鳥の水飲み場の氷

今朝も水飲み場に氷がしっかり張っていた。
それを石で割って水を満たすのだが、そこにはまだ昨日の氷がまだ解けないで残っている。
そのようにしても暫くすると、うっすらとまた表面が凍っていくのが観察できる。それをかき回して砕く。
何という連日の寒さ!
T温泉の温泉センターの高い屋根に上って雪下ろしをする光景を見た。片側は断崖になって下は渓流である。人の背丈以上の雪を3人で下ろしているのだが、見ているだけで背筋がぞっとした。本当は綱をつけてやらねばいけないのだが、そうすると作業がし難いとも言っていた。
元旦だけが奇跡のように晴れたが、また大雪続きでどうなっているのだろうと心がいたむ。
確かに雪は素晴らしい天からの贈りものだが、豪雪地帯での生活は大変だ。
雪がだんだん少なくなった時期が何年か続いたが、その時はやはり生活が楽になったと、ホッとした表情だった。しかしそのうち、せっかく来てくださるのだから、雪がなければ・・・と申し訳なさそうな顔をし、それを口にした。
そして今年は、12月からという雪の早さ、多さに驚きつつも、3メートルに近い雪の壁の中を通りながら、この雪の壁を見てもらわなければ・・と自慢げでもあった。客商売としては、そうだろう。しかし実際問題としては大変であるにちがいない。
「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」という言葉があるが、所詮私たちは駕籠に乗る人であるに過ぎない。雪という風流を愉しんできたのである。
やっとこの庭にも陽が射してきた。氷も解けるだろう。最初はなかなか水浴びをする鳥の姿を見ることができなかったが、今では鳥の間にも知れ渡ったのか、よく見られるようになった。先日などメジロが次々に5羽もやってきて、まさに目白押しで水浴びした。いつかはヒヨドリが、鉢いっぱいに大きな身体を入れて水を引っくり返してしまったことがある。
こんなことを書いてしまったので、T温泉の続きは次回まわしにします。

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T温泉行き(2)

*交通機関について。
不通になっていた秋田新幹線はやっと再開されたが、鉄道の混乱は続き、家屋の倒壊や死者も多くなり、雪国の生活の大変さが思いやられる。その雪国から何事もなく帰ってこられたことは、感謝しなければならないだろう。
だがT温泉の宿の主人が「私たちは雪の専門家ですから・・」と言っていたように、平常どおりであれば何も騒ぐことなく、都会生活者よりもずっと豊かな雪国の暮らしを味わっていたはずである。ただ今年は余りにも異常なのだ。
上越新幹線がまだ不通になっていないのは、きっと、高崎を出ると上毛高原、越後湯沢、浦佐と停車する地点だけ姿を出すだけで、長岡に至るまでの豪雪の山岳地帯の大部分がトンネルになっているからであろう。列島を横断する同じような秋田新幹線の方は、盛岡を出てからのトンネルは地図で見ると一箇所しかない。後は平地を走っている。
今はT温泉には浦佐から車で40分ほどだが、昔は小出からバス、30分ぐらいで辿りついていた。
小出は、只見線との分岐点である。ここに新幹線が止まるべきだと素人は考えるが、そうではなく新しい駅ができた。駅前には元首相の銅像が立っている。
1983年(昭和58)の初回の時は、急行に乗って行った。その後、新幹線が開業しても、急行の方に固執した。もちろん安いということもあったが、新幹線に乗りたくなかったからである。トンネルが多いことが分っていたし、第一小出に停まらないからである。
しかしだんだん急行の本数が減り、最後は無くなってしまった。そこでやむを得ず新幹線で浦佐に行き、在来線に乗り換えて小出に出た。そこからバスに乗る。
ところが浦佐から小出への連絡も時間によっては40分も待たなくてはならないことがあり、バスの連絡もうまく行かないこともあったが、それなりに小出の町をぶらぶらしたりして時間をつぶした。時にはバスを一台やり過ごして買い物を愉しんだりした。持込みのための(または土産の)酒を買ったり、こちらでは手に入らない雪国ならではの長靴を買ったりもしたのだった。(この長靴はずっと毎年持参して今でも役に立っている)
そのうち今度はバスも当てにできなくなってきた。そして今では浦佐から旅館の送迎の車に頼っている。
新幹線だけの旅になってからも、帰りは湯沢まで在来線で行って乗り換えるコースを考えた。これだとそこまでの沿線の雪景色や土地の人も乗っている車内の雰囲気も味わえると思ったからである(実はこの分、新幹線の料金が節約でき、お昼の弁当代ぐらいが浮くのである)。
ところが去年、その日突然在来線の時刻変更で、乗り換え時間に間に合わなくなり、幸いというかやってきた新幹線に一区間乗れば間に合うといわれ、急遽新幹線で乗り継ぐという技をやらせられて(JRが私の魂胆を見抜いて意地悪をしたのではないかと思えたほど)、懲りたので今年からは往復とも浦佐まで新幹線ということにしたのだった。
急行を利用していた初めの頃、上野を9時半ごろ出て、旅館には午後遅く着いた。
今は自宅で昼食を済ませてから出かけ、旅館には同じ頃着く。帰りも11時ごろ宿を出て、我が家に帰り着いたのは午後3時すぎである。なんと楽になったことだろう。自宅から旅館まで、すいすいと寒さもほとんど感じることなく運ばれていく。(ただ新幹線の指定を取ることだけ苦労するが)
だが便利で楽になっただけ、何かが失われていくのを感じる。

