something6より

このところ雑事に追われ忙しく暮らしていて、いまごろになって、鈴木ユリイカさん発行の「something6」をゆっくり読むことができ、そのなかでいくつもの作品に出会い、いつもながらのようによい刺激をいただくことになった。今日はそのなかから、以下の作品を引用させていただくことにしたい。
              夏茱萸     
                           尾崎与里子
            かぞえていたのは
            梅雨明けの軒下の雫と
            熟しはじめた庭隅のグミ
            そのグミの明るさ
            私は〔老女〕という詩を書こうとしていた
            眼を閉じるとひかりの記憶に包まれて
            すぐに消え去ってしまう いま と ここ
            時間のなかで自画像が捩れてうすく笑う
           
            初夏の明るさに
            この世のものでないものが
            この世のものをひときわあざやかにしている
            母性や執着の残片があたりに漂って
            耳もうなじも
            聞き残したものを聞こうとしてなにかもどかしい
            それはふしぎな情欲のようで
            手も足も胸も背中も
            そのままのひとつひとつを
            もういちど質朴な歯や肌で確かめられたいと思う
            刈り取られていく夏草の強い香
            ひかりの記憶
            たわわにかがやく夏グミの
            葉の銀色や茎の棘
           〔老女〕はきらきらした明るさを歩いていて
             ※      ※       ※
 私は母の死後、このようにもvividに失われた彼女の時を生きなおしただろうか。とくに2連目の、草
いきれのように匂い立つ、生と死をゆきかう時間の感触。よみがえる時のきらめき。このような詩に出
会うと、私にはいまというこの一瞬さえ惜しまれてくるのだ。
 また「いとし こいし」も楽しく秀逸なエッセイだった。
      
      

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キアゲハ羽化

去年9月18日に蛹化したキアゲハの子が一匹、なんと6ヶ月と10日ぶりに、我が家の隅の飼育ケース
のなかで羽化した!3月27日の夜明けのこと。
書庫の隅にケースを置いてから、死んだか生きてるか分からないまま一冬たち、半年もの間何の変化も
なかったので、もう死んでいるのかも…と思いながら、でもさいごの望みはすてないままだった。だから朝
7時半ころ、いつものようにカーテンを開けたとき、何かケースの中にちがう気配を感じ、立ち止まっての
ぞいてみたらそこにキアゲハが一匹!もう我が目を信じられなかったくらいだった。やや小さめだが、もう
ちゃんと翅も開いている、うつくしいキアゲハなのだった。
 さっそく明るい窓辺に置いて、ついでに写真をとり、まだ寒いので、しばらく家の中においてから、8時半
過ぎに戸外に出して、ケースのふたを開けると、数分もしないうちに、あっという間に飛びたち、高々
と上空へ舞い上がり、南の方向へひらひらと飛び去ったのです。
 桜の花も5分咲き、空気はまだ冷たいが、家々の庭には花壇の花も咲いている…、なんとか春早い
この寒さを乗り切って、1週間〜10日間ほどの寿命を満喫して欲しいと、これはまるで親心のようであ
る。それというのも、去年は20匹近いキアゲハの幼虫がいたのに、この一匹を残してみな死んだり、行
方不明になって、辛うじてこの一匹だけがサナギになったのだから、いわばこの蝶は右総代の貴重な存
在だったのだ。去年は餌のイタリアンパセリが途中で不足して、コンビニなどで買いしめてきたのをやっ
た直後これ以外はみな全滅したわけだった。行方不明も含んで。
 
だからこの一匹が飛びたったときは、ほんとに去年から引きずっていたキアゲハコンプレックスから、一
気に解放されたような晴れ晴れとした気持ちになった。そうでなくとも、木っ端みたいだったサナギが、ふ
いに殻から解き放たれて空高く飛び立っていく姿はすばらしい。日ごろのストレスも忘れるのだ。それに
今回のこの羽化への思い入れは特別だったなあと今にして思う。
それにしても去年の夏のサナギは8日間で羽化したのに、今度のサナギは、冬とはいえ、羽化まで、
延々190日以上耐え忍んだわけだ。自然とは本来タフでかなりの適応力をもっているものなのだと感心
する。
これは昨日の朝の出来事。でもその余韻は、いまも私のなかへ明るく響いている。

