もうひとつの「9・11」を思う初秋の夕べ

今日は、アメリカの9・11同時多発テロ5周年。しかし昨日わたしは、それとは別の9・11を思う会に出席した。ラテンアメリカのチリにおける「9・11」事件である。これまで私はこれについて全く無知であった。多分日本人の多くが同じようなものなのではないだろうかと思う。
チリの詩人ビオレッタ・パラの『人生よ、ありがとう』の翻訳者である水野さんが朗読をするというので、参加したのである。プログラムはそのほか、「世界は、たくさんの『9・11』に満ちている」(太田昌国)、「チリへの思い」(画家、富山妙子)、9・11事件(軍事クーデター)の首謀者「ピノチェット将軍」を描いた著書の翻訳者(宮下嶺夫)の話などがあり、富山さんの絵が並び、パラをはじめとする歌が流れ、チリのワインや手作りのつまみまで振舞われる、楽しくも充実した、だが刺激的で深く考えさせられる会であった。
確かにアメリカでのテロは許しがたい、悲劇的な大事件である。しかしここでは、その悲劇を自分たちだけが蒙った特別な独占物とするな、という。それを争いや憎しみを克服する原点としてこれまでの事を考え直そうと言うのであればいいが(もちろんそういうことは市民レヴェルではやられている)、それを口実にテロへの戦いと称して、武力で世界へ自らの優位だけを誇示していこうとする国家の姿勢が変わらなければ、テロは決して収まらないだろうからだ。
チリの1973年9月11日は、南米チリで軍事クーデターが起こった日という。これは社会主義政権(稚拙で不満も多い政治であったにせよ植民地から開放された民衆によって作られた)が、軍部によって倒され、その後、凶暴な軍政によって民衆は苦しむ。その背後にはアメリカがいた。同じ構造が、植民地時代の宗主国が引き上げた後のラテンアメリカでは起こっているのである。これを聞きながら、私はベトナムでも同じだったではないかと思った。それはアフガニスタン、イラクにも通じる。
大々的に報じられるマスコミの、大きなニュース、そして次々に現われては直ぐ消えていく現象のみに振り回されずに、その裏にあるものや地味であっても大切な事柄をしっかり見ていく事が必要だなあと思った。
80歳という富山さんの情熱的で意志的な、姿勢正しい美しさに圧倒されながら、日本は今堕落している、自分は今その堕落を噛みしめていると言う言葉に、つくづくわたしもそれを噛みしめねば・・・と思ったのだった。思うだけなら易しいけれど・・・・・
帰りの夜空に中秋の名月をやや過ぎた月が、くっきりと眺められた。

カテゴリー: 北窓だより | コメントする

山口・下関旅行(3)