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T温泉行き21年目に当って(1)

新聞によると寒冬・大雪は20年ぶりだという。また12月の気温も戦後最低だったとの事。T温泉で過ごしたお正月の中では一番の大雪だと思い、また土地の人もそう言っていたが、当っていたわけだ。
昨年は戦後60年ということで話題になり、回顧されることも多かった。ああ、それは還暦ということだな、と思い当たった。もう戦後ではないという言葉が使われたことがあったが、これからはもう「戦後ではない」事からも遠くなるということだろうか。しかし戦後長く続いた「平和」に赤いチャンチャンコを着せて、それではお役目ご苦労様と言われてはかなわないなあ・・と思う。この長寿の時代、いつまでも「平和」には長生きをして、現役でいてもらわねば困るのである。
その3分の1である20年というのも、一つの節目ではあるだろう。
オー・ヘンリーの短編「20年後」は、20年後に同じ場所、同じ時間に会おうと約束して別れた親友の二人が、運命的な再会をする話だが、20年はそのくらい人間の運命を変えることさえある。それに比べ自分のことについていえば、年をとっただけで何の変わり映えもしてないな・・と全く情けない。むしろT温泉行きの方が、最初から眺めてみればかなりの変遷があった。グループの人たち、交通手段、温泉地と宿自体にそれがあり、そのことを同人詩誌「Who‘s」(100号)にもエッセイとして書いたのだが、年頭に当ってここにも簡単に記して置こう。
次回から何度かにわたってそれを書いていきます。