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E・A・クランストン氏の受賞の会

 久しぶりにブログの頁をあけたら、もう一ヶ月以上もごぶさただったことに気がつく。
よほど落ちつかない日々を過ごしていたのだ。でも心覚えのためだけにも、次のことは記しておこうと思
う。
 2月19日にエドウィン・A・クランストン氏(ハーバード大学教授であり、私のすべての詩集や作品の訳
をしていただいた)が大阪府より山片蟠桃賞(日本文化を広く海外に紹介し国際理解を深めた著作及び
その著者を顕彰する賞)を受けることになり、私も日帰りで大阪まで出かけた。
 賞の対象となった著作は”A Waka Anthology,vol one:The Gem−Glistening Cup.”であ
り、これは古事記、日本書紀、風土記、続日本記、万葉集などから1578首を抜粋翻訳し、詳細な註と
解説を付したもの。すべてオリジナルの訳で序論を加えて千頁をこえる大著である
 
この後2006年には新撰万葉集、古今和歌集にはじまり、源氏物語の和歌795首までも収めた第2巻
が出され、やがて第3巻がこれに続く予定とのこと。
 このほかに氏は[和泉式部日記」の訳とその詳細な解題、研究書なども公刊、その成果は、欧米を中
心とした日本古典文学研究に大きな影響を与えている。
 当日は10年ぶりくらいにお元気なご夫妻にお目にかかれたのが私にはなにより嬉しかった。70歳を
越えて、なおお二人とも(夫人の文子さんは東洋美術の研究者)今後の仕事への情熱に静かな意欲を
燃やしておられるのが伝わってきて、それも私には大きな励ましであった。
 
 クランストン氏の当日の講演では日本文学研究の一学徒としての今までの人生を振り返り、日本文化
とアメリカ国籍の間で揺れた個人的経験に触れ、何より日本への一貫した深い愛を語られた。訳者とし
て柿本人麻呂はじめその他の歌人たちに触れ、自然と交感するやまとことばの繊細な美しさへの傾倒を
しみじみと話された。折々にユーモアを交え会場に笑いを誘った楽しいスピーチであった。
 
 日本人でありながらそれらの文化に疎遠に過ぎた、私のせまい言語経験をふがいなく思い、複雑な思
いで会場をあとにした。 91年のハーバード大でのクランストン氏との出会い、それからの10数年、詩を
めぐって交わされた交信の日々…、私は今回の氏の受賞を心から喜びながら、それらの月日の落穂拾
いがこれからの自分の宿題として残されていることをあらためて反省しつつ、それをあわただしい大阪行
きの土産にしたいと思った。
 
 さいごにこの著書の巻頭に文子夫人への献辞があって、それがなかなかすてきなので、挙げさせてい
ただこうと思う。
                 
             FOR FUMIKO
         Murasaki no
 
         Hitomoto yue ni
                      
           Musasino no
         Kusa wa minagara
         Aware to zo miru
                 Anon.,Kokinshu XV�:867
  
 むらさきの 一本ゆえに 武蔵野の 
                   
         草は みながら あわれとぞ 見る (古今集巻17:867より、よみびとしらず)
 
 

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ボルベール

今さら書くのもおかしいのですが、何ヶ月も前に高橋茅香子さん(私の英語の先生)に薦められていた映画「ボルベール」を、やっと昨日近くのシネマジャックで見ることができました。このところ足の調子をちょっと悪くしていて近くでないとなかなか出かけにくいのです。伊勢佐木町からすぐのシネマベティ・ジャックは、その点、上映時差があろうとも、常にいい映画や、見たかった名画をよくやってくれて、私にとってはありがたいミニシアターなのです。
私は、ペドロ・アルモドバルの作品では「オール・アバウト・マイ・マザー」、「トーク・トゥ・ハー」を以前見ていて、この「ボルベール」で、女性賛歌3部作をどれも見たことになるのですが、今回のがもっとも楽しく見ごたえがありました。主演のペネロペ・クルスの美しさと魅力とバイタリティ、怖さとユーモアを背後に秘めたストーリ−のスピーディな進行、女たちの楽天的行動力、見るものを元気付けずにおかないような、かれら相互のデリケートな思いやりと洞察力。とにかく万華鏡的に迫ってくる映像でありながら、心に染みいる…そんな各場面から目をそらすことができませんでした。
さて今日はその中でも圧巻だった歌のシーンを思い出しながら、《VOLVER》(帰郷)の詞をパンフレットから,以下に引用させていただくことにします。
     VOLVER
  かなたに見える光のまたたきが
 遥かな故郷に私を導く
 再び出会うことへの恐れ
 忘れたはずの過去がよみがえり
 私の人生と対峙する
                     