午前中4時間の定期観光バスに乗りました。
昨日それを知り申し込み、バスでは寄らないところだけを訪ねたのですが、今日はあなた任せのすっかり観光客になりました。ところがなぜか6人の乗客の中で(平日なので乗客は少なくたった一人ということもあって、この日は多い方のようでした)いつもバスを降りる時に、もたもたして最後になってしまう私でした。
観光バスというのは、とにかく盛りだくさんにいろいろな所を連れ歩き、知識を次々詰め込もうとするのですね。ガイドさんは、乗客がちゃんと自分に注意を向けてよく聴いていないと快くないみたい。学校の先生みたいだなあ・・・と、(自分も多少その経験があるのを棚に上げて)可笑しく思いました。
バスは観光の定番の、安徳天皇を祭った赤間神宮、その裏手にひっそりと弔われている滅びた平家の武者たちの碑、日清講和条約が結ばれた料亭(記念館)などに寄り、源平合戦のあった壇ノ浦、武蔵が決闘した巌流島や前日泊まった宿などを車窓に眺めながら関門橋を渡って門司港レトロ街に着きました。
ここはレトロの名称通り駅自体が昔のままの風情、街中にも明治・大正時代からの古い建物を沢山残し、あたり全体を観光化しているのでした。そこを自由散歩、近代的な高層マンションの31階の展望台からの俯瞰を楽しんだりしたのちバスに乗ると、関門トンネルをくぐってまた本州に戻り、今度はこれも古い城下町のたたずまいを色濃く残した長府へと向かいました。
ここは長府毛利藩の城下町、深い緑と美しい流れをもつ静かな町で、国宝功山寺の仏殿は山口で見た瑠璃光寺五重塔に通じる美しさがありました。ここも長屋門のある屋敷や侍屋敷の街並み全体を残そうとしていて、昨日、市美術館に来た時に一人で訪れた長府庭園もその一つです。
ここも暫くの自由散策でしたが、なんと言っても真夏の昼近い時間、緑が深いので日陰はあるにしてもあるくのはもう限界のようでした。町の真ん中を貫く流れの中、鴨たちも日陰の石の上にぴったりとお腹をつけてうつらうつらと昼寝していたりして・・・・。
これで観光の行程は終了、車窓に唐戸市場(この近くにある水族館に入りたかったな・・)や海峡ゆめタワーを見やりながら下関駅に帰ってきたのでした。
この旅は私のルーツ探しの一つでもあったわけですが、その思い入れもありますが、下関が、そして山口県が好きになりました。下関は明治以降外国に開かれた海峡の町、港であり、明治維新と開国の様子を偲ばせる古い建物もあちこち残っていて、小さいながらも横浜の街に通じるところがあるようにも思えました。歴史と文化があり古いものが残っていて、しかも自然もまた美しく、本州の端っこであることから日本海と瀬戸内海の両方に接して変化に富み、萩や津和野などもあって行きたくなってしまいます。
ここだけでなく、地方はそれぞれに頑張っているんだなあ、日本にも自分が知らないだけで沢山素晴らしいところがあるんだなあ、という当然のことでしょうが実感、発見でもありました。
これまで博多に帰りながら一度も訪れたことのなかったこの地を、訪れる気持ちにさせるきっかけを図らずも与えてくださった水野さんに感謝、感謝の気持ちです。

カテゴリー: 日録 | コメントする

山口・下関旅行(2)

下関市では駅に近いホテルに宿をとりました。あちこち行動するのに便利だと思ったからでした。
先ず最初に私の生れ落ちた地に行ってみるつもりでした。そこは市内でも在来線で一駅戻ったところにあり、そのためにも駅に近いのは便が良いことでした。
その駅、幡生は山陽・山陰本線の分岐点に当たっています。夏の盛りで毎日暑い日がつづいているので、できるだけ朝早いうちに行動して、日中は動くのを控えたいと思ったのですが、そうは行きませんでしたけれど・・・。
夏の朝は気持ちがいいものです。駅に降りると丁度登校時間帯らしく、夏休みだと言うのに中・高校生が次々に降りていました。駅舎自身は古い場末の感じがするもので、便所などと言う漢字が大きく書かれていたりして、ちょっと気持ちが殺がれましたが、出るや否や大きな工事現場が広がっていて、いっそう戸惑ってしまいました。すなわち今この駅前には高架橋が通ることになっていて、その橋梁工事が進行中なのでした。金網やコーン標識(?)に誘導されるようにしてしばらく歩き回りました。探す地点は駅に近いところで橋と川が目印でした。幸い川と橋は存在していたようです。でも私が探していた地点は、多分高架橋梁工事の範囲内であるに違いありません。遠くの方でこれから作業を始める人たちの準備運動する姿が見えました。川辺の大きな合歓の木の花(こちらではもう花を散らしたのになあ・・)を眺めたりしながら名残惜しく歩き回った後、駅に引き返してきたのでした。
広々としたホームはがらんとして、そこからは古く立派な瓦屋根の家やいくつかのマンションが眺め渡され、市の中心部に近い郊外の住宅地と言う風情でした。
後で判ったことですが、ここは海にも近く、昔からの海水浴場だったようです。いい季節の時でしたら、その海にも出てみればよかったのですが、それはまたの機会にして(何しろ帰ることのある福岡からは近いわけだから)、下関に引き返すことにしました。
その足で市役所と図書館に行きました。そこで下関の資料を少し手に入れ、近くにあるはずの林芙美子生誕の地の碑の場所を尋ねましたが、図書館員でさえ知りませんでした。この辺りでは今、金子みすずに大きな照明が当てられ、芙美子は影が薄くなっているようです。
あまり注目されていないその碑を見てから、バスで唐戸(東京の築地にあたる唐戸市場がある)に出て、そこから県立美術館と長府庭園を訪ねました。ここはバスの便がとてもよく、タクシーの必要がないようです。
歴史の古い長府は城下町の名残が多く残っていて、今ではそれら建物や街並みを観光資源としているようで、中でも山口の瑠璃光寺の五重塔の優美さに通じる功山寺の仏殿があります。長州庭園もその見所の一つで、丁度蓮の花が咲いていました。もう名残のようでしたが・・・。その向かいにあるのが市立美術館。緑に囲まれ海が眺められる広々としたところにあり、心が伸びやかになります。ここでは、下関に英国領事館が出来て100年目に当たるので、「日英の絵本」特別展が催されていました。
ここでゆっくりとしていたかったのですが、予定の中に「火の山」(昔ここで狼煙を上げたという小高い山)ロープウエイでのぼり、その展望台から関門海峡と、その吊橋を眺めることが入っていたので、またバスで唐戸に帰ってきました。そして最後はその唐戸市場に降りて見学し、そこの食堂で新鮮な魚料理でも・・・と楽しみにしていたのですが、残念ながらその日は市場は休業で、それでもたった一軒だけ寿司屋が店を開けていたので、そこで夕食とし、暮れていく海峡と行き交う大小の船舶をしばらく眺めた後、ホテルに引き上げました。ここに2泊したのは正解でした。
明日のことはもう一回、簡単に書くことにします。

