「中村勘太郎・七之助 錦秋特別公演」を観る

近くの芸術館に、歌舞伎の公演があったので行く。今年その襲名披露で話題になった十八代目中村勘三郎の長男と次男。初めて兄弟による、しかも父親抜きでの共演だというが、今朝初めて蕾が開いたバラという感じの若々しさと艶やかさがあって,愉しかった。実は行く前はあまり期待していなかったのだが・・(といっても歌舞伎が詳しいわけではなく、何となく素人の感覚で)。やはり伝統の強さかなー。とにかく彼らは歌舞伎界のサラブレッドなのだから。『花伝書』に言う「時分の花」だなー。
演目は「蝶の道行」と次に芸談(アナウンサーによるインタビュー)、休憩が入り「妹背山婦女庭訓」と「団子売」。すべて台詞のない歌舞伎舞踊である。といっても、もともとは文楽の物言わぬ人形が演じる演題だから、義太夫が台詞を語る、お芝居ということになる。
すべて恋を主題にしたものを選んだそうで、最初は主君のために犠牲になった若い二人が死後蝶となって冥途への道行きをする、哀れにも美しく幻想的な踊り。三度の早変わり、舞台装置の転換などもあわせ見事で(初めて演じるという)、観客を先ず惹きつけた。
「妹背山・・」は、一人の男をめぐる二人の女の恋。内容は三輪山伝説やら大化の改新やらをまぜこぜにした妙な話だが、そんなことはどうでもよいのである。ただ好い男とそれをめぐる美女二人、お姫様と町娘の、上品な美しさと蓮っ葉な色気などの対比を見せようというもの。
「団子売」は、これまで演じられて定評となっているそうだが、なるほど軽快で楽しく面白く、「蝶の・・」のような大掛かりで派手ではない、細やかな見せ場があって楽しかった。これは屋台を持ち運んで売る団子売りの夫婦の話で、臼と杵で餅をつき、その餅をこねたり投げたりする所作、また最後は浮かれてお多福とヒョットコのお面をかぶって踊りだす。長年連れ添った夫婦の呼吸や機微が感じられ、和やかで親密な雰囲気が漂ってくる。この中にはマツケン・サンバも取り入れている、どこにあるか気をつけていてください、とインタビューで言っていたが、すっかり忘れていた。さてどこにあっただろう?
「蝶・・」と「団子売」は兄弟二人が、互いに男女を交替して演じていたが、それぞれになかなか色っぽく、
ヨンさまもいいけれど、日本の歌舞伎界にも魅力的な若者が次々に出てきたなあ、と思ったのであった。
帰りに空を見上げると、ちょうど満月で、冬を思わせる寒さの秋空にくっきりと中天にあった。
私は小学校に入る前から中学1年まで、祖母の趣味で日舞を習わされていた。舞台にも何度か立ったことがある。最後の舞台は「大原女」で、これはお多福の面をかぶった大原女の姿で前半を踊り、早変わりして今度は奴となり男になる、かなり難しい踊りだが、奴姿で纏を持って花道に走って見得を切る、その瞬間に拍手喝采、やはり気分の良いものである。遠い遠い昔のことである。

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「詩と音楽」シリーズ最終回(4回目)に行く

小春日になった12日、県民ホールにいく。このシリーズは水野さんに教えられて、2回目から行くようになった。最初の馬頭琴は、幸いにも近くのホールに別の企画でだが聴くことができて、無念が晴らせた。
「シェイクスピアからワールドランゲージ」ということで、作品の朗読や歌、古楽器演奏、仮面舞踏会風な古い衣装でのダンスなど、王宮にでも招かれたような雰囲気を味わいながら愉しんだ。
演奏家や歌い手、踊り手は皆日本人だが、中に一人すらりとした英国人がいて、朗読と解説をしたが、彼がピーター・バラカン氏であることが帰ってプログラムを読んで知った。
ラジオFMではたいていクラシックを聴いているが、土曜の朝7:20からは、各国の現代の音楽、ロックなどが流れてきて、何となく聞いていたのだが、その担当者が彼であった。あまりに自然な日本語なので、日本人とばかり思っていたのに、名前がどうもそうではなくいつも不思議に思っていたのである。コメントもちょっと耳をそばだたせるものを持っていた。その本人を、目の前に見てきたのである。
ところがその日の新聞の別刷りBeに、当人のコラム記事が写真入で載っていたのを発見。声のみと本人自身と写真・記事との三つが一日のうちに偶然重なった、不思議な日であった。
そこへ行く前に、近代文学館にも行って、「日本の童謡」展も観てきた。これについても書こうと思ったが、これはまた別の機会にする。