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雪の温泉から帰ってきました

新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今日、上越新幹線で豪雪地帯の温泉から無事に帰ってきました。
行きも帰りも、遅れは10分ほどで、本当に恵まれました。
ここで暮れから正月にかけて過ごすようになってから丁度21年目ですが、今年ほどの大雪は初めてでした。その上、正月元旦は雲一つないような日本晴れ(と、つい言ってみたいようなお天気)になったのですから、まさに奇跡のようで、土地の人も弾んだ声を上げていましたが、素晴らしい元旦でした。12月半ばから、降り続けていた雪が嘘のように止んだ貴重な一日だったようです。
ところが2日からまた雪は降りはじめ、今日も駅に送ってくれる宿の車も十分に余裕を見ていたのに時間に間に合わなくなるのではないかと、次第に心配になって来たほどでした。
宿を出る頃はそうでもなかったのに、雪は吹雪のようになり、視界もきかなくなり、ただただ真っ白い世界を走っていくようで、そのうちライトがつき始めました。それでも運転手さんの懸命の努力で何とか間に合う時間につくことが出来たのでした。
川端の『雪国』の文章で有名ですが、トンネルを抜けた世界の劇的な変化には、いつも感嘆の声を上げてしまいます。しかしこの何年か、雪が少なくなってその声も消え入るようになっていたのですが、去年からまた雪が多くなり、そしてまさに今年は異常なほどでした。
さて、帰りもトンネルを抜けるともう雪は一片もありませんでした。大宮あたりはまだ雲が蟠っていましたが、このあたりに来るとまったくの青空になってしまいました。ほんの3時間前、真っ白い雪に包まれた世界にいたことが信じられないくらいです。あの雪が懐かしくてたまりません。あれは夢ではなかったのでしょうか・・・。そう思いたくなるほど、雪の土地が美しく懐かしく感じられるのです。
不思議なことに、東京の方が寒いと感じました。あちらは気温は低いのにもかかわらず、風は柔らかくこちらより暖かかったような感じさえするのでした。それは私の部屋の暖房が不完全で、宿の方がしっかりした防寒をしているせいでもありましょうが、それだけではなく確かに風は刺すようで、底冷えしています。
ほんの僅かな日々ではありますが、そこでの雪景色を、温泉を、人たちの暮らしを記憶の中に蘇らせながら元気をもらい、これからの一年へ向けて歩みだして行くつもりです。

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来年 少しは世界が明るくなりますように

禍々しい事が多かった今年の、最後の一撃というような強い寒波の襲来。異常なほどの大雪と、なんて痛ましい羽越線の事故! 猛吹雪の中、救助する方も大変だなあと、青空の下で思うだけですけれど。
このところ私の毎朝は、鳥の水飲み場(浅い皿と鉢)の氷を割ることから始まります。5ミリほどの氷を砕いて捨て、水を湛えておくのですが、陽がささないうちにまたうっすらミルクの膜のような氷が出来ていたりします。12月からこんな寒さがやって来るなんて初めてだと、灯油を届けてくれた人が驚いていました。
それでも鳥たちは水浴びにいつもより多いくらいやって来るようで、いつの間にか水は底に近いほどに減っていて、それを見ると嬉しくて、また新しい水を張ってやったりしています。
年末から年始にかけて、新潟の鄙びた温泉にグループで行くようになってもう20年にもなりますが、去年は大地震でダメかと思いましたが、何とか復旧して出かけたのですが、今年はまたこの大雪で、どうなることやらと少々心配しています。
このようなわけでこのブログも今年は最後にいたします。
このようなぶつぶつした呟きをご覧くださった方々に、お礼を申し上げると同時に、皆様どうか良いお年をお迎えくださいますように、お祈りしております。
では、また来年もよろしくお願いします。