カテゴリー: 日録 | コメントする

山口・下関旅行(1)

20日から24日まで旅行してきました。
水野さんが山口の国民文化祭の現代詩部門の選考を依頼され、山口市に行かねばならないと聞き、とっさに気持ちが動いたのでした。実は、自分は九州(北部)出身と思い、そう言ってはいるものの、生れ落ちたのは下関市です。しかも記憶はほとんど無く、この歳まで、一度も訪れたことの無い土地で、山口県そのものにも行ったことがありませんでした。赤ん坊の時に一家は関門海峡を渡り、九州に来たのでしょう。福岡県の田舎が、お墓もある一族の故郷であったのですから。
最近になって、戸籍上に記載されたその地に一度出かけてみたいという思いが、なぜか兆していたのでした。多分そこで両親は知り合い結婚し、私も生まれたのだろうと思います。そんな折も折り、水野さんが招かれて山口まではるばる出かけるといいます。それに便乗して私も一緒させてもらおう、と思い立ったのでした。
20日は水野さんが選考の仕事なので、その日に私は出かけていき、次の日に連れ立って観光をし、それから互いに西と東に別れ、私だけ下関へと向かう計画を立てました。
20日は山口に午後1時前には着いたので、ホテルに荷物を置いてから先ず中原中也記念館を訪れました。明るくモダンでゆったりとした空間に、詩集や原稿や手紙や資料がいろいろ展示され中也の生涯が辿れるようになっています。ちょうど特別企画で「青山二郎と中也」も加わっていたので、当時の文学・芸術家たちの交流ぶりや雰囲気までが伝わってくるようで愉しく、ゆったりした時間が過ごせました。
ゆっくりしてもまだ夕方までに時間があるので、雪舟が一時期過ごした庵、雲谷庵跡というところにタクシーで訪れてきました。庵は自分が造った庭のある常栄寺からも名刹瑠璃光寺(五重塔が望める)からも離れ、住宅地の中にポツンとあるので訪れる人は少ないようで、小さな丘を背景にしてクマゼミが鳴きしきる夏木立の中にひっそりと在りました。そこからは長州藩庁の古い門を残した県庁などがある市の中心部まで暑い日差しの中を歩きました。このあたりから駅までの通りは、パークロードと名づけられた緑豊かな公園のような界隈で、古い歴史と深い緑を感じさせる街並みです。欲張って市美術館(秋の雪舟展に先駆けてその弟子たちの書画、常設展としては香月泰男の初期の作品が観られた)にまで時間すれすれに飛び込んだりしたものですから、また日曜日ということもあるのかバスの便も悪く、タクシーもなかなか捕まらず、水野さんを心配させましたが、やっと6時前にホテルに到着。夕食は他の選考委員の何人かの詩人の方たちともご一緒させてもらい、近くの美味しくて雰囲気のある和食の店に案内されて歓談したという恵まれた一日になりました。
次の日は、水野さんと一緒にタクシーでサビエル記念聖堂、瑠璃光寺(国宝の五重塔が気品があって美しい)、常栄寺・雪舟庭を観て、山口を訪れた歴代の政治家が宿泊したという菜香亭(最近廃業して記念館として保全)の内部を眺めてからホテルに預けていた荷物をとって、新幹線駅へ。そこからお互い東西に別れました。私は在来線を使って一時間、念願の下関へと着いたのでした。

