地震、大津波と原発事故その後について

前回急ごしらえの浅い知識ながらこの原発事故の怖さを、そうならないことを願いつつ書きましたが、そのシナリオ通り進み、いやすでにスリーマイルを上回り、チェルノブイリに近づいていくということにもなりかけていて、言葉が出ません。
地震と大津波の惨状も、日が経って状況が分かるにつれ、その凄まじさが露わになり、まさに目を覆いたくなります。その中にあっても奮い立って頑張ろうとしている人々の姿、救援の手をいち早く差し伸べる人々など、いざとなった時の人間の底力に心打たれています。そうせざるを得ないのでしょうし、カメラに向かって意気阻喪した姿は見せられないでしょうが、視ている私のほうが、今萎れてしまいそうな日々です。
今、この大震災、また特に原発事故について世界もあらゆる意味で注目しているようですが、今度の事故で、私は初めて「爆」と「曝」の違いを知りました。被曝とは、爆弾を受けるのではなく、放射能を浴びることなのですね。この辺りももう放射能が飛んでいるとお言われてます。なるべく外を歩かないようにと。水もだんだん危なくなるということ。これなどはまだまだ大したことありませんが、20キロ圏内の指示、30キロ圏内の避難要請。故郷を捨てざるを得ない人々の気持ちを考えると、胸が痛みます。
今日本はまさに、世界にその姿を曝(さらす)、曝してもいるのだな・・・とも思います。ただただ原発が一刻も早く鎮静することを願い、また被災地の復興が一日でも早いことを願っています。ほとんど役に立たないかもしれないけれど、私なりのささやかな心や義捐金を届けることぐらいしかできませんけど。
震災後の行事や集まり、約束などはすべて取りやめになっていたが、だんだん世の中も平常を取戻してたので、今日はこれから初めて電車を使っての外出です。
これから先は、帰宅してから追記したものです。
行く先は、横浜みなとみらいにある神奈川大学エクステンションセンターの、市民に開かれた講座、「『遠野物語』と現代」(講師:安藤礼二)でした。『遠野物語』が世に出て100年ということから、遠野の現地をはじめいろいろなところでもシンポジュームや催し物が企画されましたが、これもその一つです。水野さんや福井さんに誘われてですが、毎回とても刺激的で高度な内容の講座です。遠野も今度の大震災の被害地の一つですね。
3回連続講座でしたが、最終回の前に地震が起こり延期になり(このことも劇的でありました)、2週間遅れて今日になったのです。この物語の持つ意義を、日本の古典から始まり現代までの文学、歴史や民俗学にまでわたって論じてきて、最後は現代に及ぶところで中断していたのです。
この物語が、いかに現代の、まさにこの大災難に直面した日本、そして日本人に示唆を与えるものであるか、この今を予感したようなこの最終講座であったことを知り、しかも現代と結びつく内容であったということでちょっと興奮しました。
その一端でもここに書こうと思いましたが、難しいです。
節電のため駅はホームなど肝心な場所以外は消灯していて全体が薄暗い。コンビニもスーパーも閉店かと思えるほど薄暗く、売り場だけを照明が当てられているが、どことなく薄寒い。品物も平時とそれほど変わっていないように思えるが、肝心なもの、売り切れと言われているような品目の棚はがらんとしている。みなとみらいもエスカレーターや歩く歩道は停止しているので、皆ぞろぞろと歩いています。日曜なので停電がないので、買い物などにみな出ているのです。従業員たちの応対は丁寧で落ち着いており、客も通行人も、皆平静で目的に従って行動しているという感じで、この異常な事態を平静に受け止め、淡々と行動しているように見えます。苛立った声も、喧嘩も言い争いも見かけませんでした。黙々とした感じで雑踏が動いています。
よく政治家が使う常套句、「粛々と」がありますが、今日電車に乗り街を歩いた私の印象から言えば、民衆は今のところ粛々とこの事態に対応しているように見えました。
私は花粉症になったか、風邪かという感じで鼻がむずむずして気分もよくありませんが、『遠野』講座を聞き、大変大きく深い内容で私が理解できたかどうか危ぶまれますが、何やら勇気をもらい、帰ってきました。「人はどこからきて どこへ行くのか」というのがありますが、「日本人はどこからきて どこへ行くのか」の示唆のあるこの書を持つ私たち日本人は、誇りを持っていいような気がしました。みなさん、それぞれの立場で元気に生き抜き、これからいい世の中になるように努力しましょう。
今日は計画停電がなかったのでのんびりしていましたが、明日からまた始まります。直前になければ分からないので、この点スーパーなども開店するかしないかで困っているようです。ここも予定通りだと夕方から夜の時間帯になり、一番嫌な時間帯です。電気の有難さが分かりますけど。

