弓田弓子詩集「灰色の犬」から

横浜詩人会創立50周年を記念するネプチューンシリーズが発行中だが、最近送られてきた弓田弓子さんの『灰色の犬』は傑作な詩集だった。寸鉄人を刺す…ではないが、寸鉄日常を穿つ!といいたい詩が多く、とてもおもしろい詩集だった。詩人の眼で日々を生きるということは、こういうことかもしれない。私はなんとおろそかに日々を送っていることか。
               ボール投げ
             「吉田橋」を経て
             「関内」から
             「馬車道」へ
             せかせか
             辿っていると
             背中にばーんと
             ボールがあたり
             急くな、と
             呼び止められた
             思わず振り返ったが
             知り合いは 
             見当たらない
             ビルディングの
             凹凸の後ろに
             赤赤と陽が
             落ちて行くところだった
             わたしは
             眼の中を赤く染めて
             見えないボールを拾い
             緩やかに
             投げ返した
            
           日が沈みかけている 
          炊飯器の炊飯を指先で押しそれだけの力で
          目がくらんだ 日が沈みかけているので地
          が傾いたのかもしれない あっけない  指
          先で 米が 炊けてしまうのだから あっけ
          ない
          いつからこんなに簡単になったのか くら
          む頭の中で炊飯器の型が変化していく
 
          どうしたのか まるで別世界にいるようだ
          性別 生年月日を声に出して暗唱してみる
          改良されていく炊飯器をじゅんじゅんに手
          に入れて米を手に入れて炊いてきたが こ
          れだけのことだったのか 米をこんなふう
          に簡単に炊いて一生が終わってしまうもの
          なのか
          つまらなくなってきた 改良されていく生
          涯なんて あっさり炊飯器を買ってしまい
          買えてしまう 便利な炊飯器を買うために
          何をしてきたのだろう ただただ手に入れ
          てきたのだ
          炊飯器の研究をする人 デザインする人
          製造する人がいて運ぶ人がいて店に並べる
          人がいて 売る人がいて 買う人がここに
          いて 米が炊きあがるのを待つ人がここに
          いて
          なにもかも厭になってきて 炊飯器に吸い
          こまれているのに 身をまかせているのが
          厭になってきて このまま生が尽きていく
          のが見えているのに逃げることもしないで
          いるのが
          厭になってきたが 米が炊きあがるいいに
          おいがしてくる 
      
        ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
最初の詩の、さりげない、まぶしい切り口。それから二番目の詩の批評の痛さ。(おおげさではなく、身に染みる。)
そのほかにもたくさんおもしろい詩が載っていて困ります。
        
    

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雲の映る道 高階杞一詩集

高階杞一さんの新詩集『雲の映る道』には好きな詩がたくさんあった。以下はその中の作品からです。
                   いっしょだよ
               かわいがっていたのに
               ぼくが先に
               死んでしまう
               犬はぼくをさがして さがして
               でも
               いくらさがしても
               ぼくが見つからないので
               昼の光の中で
               キュイーンと悲しげな鳴き声をあげる
               その声が
               死んだぼくにも届く
               
               ぼくは犬を呼ぶ
               こっちだよ こっちへおいで 
               犬はその声に気づく
               ぴたっと動きを止めて
               耳を立て
               しっぽをちぎれんばかりに振って
               一目散にぼくのところへやってくる
               ずいぶん痩せたね
               何も食べてなかったの?
               キュイーンとうなずく
               ぼくは骨をあげる
               犬はぼくの骨をたべる
               おいしかった?
               クー
               これからずっといっしょだよ
         ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
哀しい詩で、とくに犬の好きな私なので身に染みました。骨に関しては、もうひとつ、とても忘れられないような「春と骨」という詩があるのですが、あえてここには入れませんでした。いつか読んでください。子どもさんをなくされた詩人の経験の深さが、短い詩の中から切なく伝わってきて、前の詩集『早く家へ帰りたい』をもう一度読み直したりしました。
                   新世界 
               リンゴの皮をむくように
               地球をてのひらに乗せ
               神さまは
               くるくるっとむいていく
               垂れ下がった皮には
               ビルや橋や木々があり
               そこに無数の人がぶらさがっている
               犬も羊も牛も
               みんな
               もうとっくに落ちていったのに
               人だけがまだ
               必死にしがみついている
               たった何万年かの薄っぺらな皮
               それをゴミ箱に捨て
               神さまは待つ
               むかれた後の大地から
               また新しいいのちが芽生え
               みどりの中から鳥が空へ飛び立つときを
               そこに僕はいないけど
               人は誰もいないけど
                