カテゴリー: 日録 | コメントする

地球温暖化:「ナガサキアゲハ」がいました。

ブログも夏休みと思っていましたが、昨日TVで「ちょっと変だぞ日本の自然!」という怖〜い番組を見て、最初に出てきた「ナガサキアゲハ」(九州だけにしか見られなかった蝶が今神奈川に定着、北上中)のムクロを庭で発見したので報告します。
このところマスコミでも北極の氷やヒマラヤの氷河が解け始め、白熊も絶滅の危機、海面上昇で島全体が水没して生活や住居を奪われていきつつある太平洋の島々など色々報道されていて、私たちにも気象や生態系の異常が感じられますが、何日か前に大きくきれいなアゲハチョウ! と思って死の間際に捕っておいた蝶がそれだと知り、つくづく眺めてしまいました。
「台峯を歩く会」で、このあたりの蝶の話が出たとき、その話を聞いたのを思い出しました。そのときは実物も図版もなかったので分らなかったし、聞き流していたのでした。
まさにTV で映されたナガサキアゲハでした。広げた羽は15センチほどもあり、黒い羽の根元に茶色の紋と後羽の白が目立ちます。
そのほかにもモンキアゲハという大きなアゲハも南方系で最近増えたと、歩く会で聞きましたが、ガーデニングに精を出しきれいな花をいっぱい咲かせているお隣さんも最近なぜか大きな黒いアゲハが良く飛んでいると思った、と言ってました。その大きく見事な蝶の出現で、元々の蝶は減っていくわけです。
シミュレーションによると、このままの状態がつづけば、100年後、世界最大の森と大河のアマゾンが砂漠になってしまうのだそうです。こういう地球規模の危急存亡の時、どうして人類は互いにいがみ合い、争い、戦争ばかりしているのでしょう。

