むかご

福岡の日嘉まり子さんから、おにゆりのむかごが3粒送られてきた。「すぐに蒔いてください。来年(または再来年)の五月ごろ花が咲くそうです」とある。このむかごは「平成9年7月、中国山西省の五台山の佛光寺の境内で拾ったむかごの子孫。以後6年間日本で咲き続けています」とのこと。彼女も知人からいただいたとのこと。バルコニーでも咲くかしら?と不安だが蒔いてみよう。日嘉さんは去年もツタンカーメンのえんどう豆の種を送ってくださった。それは見事にいくつも莢を実らせてくれた。種をとったのに今年は蒔くのを忘れてしまった。来年は必ず蒔くことにしよう。
何年も前から、バルコニーではシルクロードからやってきたという濃いピンクの朝顔が、夏ごとに落ちた種から花を咲かせてくれる。見ていると、それはだんだん空へ上っていく音符のように見える。

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読書会のことその他

フォーラム横浜でのさいごのたこぶね読書会があった。テキストは恩田陸の「夜のピクニック」だった。
後味が爽やかという意見が多かった。本来なら屈折した感情を抱いた人間同士の葛藤があるはずのとこ
ろを、情念の絡み合いへは降りていかず、若者たちが知的な目で、行動的に解決へ向かうのは、この著
者の資質なのかもしれない。あるいは個々の人間の惑いや内面の悩みそのものよりも、それらを包むトポスの働きに関心があるのかも…などと私は思う。それにしてもさまざまなキャラクターを書き分け、関係づけていく筆力、また一昼夜の歩行祭を、読者にも飽きさせずに、同時体験させるような筆力には感じ入った。出席者は9人だったが、それぞれいろんな感想や意見が出て、それがひとりの読書と違うおもしろさなのだ。この次は場所を変え「ペンギンの憂鬱」を読むことになった。
帰ってから、ベイスターズのファンである私は、大魔神佐々木のさいごの試合をTVで見る。涙を浮かべた
清原とのさいごの対決。マウンドで一瞬抱き合う二人の姿を見て、かれら二人だけのひそかな記憶のフィ
ルムを巻き戻して、覗いてみたい気がした。
昨日新聞で元文学界の編集長だった西永達夫さんの死亡記事を読んで愕然。彼は大学時代も卒業後
も、若い日々を通して忘れられないいい友人だった。最近は会うこともほとんどなかったが、かつての爽
やかな交友の日々がしきりに思い出されてならない。いちにち淋しい。

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エッセイの愉しみ

高橋茅香子さん(私の英訳の先生)から、新刊の文春文庫「英語となかよくなれる本」が届けられた。
この本は以前晶文社からの単行本で読ませていただいていたが、実に愉しくて、なぜか元気の出てく
るエッセイ集だった。
英語を使って何かしようという読者であろうとなかろうと、帯にも書かれているとおり、「料理、コミック、
音楽に朗読、旅とミステリー、読みたい本、外国人と付き合うヒントetc.」、なにしろ愉しくて、肩がこら
ず、いろいろ目からうろこが落ちる一冊なのだった。おもしろくて、かつ得るところの多いエッセイは少ない
ものだ。いままたこの文庫本を手にできて、身軽に持ってあるき、新たに付け加えられた章とともにもう一
度読み返せる楽しみができた。
なお、著者には、アリス・ウオーカーの「メリディアン」(ちくま文庫)、アドリエンヌ・リッチの女性論
「女から生まれる」(晶文社)などをはじめとして、その他多くの訳書がある。