            ””””””””””””””””””””””””””””””””””””
新世界っていうのは、人間のいない世界なんだと気がつきました。
まだ神さまのゴミ箱の底にうごめいている一人として。
  
        
                                           
  
   
                

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詩 夕餉の食卓

今日は佐藤真里子さんから送られてきた詩を載せます。2008年10月10日に陸奥新報に載ったものです。
              夕餉の支度             
                                  佐藤真里子
         西の窓が薄赤く染まるころ
         (行こうよ…)と
         背後から近づいてくる闇に
         負けないように
         わざと音を響かせて
         野菜を切る
         同じ生きものの生臭さで
         包丁に力をこめて
         魚をさばく
         沸騰する鍋のふたを取ると
         いきなり吹きかかる湯気が
         何もかもを
         眠りの夢に変えそうで
         思わず開ける窓
         外は沈む陽の色になり
         虫たちの奏でるヴァイオリンは
         高く低く余韻を引き
         (行こうよ…)と
         すすきの穂のたてがみをゆらして
         幻のけものたちが駆けていく
         その先には
         いつも気配だけで背中合わせの国
         夕暮のさびしさの訳を
         知っている国がある
         毎日、いまごろ
         その国行きの電車が停まる駅が
         かすかに見える
         (行こうよ…)と
         宙から下りてくるレール
         宙へと消えるレール
         今日も乗りそびれて
         電車が走り去る音だけを聞く
         魚の美味しいスープは
         煮えたけれど
             ””””””””””””””””””””””””””””””””””     
いい詩だなあと思った。日常の当たり前の行為と、それをめぐる時間が、想像力によって、一気に広がり、深まり、宇宙性を取りもどす。詩人は言葉によって時間の質を変貌させてしまうのだ。ファンタジー的な手法がうまく生かされていて、(行こうよ…)いう呼びかけのくりかえしが、時の経過をリズミカルに伝える。銀河鉄道999のイメージも浮かぶ。秋の夕ぐれのさびしさと、憧れに似た想いが、ロマンチックな心情を伝えてくる。そして最後に今夜の美味しい食事タイムを連想させるのもさすが…。

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映画「白い馬」

 昨日、映画[白い馬」と「赤い風船」を横浜で見た。日本で公開されてから何十年ぶりの再公開になる。アルベール・ラモリス監督のフランス映画。前者は1953年にカンヌでグランプリを得、、後者は1956年に同じくカンヌでパルム・ドール賞を得た傑作小品である。私がこの映画に特別の思い入れがあるのは、ルネ・ギヨによる童話「白い馬」を友人たちと共訳出版した経験があるからだ。ルネ・ギヨはこの映画を見て感動し、この童話[白い馬」を書き上げたという。これらの映画はまさに映像による詩といわれるが、久しぶりに見たこの二つの映画は古びるどころかむしろ今の時代にこそいっそう静かに強く訴えて来るものをもっていた。
 [赤い風船」も「白い馬」も共に少年たちが人間以外の存在(ひとりは風船、ひとりは白い馬)と無二の友情を結び、その絆を断つことなくこの世の外へのがれていく…そんなテーマでは共通したものをもっている。純粋で無垢な心をもったまま、この俗な世界に生きつづけることの困難さ。それを観念でなく、映像で描き切った、ラモリス監督の才能に心打たれる。
 「白い馬」のラストの映像…白い馬とその背に乗るフォルコ少年の姿が、ウマ飼いたちの追跡を逃れて、ローヌ川の波間にはるか小さく遠ざかってゆくシーンは忘れがたいものだ。かつてこの南フランスのカマルグ地方を旅した折に見た白い馬たちの群れが目に浮かぶ。童話のおしまいの部分を引用させていただく。
 (年取った友だちのアントニオの声が、最後にフォルコの耳に届いたかもしれない。だが少年は、はるかに遠く、ざわめく波のなかに見えなくなってしまった。フォルコは、まるで大きな貝がらのくぼみの中で、ふくらんでゆく歌声のような、ひびきのにぶい水の歌をきいていた。
 