カテゴリー: 北窓だより | コメントする

ドキュメンタリー『ザ・コーポレーション』を観る

これは全てがインタヴューによって構成された、怖〜い、怖〜い実話です。
2時間半の長丁場で、その事実や映像を追いかけるのに大変だったのにも拘らず、最後まで食い入るように観てしまい、時間を忘れるほどでした。
題名どおりこれは「企業」の話。「企業」が現代においてどのような存在であるかということを、とことん事実でもって追究した映画です。
これには原作があるそうですが「ザ・コーポレーション —わたしたちの社会は『企業』に支配されている」(ジュオエル・ベイカン/早川書房)、これは研究者向けに書かれた大学教授の著書で、そのアイデアをテーマにして、映画用に逸話やインタヴューで構成して一般にも分りやすくしたものだそうです。
カナダの男女二人の監督。スタッフには、アメリカ銃社会をえぐった「ボウリング・フォー・コロンバイン」や同時多発テロ問題の真相を描いた「華氏911」の監督マイケル・ムーア、また言語学者ノーム・チョムスキー、らが名を連ねています。
インタヴューの対象は、大企業家、政治家、政治・心理・哲学者、報道関係者、さまざまな分野の人間、産業スパイをも含めた人物たちで、その信念や意見の本音を聞きだそうと勤めたそうで、そこから自ずと浮かび上がってくる「企業」の姿とは・・・・。
人類の支配者は、昔は王や貴族、皇帝であり、近代社会では専制君主、独裁者であったが、今日では「企業」が世界の支配者となってしまった。企業の最終目的は、利益と市場シェアの拡大であり、その目的のために人間はモラルも思いやりも忘れ、ひたすらその現代の専制君主にひれ伏し、利益追求に邁進させられているという事実、それによって世界が動いていると言うことに慄然とさせられる。その裏側がこの映画では暴かれている。
考えてみるにブッシュが中東から手が引けないのは、石油という資源のためである。
昔は企業も王や皇帝など政治家に左右されていたが、今日では「企業」は、人と同様に人権と自由が与えられるようになった。「法人」という語で象徴されるように・・・。
「法人」は法が生み出した特別の存在である。しかも「人」と大きく違っているのは、不死身であること、しかもこれには感情も、政策も、倫理もないことである。ただあるのは『どれだけ儲けるか』だけであり、それを唯一の信条として、世界をターゲットにして自由に動き回るのである。それゆえ自分の利益のためには弱いものを踏みつけ、そのためには戦争をも引き起こしてもビクともしない。死の商人と言う言葉が昔からあったが、今日では売る物は武器とは限らない。
とはいえ近代社会は企業なしでは一日たりとも機能しないだろう。また我々はその恩恵を受けて生活をしてもいる。ただそれが知らぬ間に、いまやあまりに巨大な力と自由を得たために怪物化したという事実がある。それを見つめる必要があるとこの映画は警告している。
これを映画では、人間の知と技術によって作り出したドラキュラに喩えている。人間が快適な生活やその発展のために作り出してきたその企業が、怪力を持つドラキュラのように人間を支配しようとしているのだと・・・・。
歴史上封印された事実として、米企業が初期ナチスをサポートした件、戦争の筋書きを作ったこと、GMはオペルを、フォードもまた同様に自車を守り、コカコーラは特別に「ファンタオレンジ」をドイツ人のために作ってナチス御用達となり、IBMのコンピューターはユダヤ人強制収容所で大いに活躍したなど、戦後も責任を取られることなくその利益と自由を謳歌しているのである。
多くの挿話の一つに(日本の企業不祥事件もいくつか取り上げられている)「ボリビアの水道民営化を阻止した民衆の運動の事件」がある。
ある都市で財政困難なため水道事業を民営化したそうである。ところが谷川の水を汲んでも料金を払わねばならないようになった、というのには驚いた。当然、大規模な民営化反対の抗議行動が起こり、最後は取りやめになったというけれど。
民営化とは、公共機関を常に善良な人に譲るとは限らず、損得の競争の中に置くということ、損得を信条とした専制政治の中に置くことである。日本の今の民営化の流れの際も、このことを考えておかねばならないだろう。
この映画の結論として,「企業」を一つの人格としてみた時、今日の企業は
・他人への思いやりがない
・利益のために嘘をつづける
・人間関係を維持できない
・罪の意識がない
・他人への配慮に無関心
・社会規範や法に従えない
 以上の点において、人格障害<サイコパス> と診断を下す。
今毎日のように起こっている日本の企業の不祥事、重なる事故もまさにそうだろう。
映画の中の台詞に、奴隷制度の中でも全ての雇い主が悪いのではなくむしろ優しく思いやりのある主人も多かっただろう。しかし制度の中ではそれ以上どうしようもなく、制度自身が変わらねばならなかったのであると。すなわちドラキュラのような企業の姿を変えねばならないのだろう。
この映画を観ると少々絶望的になるが、この企業も元々は人間が造ったものである。この映画を観た人がこれらの事柄に関心を持ち、それに気がついてくれることに希望を託している。

