ねずみ女房

今度読書会でルーマー・ゴッデンの「人形の家」を読むので、その準備のために同じ作家の「ねずみ女房」を読んだ。この本についてはいろいろな評論家や作家が書いていておもlしろかった。お話はわりと、短かい単純なもので分かりやすい。一家をととのえ、子どもや夫のねずみたちの世話をきちんと果たしているどこにでもいる主婦としての、一匹のねずみが、ある日、鳥かごに捕らえられて家の中にやってきた一羽の鳩と出会い、鳩の話してくれる外の世界のことを知っていく。そしてその鳩のだんだん弱っていく様子を見ているうちに、鳩の本来の生き方を思いやって、その鳥かごの蓋を自分の歯で押し開けて、鳩を自由にしてやる…と、まあそんなお話です。このねずみ女房は日々の暮らしの運び手として、責任をちゃんと果たしていましたが、でも自分のせまい暮らしの外に広がる空のこと、雲のこと、丘のこと、麦畑のこと、そして飛ぶこと、草の露のことなど話してくれる人はいなかったのです。鳩が行ってしまったら、もう未知の世界のお話も聞けなくなるさびしさを知りながら、鳩のために身を挺してあえて彼を放してやったのです。そして彼の飛び去った後、彼女はひとりで初めて遠くに,金ボタンのように輝く星を自分の目で見ることができたのです!
その後、彼女は、チーズ以外のことをなぜ考えるのだ?ときく、彼女の心を察しない夫ねずみ、自分の世話を必要としている赤ん坊ねずみたちを、それ以後もちゃんと守り育てながら、一生を送ります。けれど彼女は、ふつうのねずみとはどこか違うところがあって、晩年もたくさんのひいひいまごたちに慕われる、すてきなしよりねずみになりましたというお話です。
私はこの物語について書かれたふたつのエッセイを読みました。矢川澄子の「わたしのメルヘン散歩」と清水真砂子の「そして、ねずみ女房は星を見た」です。両者ともこの一冊を珠玉の短編として評価しています。矢川澄子はこのような物語が子どもの本のなかにまぎれこんでいることのすごさに驚き、これは「恋愛小説」だ、いやむしろ偉大な姦通賛歌だとまでいっています。「家ねずみの分際でありながら天翔ける鳩のこころをわかってあげられる…この奥さんの知恵の悲しみ、強者の孤独。」、「遠くを見つめる目をもつものと、もたないもの」についても書いています。そしてまた、この本はどんなポルノ番組やH漫画よりもはるかに深甚な影響力をもつ破壊的文書かもしれません」とも。
さて清水真砂子の評については次回に。

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ロバート・ブライの詩 中上哲夫訳

中上哲夫さんから「十七音樹」という俳誌が送られてきた。中上さんはもう20数年間、ブライの詩を読み続けてきたとのこと、特に2005年から若い詩人たちとブライを読む会を月一回開いてきたとのこと。
私もその訳を読んで、新鮮な印象を受けた。ここにその俳誌2号に載った、ロバート・ブライを読む(1)−恋をするとーから、引用させていただくことにした。
LOVE POEM
When we are in love, we love the grass,
And the barns, and the lightpoles,
And the small mainstreets abandoned all night.
恋の詩     
恋をすると、ぼくらは好きになる、草原を、
納屋を、電信柱を、
そして夜通し見捨てられた本通りを。
          
DRIVING TO TOWN LATE TO MAIL A LETTER
It is a cold and snowy night. The main street is deserted.
The only thing moving are swirls of snow.
As I lift the mailbox door, I feel its cold iron.
There is a privacy I love in this snowy night.
Driving around, I will waste more time.
夜遅く車で町へ手紙を出しに行く      
寒い、雪の夜。本通りには人っ子一人いない。
動いているのは渦巻く雪だけ。
郵便ポストの蓋をあけると, 鉄が冷たい。
こんな雪の夜にはわたしの好きなプライヴァシーがある。
その辺をドライブして、も少し時間を浪費しよう。
                  
(この訳の”プライヴァシー”という表現が心に残った。PRIVACYとう言葉は、日本語に訳すのはここでも難しいというのが分かる。プライヴァシーが意味する観念を日常の日本語ではまだ表わせないんだと気がつく。では最後に訳された詩だけを…。 ) 
         