 岸辺の男たちは、やがて、白いぽつんとした、点のようなものしか見えなくなった。それは、少年と頬を寄せ合って,泳ぎつづけるウマの頭だった。
 まもなく、その点さえも波まにのまれて、牧童たちの目から消えてしまった。
 自分のウマの首に、しっかりしがみついているフォルコは、まるでねむりに落ちるときのような、とてもやさしいけだるさが、からだじゅうにひろがって来るのを感じた。
 水が頭の上を流れていった。
 フォルコは目をとじていた。
 
 少年は夢の中にいるように、かるがると、友だちのクラン・ブラン(白いたてがみ)と
いっしょに進んでいった。クラン・ブランは、もう二度と少年からはなれはしない。ふたりは、いつまでもいつまでも泳いでいった。
 うたうようなローヌ川の水が、ふたりをやさしく静かにゆすっていた。やさしい水は少年とウマとを、海へそそぐ大きな流れにのせて、はこんでいった。子どもとウマとが、いつまでも友だちでいられるような、すばらしい島にむかって。)ルネ・ギヨ作、スコップの会訳[白いウマ」(1969年刊)より

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短い詩二つ 

前田ちよ子さんの作品を何回か載せてきましたが、さいごに二つ短い詩を
載せさせていただきます。このブログがどなたかの目に触れ、そのユニー
クな詩世界の片鱗でも心に残していただければ、彼女もどんなにか喜ばれ
ることでしょう。
                 蜆貝
            気温が下がり
            徐々に流れの速さを落して行く河口で
            僕達は聴覚の夜に重くなる
            時に降る雨音
            時に帰る鳥の笛
            時に風の低いうなり
             小さすぎた僕等
             一生しゃべる事のない紫の舌
           二枚の固く黒い耳介の中で
           僕達は作る事を忘れた音の世界に住んでいる
            
           ほのかに舌の先にランプを点す
           何気ない平(たいら)かな砂の底の夜
             埋蔵された何千何万の言語
             ひとつひとつの僕等 
                              詩集「星とスプーン」より
                
               月と野ざらし
             まあるく
             黄色い月が浮んで
             虫達はため息ばかりつく。
             野ざらしが二つ
             酒をくみかわして
             かわるがわる月を見上げる。
                
               ところで……おん
               どうして死んだ
               ……わかん……ねえ
               な、あ、ん、に、も、な……あーん
               な、あ
             風が真青になれば
             草はきしんで枯れもする。
             あばら骨もひどく痛いもの。
             青はそれほどとっぷり深い。
             酒もしっとり
             二つの野ざらしはもう上を見つめるばかり。
             コンパスの月は定められた。     
                                詩集「青」 (1969)より
              ※      ※      ※
この最後の詩は彼女が20歳になったのを記念にと、ご自分でガリ版で
手作りした「青」という小さな詩集からです。
彼女の本質にはこのようにユーモアと飄逸さを感じさせるものがありました。
それは亡くなる直前まで届いたいくつかのメールにも一貫していました。
           
                     
            
               
                
    