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チェ・ヨンミ(崔泳美)『三十、宴は終わった』を読んで

解説を書いた佐川亜紀さんからこの詩集が送られてきたので読みました。
題からでも分るように、30代のこの女性の詩集は百万部も売れてベストセラーになっているのだそうです。日本では考えられないことです。韓国での詩の位置が日本とは大きく違うことは、よく言われることですが、実際私も一度だけソウルに行った時に大きな本屋に行き、その様を実感しました。
大胆に性を描いたことでも話題を呼んだということは、いまだ儒教精神の根強い韓国だからで、日本ではとっくに開放され、そういう詩人も何人かいるわけですが、それだけでなく、若い感性と肉体を通した心情の新鮮さ、またしっかりした批判精神もあって、魅力的です。
民主化運動のための学生運動の挫折や、失恋などが背景にあるようですが、都会に暮らす若い女性の心をつかむものが確かにあり、多くの読者を得ただろうということも分ります。
「ああ、コンピュータとセックスができさえすれば!」(Personal Computer)というフレーズなどは,「私はお釈迦様に恋をしました」(お釈迦様)と書いた林芙美子を思わせますが、彼女のように元気溌剌とした上昇志向ではなく、暮らしに追われる人々に中に身を添わせるところがあります。
「詩」という題の詩は「私は私の詩から/お金の匂いがしたらいい」に始まり、「評論家一人、虜にできなくても/年老いた酌婦の目頭を、温かく濡らす詩/転がり転がり、偶然あなたの足の先にぶつかれば/ちゃりん!と時々音をたてて泣くことのできる//私は私の詩が/コインのように磨り減りつつ、長持ちしたらいい」で終わります。
イタリアの詩人ウンベルト・サバの「石と霧のあいだで/休日を愉しむ、大聖堂の/広場に憩う、星の/かわりに/夜ごと、ことばに灯がともる//人生ほど、/生きる疲れを癒してくれるものは、ない。」(ミラノ)[須賀敦子訳]というのに近い感じがします。
とにかくこの、詩に対する彼我の違いはなぜだろう・・・といつも思います。国情の違い、民族文化の違いでしょうが、これを読みつつ思うことがありました。韓国には両班(やんばん)の制度がありました。これは中国の科挙制につながるもので、高等文官試験のような役人の登用試験で、男子一生の仕事として、これに合格することが出世する第一の道です。もちろんこれにははじめ文と武があり、実践的なこともあったでしょが、何しろ試験ですから、教養の度合いや詩文の暗記、作成、そのような瑣末なことに精力が注がれることになります。韓国では李朝、その支配階級だけが科挙を受験でき、それが両班、すなわち特権階級であった文官です。ベトナムも詩の国と言います。韓国と良く似ていますが、そこも科挙制が最後の王朝阮朝まで続いています。
振りかえって日本を見ますと、科挙制は採用されませんでした。宦官制度もなかったように。日本は文化的には京に天皇という文化の拠点は残しながら、実権は江戸の将軍であり、これは武であり、サムライであり、軍事政府です。
中国でも韓国でも、またベトナムでもトップに立つ人間は、文章家であり、詩人であることが多いのはそのためではないでしょうか。日本で付け焼刃的に和歌を詠んだり、古典を引用したりするのとは、土台が違うような気がします。
(断っておきますが、私は歴史については疎い人間です。これはまったく知らないことの恐ろしさで、勝手なことを類推しているにすぎません。)
こう考えると、日本はずっと武の国であったのだなあ、と思います。だから黒船がやってきた時、うまく立ち回れたのかも知れないし、それに比べて大国である中国がめちゃめちゃに侵略されたのは文の国でありつづけたからかもしれない。
そう考えると、今しきりに刺客などを放って、巧みな戦略で獅子吼をする人物が人気を集めるのも、むべなるかな、と思わずにはいられません。
詩人が韓国のように、多くの人々に浸透できるようになるのは至難の業かも・・・と思ったりしています。