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地震および原発事故

最近このブログへの投稿がほとんど見られないのは、未曾有の地震とそれによる被害の大きさ凄まじさに言葉もなくただ愕然、呆然、惨状の酷さ傷ましさにただ胸をいっぱいにするしかないからではないだろうか。私もそうであった。
またそれを身に受けた東北の被災者の人々の冷静沈着な、また勇気ある態度、その後運命を敢然と受け止め、過酷な中からでもなお立ち上がり、互いに助け合おうとするけなげで優しい心情、それらを支える厳しい風土によって培われた力強さや忍耐強さ、そういう姿に打たれながらもただ映像を眺めているしかないもどかしさを感じるばかりだった。
さらなる追い討ちが原発事故である。
津波はたとえ想定外の巨大さであったとしても天災である。しかし原発事故は正に人災なのだ。
原子爆弾を落とされた日本人の多くはこの建設に反対であったろう。私もそうである。それを自分の町や村に諸手をあげて建設したいなどという人は極めてまれなはず。しかし原発は絶対大丈夫だ、安全だという国の言葉を地元の人たちは信じてそれを作らせたのである。この結果がこれである。そしてそれによる電力の恩恵を私も受けている。
私自身を考えても最初は原発建設に反対だった。しかし特に反対運動をしたわけでもなく、旗も振らずデモにも参加してこなかった。次第になし崩しに原発は次々に建設されていった。あちこちから小さな事故や放射能漏れなどの情報が流れてきてはいたが、ただ黙っていただけである。
ところが、この事故が発生してからの政府の発表、会見が、何やら表面的ではっきりしない。何か隠していることがあるに違いない、実態はどうなのだ、とう気持ちが高まってきた。本当のことを知りたい、本当はどうなっているんだ、という気持ちに駆られ、遅ればせながら19日に週刊誌を買い集め、その記事を読み学習した。もちろんそこには誤報や偏りがあり、真偽のほども分からないオーバーなものもあるだろう。しかしガイガー計数機を持って潜り込んで取材した記事もあれば正しいかどうかは別にして学者、専門家の意見、これまでの資料も載っているので、その中から、パニックにならないようにと慎重な政府の公式発表より真実がつかめるのではないかと思ったからである。ツイッターでもいろいろな意見が飛び交っているという人もいたが、それはいま見たくなく、原子力資料室というのに確かな情報ありというのも知らせでそれも見ましたが、ここでは今どういう状態なのかということを端的に知りたいので、主としてその時発売の週刊誌によったものです。
それによるとその時すでに大変深刻な状態だということが当事者には、また外国でも分かっていたようです。やはり知らされないのは自国民なのだな… 。もちろん買占めや風評被害に見られるような事態を避けるためにも悲観論より、あくまでも楽観論で、その時が来るまで手綱を引き締めていなければならないのでしょうが。
チェルノブイリまでには至らないだろうけれど、スリーマイル島よりもひどくなりそうで、チェルノブイリにいかにして近づかないようにするかにかかっているようなのでした。そこで分かったことの肝心なことは、必死に水を注入して高温になるのを防いでいるけれどこれはあくまでも対症法で、外部から引き入れた電気が通じて電源が入り、これによって各号機のモータが作動、冷却水が循環するようになってやっと収束に向かうということでした。これはもう映像でも説明され誰も知っていることですが、通電しても冷却水が循環するようになるまでが大変だということ、いまそれに少しずつ近づいているようですが、早くそうなることを、ただただ祈るしかありません。
そしてそのわが身を挺して必死の努力をさせられるのは常に現場の人々、自衛隊員や消防士たち、その働きに頭が下がりますが、こういう事態にいたった大本はいったいどこにあるのだろうという思いになります。
私のうちのお向かいさんの次男は市の消防士だそうですが、今福島の現地に派遣されているそうです。被災地ですからもちろん手弁当、食糧・燃料をすべて積み込んだ車で、現地ではテント生活、あちらは雪も降る寒さで、大変らしいです。このように全国から派遣され協力もして懸命の放水努力などしているのですから、何とか冷却水循環が作動できるようになるよう、これも祈るしかありません。
いま、原発事故に関する政府の公式発表などテレビで見たくも聞きたくもない気持ちです。
とうとう浄水場が汚染されるまでになりました。
「乳幼児のミルクはこれを使わないように」と言われて、ボトルが店には売り切れであればいったいどうしたらいいのでしょう。急きょ都がボトルを配布するですって!
また「大人も使わないほうがいいけれど」「手に入らなければ、使ってもいいです」って?当たり前です。水を飲まなければ死んでしまいます。汚染されたものでも飲まざるを得ないではないですか!
「でもこの数値はこれを継続的に一年間飲み続ければ危険だというもので、一時的に飲むなら大丈夫」「この数値はレントゲンを一回とった時と同じ数値でしかありません」「航空機でニューヨークに往復してきたのと同じくらいです」とかいかにも科学的なことで当座を安心させようとしている手口に憤りを覚えます。そんなことではなくもっと根本的な事柄、これからどんな事態になっていくのか、その場合はどうしようと考えているのか、また我々はどういう覚悟が必要なのか、それを政府はどういう風に考えているのか、国民に向かって真剣に、真実を語り、対策を話してほしいのではないでしょうか。
でもそういう政府を作ったのは私たちであり、また原発を作らせ享受してきたのも私たち、その一員である私であるわけですから、自らの胸にも問いかけねばならぬことでしょう。
それはそうと、原発の寿命は何年だと思いますか? 30年だそうです。
「従来、原発の寿命は30年とされていましたが、福島第一は今年でちょうど40年になります。原発を40年以上も運転し続けた例は世界的に少ない。予想できないトラブルが起こる可能性が高まる。30年で廃炉すべきです」と語っているのは、NPO法人「原子力資料情報室」の西尾漠共同代表の言葉です。
またこれは資料を見て私が数えた全国各地にある(たいていは海岸)原子力発電所の原子炉の数は54基、今建設中が4基でした。でもこれは私が数えたのですから誤差があると思います。福島は6基ですね。
もうそろそろ終えることにします。
今日も計画停電があるはずでしたが、中止になりほっとしています。もしそれが実施されていたら、ちょうどこの時間が始まりのころなので慌てたところでした。昨日は夕方6時20分からと準備したのに行われず、中止かなと思っていたら突然7時に消灯。このようにこの辺は計画停電に振り回されていますが、津波と原発の二重苦に振り回されても黙って耐えている人たちを見ると、どんなに憤懣やるかたないだろうと思わないではいられません。この原発に寄りかかっている今の文明生活について、これからはじっくり考えていかねばならない時なのでしょう。
テレビに天皇陛下の姿が現れた時、なにか不思議な感覚が生じました。これは誰のすすめでもなく陛下ご自身の気持ちからだということが報じられていましたが、なぜか終戦時の放送が浮かびました。あらあらまた同じ光景?! 不謹慎かもしれませんけど。