 雉子撃ちの季節の最初の日曜日なので、男たちが獲
物を分けるために自動車のライトの中に集まる。 そし
て電気の近くで押し合いへし合いし、暗闇に少し怯え
ている鶏たちがこの日最後の時間に小さな鶏小屋のま
わりを歩きまわっている。鶏小屋の床はいまは剥き出
しのように見える。
 夕闇がやってきた。西の方はまっ赤だ。まるで昔の
石灰ストーブの雲母の窓からのぞいたように。牡牛た 
ちが納屋の戸のまわりに立っている。農場の主人は死
を思い出させる色あせていく空を見上げる。 そして、
畑では玉蜀黍の骨がきょう最後の風にかすかにかさこ
そ鳴る。 そして、半月が南の空に出ている。
いま、納屋の窓の明かりが裸木の間から見える。
                            ※
さいごの詩の後半部分を読んでいると、聞く、見る、触れる、嗅ぐ、そしてもしかしたら味わう…までの感覚が刺激され、どこかただならない雰囲気をもつ、秋の夕暮れの一瞬へと、呼び込まれていく。風景の背後に隠された雉たちの殺戮が、この夕景をいっそう赤々と印象付けている。このくだりを小説の一部として読んでも、そこで立ち止まり、強烈な印象を刻まれるだろう。それにしても思うのだが、詩人というものは散文がちゃんと書けないと駄目なのだと。それも一応意味を伝える、用件を果たす、ただ普通の文章が、きちんと書けないと…と。
さてこの一文は中上さんの次のような句で、終わっています。
      雉子撃ちや火薬の匂ひと血の匂ひ             ズボン堂
      雉子撃ちの男をつつく家畜かな
                  
   
             
     

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月へ  原利代子

SOMETHING 4からもう一篇。原利代子さんの詩です。
                   月へ     原利代子
          信じないかもしれないけれど 月へ行ったことがある
          鉄棒に 片足をかけエイッと一回転すると
          月に届く秘密の場所があるのだ
          あちらでの住まいはダンボールづくりの茶室
          お湯も沸かせないところだけどー
          壁にくりぬいた丸窓から月の表面が見渡せる
          にじり口に脱いだわらんじに
          月のほこりがしずしずと積もっていくばかり
          月ってそういうところ
          わたしの住んでいた街が
          こんな風になってしまったことがある
          月の光景はあの時とそっくりなの
          見渡す限りがあんな風にー
          焼け跡の地面はいつまでも熱かった
          はいていたわらんじが焦げるので水をかけて冷やした
          歩いては水をかけ 歩いてはまた水をかけ
          あれから六十年
          地球はいつでもどこかで燃えていて
          わたしのわらんじは冷めないまま
          秘密の場所?
          いいえ 教えない
          普通の人はロケットで行けばいいのよ
          アポロ サーティーンなんて気取ってね
          また月に行くかって?
          そうねえ ここから眺める月は美しいけど
          月から眺めるのはとても淋しいの
          完璧な孤独ってわかる?
          わらんじがいつか冷めたらまた行くかも知れない
          その時 まだ鉄棒でエイッと出来るといいけどー
                        ※
この詩に心底、脱帽! こんなに愉しく怖い作品にはめったに出会えない。ファンタジーの手法を駆使して、ここまで痛烈な作品を書けるんですね。何の理屈も言わずに。最後の連を読むと、シーンとした気持ちになってしまう。(わらんじ)っていう表現もいいなあ。                      

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「水を作る女」 文 貞姫

鈴木ユリイカさん発行の「SOMETHING 4」を読了。力強い作品の数々を読む楽しみにしばらく浸った。いくつかの魅力的な詩の中で、今日は特に惹かれた文 貞姫さんの作品を写させていただきたいと思う。
                
                          水を作る女   文 貞姫
                   
                    娘よ、あちこちむやみに小便をするのはやめて
                    青い木の下に座って静かにしなさい
                    美しいお前の体の中の川水が暖かいリズムに乗って
                    土の中に染みる音に耳を傾けてごらん
                    その音に世界の草たちが生い茂って伸び
                    おまえが大地の母になって行く音を
                    
                    
                    時々、偏見のように頑強な岩に
                    小便をかけてやりたい時もあろうが
                    そんな時であるほど
                    祭祀を行うように静かにスカートをまくり
                    十五夜の見事なおまえの下半身を大地に軽くつけておやり
                    そうしてシュルシュルお前の体の中の川水が
                    暖かいリズムに乗って土の中に染みる時
                    初めてお前と大地がひとつの体になる音を聞いてごらん
                    青い生命が歓呼する音を聞いてごらん
                    私の大事な女たちよ
                                            (日本語訳  韓成禮)
                              ※
この詩をよむと、のびのびと心が解放される感じです。人の体は水の運搬人,水の管なのだと私も実感します。この感じは都会の暮らしではなかなか味わえませんけど。私は、乾いた鉢植えの木の根元に水をやるとき、地面が水を吸い込んでいく音が大好きです。
十五夜のような下半身…ていうのも新鮮!エッセイ「髪を洗う女」も同じ題の詩もどきどきする生命力を感じました。鮮やかな詩でした。                    