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恩田陸のファンタジー論

今度の読書会のテキスト、恩田陸の「夜のピクニック」を読み続ける一日。
朝の8時から翌朝の8時まで全校生徒で過酷な一昼夜を歩き通す歩行祭という行事を舞台に
思春期の若者たちの微妙な心理が語られていて結構引き込まれて読む。たいしたドラマがお
きるわけでもないのにこの淡々と続くモノローグ的な長丁場を飽きさせず読ませる筆力に感心
しつつ、立秋の日の相変わらずの暑さをしのぐ。
かつて恩田陸は「ファンタジーの正体」という一文で、以下のように書いている。
「ファンタジーというのは、戦争の話である。…もっと正確にいえば「秩序を取り戻す
話」とでも言い換えるべきだろうか。」「そもそも、戦争というのは、世界の中での均衡
が失われ、バランスの歪みに耐え切れなくなった時に起こるものだ。そして、戦後処
理とは新たな秩序の始まりを意味する。日々のニュースを見ても、今まさに、人工的
かつ欺瞞に満ちた秩序を作るために、かの国で終戦工作が行われているではないか。」
「かつてトールキンの「指輪物語」が書かれたのは第二次世界大戦の暗い世相下で、それが
アメリカ学生のバイブルとなったのはベトナム戦争の70年代。…そう考えると、この戦乱に
溢れた世界でファンタジーが流行ることの皮肉を思わざるを得ない。」「世界は秩序を、賢者
を、失われた倫理を取り戻すことを切に求めている。魔法の杖の一振りで、失われたものを
取り返すことを願っているのだ。それは逆に言うと、いかに世界が多くのものを失い,この世
に魔法も奇跡もないことを実感しているかということの裏返しだ。世界はヒーローを求めている。
秩序を回復してくれる聖なる存在を,だれもが血眼で捜しているのだ。「聖」や「神」という言葉
がこれほど安売りされている時代もない。」…しかし「ファンタジーの主人公たちの最後はいつも
虚しい。成功の後には、長い虚無の時間しか残されていないのだから。」「ラストで突然50年
後くらいに話が飛んで、数々の業績を成し遂げた老齢のハリーが、ロッキング・チェアかなんか
に揺られて、あの親戚の家の、階段の下の部屋を懐かしく思ったりしていなければいいのだが−
まさかね。」

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アイスクリーム

このところヒポカンパスの詩の原稿に追われていて、さっぱりブログを入れる
ことができなかった。
昨日も猛暑でもう夏ばて気味。そんな日はアイスクリームに限る。昨日はハ
ーゲンダッツのラズベリー、その前の日はバニラ、そのまた前の日は抹茶だった
かも。
それにしても子どものころ、冷えた銀のカップにのせられたシンプルなアイスクリー
ムはおいしかった。添えられたウェハースやクッキーの軽やかなはかなさも。
凝りすぎの濃厚なアイスクリームを前にしていまさらのように子供のころを思い出す。
話がとぶけれど、かのクラリネット吹きのジョージ・ルイスのレコードに「アイスクリーム」
という名曲があった。すてきだったあの曲!今夜また聞こう。

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花火

山下公園の夏の花火はこのマンションからもよく見えるので、毎年楽しみにみている。
あたりに高い建物がないので、ここからはいろんなところの遠い花火まで見えて、たのしい。
花火というと、私はいつもヘッセの「クヌルプ」を思い出す。15歳の遠い!むかしに、兄が教えて
くれた本だけれど、忘れた頃にまた読み返したりすることがある。そのころ読んだ訳の題は「漂泊の魂」
(相良守峯訳)となっていて、これも名訳だと思う。さすらいの魂を抱いて短い一生を生きたクヌルプが、
語ったのは、美とは何か…についてだった。
花火と少女のもつ美の儚さと魅力について話すとき、「…僕は夜、どこかで打ち上げられる花火ほ
どすばらしいものはないと思う。青い色や緑色に輝いている照明弾がある。それが真っ暗な空に上がっ
ていく。そうして丁度一番美しい光を発する所で、小さな弧を描くと、消えてしまう。そうした光景を眺めて
いると、喜びと同時に、これもまたすぐ消え去ってしまうのだという不安に襲われる。喜悦と不安と、この
二つは引き離すことが出来ないのだ。そうしてこれは、瞬間的であってこそ、いっそう美しいんじゃない
か。」
「あの幽かな魅惑的な多彩の火柱、暗闇の中を空に打ち上げられて、見る見るうちにその闇に溶け込ん
でしまう。それは美しければ美しいほど、あっけなく、そしてすばやく消え去ってしまう、あらゆる人間的な
喜びの象徴のように私には思えるのだった。…」
死後、何十年も経ているが、この本の読後に、若いまま逝った兄はこの物語をどんな気持ちで読んだの
かなあ…とときどき思うことがある。(訳は一部なおしてあります)