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新潟の「大停電」から「マッチ」を思う

日本海側が依然として異常な大雪に見舞われているのに、今日もここは、からからの晴天続きである。
なんと自然は不公平なものだろう。大変だろうなと思ってもどうすることも出来ない。
先日新潟で雪による大停電が起こった。一番長くて31時間、65万戸に至ったという。
さっきFMの「日曜喫茶室」(今日はクリスマス特別番組で、常連4人からの贈りものと題した雑談)で安野光雅さんがその停電に触れ、そうなったらこの寒さの中どういう風に暖を取ったらいいか考えてしまったという。懐中電灯、マッチでさえ手元になくて・・・・という言葉に触発されて、「マッチ」についてここに書きたくなった。
寒中の暖について言えば、いまやガスストーブは少ないのではないだろうか。石油は私も使っているが考えてみれば温風式なので、発火には電気を使っているのでダメである。湯たんぽは、最近になって重宝なことが分り一昨年まで使っていたが、羊毛シーツにしたのでやめてしまった。残るのは木炭、炭である、幸い最近火鉢に炭の生活を愉しんでみようと思って、しばらく楽しんだが、やはり風流には余裕と忍耐が必要で、元の簡便な暮らしに戻ってしまった。しかしまだ炭は残っているので、電気もガスも止まってしまってもそれで一応は煮炊きもでき暖もとれる・・などと思ったりした。
ここで「マッチ」に戻るのだが、今私はマッチが買えないでいる。スーパーには確かにあるにはあったが、大箱しかなく、いわゆるマッチ箱のようなという比喩にも使われる小箱のがないので、コンビニのほうが置いているかと思ったが、2、3軒入ってみたが置いていない。線香や小さな蝋燭は置いてあるのに、なぜ、と問いただしたのであるけれど・・・。ライターで火を・・ということだろうが、仏壇や神棚の前でライターは似合わないだけでなく、それは丸々燃えないごみになる。
折りしもクリスマス、その蝋燭にはやはりマッチが似合うはずだ。「マッチ売りの少女」などはファンタジーの中だけだけれど、ライターでは幸福な幻などは見られない。ライターは点火という一瞬の機能だけを果たすが、マッチは燃え上がり、炎が揺らめき、それが次第に燃え尽き、黒く灰になって残骸になって横たわるドラマがある。
うちにはマッチは置いていませんよ、と何でもなく言い放つコンビニの店主に、心のうちで腹を立てながら帰ってきたのであった。

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「Little Biredsーイラク 戦火の家族たちー」を観る

鎌倉・九条の会主催の「十二月に語る平和」でこのドキュメンタリー映画(綿井健陽監督)を観る。
第一部は、朗読と歌。
朗読:原田 静
    「野ばら」小川未明作。   「はなのすきなうし」マンロー・リーフ作
歌:新谷のり子・有澤 猛(ギター演奏)
    「花はどこへいった」ピート・シーガー作詞・作曲
    「死んだ男の残したものは」谷川俊太郎作詞 武満徹作曲
*いずれも決してスローガン的なものではなく、やさしくしみじみとしたもので、演出・演技もよく心に平和への思いが伝わってきた。
第二部が、映画である。これは副題にあるように、2003年3月、アメリカによるバクダット空爆に始まるイラク戦争を、その爆撃を受ける側からその現状を報じたドキュメンタリーである。空爆前の市民の姿や市場の賑わい、「最後通告」が始まっての市民の声や動きがとらえられ、そしてあの空爆・・・・。そしてその後が、語られる。
そこで破壊され殺され傷ついたものの多くは無辜の市民たちであり、特に子どもたちである。その現場の姿をカメラは平静に、しかし彼らに寄り添うように記録して行く。民家の破壊の様子や病院の内部、学校。さまざまな破壊現場や傷つき苦しむ人々、肉親を失って悲しく人々が映されるが、特にイ・イ戦争で2人の兄を失い、今度の空爆でまだ幼い子を3人もなくした一家には、家庭の中、心の内まで踏み込んだ形でその悲しみを描き、それを克服して行こうとする様子をとらえている。
イラク人は概して日本人に対して好意的である。インタビューにも日本は好き、日本人も好きと答える。しかしブッシュと組んで(アメリカに原爆を2つも落とされたのに・・)イラクを攻撃したのはなぜか、許せないというのだ。
日本の自衛隊が到着した時の映像もある。隊員が悪いわけではないが、まさに漫画チックであった。
市民たちは日本人が来ること、援助してくれることは歓迎しているが、それは自衛隊や軍隊としてではないことが、よく分るのである。
バクダットが制圧されて、米軍の戦車が入ってくるのだが、サダムが倒されたことは喜んでいても、それ以上に多くの市民、特に子どもたちが殺され被害が拡大して行くことで、フセイン政権下以上の憎しみも募って行く。銃を構え、決して手放さない米軍の無表情な顔と、異口同音に「自分たちはイラクを解放に来た」、そして「彼らは自由を得て皆喜んでいるはずだ」としか答えないロボットのような姿がとても印象的だ。確かに兵として戦うことは誰もがロボットとならねばできないことだ。故郷にいれば溌剌としていたにちがいない青年も、そこでは無表情で銃を突きつけるロボットにならねばならない米兵が、哀れでもある。そのことをカメラも感じるのか、質問に「自分になぜ聞いてくるのか。答えることはできない」といって去っていく、悄然とした後姿を暫く追っているシーンもあった。
終わってからは、しばらく何もいえない気持ちになってしまった。
この映画の詳細は同監督の著書によって知ることができる。多くの写真もあって読みやすい。関心のある方は、お読みになってください。
『リトルバーズ 戦火のバクダッドから』綿井健陽 晶文社 1600円