カテゴリー: 北窓だより | コメントする

黄色い毛虫を飼う

<毛虫の飼育日誌>
7月7日朝、カエデの葉に一匹の毛虫を見つける。
このカエデは最初から紅色をした葉をしているので、そこに黄色の毛虫を発見した時、その美しさが目に付いた。長さ3センチほどだがその毛は細くて黄金に近い感じなので、つい枝を折って家に持ち込んでしまった。
少しも動かないので死んでしまったかと思ってそのままにしていたのだったが、翌日見ると、姿が見えないので慌てた。黄金の毛だけが、なぜか脱ぎ捨てたように置かれていたので、脱皮したのか?など思うと同時にその毛が繊細で美しいので、これは羽衣だ・・・などとつい美化してしまったりした。綺麗な蝶になるのかも・・・と。
あちこち探しまわり、もしかして何かで潰してしまったのではないか可哀そうなことしたと思っていると なーんだ、近くを這っていたのだった。生きていることを確認し、そうすると飼ってみようという気になり一輪挿しのカエデの葉に戻し、この日からスチールの洗い篭で一番大型のをその上にかぶせて観察することにしたのだった。
それからは毎日新鮮な葉を入れてやったが、昼間は死んだように動かない。しかし朝にはたしかに葉は食べられでいて、その色と同じ色の糞が散らばっている。夜、食べるところも観察したが、まさに蚕のような口で咀嚼していく。糞は乾いてコロコロしていて汚い感じではない。前に青虫を同じように育てたことがあるので、この後蛹になるのだと思いながら毎日眺めていた。
ところがこの話をある人にしたところ、そういう派手な毛虫は毒蛾になるのだといわれてがっかりした。
殺した方がいいのだろうか、また殺すべきなのだろうか・・・。しかし毎日葉を新しくして眺めて来たので情のようなものがわき、殺せないのだった。しかし少々疎ましい感情が出てきたのは確かである。
悪魔の子を孕まされるという筋の映画があったのを思い出す。腹の子が悪魔だと知ってもそれを殺せず(そういう人間の母性を悪魔は利用したのである)その醜悪でおぞましい赤子が産まれて来たときも、本能のように乳房を含ませようとする場面があった。そのように私も毒蛾を育てることになるのか・・・・
どうなるのだろうと怖さもそれからは感じながらそのまま育てているうち、丁度10日目の17日、朝見ると繭が出来ていた。スチール篭の側面に自分の長くて黄色い毛を使って薄い4センチほどの繭をつくり、更にそに中に身の丈ほどの繭を少し濃い目に作っていた。すなわち二重の繭の中に入ってしまっていた。
最初も自分の毛を脱ぎ捨てたように見えたが、そんな自分の毛を使って繭を作るとは・・・と器用さに感心する。それもなかなか綺麗である。
何時羽化するか・・・それが少々気がかりだった。毒蛾が出現したらどうしよう?
恐る恐る毎朝それを点検する日がつづいた。中はだんだん蛹色が濃くなっている感じ、頭部が出来つつある感じ、微動だにもしないのに内部では劇的変化をしているにちがいないことに不思議な思いを抱く。そして一昨日28日の朝、見てみると繭の上に一匹の蛾がいた。
それは止まって動かない。生まれたとたんミイラになったのかもと思われるほどであった。
夕方になってもそのままだある。てっきり死んだのだと思ったが、夜露に当てるべきだと言われ、庭の草むらに夜中そのまま篭を伏せて置くことにしたのだった。
さて、その蛾の姿と言えば、全体が生成りの布のような白っぽい色をして体長3.5センチほど、羽は少し細長く止まっているときは蝉のようにつぼめた感じ。白い羽には薄く細い焦げ茶の筋が横じまとなって2本。昼間は全く動かないので、(夜どんな風にしているかほとんど分らない)危険な毒蛾とは思えずちょっと安心した。
そこでこの蛾の正体についてですが、私の蝶類図鑑には出ていないので、図書館に調べに行きました。そこでピタリと分ったわけではなく大体の感じからですが、どうもヒトリガの一種であるようです。ドクガというのではなさそうで、またその害は毒針によるらしいので、毛虫の毛に触らなければ大丈夫のようです。昼間は蛾になった今でも全く動かず、羽を触ってもビクともしません。手さわりはいいのです。
しかしかつて問題になった、アメリカシロヒトリもこの仲間なので、これも蔓延ると庭木を食い荒らす害をなし、退治するのに大変だと言われたこともあって、自分の手で殺すのは忍びがたいので今夜にでも少し遠くに放してやりに行くか(カミツキガメではないので、一匹ぐらい害にはならないだろう)・・・・などと思っているところです。それにしてもデジカメもケイタイも持っていないし、ここに取り込むことも出来ないので、こんな時言葉だけの説明ではどうにもなりませんね。
ほぼ20日間の飼育記録でした。

