病気 (うさぎ・兎・ウサギⅡ)

                      水野るり子
 
子どもの頃病気はいつでも目や耳たぶの一部から始まった それ
は水がタオルにしみこむようにじわじわと全身にひろがってくる
ぼくは身をよじってからだのそこらじゅうから病気をしぼり出す
(長い夜だった)朝ごとにぼくはしぼりつくされた一枚のタオル
になって乾き切り つっぱったまま床によこたわっていた

女の子がやってきたのはそのときだった ぼくをそっと抱きかかえ
{あ、ウサギ!} そういってぼくを野原へ連れていった 野原は
空に近かった 花がリンリン鳴っていた ぼくのからだはほどかれ
て灰色の兎になった ぼくらはいっしょにかくれんぼした 花をむ
しった 蛇ごっこした もぐらを空へ投げ上げた 虫たちの翅を一
枚ずつならべていった それから向かい合って頭からおたがいを
食べっこした しっぽの先まで残さなかった

野原の真昼は永かった ジャンケンをすると角が生えた ふたりは
角のある兎だった ぼくらの足はぐんぐんのびて 野原はぐんぐん
せまくなった とんだりはねたりするたびに地平線をとびこえて向
こうがわへころげおちた ぼくらはかわるがわる消えっこした 消
えながら見あげると野原は夕陽で真っ赤に見えた それはかげって
おしまいに黒い空のなかへ吸い込まれていった もう野原へ帰る路
はなかった ひとりで泣きながらうずくまっていると ぼくのから
だはまたひからびてタオルのようにこわばっていった

あの日兎を置きざりにしてぼくは癒って大人になった だが今も病
気の前には野原の影がひろがってくる 兎があの場所でぼくを呼ぶ
のだ
    ””””””””””””””””””””””””””””””””
 はるか以前、女性詩人アンソロジーに寄稿したものです。野原がだんだんなくなって
 いくと、ウサギの呼び声もそれとともに消えていくのかも。
 

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うさぎ・兎・ウサギ

         
うさぎの詩のコレクションをしてみます。
今回の詩は、詩集『クジラの耳かき』、CD詩集「うさぎじるしの夜」に入れたものです。これは木村淳子さんの英訳により「POETRY NIPPONN 2010」に載ったものです。
          井戸          水野るり子

       おばあさんの
       
       耳の底には
       深い井戸があって
       ひとの寝しずまるころ
       ひそかに水を汲む音がします
        
         (あ 今夜も
         うさぎがやってきて
         ピンクのふくらはぎを
         洗っている…)
       
       ぬれた花びらのような
       うさぎの足跡は
       おばあさんの夢のそとにまで
       はるばると続いていて
       そこは…明るい月夜です
  
       
         The Well    Trans. by Junko KImura
 
A deep well is
at the bottom of
the old woman’s ear,
she hears someone drawing water
when people are drifting off to sleep.
  (Oh, tonight again
  the rabbit is here
  and washing
  its pink calves…)
      
      Its footprints
 
      like wet flower petals
      
       lead afar off to…
      beyond the realm of the old woman’s dream…
      There…it’s a bright moonlit night.           

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ショパンのラストコンサート

ショパン伝説のラストコンサートというのを聞きに行った。パリで1848年2月16日に行われたショパンのラスト演奏会を、作家の平野啓一郎が再現する歴史的なコンサートとのことだった。平野啓一郎は長編作「葬送」でショパンの生涯と芸術を描ききったといわれているが、昨日も舞台上でナビゲーターの役を引き受け、自作の朗読も行った。演奏は宮谷理香(ピアノ)、江口有香(バイオリン)、江口心一(チェロ)。私の好きな舟歌やプレリュードをきけたのは嬉しかったし、またチェロソナタがとても新鮮だった。
特に心に残ったのは、ショパンが生涯に4回しか演奏会を行わなかったこと、その理由は大勢の前での演奏会が嫌いだったこと、演奏をするとしたら数少ない親しい知己のひとびとだけを前にやりたい、というタイプだったこと。そしてショパンはこの演奏会の翌年に他界しているということ。
3時間に近いコンサートの帰り道で偶然出会った野毛の「OBSCUR」という店での食事とワインがおいしくて、ここではジャズをBGMにして、コンサートの意外な「あとがき」?を読んだ気がした。
オブスキュールとはフランス語で”暗がり”とか”おぼろげな”とか、あるいは(作品、言葉などが)難解、曖昧という意味もあり、店がその名を選んだのは、暗がりのなかに差す光を意図しているとか。煌々とした明るさでなく、オブスキュールである故に魅力があることも。