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師走の台峯

日曜日の今日は台峯を歩く日である。
日本海側は記録的な大雪で大変な様子なのに、ここ関東は雲一つない青空。しかし寒気はきびしく、シバレルような寒さ。それでも奮い立って防寒を十分にして出かけた。
太陽のありがたみを感じる。陽射しが暖かい。そして日陰に入ると急に寒くなる。
今年は一体にもみじが遅く、まだこのあたりは多く残って、冬枯れに彩を与えている。
花はなく、赤い実の季節である。ビナンカズラ、ツルウメモドキ、千両、万両、ヤブコウジなど。
なぜこの季節赤い実なのか、というと鳥は犬などと違って人間と同じ色彩感覚を持っているので、やはり赤という色は、枯れ草や雪などの中で目立つから(というのが有力な説)らしい。
富士が見えるところに来た時、箱根連山への山並みがくっきりと眺められた。東京都内からでも遠望できるこの季節が一番よく富士の勇姿が望めるのである。暫く立ち止まって山の名前を教わりながら眺める。雪もかなり裾野まで広がっていた。
都内からやってきた人がこの大きな富士を見ながら、やっぱり富士山はりっぱですね・・・と声を上げた。
一ヶ月ぶりだがやはりまた開発の手が伸びてきていることを知る。2番目の田んぼの隣の草地が整地され、土手が大きく削られ、行く手は工事の為通行禁止になっている。しかし日曜日で工事がないため、張られている鉄条網の端をくぐって前進することにした。このあたりも車が通るようにするのかもしれない。そうすると田んぼの命脈もあと少しということだろうか。
今のところ残されることになった台峯自体はまだ手がつけられていないけれど、その残し方がこれから大いに問題になってくる。それについても話が出たが、それはまた書くことにします。ただその区画の周辺が次々に動き出した感がある。出口に当る場所、先月美しい荻の原であったところがすっかり刈り取られ、駐車場のようになっているようであった。
今年はなぜか鳥の姿がほとんど見られないと言っていました。シベリアからまだ渡ってこないのだろうかと。それでも天空を行くノスリ、2羽が見えたのは嬉しかった。トビも一羽(これは江ノ島などではもう嫌われ者になっているようだが)、コゲラも見えたというが私の目には留まらなかった。