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立冬の鶯

7日の昨日は暦の上では立冬だが、気温が高く9月下旬の陽気になった。
この時期、朝夕の寒暖の差が大きいのは例年の通りだが、やはりその揺れがいっそうひどくなったような気がする。
これは昨日の話しである。
前の日、やはり日中暖かかったが、寒気が入ったのか夜になって雨が降った。そして7日の昨日、庭に出ると鶯の、舌打ちをするような笹鳴きが聞こえると思っていると、鶯の声が聞こえた。二声、短いとっさの鳴き声であったが確かに聴いた。実は少し前のことだが、やはり鶯の声を聞いたのであった。こんな季節になって、しかもこんな間近に鶯がいるなんて!と嬉しさよりも不安を感じた。とっくに里から山に帰っているはずであった。帰りそびれたのか、お山の縄張りからはじき出されてしまったのか。愛しくなって、しきりにその姿を探したが、もちろん見つけることは出来なかった。
不等辺三角形の狭い庭であるが、大きな石があって、その上に鳥の水場を作っている。餌は、この辺では害獣にされてしまったリスを寄せることになるので、出していない。鳥たちが水浴びに来るのを見ているだけでも飽きずに一日が経ってしまう。そんなわけには行かないので、毎朝水がほとんどなくなっているのを見て、多く想像するのである。シジュカラ、メジロがやってくる。
この日もお天気が良く、予報も太陽印だけだったのに、午後から急に雲が湧き出てにわか雨が降った。そんな雨の庭を眺めていると、ドウダンの垣根に3羽のシジュウカラがいた。雨宿りしているのかしら・・・と見ていると、どうも水場を目指している様子、雨が降っているのになぜ? 天然のシャワーである雨が降っているのにと思っていると、本当に一羽が水をたたえた鉢のそばにやってきて、身を浸したのである。羽をぶるぶると羽ばたかせて、気持ちよさそうに水浴びをした。
日本人がシャワーだけでは満足せず、湯船にたっぷりと浸りたいように、鳥もそういう気持ちになるのかしらと、微笑みながらそれを眺めていたのだった。
8日の今日、鶯は鳴かなかった。お山にちゃんと帰ったのだろうか。

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歴史について(1)

このところ秋晴れのお天気が続きます。「書物など捨てて巷へ出よう」と寺山修司は言いましたけれど、パソコンなど閉じて紅葉の林を散策しようと叫びたくなります。でもまだこのあたりは少しだけ色づいた感じでしかありません。
歴史について、続けます。小森さんの講座に出ていて感じたことは、いかに私が近代から現代にかけての歴史を知らないかということです。点としての事実は多少知っています。でも日清戦争がなぜ起きたか、またその結果は?というようなこと。そのとき莫大な賠償金をせしめたために一種のバブル景気になったことや、その後の日露戦争の時、大国ロシアに勝てるはずはないのに、各国の外交上の思惑もあって、辛うじて勝利を収め、賠償金などは望めべくもなかったのに(負けないだけ運がよかった)、前回のことで味を占めたせいもあって国民は承知せず(もちろん犠牲が大きかったので)、暴動まで起こったことなど、ちゃんとした因果関係としてはほとんど何も知らなかったのです。
もちろん私の不勉強、無知のせいでもあります。しかし考えてみると、高等学校までの学校教育における正規の歴史の時間にそんなことをちゃんと習っただろうかと、振り返ってみて思うのです。私たちの年代はまだ予備校などはなく、受験競争が始まろうとした頃ですが、歴史の時間は近代史になると時間が足らず、ほとんど打ち切りになってしまっていました。
歴史の時間は大体太古から始まります。それはロマンの世界です。確かに面白いにちがいないのですが、今と関わりのある歴史は、少し前の現代、近代です。それはもう歴史になっており、それは客観的な物となり、文献でも正疑が確かめられるものです。それを知らないで、今では存在しなくなった武将たちの国取り合戦や、弓矢や騎馬による合戦の模様や作戦を推理と架空をまじえてあれこれしたとしても、経営者の人生訓として少しは役に立つとしても、現実の政治や外交を考える上で、ほとんど役に立ちません。それは物語にすぎず、歴史ではないのです。
学校教育でちゃんとした歴史認識を育てるためには、歴史を現代からはじめ、近代、近世、中世・・・へと遡っていくのはどうだろうと思ったりします。そうすれば、今の政治のあり方も、また外交や憲法問題も、それぞれが考える下地が出来てくるのではないでしょうか。私自身を考えてそう思いました。
それがないから、日本人に神話を与えようとする、ロマンに満ちた歴史教科書が登場してくるのだと思います。