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Spaceより 「石段」 坂多瑩子

[SPACE」93号で坂多瑩子さんの詩を読んだ。
坂多さんの詩は、どこか独り言のようだ。それは意識の下にあるあちこちの層から、記憶の断片が勝手に顔をのぞかせ、ふたたびどこかに消えていってしまうようでもあり、それは読み手の受け止め方によって、それぞれの人のもう一つのつぶやきや、忘れられたものがりを引きだす呼び水となったりする…そんな感じがする。
        石段                坂多瑩子
   ひとつふたつ
   一緒にかぞえてという
   女医さんの声を聞きながら
   石段をのぼった
   体温はすこし下がっているようだった
   石段をのぼりきったところには
   タラもどきの木が大きく立っている
   夏らしく
   茂った木は勢いがあり
   あかるい空に
   むこうのちいさな家に
   それから
   自分を描きこむまえに
   あたしは何も分からなくなった
   気がつくと
   へやの暗がりに
   ベッド 空っぽだった
   ネコがいなくなったネコはあれから一度も帰ってこない
   一度もついてきたことのなかった石段を
   ぽんぽん跳ぶように
   あたしを追い越していった
   あたしはネコのように
   ないた ないてみたかったベッドの上で
   むかし
   ひとつふたつ
   女医さんと一緒に数をかぞえた
    ”””””””””””””””””””””””””””
 石段や階段をのぼる、おりるということは、平坦な道をあるくのと違い、次元の移動というもうひとつの要素があり、ある意味で負荷〈楽しいにせよ、苦しいにせよ)を感じさせる特殊なイメージをもつ。この詩からは病気か何かで熱っぽい夢にうなされている状況をおもいうかべた。麻酔にかかるときの状態?かもといったヒトもいた。
 だが、〈石段)(数える)(夢のなかの状況のような画)〈つきまとうネコのわずらわしさ)などそれぞれの断片が、どこか深い所で読み手に見え隠れする、ある物語の脈絡を感じさせ、気になる作品だった。それも私が石段や階段のイメージになぜかこだわるたちだからかもしれないが。
    
      

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ハンス・コパーとルーシー・リー展

 昨日、汐留ミュージアムへ、ハンス・コパーの陶芸展を見にいってきた。この前テレビ
で見て、どうしても実物を一目見たかったので、酷暑の中を新橋まで見に行った。
 
 彼の作品の、内側からおのずと膨らんでくる(たとえば植物の強い生命力みたい
に…)宇宙的な存在性に触れてしまうと、この目で、というより、この手で、肌で、身
体そのもので、私はその作品に触れたという(視覚でない)感触が残ってしまうのは不
思議だ。たとえば重たさとか、肌への抵抗感とか、そんな(土)の持つ特性が肌身に刻
まれてしまったように。(さっき私はあの壷を両手で支えた、あるいは撫でた…という
ように。) よく詩の場合、リアリティがあるというのと通じるかもしれない。
 ルーシー・リーの洗練されたうつくしい作品、それ以上にコパーの作品の重たい存在
感に、しばらくは黙って打たれていよう。彼が最晩年になって病気になった頃、キクラ
デスフォームという、天に浮遊するような軽やかなかたちに、自身のいままで練り上げ
たオリジナルな技法を融合させ、自在なかたちの変容を生み出したことに胸を打たれ
る。

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「キャベツのくに」から

またご無沙汰していました。
今日は鈴木正枝さんの「キャベツのくに」という詩集のなかから二扁の作品を挙げさせていただきます。
読むひとによっても、読む状況によっても、いろんな風に読めるこわい詩です。
           月の丘         鈴木正枝                    
          夜が来て
          熱が引くと
          からっぽの頭の中に
          月がのぼります
          無理やり束ねておいた神経が
          さわさわと
          枝葉を拡げ
          森のように騒ぎ出す
          丘の上
          真昼間埋めたばかりの
          寂しい私のにくしみが
          見つけられそうになって
          急いで目を閉じます
          月あかりを消して
          もう一度
          深く
          深く
          埋めなおさなければなりません
          その分だけ
          重くなった身をおこし
          引きずって
          床にころがっている
          もうひとりの人の
          瞼を開いて
          中を覗き込みます
          あなたも何か埋めましたね
          丘の上は
          何年もの光のあくで
          まっ蒼
          見るばかりで
          誰にも見られない私の月は
          決してやせることなく
          まあるくまあるく
          破滅にむかって進みます
          あなた
          完璧な満月が
          のぼりましたよ
   
         ”””””””””””””””””””””
破滅に向かってまあるくなっていく月…
丘の上は何年分かの光のあくで蒼く染められている…
ほんとに この地上に埋められたにくしみと寂しさの総量を、天上の月が
照らし出したら、どういうことになるでしょうか。
もう一つ詩を挙げます。
              松は           鈴木正枝
           松は
           数ヶ月の潜伏期間を
           ひとりで耐えた
           数百匹の虫たちは
           内へ内へと潜入していったが
           松は
           すべてを明け渡しながら
           ついに松であることをやめなかった
           予定されていた
           その時が来たとき
           耐えてきた緑を
           ふつりと断ち切り
           断ち切った痛みに
           松は
           初めて小さく叫びながら
           そのままの形で物になっていった
           物になったまま
           物として
           松は
           松であり続けた
           きっかりと潔く
           夕陽のような赤を
           野に流して
           松は
          