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やっと「李禹煥」を見にいく

横浜に出ることがあって、やっと横浜美術館に行くことができた。プーシキン展も行きたかったけれど、とうとう行けそうもない。しかしこれだけはぜひ見たかったのである。
クリスマスと年末を控えて、横浜駅周辺の人ごみにうんざりしながら、泉の水を求めるような気持ちで辿りついたのだった。
思ったとおり入場者は少なく、広々とした空間にゆったりと身をゆだねる事ができた。
まさに鋼鉄そのものといったような鉄の屏風とその前におかれた採石場から今持ってきたかと思われるような角ばった白い大石たちに迎えられる。
内部もたくさんのこれは見事に長い歳月によって造形されたさまざまな形と色をした大きな石、この自然の造形に対する人工でしかもそれに対決できるものとしては鋼鉄しかないだろう。それが常に形を変え、位置を変え、互いに呼応するように置かれている。その中の一つの石だけを眺めていたとしても飽きないだろうと思われるほどの素晴らしい大きな石たち・・・。それと同じくらいに人の手による技術によって磨き上げられた鉄の板や棒との組み合わせ。
そういう不動のものに対して、白い大きなパネルに平たい刷毛で墨色をわずかにのせたばかりの作品の数々は、まさに余白の芸術といってよいだろう。
鋼鉄と石の作品が関係項と名づけられ、それが確たる物の存在を示しているとすれば(それぞれ照応、安らぎ、過剰、張り合い、彼と彼女などと名付けられている)、こちらの方は、その間を吹き抜ける風のようにも私には感じられた。その風が、余白が、ずしりとした存在を輝かせ、呼吸させる。
白いカンバスに筆を下ろすグレーの色について、次のような言葉が書かれていたのでそれを記したい。
 「複雑な現実に近づきたい人は
  多くの色の配合を、
  厳密な観念を表したい人は 
  明確な単色を好む。
  私の発想に中間者的なところがあるせいか、
  用いる色が次第に曖昧なものに限定され、 
  グレーのバリエーションが多くなった。
  筆で白いカンバスに
  グレーのわずかなタッチを施すと、
  画面がどこか陰影を伴い漠とした明るさに満ちる。
  グレーは自己主張が弱く概念性に欠けてはいるが、 
  限りない含みと暗示性に富んで、
  現実と観念を共に浄化してくれるのである。」
人間は、純粋に現実だけでもまた観念だけでも生きられない。ここにあるグレー、墨色、また鋼鉄という技術のきわみと石という自然そのものとの照応、この微妙な釣り合いが、人の心をなごめ、またゆったりとそれらに包まれる感じを与えるのではないだろうか。

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「第九」を聴きに行く

今朝は冷え込んで、鳥の水のみ場に薄く氷が張っていた。
屋根に霜が下りるのはもう何日も前からだが・・・。
12日の宵、上野の東京文化会館に早々と『第九』を聴きに行った。
Tさんが、このブログでも前に紹介した合唱団「東京コール・フリーデ」に属しているので、そのお蔭で最近は毎年愉しんでいる。(東京シティ・フィルハーモニック 指揮:北原幸男)
こんな風に第九がもてはやされるのは日本だけだそうだが、やはりベートーベンは年末に合う気がする。寒風に落ち葉が(所によっては雪が)舞う中、一年の間にたまった塵や埃、悩みや苦しみ、不愉快なことを、オーケストラの管弦楽器、打楽器の力強い響きが背をたたいて押し出してくれ、元気が取り戻せるような感じになるのでは・・・と思ったりする。
いつものように第一部はソリストたちの「珠玉のオペラ・アリア集」で、「鳥の歌」や「オレンジの花咲く国・・」・・・など。第二部が、いよいよお待ちかねの合唱つきの第九。
ここの公演の歴史は古く、今年は28年目のようである。第一回のオケの指揮者は渡辺暁雄でその後大町陽一郎、石丸寛など私も知っている名前がある。しかし最近は合唱団員不足で、この練習に向かっての結団式があった9月には60名しか集まらなかったそうで、しかしその後の実行委員たちの尽力もあって、最終的には160名以上になったとの事。それでも少数精鋭で頑張ったと、最後の挨拶で合唱指揮の伊佐治邦治氏が述べていたが、確かに合唱もオーケストラもしっかりした音色で熱気が感じられた。今年は一度も眠らなかった、と共に聴いた友達の一人が笑いながら感想を述べていた。
Tさんも実行委員の一人である。

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