 思い出に満ちた多くの夜が
 私の夢を紡いでいく
 旅人はいくら逃げても
 いつか立ち止まるときが来る
 たとえ忘却がすべてを打ち砕き
 幻想を葬り去ったとしても
 つつましい希望を抱く
 それが私に残された心の宝
 帰郷(ボルベール)
 しわの寄った額 
 歳月が積もり銀色に光る眉
 感傷ー
 人の命はつかの間の花
 20年はほんの一瞬
 熱をおびた目で
 影のなかをさまよいお前を探す 
 人生ー
 甘美な思い出にすがりつき
 再び涙にむせぶ
                     

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左岸

 12年間休刊中だった詩誌「左岸」が復活し、このたび「続・左岸」31号が送られてきた。同人は新井啓
子さん、広岡曜子さん、山口賀代子さんの3人である。以前のもそうだったが、今号はいっそう瀟洒な装
丁で、清楚な雰囲気が心地よい。さすが女性たちの詩誌という思いで読ませていただいた。そのうちの
一篇を紹介させていただきたい。
                 
                    蘚苔             
                                               山口賀代子
おさないころ
祖母につれられ わけいった深い森のなかのちいさな流れのそばで
石にしがみつくようにはえている苔をみたことがある
植物と水の匂いのする濃密な世界のなかで
まじわっていたわたしたち

五十年たち
湿度のたかい都市の一室で苔とくらしている

枯れ草のようになっていたものが

ほんのりうすみどり色になり

濃い緑になり
太陽のひざしを浴びると金色にかがやきはじめる
ただ光をとりこんでいるだけのことかもしれないのに


黄金色のちいさな花〈…だろうか)がさいて
胞子がとぶ
そのしなやかなベルベット状のものをひとつまみ
実生から育てた欅の根元に移す
と しばらく
いきおいをなくし枯れたかにみえるものを
根気よく水遣りをつづけると
黄色いちいさいひらべったい塊が黄金色にかがやきはじめる

ちいさな森がそだちはじめている
都市の一隅でなにほどもなくいきる女のかたわらで
                       ※
 
 ちいさな森…ちいさな森…ちいさな森…。そうだ、わたしも身辺にちいさな森を育てなければ…。森では
いろんなことが起こるのだから。おさない兄妹がパンくずをこぼしながら、歩いているかもしれない。魔女
の家だって建築中かもしれない。この星の上から森はいま静かに消えつつある。せめて身辺にちいさな
森…ちいさな森…ちいさな森をつくっていこう。
                 

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Bitches Brew

昨夜、白楽にあるカフェバー 《Bitches Brew》へ、中上哲夫さんからの案内で、ジャズと詩の朗読を聞きにいった。20人くらいしか入れない小さいスペースだが、ぎっしりの盛況だった。オーナーの杉田誠一さんの説明によれば、彼が1969年に、ニューヨークでのジャズと詩の朗読に触れた折の感動的経験から、このたびの企画が生まれた由。
そして、とりあえずこれから一年、毎月第二木曜日の夜に、詩の朗読とジャズの会をひらくことにした。声をかけられた、旧知の中上哲夫さんがプロデュースすることになったという。
昨夜はサックス尾山修一、ピアノはケミー西丘、そして詩は初回なので中上哲夫だった。
中上さんは「アイオワ冬物語」の詩と最新作を読んだ。「アイオワ冬物語」のいくつかの詩篇が、孤独なサックスの音色とからみ、詩のかもし出すアメリカ大陸でのかわいた旅情を生かしていた。
ジャズは本来即興的要素が強いし、場の空気を瞬間瞬間に生み出していく。そのジャムセッション的呼吸が詩の朗読と合うのでは…と思ったりする。もちろんうまくいけばだけど。ジャズって生きものの一種みたいだと思う。たちまち空気の中に消えていくところも。