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台峯の手入れ、初参加。

今日が台峯歩きの日です。その前日に毎回、理事をはじめボランティアの人々で道筋を中心にした手入れをします。でも性軟弱なわたしはこれまで1度も行ったことがありませんでした。自分の小さな庭でさえほったらかし、山仕事は大変だし、連日出ることは無理だとただ観察会にだけ出かけていました。今日里山を守るにはいかに地道な努力と作業が必要であるかを実感できましたので、こんな風に良い所どりだけしていたことにいつも内心忸怩たるものがありました。
そしてやっと昨日、ちょっとしたきっかけがあったのですが、やっと初めて出かけてみたのでした。こんな自分でも少しぐらいは役に立てるかな?と思いつつ…。でもやはり今日の観察会のほうは休みました。
山の手入れのほうが面白いですよ、と言っている人がいましたが、成程と思いました。
確かに作業なので疲れ方が違いますが(それぞれ出来ることしかやりませんし、短時間なので私でもつとめられました)、新しい風景、展開が見られ、楽しかったです。
観るだけでは分からないことが、体験で分かるといううこと、またこれまで舞台のほうしか知らなかったのに、楽屋がまた演劇ならば舞台づくりが垣間見られるということでしょうか。歩いていては分からないことを学習させられます。
朝10時20数人が集まり、作業の種類によって班に分かれ、いよいよ作業。わたしは荻原の刈り取りのグループに入りました。秋の終わりに一面銀色の海原のようになる荻原もただ自然に任せていたのではその美しさは保たれなかったのです。
ここで大切なことは、ただ刈るだけではないのです。刈り取った荻はそのまま肥料となるのですが、同時に笹竹(肥料にもならない)を退治することでした。放っておくと笹原になってしまうからです。笹は水分を沢山吸い上げます。すなわちこの地を乾燥させてしまうのです。荻は湿地帯にしか生えません。この台峯の谷戸は湿地帯であることが、それ故にカエルやホタルなどをはじめ生物の多様性が見られる生態系を維持できる地としてj貴重であるわけですから、荻原の存在は大切なのです。
鎌や剪定鋏などで荒刈りしたところに入って、私たちは小さな鋏を使って笹をなるべく根元近くまで、切り取るという仕事、その時膝をつくので、そのためのサポーターのようなものがあるのも知りました。(すべて用具は会または有志によって揃えられている)葉っぱがないと荻と笹の見分けがつきません。どちらも中空ですが、荻は中が赤っぽく、笹はそうではないなど、その見分け方もKさんから指南を受けます。こんなことも作業をして初めて知ることです。そして考えてみると、自分の家の庭の雑草とりも笹退治もやっていないのに、ここに来てせっせとやり、しかも結構楽しくやっている…とまったく可笑しくなりますね。でも作業はなかなか進みません。12時近くまでやっても身の回りの部分だけです。グループはここだけではなく、作業はまだ引き継がれて続くわけで、私などはほんの少し体験させてもらえたにすぎないのですが…。
とにかく一応今日の作業は終わりということで、老人の畑にみんな集合して、お茶とお菓子で労われ、解散ということになりました。
ということで、これからは少しこの楽屋の方に参加してみようと思います。