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草野信子詩集『セネガルの布』

草野信子さんの詩集『セネガルの布』から一つ詩を写させていただく。この詩集はその内容にぴったりの実におしゃれな装丁で、手にしても感覚的に心地よい。この表紙の、重ねられた二枚の色のコントラストの陰影のある美しさ、これはセネガルの布を模した色なのかしら?などと勝手に想ったりする…。私も一枚だけ持っているマリ共和国の、大地を思わせる色のテーブルクロスを思い出しながら。
                 
                セネガルの布
             
              なにに使おうかしら 
              と言ったら すかさず
              〈風呂敷です〉と答えたので 笑った
              
              テーブルクロスには 大きすぎて
              でも ハサミをいれたくはない
              藍染の木綿
              
              部屋いっぱいにひろげて
              アフリカの女たちの
              素朴な手仕事のはなしを聞いた
              
              セネガルから帰ってきたひとの土産
              
               
               〈人間であることがいやになったときは
                もの、になって
                部屋の隅にころがっているといい
                これは そのとき
                あなたを包むための、風呂敷〉
              
              夜の湖面をたたむように
              折りたたみながら
              うなずいた
              だから
              こんな夜は
              包まれて眠る
              セネガルの布に、ではなく
              きみの、 そのことばに
                    
                     ※
  詩人と、もうひとりのだれかとの、とてもすてきな心のゆきかいが、手に触れられそうな詩。
  私はこの詩人の、生への洞察力と、繊細な感受性、そして端正な居住まいをもつユーモアに
  心惹かれます。
             
        

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かたあしだちょうのエルフ

先日の「さよならチフロ」のおのきがくさんの絵本をもう一冊紹介します。
         
           「かたあしだちょうのエルフ」(文・画)おのきがく(ポプラ社)
 
 これはとても美しく力強い版画によって描かれた絵本です。主人公はダチョウのエルフ。彼は若くて強くて、すばらしく大きな牡のダチョウです。ひといきで千メートルも走れることから、「千」を意味するエルフと呼ばれていました。子ども好きなエルフはいつも動物の子どもたちを背中に乗せて草原をドライブしてやったり、途中で長いくびを伸ばして木の実や種のお弁当をくばってやったりしていました。エルフはみんなの人気者でした。
 ジャッカルが襲ってきたときは、ライオンの声を真似して追い払ったりしてみんなを護りました。ところが
ある日、なんと、ほんもののライオンが現れたのです。エルフはみんなを逃して、必死でライオンと闘いました。エルフの命がけの抵抗でライオンはよろよろと立ち去ります。ところがエルフは足を一本食いちぎられてしまいました!
 それからエルフには苦しみの日々が続きます。子どもたちとも遊べませんし、仕事のお手伝いもできません。餌を探すのさえ、ままなりません。はじめのうちこそ、ダチョウの仲間たちや他の動物たちが食料をもってきてくれましたが、みんなも家族がいますので、いつまでも続くわけではありませんでした。
 日がたつにつれエルフはみんなから忘れられていきました。やがてえさを十分にとれないエルフのからだは、かさかさにひからびて、ただ背ばかり高くなってしまうようでした。ハイエナやハゲワシは早く自分たちの餌にしようと待ちかねています。
 エルフはいまではもう、一日中ひとところにたったまま、じっと目をつぶっているばかりでした。涙がひとつぶ、かわいたクチバシを伝って、ぽつんと足元の砂に吸い込まれていきました。いまのエルフにとっては子どもたちの遊んでいる声をきいていることだけが慰めなのでした。
 そんなエルフの前に、ある日一匹のクロヒョウが現れます。エルフは自分のことを忘れて、近くで遊んでいる子どもたちを助けようとします。「クロヒョウだぞー」、かすれる声で叫んだエルフは夢中で子どもたちをせなかに這い上がらせます。
 真っ赤な口をひらいて飛びかかってくるクロヒョウと、エルフは最後の力をふりしぼってたたかいます。背骨はみんなの重みでいまにも折れそうです。残された一本足には、クロヒョウの牙と爪で、血のすじがいくつもできました。でもやがてクロヒョウはエルフのクチバシでさんざんつつかれ、痛めつけられて、ふらつきながら逃げていってしまいました。「たすかったー。」「ばんざーい。」みんなの声が夢のなかで聴こえたような気がしました。
 《子どもたちは高いエルフの背中からやっと下りました。「エルフ ありがとう。」と、叫んで ふりあおぐと、みんなは あっと おどろきました。そこには かたあしの エルフとおなじ かっこうで すばらしく大きな木が そらに むかって はえていたのでした。 そして,エルフの かおの ちょうど ま下あたりに、きれいな いけが できていました。 そう エルフの なみだで できたのかも しれませんね。
木になった エルフは その日から のはらに 一年じゅう  すずしい 木かげを つくり、どうぶつたちは
いずみのまわりで いつも たのしく くらしました。》                        
                                                        おわり
 一本の木になったダチョウの姿が目にやきつくような、ちょっと哀しいお話です。小野木さんのこれを書かれた想いが今ごろになって私にもじんと伝わってきます。(ある地理書の一枚の写真…アフリカの草原に立つバオバブの大樹と雲だけの単調な風景をみているうちに、頭の中で小型映写機がまわり始め、一匹のダチョウがあらわれ、大きな樹のシルエットが繰りかえし出てきた)と、彼はあとがきで書いています。(自分の中で逆回転する一台の映写機、あっけにとられてそれをみているうちに時を忘れ、その瞬間にエルフの絵本ができた)のだと。チフロもそうでしたが、これも忘れがたい一冊の絵本です。
いま、絵本の表紙裏の彼の写真を眺めながら、このような想いを、この地上に残して、足早に逝ってしまった彼を心から惜しまずにいられません。いまはどこかで彼も一本の樹になっているかもしれません。その足もとに一つの深い池をたたえて…。