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あめふらし

絵本あめふらし(絵本グリムの森�)《絵:出久根 育 訳:天沼春樹》に惹かれたのは、
もっぱら出久根育さんの絵のおかげだ。
《12の窓をもつ高い塔から国中を見渡すことのできる、ひとりの王女さまがいました。彼女は気位が高
く,誰の言うことも聴かないのです。自分のお婿さんは、千里眼の自分と勝負して、彼女の目から、すっ
かり姿を隠さなければならない、というお触れを出しました。この王女の挑戦に敗れたものは、首をはね
られ、杭に串刺しにされて、さらしものになるのです。…こうしてお城の前にはもう99本目の杭にまで男
の首が刺されました。》
 さてどんなメルヘンにもあるように、この王女さまにも100人目の求婚者があらわれて、いくつもの試練
をくぐりぬけて、めでたく王女様と結ばれることになるのですが、これがなかなか大変です。
カラス、サカナ、キツネたちに助けられて、その若者が、王女さま相手に繰り広げる駆け引きのおもしろさ
が、怖楽しい(こわくてたのしい)。ブリューゲル風の異形の風貌をもつ登場者たち。エネルギーと奇想溢
れる絵の展開に、開くたびに見入ってしまうのです。これは現実のうらがわから、もうひとつの”真実”が
窓越しにこちらをのぞいている大人の絵本です。
でもなぜ「あめふらし」がここに登場するのか、ちょっと不思議。
もしかしたら、だれの髪の毛のなかにも、アメフラシが一匹、こっそりひそんでいるのかも。

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もくようびはどこへいくの?

久しぶりにブログの、それも絵本の頁を開きました。
「もくようびはどこへいくの」(ジャニーン・ブライアン:ぶん、スティーブ・マイケル・キング:え、すえよしあき
こ:やく)《主婦の友社刊》は、最近読んだばかりの絵本です。
           きょうは もくようび
 
           スプーのたんじょうび
        いちねんで いちばん とくべつな ひ
           この もくようびが
          ずっと おわらなかったら
           どんなに いいだろう
        でも、 よるのあいだに もくようびは
          どこかに いってしまうんだ
      もくようびは どこに いっちゃうんだろう?
シロクマの子どものスプーは、すてきなお誕生会をしてもらった後で、ともだちの小鳥のハンブーと、楽し
かったその木曜日を探しに出かけます。夜の森の中や、みずうみのほとり、丘の上、そして海辺など。で
もどこにも木曜日はいません。ふたりはがっかりして、家の前の階段にこしかけます。
      
          「ねえ、ぼく、もくようびって、
        こんな かたちを してると おもうんだ。」
           
                 ……
       「それはね、おおきくて まんまるなんだ。
         ぼくの おたんじょうケーキみたいにね。
           でね、ろうそくみたいに あかるいの。
         
         でね、ふうせんみたいに
              ぼくを たのしく してくれるの。
              ぼく、もくようびって、
         そういうの、みーんな
             たしたものだと おもう。」
それからふたりはじっと考えこんで、空をみあげていました。
ふたりはそれから木曜日に出あえて、
            「さよなら!」
とお別れをいえたでしょうか。
絵本の終わりのページで、ふたりがベッドにもどって、すやすやねむる幸せなシーンがすてきです!
                             ※
むかし子供の頃に、よく大晦日に感じたことを思い出します。いったいこの一年は、どこへ、だれのところ
へ、行っちゃうのかなあ…と。
時間は流れて、どこへ行くのか…それは自分の心の底に層をなしてたまっているというのも当たり前の
大人の感覚で、新鮮味がないようです。時間の後をどこまでもどこまでも追いかけていって、いつか時間
のしっぽを掴むことができたら、すばらしいSF旅行ができそうな気がします。身軽な子どもの心をもってい
たら、時間が風のように迎えにきてくれるかも。
         