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東京コール・フリーデ定期演奏会に行く

会場は浜離宮の朝日ホール。友人Tさんが属ししている合唱団(指揮:伊佐地邦治)である。
開演は2時で、天気は晴れ、穏やかなので地下鉄に入ろうとしたときふっと思い立って、お堀端を少し歩いて行くことにしたのである。
休日のオフィス・官庁街は森閑としている。お堀端をランニングしている人もほとんど見られない。時々若いカップルやと高齢のご夫妻。細々と芽をふいた柳に縁取られた緑色のお堀にはカルガモや白鳥、あれはユリカモメだろうか、また頭と羽根の黒いのは何カモ?などと眺めながら、かなり強い陽射しの中を和田倉門から馬場先門を通り日比谷まで歩き、そこから地下鉄に乗った。実はもっと近いと思っていたのだが、かなり歩くことになってちょっと慌て、地下には行ってからは勘違いしてうろうろと間違え、遅れそうになり汗をかいた。
演目は
 *ルイジ・ケルビーニの「レクイエム・ハ短調」
  昨年はケルビーニ生誕250年だったそうで、これはフランス革命によって断頭台に消えたルイ16世の鎮魂のために弟のルイ18世の依頼によって作曲されたものという。ソリストによる独唱・重唱がなくすべ合唱。オーケストラもない。ピアノだけの伴奏ですべてが合唱。一年間これに打ち込んできたというだけあって、人の声によるハーモニーの美しい響きを堪能させられました。
休憩の次に
 *清水脩 作曲 芥川龍之介 原作 松平進 脚色・作詞
   合唱のための物語「鼻長き僧の話」
これは語り手(宮沢賢治の作品などを歌や寸劇などに脚色して演じる独特の活動をしている俳優ー斉藤禎範ーが賛助出演)が登場して物語の展開をする。 面白い趣向であった。
アンコールには シューベルトの「菩提樹」、「セレナーデ」、日本の歌曲「お江戸日本橋」、また「アベマリヤ」などの大サービス。合唱団の日々の蓄積のほどが窺われるものであった。ゆったりとした豊かな午後をありがとう。
  