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水橋晋詩集「悪い旅」より

昨年二月に急逝された水橋晋さんのお宅を、昨日初めて訪れ、晶子夫人のお話をゆっくり伺った。あかるい冬の陽射しに満たされたリヴィングルームには、生前の彼の画や詩が何枚も架けられ、写真が立てられ、まだそこに水橋さんの居られるような気配だった。その折にお願いして、夫人からいただいた彼の第一詩集『悪い旅』ー昭和55年沖積舎刊ー〈その前に17歳のとき出された自家版の詩集もあるが、それは別にして)から、特に印象に強い詩を一篇挙げさせていただきたいと思う。澄んだ水面を通して、ふつふつと湧き上がってくるようなエロチシズム〈生命への感応力)に触れ、後年の彼の作品にも流れ込むレトリックの源流をきく気がする。
                              ※
                        奔流
               
                 私がくぐり抜けてゆくところは
               
               花のおくにひろげられた夜のなからしい
               
               茂みのしたをはいってゆくだけで
               
               息づくけものたちの気配がしている
              
               ひかりのとどかない内側で
               
               こんなに暖かく泡だっているなんて
               
               風はいつもやさしく花片を撫ぜていたにちがいない
               
               用心ぶかく星をさえひからせないでいたにちがいない
               
               
               
               
                
                それだから私は降りる
               
               ひと足降りてまた降りてそしていっきにかけ降りる
               
               樹液をいっぱいみたして
                
               いっぽうの端からもういっぽうの暗い芯にむけて
               
               睡りからさらに遠くおしやるために ゆすぶるために
               
               そのとき百万のけものたちと小鳥たちがめざめる
               
               夜は大揺れに揺れうごく
               
               空にむかって花片をおしあげ
               
               樹液のなかで渦をまく
                
                 それで 太陽が 花のなかで 一千も
               
               破裂したかと思ったのに 鳥一羽 おっこちなかった

               
               
               
               ひかりが大地のうえをめぐりはじめるころ
               
               風はまもなくやむだろう
               
               海のように深みを甦らせ
               
               静けさを澱のようにしずめて
               
               全部が全部傷つくのかもしれない
               
               黒い奔流がそして体のなかに脈打つ
               
               私ははだしではいってゆき
               
               ふたたびはだしで帰ってくる

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鏡の中の鏡

エストニアの作曲家アルヴォ・ペルトの「鏡の中の鏡」のCDをきく。
(ヴァイオリン)ギドン・クレーメル、(ピアノ)エレーナ・クレーメル。この曲をきくたびふしぎな宇宙に連れて行かれる。瞑想的になる。彼の演奏は静かで淡々としている。それなのにさまざまのイメージが目に浮かんでくる。ある人は暗い宇宙に星々が瞬きはじめ、それがまた一つずつ消えていく・・・、といっていた。わずか9分くらいの短い曲なのに、そのなかの異空間ははてしなく奥深い。
あるイメージ。水銀色の糸の上を一輪車にのって空へ遠ざかっていくひとりの天使。その後姿のなんと軽やかで、一人ぼっちなことか。雨が天使の羽根をしずかに規則的に打っている。
                         
   
          青い天使がいく
          青い天使がいく
          青い天使がいく
          だれかあの青い影を見た?
         