  
       
       

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「沈黙から 塩田千春展」

 神奈川県民ホールで開催中の《「沈黙から」塩田千春展とアートコンプレックス2007》を見に行った。
シンポジウム「他者の発見〜アートはコミュニケーションをいかに回復するか」では、針生一郎、北川フラム、一柳慧、塩田千春の4人のパネリストが発言。
 戦後日本の表現は「内閉的アイデンティティー」探しの迷路に陥っているのでは…の問いに始まり、日本における言葉によるコミュニケーションの欠如〈社会においても、個人においても、家族関係でも)、その内閉性を破るべく、状況への行動のなかに新たな自己を発見してゆく過程についてなど、話者それぞれの発言があった。
 北川フラム氏は越後妻有での「大地の芸術祭」を実行した経験や、地元の人たちとアーティストたちとのその折の交流過程を通して、「publicなもの」の発見について語り、説得力のあるスピーチであった。席上、塩田千春さんに今回の妻有での参加を依頼し、塩田さんが快諾する成り行きもありほほえましかった。
 内閉性に関しては、詩の分野でも同じことが言え、いま朗読会などが盛んになってきているのも、他者との関係における言語を捉えなおそうとする意識が強くなっているからだろう。個人の作業としての表現(自己のアイデンティティー確立としての営為)を、今一度作品の流通の場や、それらが書かれ読まれる場との関わりで広く捉えなおすときがきているのだと思う。
 シンポジウムが終わってから、塩田千春展を巡ってみた。塩田さんはベルリンを拠点に、インスタレーションや映像作品を発表している美術家。首都圏では初めての本格的な個展という。
 黒い糸が一面に張り巡らされ、その中には焼け焦げた一台のピアノ、70脚の椅子、また蜘蛛の巣のように張り巡らされた黒い糸のなかにおかれたベッドにねむる女、〈彼女はどんな夢をみる?)。旧東ベルリンの廃屋から集めてきたという無数の窓のインスタレーション。どれも胸苦しくなるような現代の不安と孤独を感じさせる。だが私は無数の窓のインスタレーションの迷路に、人間のもつ無限の想像力や好奇心への呼びかけを感じて、すずやかに心引かれた。
彼女は作品制作のテーマに「不在の中の存在」を挙げているという。彼女は「誰もいなくても、飲みかけのコーヒーがあれば、そこに人がいたことが分る。不在であるからこそ、存在感が増したりする。」といっている。シンポジウムでも、自分のアイデンティティーは不在の中にあると語った。私はその言葉に共感した。
 私も消えていったもの、存在が消えていったあとの空間にこそ、実在を感じるのだ〈想像力によってより強くその存在が我がものとして確認できる)からだ。旧東ベルリン地区を歩き「まだ足りない、まだ足りないと、とりつかれたように探した」という窓は千枚を超す…という。私たちはかつて他者の見た千の窓を通して、いつかそこに在った千の風景をもう一度視る目を持てるだろうか。

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エディット・ピアフ

このところちょっと足を痛めていて、あまり外出しないのだけど、近いところはタクシーで行けるので、昨日は映画[エディット・ピアフー愛の賛歌ー」を見ることができた。ピアフは好きでレコードやCDを持っていたが、近頃はあまりきかなかったので、逆に新鮮に感じた。なによりもその歌声のもつ生命のエネルギー、その表現力がすごい。私はぼんやりしていて、若い頃のピアフと晩年のピアフを演じた女優が別の人か…と思っていた。それくらい雰囲気がちがうのだから演技力もたいしたものなのだ。もっとも歌声は吹き替えなしで有難かった。
ラ・マルセイエーズを街頭で歌う少女のピアフが私は好きで、また晩年の恋人マルセルの事故死以後の壮絶な演技も印象的だ。
実はこの映画をぜひ見るようにと薦めてくれたTさんは、目下入院中。今日が手術の日ときいている。(彼はとてもいい画を描くひと)。元気で退院できる日が一日も早いことを祈っている。Tさん、ありがとう。

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