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「杖」 前田ちよ子

前田ちよ子さんが(多分)30代のころ書いたお話を載せます。未発表です。
            
若い貧乏絵描きのご主人から、犬がお使いに出されました。
絵描きの死んだ奥さんの所へです。
あわてて行った奥さんの忘れもの…歯ブラシとタオル。それに
化粧品とか。紫の風呂敷に小さく包んで犬の背中に結わえられ
ました。
 
生きた人と死んだ人と 言葉を交わすこと、手紙を交わすことは
できません。死者の国へは犬だけが出入りできるのです。
ただ絵描きの犬はまだしっかり大きくなっていないので、奥さんの
所までたどりつけるかどうか、犬は自信がありませんでした。
絵描きも犬になかなか行ってくれと言い出せませんでした。
けれども犬は絵描きの眼を見る度に何とも寂しくて、「行かせて下さい。
大丈夫です。」と眼で言ったのでした。
出かける時、犬は庭の木の枝を一本折ってもらって、紫の荷物と一緒
に背中につけてもらいました。それは杖のつもりでした。
しきたりに従って、夕暮に家を出て行く犬を見えなくなるまで見送った後、
絵描きはうす暗い家の中にぼんやり立っていました。
絵描きの眼の中に映っている部屋の隅のミシン。縫いかけのワンピース
は緑色です。指ぬきが鈍い銀色に光っていました。
絵描きは奥さんの好きだったピンクのフワフワしたセーターを思い出しま
した。タンスの前に行って、引き出しをひくと、二段目の右の方にそれが
ひしゃげてたたんでありました。 うす暗い部屋の中で、そのセーターは
白っぽくボーと毛羽立っています。
横に絵描きのGパンがたたんでありました。この前小鳥のスケッチに
出かけた時、森の木の枝で作ったひざの所のかぎざきが、細かい運針
で繕ってありました。
そういえば、ピンクのセーターを着た奥さんが針箱を広げて,廊下の日
だまりで手を動かしていたのを思い出しました。あれはこのGパンを繕っ
ていたのです。
うつむいた後姿の奥さんの丸い肩と背中。あの時のセーターはもっと
暖かなピンク色だったような気がしました。
絵描きは水を飲みに台所へ行きました。食器戸棚のガラス戸をあけて
コップを取ろうとすると、花柄の小さな奥さんのお茶碗が眼に入りました。
お揃いの白い湯飲が二つ並んでいます。
奥さんが忘れていったもの。 まだまだたくさん家の中にあるのです。
マフラーを首に巻くと、絵描きは街外れの一杯飲み屋へ行ったまま
明け方まで帰ってきませんでした。
犬が夕焼けの街を出て行ってから七日たちました。その日も暗い夕焼
けでした。絵描きがスケッチブックをかかえて風の中を帰ってくると、
玄関の所にうずくまっている黒いかたまりを見て、思わず立ち止まりました。
じっと眼をこらして見ると、間違いなく絵描きの犬です。絵描きは犬の所へ
走り寄りました。犬もその足音に気づいて首をもたげると、しっぽをかすか
にふるわせます。
スケッチブックをほうり投げると、絵描きは犬の頭をしっかり抱きかかえ
ました。犬の毛はつやを失い、濁った眼の回りは目やにでよごれています。
絵描きは犬の頭を幾度も幾度もつよくなでました。されるまま犬は目をつ
むっています。
背中に空の風呂敷がきちんと結わえてありました。やわらかすぎも固すぎ
もしない結び目でした。絵描きはその結び目を長いこと見つめてから 
そっとさわってみました。その時ふと犬のお腹の下から白っぽいものが
見えました。見ると犬の右の足に包帯がしてあります。泥とにじんだ血の
色で、足の先の方の包帯は真っ黒になっていました。手をふれてみると
犬はぴくりと足を引きました。その包帯は固すぎもやわらかすぎもしない
結び目をしていました。
奥さんは風呂敷を犬の背に結ぶ時、犬の足に包帯をする時、犬に何と
話しかけたのでしょうか。
犬は眼で何と奥さんに話したのでしょうか。
忘れものをどっさりして、奥さんはあまりにも絵描きから遠い所へ行き過
ぎているのです……
絵描きがひょろりと立ち上がると、目やにに囲まれた目を上げて犬は
ゆらゆらとしっぽを振りました。
左右に振られるしっぽの下に、出るとき持たせた木の枝がころがって
いました。その先端はささくれ立って、小石がいくつもいくつもつまって
いました。
                                        (完)