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映画 『ノルウェイの森』を観に行く。

催し物などは、忙しかったりして出かけなくなると、いつの間にかさっぱり腰が上がらなくなるなるもので、映画もこのところご無沙汰だったが、Sさんから「良かったですよ、お勧めです」と知らせを受け、今週いっぱいで終るということから早速出かけた。これまで見たいと思い、いつかは観るつもりであったのだが。
ベトナムの新進映画監督トラン・アン・ユンの作品は、繊細で官能的な美しさをもつ映像表現は素晴らしく私自身も魅かれていて、これまでも『青いパパイヤの香り』、『夏至』は観ていた。しかし今回は自国のベトナムではなく日本が舞台である。なぜだろうという思いもあった。
だがこれまでも舞台はベトナムであるが、自身はベトナム戦争の際に一家は亡命してフランスに渡り、その後彼はパリで育ち暮らしているので、その感性は東洋のベトナムを土台にしながらフランス文化の影響、すなわち西欧的な明晰で繊細な感性知性で磨かれたものに違いないのである。
そういう彼が、どうしてこの作品に、そして日本での映画作りに心惹かれたのだろう。
映像化に際して、春樹(トラン監督の作品の美しさに魅了されていたとの事)も本人と直接会って了解したようで、また題名にもなっているビートルズの曲を使うことも了承を受けたようである。脚本も春樹は目を通していてメモをつけ注文もつけたようである。キャストのオーディションや撮影などはすべて日本、なぜなら「僕が魅了されたのは日本らしい文化や日本人らしい佇まいであったからです。」とトランは語っている。
驚いたのは最初のシーンである。原作は37歳になったワタナベがドイツ行きの機内で「ノルウエイの森」を耳にして18年前の、直子と恋に落ちた時のことを思い出すことから始まるのだが、ここではそれを思い出としてでなく、現実の事実として始めるのである。すなわち共通の友人であったキズキが何の前触れもなく自殺してしまう。(その行為の現場から始まるのには驚いた)。親友を失ったワタナベは、誰も知らないところへと東京の大学に行き生活するのだが、或る日直子と再会して交際が始まることから実際の物語は始まり、その時すでに直子はキズキの死により深い傷を負い精神を病んでいるという展開になっていく。
東京で偶然直子と再会したワタナベは、その後直子と付き合いながら学生寮での学生生活をし、ちょうど時は学園闘争(1970年代)の真っ只中での大学生活やアルバイトなど、社会情勢のなかの若者としての生活を送る。その暮らしを語りながら日本のその頃の懐かしい情景(大学のキャンパスや学食、レコード屋、アパートや昔の家など)や風景が再現されているにもかかわらず、どこか違った感触があるのはなぜだろう。森や草原や渓流や滝や蓮池や雪山や海原や岩礁など自然の風景、そしてそこに降り注ぐ雨や風や波などが、登場人物の心の動き綯い交ぜにしながら描かれるその映像の素晴らしさに魅了されながらもこの美しさは、いわゆる和的ではないなあ・・と思うのであった。
水の使い方(プール、雨、波、雪など)、風の効果(草原や海岸などで)の巧みさ、そして日本らしい佇まいが好きだという監督の、当時の暮らしの細部(家屋そのものと同時に調度品や台所用品また衣装なども)が再現させられているのに美しさと懐かしさを感じながら思ったのは、これは日本そのものと言うよりは、監督の感性を通した日本の美しさだなあ、と思い至ったのだった。
表現とは皆そういうものかもしれないが、そういう彼独特の感性で、切迫した感情と官能、そこでの荒々しさと繊細さを自然の中に溶け込ませながら青春期の若者たちの姿として描いている映画となっているように思えた。
この小説は、春樹の中ではほぼ全体がリアリズム的な作品である。それがいまや日本という国を越境して世界的なベストセラー作品となっているように、トランの映画も日本でありながら日本を越えたものになっているのではないかと思うのであった。
最後は原作通り(予想通りでもあった)ワタナベが公衆電話から緑に電話をかけるところで終る。
「あなた、今どこにいるの?」という緑に、ワタナベは「僕は今どこにいるのだ」と思う。そしてどこでもない場所の真ん中から緑を呼び続けるのである。
まさにこれは青春の物語である。青春期の悩み苦しみはどんな国の人々にも共通する。ふっと私はサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を思い出した。
 
ワタナベは松山ケンイチ、直子は菊池凛子、緑は水原希子、その他のキャストも監督自身がかかわっただけに、みな的確であるように感じた。

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寒中の台峯歩き

今日は大寒、暦通り冷え込んでいますが、相変わらず関東は晴れ続き、暮れから一滴も雨は無いようでカラカラ。湿度は30パーセント以下との事。
先の日曜日の台峯歩きも、同じようなお天気でした。
参加者も20数人いて、そのなかには小さな子どもも四人、小さいながらエネルギーの塊なので元気です。
冬枯れのこの季節、樹木の幹や枝ぶりの観察がメインになりますが、これはとても難しい。木の肌と枝ぶりと全体の樹形によるわけですが、似たようなものがあり、若い時と古いものとは又違ってくるので、なかなか識別できません。
葉も花もない落葉樹の姿は、それらをまとった時とは違った、樹木の本質のようなものを表しているのかもしれません。幹の肌色や地模様や割れ目、枝の伸ばし方や張り具合、配られたコピー資料をみて眺めると、それぞれ特徴があり違います。人間の裸体の美しさに似た裸樹の美しさを感じさせられます。
でもこれは大変難しいです。今月はこの地に多いカラスザンショウ、ミズキ、ハゼの木、ネムノキ、アカメガシワ、ヤマグワ(これは大木になるのですね)など。クヌギ、コナラ、イヌシデ、ケヤキ、エノキ、ムクノキなどは、去年の観察会でやりましたが、もうすっかり忘れています。でも忘れる事は、常にその度に学ぶことへの新鮮な驚き、納得をするということで、案外楽しみのためにはいいのかもしれないなどと慰めています。
この時期、野鳥の姿もよく見えるので、観察時です。台峯のカレンダーで一月の鳥として選ばれているアオジの群れが第二の田んぼで見られました。同じように近くにスズメのグループもいて、お互い喧嘩をすることもなく、日向ぼっこをしていました。あとはヒヨドリやシジュウカラ、今回は子どもたちもいて少しばかり賑やかだったので、鳥たちもあまり姿を見せませんでしたが、少人数で静かに留まっていると、鳥たちが近くにやってくるとの事。
出口のオギ原はもう黄色く冬枯れでいましたが、それはそれなりに美しい色合いを見せていました。