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「嘔吐」を思い出す

今このブログに向かっているが、あまり良い気分ではない。16歳の少女がタリウムという毒薬を使って母親を毒殺しようとしたらしく、しかもその経過や写真までブログに出していたという報道に接したからである。おぞましいというか、いやな気分というか、生じた気持ちを表現しようがない。ブログを書く気持ちにもなれなかった。ブログそのものを閉めてしまおうかと思う気持ちにもなった。
そのうちこの「嘔吐」を思い出した。サルトルの実存主義を言う時によく持ち出される有名な作品である。うろ覚えであるが、図書館の本を順番にすべて読んでしまったというような男が(これは記憶違いかもしれない)、なんとも表現しがたい木の根っこを見たとき、嘔吐しそうになる。名づけようもない、奇怪で、混沌とした状態に耐えられなくなるからである。神は死に、ブルジョア的秩序も破られた時、そこに出現するもの、それが実存だという風に理解したりしたものだったが、西洋人でもなくまたキリスト教の信仰もない私にとっては、ただ言葉上の理解に過ぎなかったと思う。
もしかしてこういう感情、不愉快さかもしれないなと思った。同級生をナイフで殺害した少女も、パソコン上で自尊心を傷つけられたのが動機だという。今子どもたちの犯罪は多かれ少なかれパソコンが絡んでいる。
そういう犯罪に限らず、ここ数年世の中の経済という実業の世界をはじめとして世の中が大きく変わっている。教育、政治の世界までもそれによって変貌しているのではないだろうか。通信システムの変化にとどまらず、それらが世の中を根元から変えつつあり、産業革命が世界を大きく変えたように、いやそれ以上の見えない力でもって変えつつあるのではないだろうか。だからこの嫌悪感、嘔吐感は少女やブログに対するというより、自分には理解できない、得体の知れない事柄が生じているのではないかという思いに対したものではないかーと、言葉を使って、気取って言えばそういうことになる。でも確かにこのニュースは私に、ブログに対するおぞましさを感じさせたということだけは事実である。

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歴史について(はじめに)

何年か前から月一回、朝日カルチャーの「漱石を読みなおす」を受講している。講師は小森陽一氏。
誘われて行ったのだが、面白くなってずるずると今に続いている。博覧強記で、氏の頭脳の襞には政治から文学に至るまでの年表がびっしりと書き込まれている感じで、それを縦横に使っての独自な展開、文学の枠にとどまらない新しい視点からの読み解きは、いつも眼から鱗の思いをさせられる。それが面白く、また刺激的でもあるのでついつい跡をひいてしまっている。
漱石は明治元年の前年、慶応3年に生まれた。またロンドンに留学したのは1900年、ちょうど20世紀が始まろうとしていた年である。日本はもちろんだが、世界(といってもいわゆるヨーロッパだが)も大きな転換期を迎えていた。近代化の途ではまだほやほやの赤ん坊の日本から、没落期とはいえ産業革命の中心地、大英帝国のど真ん中に、国家の使命を帯びて投げ込まれた漱石が、どんなに大きなカルチャーショックを受けたかと考えると、神経衰弱になるのも無理はない。深く感じ、深く考える人であるからなおさらである。
だがその落差が大きいだけに、そして漱石がすぐれた感性と知性を持っていただけに、近代化の過程と行く末を、その時点ですでに見通していたことが、小説を読んでいくうちに分ってきた。やはり漱石は偉大な文学者である。文豪といっていい人だろう。(もちろんこれは私の独自の見解ではないのだけれど)。
というのもその時代に漱石が感じ、考え、憂慮した事柄が決して古びていない、というより今こそそれが展開している、ということが分るからである。漱石が感じていた不安や危惧、それがいま具体的に姿を現してきたような気さえする。その時から100年が経って21世紀を迎えた。今年は戦後60年ということでその推移や変貌の検証を、マスコミはしばしば取り上げている。これは私が生きてきた時代と、ほぼ重なる。自分の生きてきた道のりと同時に、生まれ育った国についてもやはり考えてしまう。
こういうことを書くつもりではなかったのに、ついこうなってしまった。それでこれを「はじめに」ということにし、次に書こうと思っていたことを書くことにします。

