているのだから。
この詩は吉井 淑さんの詩集『三丁目三番地』から引用させていただいた。好きな詩なので、もし以前にも取り上げさせていただいていたらすみません。

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不思議な羅針盤

詩友の佐藤真里子さんにお借りした梨木果歩の『不思議な羅針盤』という本は最近のヒットだった。ミセスに連載したエッセイをまとめたものとのことだ。著者の小説はよく読んでいたので、その文章のもつ肌合いや感触には慣れていたが、今度のエッセイで著者が日ごろ何を感じ、どんなことを想っているかが伝わってきて、共感できる部分がたくさんあった。
たとえば「スケールを小さくする」という章である。片山廣子の『燈火節』に触れて、(アイルランド文学の翻訳で有名だった彼女だが、その生きていた現実世界のスケールの小ささとそのことがどんなに世界に細かな陰影を落としていたか…外国に足を運び、生身の体に余計な情報を入れる必要などなかったのでは、と思われるほど一つの世界として彼女の内界に、例えば神話世界の「アイルランド」が確立しているのだ。…と述べている。生身の体での知見を広げるということと、想像世界の豊かさを耕すということは、必ずしも重ならないのだと私も思うことがある。
(グローバルに世界をまたに掛けて忙しく仕事している人たちの、大きくはあっても粗雑なスケールに)最近なんだか疲れてしまった、という著者は(距離を移動する、それだけで我知らず疲弊していく何かが必ずあるのだ。…世界で起こっていることに関心をもつことは大切だけれど、そこに等身大の痛みを共有するための想像力を涸らさないために、私たちは私たちの「スケールをもっと小さくする」必要があるのではないか…つまり世界を測る升目を小さくし、より細やかに世界をみつめる。片山廣子のアイルランドはその向こうにあったのだろう。)
と、書いている。
私もあまりに目先のことに忙しいとき、大きな留守をしている気になってくる。そんな時は周囲の流れに追い立てられ、自分も大きな忘れ物のつまった袋を背負って、やたら右往左往しているだけの一人なのかもしれない。ときどき意識して世界を測る小さな升目を取り戻したいと思う。

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