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T温泉行き・つづき(蟹を折る話)

今朝はここも氷が張りました。
すっきりと伸びた水仙が、清らかな眸のような花を咲かせています。
梅はもう咲いているところもありますが、わが家の蕾はまだ固いです。
今年は蟹を折ってみようと思っているとき、原利代子さんの詩集『ラッキーガール』に出合って面白く思いました。原さんも旅先で折り方を習いながら蟹を折ったようで、四川省 松藩県の黄龍という名勝地を訪れたときのことです。今年の年賀状もアメリカコロラドの国立公園のアナザシ族住居跡という不思議な土地の写真でしたし、あちこち珍しい地を旅行されるようです。
題は、「黄龍の蟹」
時々 蟹を折る
正方形の紙一枚で蟹を折る
四川省 松藩県の黄龍へ登ったときのことだった
O博士が蟹を折ろうと言い出した
天までも届く無数の石灰棚から流れ落ちる水はあまりにも美しかった
博士は水の中に蟹を見たのだったろうか
 
ホテルに戻るとロビーでにわかの折り紙教室が開かれた
クロレラ研究の第一人者O博士の折り紙教室だ
ホテル備え付の質の悪い便箋を折り紙にし
博士は太った身体を丸め一気に蟹を折っていく
丸っこい指が器用に動き
二本の爪足と八本の足を具現していくのだ
 (中略)
 
(そして原さんをはじめグループの人たちは皆熱心な生徒となって一緒に折っていったのである。「蟹はまことに複雑な題材であった」と書いているように、初心者には難しい部類に入る。
一枚の紙であらゆる立体的なものを折りあげる日本の折り紙の精巧で複雑な技法は、芸術品とまでいえるくらいで目を見張りますが、それは到底かなわぬもの、初心者でも折れるくらいのものを習得するのがやっとですが、そこでも蟹はやはり難しいもののようです。原さんたちも、帰りの飛行機まで持ち越した人もあったようだが、原さんは無事習得されたようである。そして)
今でも ときどきあふれるように蟹を折りたくなるときがある
出来上がった蟹はボールペンで目玉を入れられテーブルの上に鎮座する
しばらくは ガニガニと足を広げそこに居るのだが
いつも いつの間にか居なくなってしまう
蟹は戻っていくのだろう
わたしの脳髄の奥深く
黄龍の石灰棚の清らかな水が流れ続けているところ
「蟹の折り方」というマニュアルのあるところへ
きっと戻っていくのだ          
まぼろしの蟹よ
 
                        『ラッキーガール』より
音もなく降り積もっていく雪の温泉宿、清らかな水が流れていく渓流の音を聞きながら折った私の蟹、少々ギクシャクしているのも表情があっていいといわれたその濃い緑の蟹はまだ棚の上に居ます。もう一度折るにはまたテキストを見ながらしか出来ないかもしれないが、その行為はまた雪国の清流へと遡っていく、私のまぼろしの蟹をつくることかもしれない。