          夢の中で わたしは
          青い天使の車輪の音をきく
          夜を通り抜ける
          青い天使の呼吸をきく
          
          けれど 朝、天使は地上にいる
          天使は草を摘んでいる
          天使は荷を運んでいる
          通り過ぎることなどなく
          …いつか 千年もたったら
          人々は思うだろうか
          青い天使について
          青い天使が通り抜けた
          水銀色の日について
                         R・M

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さよならチフロ

 去年の9月以来久しぶりの投稿です。以前絵本をたくさん買って、そのまま書庫に積んであるので、そこからアトランダムに選んで、一冊ずつ紹介してみたいと思います。
 今日は、画家のおのきがく(小野木 学)さんの画と文による『さよならチフロ』を。北国の海辺の子どもと老漁師との交流をからめて、孤独なこどもの夢を幻想的に描いたこの絵本は、一篇の詩だと思う。
 
ひとりぼっちのチフロは砂浜にぼくのうちをつくっている。そして老漁師と出会う。ある日、しろいかもめ、しろいくも、しろいおんどり、しろいタンポポのわたげ、しろいはなびらのふりつもったかさ…などが、みんな空を飛ぶことを知ったチフロは、ある夜、雪のつもったこうもり傘につかまって、空へと飛びたちます。……やがて、チフロがたどりついたのは彼が砂浜につくった《ぼくのうち》でした。そこには暖炉が燃え、できたてのごちそう、たのしい音楽が。さらにこごえたチフロのための席まで用意されていましたが…。
     
 ゆきがやんだ、翌朝、チフロをさがす老人の目には、
    (みわたすかぎり しろいはまに、…ぽつん…と くろいものが、
     
    …こわれたかさが ひとつ おちていました。    おわり )
 
 たのしさと、さびしさと, こどもの無限への夢とが、パステルの繊細な色調で描かれ、在りし日の小野木さんの飄々とした風貌を思い出させる。
 
 これは1969年にこぐま社から出たもの。私は1973年のインド旅行の折に、彼と知り合った。その後アトリエを訪ねたときに見せてもらった、そのタブローのユニークな《青》を忘れられない。この『「さよならチフロ』を寄贈されたのもその日だった。しかしまもなく彼は他界し、これは貴重な一冊となってしまった。
 (グミとアカシヤと、小松の防風林が果てしなく続く、日本海の砂浜に住んでいた千尋という五歳の子ども)。(ふとした縁で、彼を育てていた老人は、なぜか千尋をチフロとしか発音ができなかった…)とあとがきにある。だが作者が1968年に再びこの現地を訪れたとき、(当時の砂丘は、夕闇の下で荒波に侵蝕され、海底に沈んでしまっていた。)とあり、この絵本はなにかを象徴的に語っているような気がした。心に残るいい絵本だとあらためて思った。

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チリの夕べ�

《チリの夕べ》について、その後、主催者側の唐澤秀子さんとメール交換をして、あのような生身の声での朗読や、語り、そして語り合いというものが、とても大事なのではないか…と話しあった。それもあまり大きな会でなく。私はあのくらいの小さめの会がいっそうよいと思う。来て下さった友人からも、また是非という声もあって、何か行為をし、それから返ってくるものと、相互に響きあいながら、人は少しずつ試行錯誤しつつ、足場を見出して進んでいくものだと思った。
当日のパンフレットにあった、ガブリエラ・ミストラルの詩を一篇、載せたい。富山妙子さんのリトグラフがこの詩に捧げられていた。
                   
                     バ  ラ
                                     ガブリエラ・ミストラル
                 バラの中心にある豊かさは
                 
                 あなたの心臓の豊かさ。
                 それを撒き散らしなさい バラのように、
                 あなたの悲しみは みな 絞めつけられている。
                 
                 それを歌のなかに 撒きちらしなさい
                 もしくは すさまじい愛のなかに。
                 バラを しまっておくんじゃありません、
                 炎で あなたを 焦がすでしょうに。
   
まるで天空から落下してきた音楽の一節のように鮮烈です。きっと訳もいいのですね。
    
                 
                
    

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