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詩集「昆虫家族」(1988)ー七月堂刊ーより

            土の器
                                  前田ちよ子
  地が造られ、その終りに余った土で造られた器が地の
  一端に据えられた。 その器の底に、いつからかこどもが
  住まっている。
  器に続く地では日々色々なことが起り、その中をかす
  かな死臭を漂わせた大きな生きものが、ひたひたと身を
  低くして歩みやってくる。やがて器にたどり着くと縁で
  立ち止まることもなく、器の内側の丸味のある闇を深々
  と下りて行く。
  大きなものは器の底で走り寄るひとりのこどもの腕に
  抱き取られると、ゆっくりと体を横たえて、その頭(かしら)をこ
  どものひざの上に載せる。角ある頭(かしら),荒い毛の立ち並ぶ
  背を撫でるこどもの手のひらの温もりに、生きていた大
  きなものはうっとりと死に始め、閉じたまぶたの傾いた
  端から涙のように自分の魂を生み終える。
  土の器のどこからか、たくさんのこども達がめいめい
  手に合った椀を持って集まって来る。円座して、魂の残
  していった血と肉とを少しずつ分け合っている。ひとり
  が ほら見てごらん とほほえんで言うと、はるかこど
  も達の暗い頭上を、一個の魂がほのかに輝いて昇って行
  くところだった。
                  天秤皿
                                     前田ちよ子

  
   私達は片方の天秤皿の上で生れていた。私達を生んだ
  ものが何であるかは知らなかった。皿は巨大で、朝と昼
  と夜のある宙に浮いており、はるか下の方は闇の雲がゆ
  っくりと大きく渦巻いていた。私達の載った皿の対(つい)の
  天秤皿はおろか、皿を支える支点さえも遠く遠く霞む大気の
  向こうにあって、私達は見たこともなかった。
   皿の上には何もなかった。風の吹く度にどこからか流
  れて来る砂がわずかずつたまり、やがて砂は土になった。
  私達は拾い集めておいた種をそこに播き、空一面から降
  る雨と光とで種から苗を育て、実を収穫した。繁る草に
  ひそむ虫を捕え、干して保存した。季節の変わる時には、
  頭上を渡って行く鳥の群の互いに呼び合う声を頼りに弓を
  引いた。私達は日毎大きくたくましくなっていったが、私達
  の載った皿は次第に宙に上(のぼ)っていった。
   寒い日の夜は火を焚き寄り添って寒さをしのいだ。そ
  んな時私達はもう片方の皿に何があるのか話(はなし)した。
  小さな弟はカラスだと言った。たくさんのカラスが卵を産んで
  いるのだと。 三番目の兄は父と母だと言った。父と母とが
  私達が大きくなる以上に肥えて行くのだとーー。無口な一
  番上の姉がいつかこんな風に集まっていた時、一度だけ
  自ら話し出したことがあった。「私は思う。あそこにいるの
  は私達ではないかと。私達があそこでふえているのではな
  いかと。 「ああ。私達はふえるのをやめようではないか。
  兄や姉、姉や弟、妹や兄、弟や妹。私達はそんな関係
  (あいだ)でふえるのはやめようではないかーー
   姉はその後死んだが、私達は姉の言葉を守ってふえず
  に生きた。あれからも私達の皿は少しずつはてしなく天へ
  近づいていく。薄くなる大気と夜のなくなった一日中明るい
  光の中にいて、私達の肉体は内側から透けるようになって
  いた。 余り動くこともなく、話しをすることもなく、今では
  もう食べなくてもよくなっていた。
   収穫をしなくなった穂はいつまでも青々と豊かに実り、
  たくさんの虫をその中に隠していた。渡り鳥は頭上を渡
  らずに、皿の下の方を鳴いて渡って行く。
   今でも 私は思う。あの大きく渦巻く闇の中を、更に
  静かに沈み続けて行く私達の対(つい)の天秤皿。あの
  皿の上の「重さ」。 あれはいったい本当に何なのだろ
  うか…と 。
          *          *           *
     前田さんの第2詩集「昆虫家族」から2編載せました。
     ( )のなかは原文ではルビになっています。  