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T温泉行き 26年目になりました。

お正月も七草となりましたが、明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
恒例の温泉行き、日本海側は大雪という情報で交通機関など心配していましたが、不思議にも豪雪地帯であるあちらは、むしろ雪は少なめでした。その代わり山陰や会津、また九州などの方が大変だったようですね。所にもよるのでしょうが、ちょっとした気象図や地形によって変るもののようです。とにかく今年はまだ一度も雪下ろしをしなかったと言ってましたし、2日は青空も覗いたりしました。雪が楽しみな私たちとしてはちょっと残念なくらいでしたが…。いつものことですが、大雪ではないと言っても一面の雪景色であるかの地から、トンネルを抜けるや太陽いっぱいのカラカラ天気であるこの地に帰ってくると、まさに夢の世界から帰ってきたような感覚になってしまい、しっとりとして雪と闘い、楽しんで暮らしているかの地が懐かしくなります。
でもこの七草の日、東京は初氷とか、あちらもその後雪が降り続いています。きっとこれからが雪も寒さも本番となることでしょう。
さてそのT温泉行きですが、はじめは10人を越える参加であったのに、間近になって体調を崩したりインフルになったりして結局6人というこれまでとしては一番少なくなってしまいました。子どもの頃や中学生時代に参加したことがあり、その後結婚して共働きでなかなか休暇が取れず、やっと互いに休暇が取れて楽しみにしていたカップルや双子の一家など、若いメンバーで賑やかになるところだったのに、いつもより静かで淋しいお正月となりました。
お料理は例年のように鴨鍋を初めとして岩魚を揚げたものを味噌仕立てにした鍋、自在鍋(いか、ホタテなどの海産鍋)を、また炭火で焼いた骨までぱりぱりの岩魚や鮎、刺身も虹鱒や紅鮭や手作りのコンニャクなど、そして天ぷらや酢の物、和え物なども地元の山菜やキノコを上手に調理したもので、味も姿も、そして器もだんだん洗練されてきてヘルシーで美味しくなり、元日に出るワッパに詰められたおせち料理は、いつものようにお昼用として部屋に持ち帰ることになります。元旦はお雑煮とアンコロ餅、お屠蘇としての日本酒をお銚子一本、これらで今年のお正月も満足です。
2日に行われる餅つきも例年通りに2臼、ご主人も杵を持ちます。これも前に書きましたので省略しますが、この餅つきの最中に到着する若いお客も今年は多いようで、この日に行われる古い古い常連さんたちの新年会のメンバーが(多分)しだいに減っていると思われるなかで、世代の交代もじわじわと行われていると思わずにいられません。26年目にもなった私たちのグループがそうである様に…(いつまで続くか実のところ分かりませんが)。
温泉での日々ですが、これも前にお話したとおりこのラジウム温泉の主浴場は人肌程度のぬる湯なので1時間でも2時間でも入っていられるので、日に何度も入ることになり、それでたいていは湯に浸かるか、それぞれ本を読むか、疲れて敷きっ放しの布団で寝るかですが、今回は昔取り寄せて少しやったもののそのままにしていた折り紙講座のテキストと折り紙を持っていき、それで蟹を折ることに挑戦しました。講座の基礎編で最後のほうにある蟹、つれづれに任せてその折方を習得しようと思ったのでした。ところが私よりもKさんが興味を示し、それにはまりこみ、全くの初心者なのにテキストをひっくり返しながら苦心惨憺、大晦日から元旦午前2時過ぎまで挑戦して、とうとう折り上げてしまいました。(どちらかといえば理科系に強い彼女は、集中力もまた人並み以上)。
それで元旦は、彼女を先導者としながら私を含めた何人かで蟹を折ることに挑戦、大小あわせて6匹の蟹が仕上がりは様々ながら何とか勢ぞろいしたという訳です。
これまで放置していた蟹を折るということを今年は温泉地でやろうと思っていたその時に、頂戴した原利代子さんの詩集『ラッキーガール』の中の一篇に蟹を折る話が出てきたのには驚きました。実はそのことを書こうと思ったのですが、あまりに長くなるので、その詩の紹介などは次回に回します。

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台峯の「ゲゲゲ…」は・・・

いまこの辺りは最後の紅葉(黄葉)です。
わが家でも遅かったドウダンやモミジが、蜜柑色、紅色の混じった葉をまだ散り残し、陽射しをあびて秋の終わりを彩っています。
昨日、朝はかなり冷え込みましたが、穏やかな晴れ。台峯歩きの日でした。
本格的な開園に向けてあと5年、今の所うまく行っているそうです。幾つかの団体、またいろいろな人が関わっていますが、意見が違うこともあってもそれぞれ出し合い話し合って、できるだけ今の自然を壊さないように、いい形で残そうという共通の目的に向って、役所と協力して保存の努力整備をしているとのことでした。
今日は20人ほどの参加者の中にまだ学齢期に満たない女の子が3人いました。とても元気で、大人たちの間を潜り抜けたりしながら、遅れずに最後まで歩き通しました。初参加の家族でしたから、なるべく先導者のKさん近くにいて、迷子にならないように、この谷戸には幽霊が出るかもしれないからと言うと、「ゲゲゲ」の影響でしょうかそんな妖怪にあって見たいなどと朗らかです。
実際そういう話は、この谷戸にもあるそうです。ここはまだ外れですが中心部はなおさら、この地は鎌倉時代から戦国時代にかけて歴史的に多くの合戦があり血塗られた地域です。多くの谷戸は尾根で戦った負傷者や死者が転げ落ちていく先でもあります。霊が漂っていても不思議ではありません。だからここに入るときは、ちゃんと手を合わせて礼をし、許しを請うて入り、出るときは無事に出られてありがとうと手をあわせてというのが、このグループの基本的な姿勢です。
そういう現象が起こるところを、忌み地というそうで、ひそかに人伝えに語られるようです。大体において高級住宅地に多いとか、たとえば鎌倉芸術館などもその一つで、バラ園のあるほうはいいのですが、裏手の物陰などは霊気が感じられるそうです。
話が陰気になりましたので話を変えます。この辺りで、今紅葉しているのは、先に述べたモミジ(山モミジで、イロハモミジが多い)、次に黄褐色のコナラです。それらが緑葉樹の濃緑にまじって落ち着いた山並みを見せています。田んぼはもう刈り取られた姿ですが、水が残っているのでまた青い稲が生えてきているのでした。
今日は落ち葉の観察でした。それぞれ何の葉かというのですが、見分け方はとても難しく、そのポイントを教わります。形だけでなく葉の筋(葉脈)、葉のギザギザ(鋸歯)、葉脈ののつき方などで判別しますが、似たようでいてもそれぞれに違った形をしていて、自然の微妙さ、巧妙さに驚くばかりです。堆肥にいいのはケヤキとコナラで、肉厚のものがいい葉で、イヌシデなどうすくてペラペラなものは良い堆肥にならない。武蔵野のケヤキ林も、あれは幕府が植林させたもので、それ故にいい畑地が生まれたのだそう。
葉を落とした林に集まる野鳥たちの姿がよく見える時期でもあり、シジュウカラ、ヤマガラ、メジロ、アオジなど、でも私はそれらを見つけるのは下手で、追いかけるのもダメ、野鳥の会の会員には向いてません。しかしこの日、この辺では珍しいルリビタキがいると、Kさんの三脚のついた大きな望遠鏡を覗かせてもらって見たことだけでも十分満足しました。
ハンゲショウの自生する湿地の先のほうの湿地で、ツリフネソウの枯れたのがすっかり刈り取られていたのが目立ちましたが、どうやらその周りにある芹を採りにくる人が、芹を増やそうとしての行為であるらしい。例年ごっそり摘んでいく人あるらしく、商品にしているらしい。自分の土地でもなく、また自家のためだけではないその行為に、ただ憤慨するしかないのですが。
道の傍にみられる小さな赤い実は、ヒヨドリジョウゴ、ハダカホオズキなど面白い名前。私のうちでも今、ヤブコウジやマンリョウ、南天の赤い実があります。
小さい身体で歩きにくい山道を無事に歩き終えた3人の女の子たち、最後のアスファルトで一番末が転んでしまいました。でも泣きませんでした。めでたしめでたし。
これで今年の台峯歩きはおわり、私のブログも書き納めです。では皆様良いお年を!