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グロキシニア

昨日町を歩いていたら行きつけの花屋さんの前で突然声をかけられ、「一体何を考えながら
歩いているの?」という。よほどぼんやり歩いていたらしい。あわてて「しその苗がほしいな
と思って…」などと取り繕うと、(ほんとにそう思っていたのだが)「しそはもうないけど…これをもって
行きませんか」といって大きな分厚い葉のなかに蕾がいくつか覗いている苗の鉢を押し付ける。
グロキシニアといっていまごろは傷むことが多いが、という。グロキシニアときいて、とっさに浮かんだの
は高村光太郎のあの詩だった。智恵子抄の巻頭にある「人に」という作品。
(いやなんです/あなたのいってしまうのが)ではじまる詩だ。
後半に(ちゃうどあなたの下すった/あのグロキシニアの/大きな花の腐ってゆくのを見る様な/
私を棄てて腐ってゆくのを見る様な/空を旅してゆく鳥の/ゆくへをぢっとみている様な/浪の砕け
るあの悲しい自棄のこころ/はかない 淋しい 焼けつく様な/)というくだりがある。
多分高校時代に読んだのだと思うが、私のなかにグロキシニアという花の響きが焼きついた?のは、
たぶんこの詩によってなのだ。おもしろいなと思う。そう思いながら(そうかグロキシニアってやっぱり
腐りやすい植物の一種なんだ…とベランダに置いたまま、押し付けられてやってきたちっちゃな鉢を
覗き込んだ。それにしても、果たして花は咲くのかなあ?

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原宿での朗読会

一昨日、原宿で開かれた「集」創刊号の朗読会に参加した。鈴木ユリイカさんがずっと原宿で
続けておられるAUBE面白詩の会の方たちと初めてご一緒した。かわるがわる自作の詩を
朗読。欠席の方の詩は代読され、私は自作を読んだあとはもっぱら聞き役になって楽しんだ。
このような会を15年?(間違っていたらごめんなさい)もつづけているという、たゆみないその
エネルギーの持続に打たれる。
第2号からはSOMETHINGという題になるそうだが、全国的な広がりで女性の書き手たちが
誌面に展開するこの時代の表現に興味がある。
終わってから、近くの中華の店で飲んだり食べたりのひと時。久しぶりにユリイカさんと話し合
う時間があってよかった。それに個性的な面白い方たちもたくさんいらっしゃる。
いろんなこともあるだろうけど、それぞれの場所でみんながやれることをやるのがいいのかも。
どこかで触れ合いを持ちながら…。
それにしても久しぶりに訪れた原宿の変貌ぶりとキラキラぶりにもびっくり。
                                                    

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夢十夜

隔月に開いているファンタジーの読書会で、昨日は漱石の「夢十夜」を読む。
ファンタジーといっても間口が広いので、これもその範疇に入れてしまって、
夢のイメージの多様な読み取り方を楽しむ。ユングでいうと、彼のアニマともいえるものを
あまりにもくっきり浮かび上がらせる第一夜の女の「黒い眸」「真珠貝」「星の破片」「真珠貝
の裏に映る月の光」「墓標のそばで百年待つ男」など、古典的なイメージの連結による
かっちりした詩的構成に、漱石の無意識の深みをのぞく意識の強靭な光と表現力をあらた
めて感じる。表現者というものはすごいものだと思う。夢は外部に表現されることで、初めて
万人の夢として立ち上がるものなのかもしれない。ひとびとの共有財産として。
もう一つ心に残るのは、青坊主を背中に負って歩む第三夜の夢だ。あれは「文化五年辰年だろう」
「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」、と背中の子どもがいうくだりにくると、
何度読んでも背中がぞくぞくする。漱石は人類のシャドウを自己の内部に負っていたという
解説はユング心理学派の秋山さと子さんの説だ。
メンバーのそれぞれが持ってきた夢についての報告もあって、それは次回に持ち越し。
どう展開するか次が楽しみだ。つづきはまず第六夜からになる。

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ロシア〜金の時代、銀の時代

この前のモンゴルの詩と音楽のシリーズに続き、昨日は「ロシア〜金の時代、銀の時代」の演奏
会を県民ホールで聴く。清楚な感じのイリーナ・メジューエワのダイナミックなピアノの演奏と、華や
かなエレーナ・オルホフスカヤのソプラノ歌唱と詩の朗読は見る楽しさと、聴く楽しさの両方を満足
させてくれた。
特に私は《展覧会の絵》とともに朗読されたツヴェターエワや、アフマートワ、マンデリシュターム等の
詩の響きの美しさにぞくぞくした。なぜか分からないのだが私は耳から入る響きでいうと、いろいろな
言語のなかでも特にロシア語とイタリア語に惹かれるからだ。
また昨日は会場で偶然詩人の山本楡美子さんに出会えて奇遇を喜んだ。
来年もこのような企画を立ててほしいと思う。
終わってからすぐ近くの会場FLOWERへ。現代詩人賞受賞の平林敏彦さんを祝う会に出る。
絹川早苗さんや村野美優さんなどと歓談。

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