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前田ちよ子詩集「星とスプーン」より

前田ちよ子さんの詩集「星とスプーン」(1982)より2編載せます。
             氷河
        (ああ 迎えにきたのだね……)
     家の門の暗がり
     遠く(たぶん 遠く)
     四つの脚をしてやって来たおまえと
     私は家を出よう
     うなだれたふたつの耳と
     私は連れ立って
     街を抜け
     幾つもの山を越えたところ
     私達のはじまった
     あの茫々の草原の波の中に
     おまえと抱き合って沈む…
      覚えているよ
      おまえが犬といわれるものでなく
      私が人間(ひと)といわれるものでなく
      大気を浮遊していた
      おまえと私との生命源(プラナ)の邂逅の後の
      一粒のぶどうの種のような
      さみしい抱きあいの重み
      この草原の底に沈んで
      私達やたくさんの生命源(プラナ)達の
      静かに降らす夢で
      幾重にも幾重にも自分達の眠りを
      埋蔵していった……
      きしきしと
      夢の氷河の亀裂(クレバス)を
      きしきしと
      きしきしと
      私達の氷る耳の傍を
      目覚めたもの達の足音が
      渡って行ったね
      やがて
      私達も溶けるように目覚め
      すりへった地層の階段を上って行くと
      そこはまだ昨日の明けていない
      渦巻く草原だった
      私は草を焚き
      かげろう青い炎をはさんで
      おまえとゆらぎながら向かい合っていた
      その時
      おまえは一本の細い垂れた尾を持っていて
      私はわずかな文を書くことばを持っていた 
      ただ
      おまえも 私も
      溶けきらない灰色の眼をしていたのを
      互いに深く見つめ
      それから
      炎が落ち
      別れたね
     今も
     私のことばは
     拙い文しかつづれない
     おまえの細い尾は
     そうして垂れたまま
       (いったい何処の冷たく堅い土に
        自分を繋げていたのだろうか)
     変わらない灰色の眼のまま
     おまえは
     私の中の灰色を想って
     遠く(たぶん 遠く)
     出会いにやって来た
       ねえ 決して思うまい
       私達のこの土の上での
       骨と肉のはじまりに
       私達が眠りすぎたなんて
       遅すぎたなんてね
       草原の底深くからの
       私達の目覚めの時に
       溶けきれなかった灰色の部分
       それが私達そのものだったのだから
    
     うねる草原に
     重かった肉と骨をぬいだら
     私と おまえと
     ふるえる大気の中を
     別れて行こうね……
     今度こそ
     溶けない夢の降り積む
     眠りへの出合いのために
         
          たとえば
     君と別れ
     これから漂流する僕が
     いつか
     疲れはてて港に行き着くことがある
     気流の変わる
     日没の海を眺め
     寄せて引く波の振動を聴くうちに
     たとえば
     ふと 自分が以前
     あかね色の脚のかもめだったことを
     思い出すかもしれない
      
       僕はかもめだった
    
     僕はそこで人間(ひと)の形を解いて
     かもめになる
     それから
     翼を広げたあかね色の脚のかもめの中で
     僕はひたすら疲れながら
     飛んで生きるだろう
     かもめの以前(まえ)の僕を
     ふと 思い出すまで
     僕は
     僕の形を
     そうやってどこまでも遡り
     やがて僕が
     もっとも僕であったところまで行き着く
    