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インド音楽 シタール演奏を聴く

ちょうど2年前のこの時期、ブログにも一度書いたことがあるこのインド音楽の演奏会に、今年も昨日聴きに出かけた。
シタール演奏は、ヨーガ教室の堀之内博子先生の夫君、幸二先生である。
三味線とギターを合わせたようなシタールという楽器は、インドの代表的な弦楽器で13世紀ごろ古来からのものを改良して作ったのが始まりという、北インド音楽で使われる楽器である。本胴と共鳴胴は乾燥したトウガンから作られ、長いネック(三味線の棹に当るか)は特殊な木材。当初は3本弦であったが、後に7本になり、現在では18~20本の弦を持つ洗練されたものになったとのことだが、そのうち18~20本が共鳴弦ということからも分かるように弾き方はギターのようだが、旋律が共鳴して深く広がりのある音色をひびかせるようだ。1オクターブが22の微分音に分けられるというのもよく分かる。複雑微妙な自然の音色に近いのかもしれない。
シタールのほか、前回と同様タブラというインドの太鼓、演奏も前と同じ龍聡さん。今回は、タンブーラ(今野敬次)というシタールを一回り小さくしたような楽器が加わりこれは低音部をずっと奏で続ける。
前回も書いたが、旋律も時間帯に沿ったものになるというのも、音楽があくまでも自然の中にあるということを意味する。今日は夜のラーガから始まった。会場は真っ暗になり、演奏者の前に置かれた、小さな蓮の花の中に蝋燭を灯したような小さな照明だけで演奏される。少し聴き慣れたせいかもしれないが、同じようでありながら微妙に変化している旋律は、懐かしい瞑想的な世界に引き込まれる感じがした。
休憩(この間、マンダリン紅茶とクッキーが饗された)を挟んでの第2部の最初は、日本の歌、赤トンボや五木の子守唄などが演奏される。
シタールは三味線のルーツとされるというように、日本の古い旋律と同様5音階であることから、そういう日本人の心に響き懐かしく感じられる民謡と共通するところがあるようだ。沖縄の島歌もそうであり、結局そういうものすべては通じ合うのかもしれない。タブラの繰りかえされる響き、それは16音符であり、シタールもそのリズムに乗って奏でられる。両者が合わなくなると迷子になってしまうそうである。微妙なタイミングのタブラのリズムは、何となく日蓮宗徒が叩くウチワ太鼓の テンツク テンテン ツクツク というリズムにも通じてくるような気がした。
最後は朝のラーガという曲で終ったが、1時間半というのは短く、もう少し聴いていたかったと思う。林間で静かに目をつぶって瞑想しているような気分にひと時を過ごして、早くも年末商戦で賑わう横浜の雑踏を抜けて帰ってきたのだった。

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