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コンサートに行く

伊佐地那冶 合唱指導40周年記念コンサート(大田区民ホール アプリコ大ホール)を聴きに行く。氏が指揮・指導している合唱団東京コール・フリーデに友人のTさんが所属しているからである。Tさんは都の職員で図書館勤務、ベテランであるが、仕事が終わった後、宗教曲をメインにしているこの合唱団で練習を重ねること数年、だんだん深みに入っていくようである。今回はそこだけでなく、皆で六つのグループの150人以上、プロのソリストも加えた大合唱であった。
演目は、ベートーベンの「ミサ ハ長調」作品86番とモーツアルトの「レクイエム ニ短調」K626という、記念コンサートにふさわしい二大宗教曲であった(オーケストラは東京ユニヴァーサルフイル管弦楽団)。
ベートーベンのは、いかにも彼らしい堂々とした曲であるが、心が引き絞られるように出だしから感じられたのはモーツアルトの方である。映画「アマデウス」の影響で、天才の彼がそくそくと迫る自分自身の死期を感じて書いたと思うからかもしれない。事実はそうではなく、また最後の方は後の人が書いて完成させたらしいけれど、やはり予感というのはあったにちがいない。
氏の経歴を見るとプロの合唱団を率いているが、職場や地域や学校などの多くの合唱団の指揮と指導を手がけてきた人のようだ。Tさんの合唱団には、80歳をすぎた高齢者で、それ程ではない年金暮らしの中で他の支出は極力切り詰めて、合唱活動にだけ全力を注いでいる女性がいるといい、その気迫に感心させられると同時に励まされるという。 
キリスト教の神髄である宗教曲を日本人が歌い、それに感動するということについて、いまや西洋音楽の名手に東洋人も多く出現していると同様、文化はすでに国境を越え、宗教を超えているのだと思った。
そして、仕事を持つ傍らそれらに熱中したり、またそれを鑑賞したりできるのも、それだけ音楽の裾野が広がっていることであり(私もまたその裾野にいる一人であるが)、そのような事柄にも貢献した伊佐地氏の40年でもあろうと思った。
また、終演後に何人かで店に入り語りあいながら、こういう美味しいものを食べたり飲んだり、音楽を楽しんだりできるのも、日本が豊かで平和であるからだと言い、でももしかしてこれがたちまち幻となってしまうのではないかという恐れを特に最近は感じると言ったのは、私を含めた戦争や欠乏を知っている世代だった。
このブログにコメントが出来なくなっているといわれました。どうしてなのか分りません。何とかしたいと思っているのですが・・・