     君
     君も
     合わせた鏡の奥深くから
     一つ一つノブを回す度に
     変化した形を思い出して遡る
     そしていつか きっと
     最後の扉を開けてたたずむ君と
     僕は向き合う
     
     言葉や肉体で現せない
     あらゆるもの
     あらゆるもので
     不変の
     ただひとつのもの
     君 そして 僕
                  
                 *    *    *
   作品の中の( )は原文ではルビになっています。
             

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前田ちよ子さんのこと

 ペッパーランドの創刊同人だった前田ちよ子さんが他界されました。急性骨髄性白血病になられ、5月10日に富山の入院先からお電話をいただいたのですが、それから2ヶ月、私は気の休まることはなく一日一日を過ごしてきました。そしてついに7月3日朝死去されたとご家族から電話を受けたのです。 6月半ばに緩和ケア病棟に移られたという彼女の電話に、急遽お見舞いに伺ったのですが、その折はまだ笑みを浮かべながら、いろいろなお話を一時間くらいすることができました。ご家族に伺うと彼女は病気を淡々と耐え、静かに受け入れて、けなげに最後の時を迎えられたようです。59歳の死は早すぎるといいたいですが。
 このブログにも入れましたが、去年5月に荒川みや子さんと富山を訪ね、12年ぶりに3人で一夜の語らいをもてたことを思うと、その一年後の今の成り行きが信じられません。
 彼女は病床でも童話を書いていました。詩集として「星とスプーン」「昆虫家族」の2冊を出しておられます。2冊ともユニークなすぐれた詩集で、今読み返しても不思議な魅力を感じ、彼女は自分の運命、あるいは人生の成り行きを半ば以上予感していたのではないかと思ったりします。独自の感性と直観で,現実の裏側にもうひとつの宇宙を見ることのできた人かもしれません。
 前田ちよ子さんの詩や童話をこれから少し紹介できたらと思っています。

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七月

 田代芙美子さん発行の「泉」66が届いた。充実の内容。いいなと思う作品がいくつもある。田代さんの連載エッセイ「マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の光と影に」はもう45回目だ。綿密な考証と、のびやかな筆の運びに魅せられて、毎回楽しみに読ませていただいている。彼女のプルースト研究の師である井上究一郎氏には、私も大学時代に教室でプルーストの講義をきいた。そのころちょうど出始めたこの翻訳を毎月一冊ずつ貴重品のように購入した頃の胸のときめきを思い出す。
 今は井上氏も逝かれた。いつか新潟の田代さんのお宅を伺っ折、「失われた時を求めて」のゆかりの地を訪れた際のエピソードなどを、彼女のお手製の梅酒をご馳走になりながら伺ったことなどを思い出す。忘れがたい愉しい時間だ。
  
 ここでは66号の巻頭に置かれた財部鳥子さんの詩をご紹介したい。このような詩を読むと、なんの説明も不要。ただ極上のおいしい一品に出会えた気がする。一期一会。それもさりげなく…。なんて洒落た詩だろう。
                七月          
                            財部鳥子
          
           七月の空気は裸
           
           恥ずかしいから蓮の池に隠れている
           大きな葉のしたから蕾を高々と掲げて
           みんなに見せている
           
           たいていは朝の水辺でのこと
           すっきり伸びた茎の先の蕾がやわらかい指を開くとき
           花のてのひらが
           木霊を隠していたことが分ってしまう
           一輪 ひらいて ぽん 幽かなおとがして
           山の空気は宙へ帰っていく
                      
           祖母は百歳のてのひらを
           そっと 蕾がひらくときのように開いてみせた
           無数のしわに刻まれた手のひらから
           七月の無音のおとが空に放たれた
           しずかに目をつむってお聞きなさい 
           
 

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