            
                
             
           

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林檎ランプ 尾崎まこと

今日は尾崎まことさんの新しく出された大人のための童話集『千年夢見る木』から
短い詩を一篇入れさせていただきます。
これは文庫本くらいの大きさのハードカヴァーの本で、表紙の色が鮮やかな黄色、
左子真由美さんの挿絵もきれいです。”9つの夢の贈り物”と表紙にあります。
最初の頁をめくると次のような文が目に入ります。
 
  「この宇宙はほんとうは美しい図書館です。なのに大きすぎて
   その入口が分からないと、もどかしく思ったことはありませんか。
   あなたは、不思議で驚きに満ちた、大切なその一冊に違いありません。
   この小さくて黄色い本がその扉になってくれたらうれしいです。」
                                (著者)
             林檎ランプ
                             尾崎まこと
        林檎山の林檎の木
        風が吹くと
        まだ青くて小さいけれど
        鈴なりの子どもたちが
        かりん こりん かりん
        いい香りで鳴ります
        昼間は見えないけれど
        一つ一つのまんなかには
        小さな炎が
        灯っているのです
        夜になると皮をすかして
        ほんのり明るむので
        林檎山全体まるで
        輝く童話の森のようです
        林檎ランプは
        夕焼けの空と同じように
        だんだん水色からピンクへ
        ピンクから茜色に偏光し
        私たちのために美しく
        美味しく熟していくのです
        今年の秋
        ナイフでさくっと割っていただく時
        林檎ランプ
        つまりそのまんなか
        灯し続けた炎のあとを
        たしかめてこらんなさい
    ””””””””””””””””””””””””””””
夜になると、皮を透かして、中心にある林檎の芯が炎のように内側から明るんで
来るので、林檎山全体が闇の中でほんのりと輝くという描写、林檎を食べるとき
燃え尽きた炎の痕をたしかめてごらん…というところ、すばらしいイメージで林檎
一個が自分の中でよみがえってきて、この柔らかな感性に共鳴してしまいます。
それからこの小さな一冊の童話集が宇宙の図書館の入り口である…という哲学的
イメージに触れると、ああ、そうか…この自分もその蔵書の一冊だったのだと
気がついて、自分という存在のかけがえのなさを感じさせられるのは、不思議な
ことばの力です。
 
   
 
        
 

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またなの

久しぶりで更新します。今年前半も間もなく過ぎようとしています。2月から3月にかけて足の手術で入院するなどして、ずいぶんペースが遅れました。今日は中井ひさ子さんの「ブランコのり9号」からの作品を載せたいと思います。
           またなの         中井ひさ子
       
       こんな日は
       考える人になって と
       公園のベンチに座っていたら
       昨日言ってしまった
       ひと言が
       からだのすき間から
       聞こえてきて
       ちりちり 痛いよ
      
       またなの と
       
       ラクダが
       けむたげな目をして
       通り過ぎていく
       
       冷たいね
       
       春だもの
       微かに揺れている
       桜も 木蓮も 菫も 大根の花も
       とり集めて見よう
       見渡せば
       風の
       大仰な身振り手振りで
       もっと もっと
       思い出してしまったよ
       ぼくの
       こぶの中にあるものなあに
       帰ってきた
       ラクダが聞いた 
    ””””””””””””””””””””””””””
少ない語彙なのに、というかそのために、呼吸のリズムがびんびん伝わり、現実味を感じてしまう。とくにラクダ(中井さんのなかの一因子?)が生きている。一人称が(ぼく)で登場するのが印象的。(俺)とか(私)に入れ替えて見ると、空気が一変するのでおもしろかった。彼女はここですっと(ぼく)にしたのかなあ。今度きいてみよう。        
           
      

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草地の時間(村野美優詩集)

               寝床のふね                  
                                        村野美優
       このあいだまで
       赤土色のふとん袋を
       ねぐらにしていたうさぎたちが
      