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『かはたれ』朽木祥作(福音館書店刊)を読む

朽木さんは、近所に住むファンタジー作家で、これが第一作です。頂戴して読みましたが、自然や人に対する細やかな感受性があって、詩情も豊かで快い空気に包まれる感じがしましたので紹介します。
このファンタジーは、−散在ガ池の河童猫ーという副題が付いているように、河童族の大騒動の中で一人ぽっちになってしまった子河童が、子猫に姿を変えて人の世界に紛れ込み、同じように母を無くして父親とラプラドール犬と暮らしている女の子とひと夏をすごす、出会いと別れの物語です。その中で女の子はその悲しみを自分で少しずつ乗り越え、また子河童(猫)も長老の教えを時々思い出しながら(霊力が衰えて時々河童の姿に戻ったり・・)人間世界での修行を積んで成長していきます。
「かはたれ」時とは、「いろいろな魔法がいちばん美しくなって解ける、儚い、はかない時間ね」と亡くなった母親の言葉として解説していますが、そういうあわいを美しく大切なものとみなし、イギリスの詩人キーツの詩の「耳に聞こえる音楽は美しい、でも耳に聞こえない音楽はもっと美しい」のように、耳に聞こえない、眼に見えないものに耳を澄ませ眼を凝らそうとする作家の意図が作品の底に流れているのも、朽木さんが妖精の国アイルランド文学の研究者であるからでしょうか。
物語の舞台になる散在ガ池周辺には5つの沼があり、その周辺の地図が表紙裏に描かれていて、もちろんこれはフイクションですが、散在ガ池という名は、この近くに実在の池に名を借りています。というよりこの現実の地に幻視したものではないかと私には思えるのです。というのもこのあたりは私が住み始めた頃から急激に開発が進みました。そういうことへの愛惜と嘆きの気持ちがもう一方にはあるのではないかと、同じ気持ちである私には思えるのです。最初の大きな開発から辛うじて残った近くの切り通しも、ここでは「落ち武者の道」と名づけられ登場させられているので、嬉しくなってしまいました。けれどもこの幻視された河童の国にも開発の波が押し寄せている現実もちゃんと描かれています。また残された自然の身近な動植物への眼差しと描写にも楽しませられます。
どうかこれを読んで興味や関心をもたれた方は、図書館でリクエストなどして読んであげて下さい。大人でも(というより大人の方がと言いたいほどレベルが高いです)十分に楽しめます。

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ピアノの練習(3)

水野さんの24日のブログを読んで少なからぬショックを受けた。
それは高橋たか子の「日記」からの言葉を紹介したもので、日本文化への批判だが、まさに私自身に向けられている感じさえしたからだった。
存在的エネルギーの量や強さが西洋人に比べて少ないのではないかというが、そんな日本人の中でも少ないと常々思っている上、それを少ないなりに一つにまとめ、自分の存在をはっきり打ちたて、強力にした上で他人と向き合うべきなのに(それがまた他人への礼節につながる、また他人への深い眼差しにもなる)、そういう内在の力を養うことをしていない、という批判は、まさにその通りだと思った。その強力な内在の力で、とことん学問をしたり政治を行ったり(もちろん芸術することも)、することがない。「一方向への徹底性がない」・・・・ああ、ほんとうに自分を眺めてもそうだなあと思うのだった。
ピアノは独習だといったが、いまさら上達にかける年齢でもないけれど、わたしにとってこれは「ひとりあそび」の一つだと書こうとしたところだった。「世の中にまじらぬにはあらねども ひとりあそびぞわれはまされる」という良寛の和歌をひいて・・・。
良寛にとって、和歌も漢詩も書も「ひとりあそび」に過ぎなかった。その世界を追究したり、新しく切り開いたり(または何らかの名誉や栄達のためにでも)するのではなく、存在する上の「すさび」だったのである。ここには存在する自己の確立もないかわり他者もいない。
良寛の漢詩に次のようなのがある。「花 心無くして蝶を招き/蝶 心無くして花を尋ぬ/花開く時 蝶来たり/蝶来る時 花開く/吾れも亦人知らず/人亦吾れを知らず/知らず 帝の則(=自然の道)に従う」
花も蝶も人間も、すべて自然の則の中でただ存在しているだけである。この世での束の間の存在、命の中で、花が開き蝶が舞うように「すさび」をして生きているだけである・・・という内容。
考えてみるとこの「北窓だより」の題をもらった菅原道真も,政権争いに敗れて流されたのに、恨みに恨むという激しさ、「岩窟王」になることもなく(もちろん怨霊となって後に恨みを晴らすのだけれど)、現実的には北窓からささやかな3つの楽しみに甘んじるという悟りに似た心境で過ごすわけである。
こういう日本的な無常観に満ちた文化的土壌がいやだなあという気持ちも一方には強くあって、それが西欧の思想や文化に向かうのだけれど、この落差を自分の中でどうするか、それが大きな課題です。
西欧文化の一つであるクラシック、そしてピアノに私が惹かれるのもそれであろうと思われ、そのことを強く感じさせられた水野さんのブログでした。

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