    
       いつのまにかここに移動してきて
       しずかな夜の海を
       一緒に渡るようになった
     
       ひたひた
       へやの扉をあけると
       畳まれたふとんの上で
       しずかに船出を待っている
       もやい綱を解くように
       ふとんをひろげて横になる
       わたしの背骨は竜骨になる
       甲板にはうさぎが二匹
       へさきには時の船頭が乗る
       ひたひた
       へやの扉を越えて
       いきものたちの寝息のなかを
       今日も寝床のふねが行く
       あたらしい草たちが
       聞き耳を立て
       伸びていく
村野さんがうさぎ二匹と暮らしていることは、聞いていたので、彼女の日々の暮らしの一場面が
目に浮かんでくる。もっともうさぎと暮らしていたからって、こんな広々とした?たのしい詩が生まれる
わけじゃないですよね。この詩集全体から、村野さんの原感覚とも言うべき、この世界への感受の仕
方が伝わってきます。身辺のどんな存在とも(植物や動物たち、そして空間や時間とも)溶け合い、
一緒になれる共生感覚が、自然に溢れ出していて、詩人てこういう人のことをいうのでは…と、頁を
ひらくたび思ってしまう、そんな詩集でした。まさに草地の時間を感じました。もう一つ載せます。
              
                 藍色のうさぎ  
           白いうさぎと
           茶色いうさぎが
           やってきた晩
           わたしはうさぎの夢を見た
          
           夢のなかにはうさぎが三匹いた
           白いうさぎと
           茶色いうさぎと
           藍色のうさぎ
          
          
           藍色のうさぎは
           わたしの胸の穴の深みに
           長いこと棲んでいたので
           すっかりかたちをなくしていたが
           
           白いうさぎのあたまを撫でると
           藍色のうさぎもよろこんで目を細めた
           茶色いうさぎが葉っぱを食べると
           藍色のうさぎの腹も満たされた
           二匹のうさぎが寄り添って眠ると
           藍色のうさぎもうっとりとなった
           藍色のうさぎは
           ときどき胸の穴から抜けだし
           どこかへ行こうとした
           だが自分がどこへ行きたいのか
           わからないようだった
           ただ夢のなかで藍色に広がり
           ぼんやりと漂うだけだった
この詩は私の一番好きな作品でした。このような具体的なやさしい表現で、人が生きていることの
あてどなさや、存在感、そして愛の感情やその意味を表現されたことに打たれます。  
             
           
                    
            
           
 

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サーラの木があった

以倉紘平さんの詩集『フィリップ・マーロウの拳銃』のなかから、好きな詩をひとつ載せさせていただきたい。
            サーラの木があった
駅に着くと
サーラの木があった
思い出せるのはただそれだけである
そこからいかなる言葉も紡がれようがなかった
こころみるとすべて作りごとのような気がしてくるのである
〈駅〉とは何だろうそれはこの世のことではあるまいか
〈着く〉とは何だろうそれは遠い所から
この世に生まれたことを意味しているのではあるまいか
サーラには匂いと色があったはずだ
甘い花のかおり
風がにおいを運んできたのだろう
(風はひろびろとした野の方に過ぎさったのか
びっしりとつまった街の家並みのほうへ吹きすぎたのか)
そう書くともう汚れてしまう感じなのだ
たくさんの小さな花
朝日に輝いていたのか夕映えにきらめいていたのか
(乗客の中に行商のおばさんが
少女が乗っていたのかどうか
だいいち駅名や時刻表があったのかどうか)
そんなことを考えるともう嘘のような気がしてくるのである
だから
なにか豊かなものがあったとしかいいようがない
白い花の色とかおり
すみやかに時が流れ
あっという間だった
この世のことはもうそれ以外に
ぼくはなにも思い出せないのである
   ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
 この詩集は装丁にも粋な題名にも、心ひかれた。 サーラの木とは、あの沙羅双樹の沙羅の木のこと。お釈迦さまが亡くなられたとき、いっせいに花開き、降り注ぎ、その死を悲しんだと言われる木である。朝開き夕べにはしぼむという、その一日花は夏椿とも呼ばれてる白い美しい花である。
 私は、以倉さんの詩にはいつも深いところでの心の共振のようなものを覚えている。「人が生きている…その根源にある大きな感情に触れることができ、さらにそのかなたへと思いを運んでくれるような…」と、私は手紙に書いた気がする。そして、そのかなたとは、ふしぎに懐かしい場所なのだ。
 彼のこの前の詩集『プシュバ・ブリシュティ』のなかにもサーラの木のことが出てくる。
その”〈サーラ〉という語”という詩のなかから一部を引用したい。
 (きれはししか思い出せない夢がある。気分情緒しか残っ
 ていない夢もある。たしかに見た夢でありながら、わたしの
 意識にひとたびものぼることなく忘れられた夢は、誰に
 所属しているのだろう。そのときの夢はどこを旅してい
 るのだろう。ことばの及ばぬ内面世界のはるかな時空だ
 ろうか。それは日常の世界を越えて旅するもう一人の私
 である。意識の上に突如としてのぼってくることばは、
 未知の領土を 旅するもう一人の私からの通信である。/……
 宇宙樹サーラは、 その枝葉のやみに青い地球を抱えている。/
 人間はサーラの花散る宇宙 をよぎる旅人である)
  
              
                   
 
             

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