カテゴリー: 北窓だより | 2件のコメント

「母たちの村」を観る

フランス・セネガル合作のこの映画を「岩波ホール」へ観にいった。感動的な映画であった。
いまだにアフリカに残っている「女性性器切除(女子割礼)」の風習に、一人の女性が立ち上がり最後には村の女たちがこぞって拒絶していく物語で、事実にも基づいている。
私たちには到底考えられず許しがたいこの風習については、ずいぶん前に読書会でも取り上げているが、最近もそれを拒絶してアメリカに逃れ、その体験記を著したと新聞に紹介されていたのを目にもしていた。その体験記によると、その有様は「4人の女に押さえつけられて、ナイフで外性器をそぎとられる。麻酔も消毒もない。両足を閉じた格好でぐるぐる巻きにされ、傷口がふさがるまで40日間、ベッドで過ごす。ショックや感染症、出血多量で命を落す人もいる。同一視されがちな男子の『割礼』とはずいぶん違う」とある。
この風習は50余りあるアフリカの国々のうち、現在でも38カ国で行われているという。行わなければ結婚も出来ず差別される。こうした伝統はアフリカ社会における男性優位と一夫多妻制を維持するためのものと思われるが、女性の中でもそれを宗教的伝統として是とする者もいることは、長い歴史を持った制度だけに仕方ないことである。(中国で行われていた纏足でもそうである。これは男性が女性の足を性的な愛玩物としたいがため、また愛妾たちに逃げられないため、女を閨の中に閉じ込めておきたいがために作り出した男性の美意識によるものであって、それは女性の美意識まで影響しているのである。天下の美女楊貴妃も纏足をしていた。)
この「女性性器切除」(略称FGM)廃絶は「世界女性会議」にも持ち出され、支援運動も広がっている。
さて前置きが長くなったが、この舞台は西アフリカの小さな村が舞台。そこでの風景と村人たちの日常生活が映し出されているので、アフリカのことはほとんど知らない私には新鮮で楽しかった。緑は豊かだが乾燥した黄色い土地におとぎ話の村のような土造りの家々、円筒形の貯蔵庫、中心には大きな蟻塚とこの土地独特のハリネズミのように黒い棘を出した白い土造りのモスクが象徴として存在し、鶏の声がして牛や犬も人間と共にうろうろして、その中で女たちがいそいそと働き、子どもを育てている。女たちが着ている物は皆カラフルで、村に一つの露天の店先には色とりどりのjシャツにまじってブラジャーやパンティが翻り、薬缶までもがカラフルな縞々なのだった。
その村に、かつて自分の娘に性器切除を拒否した女性(コレ)の下に、それから逃げ出した女の子が4人保護を願って頼ってきたことから端を発する。その行為を「モーラーデ」と言い、原題はそれである。それはちょうど日本で言えば駆け込み寺のようなもので、有力な人のところに駆け込んで保護を願い、それを受け入れれば、それが始まり、入口に綱を張り結界として、そこから出なければ、どんな有力者も手が出せないという、古い掟があるのである。しかし女の身で、第二夫人、しかも夫の旅行中にそれを始めるのは決死の覚悟がいる(第一夫人もかげながら支援するが)。
そして最初は割礼を行う女たち、男たち、最後は長老や夫の兄たち、また少女たちの親たちからでさえそれを解くようにさまざまな圧力がかかる。圧巻は帰ってきた夫が、最初は理解を示しながら一度も女を殴ったことがないという優しい人柄であるにもかかわらず長老や兄に責められ、「それは我々の名誉を汚すものだ、夫として権威を取り戻さねばならない」と言われて鞭を手渡されたとき、初めてコレに鞭を振り上げ、綱を解くと言葉を発するまで叩き続けるところである。
コレは最後まで声を上げない。次第に男たち(割礼行為の女を含む)と女たちの対立がくっきりしてくる。
黙っていた女たちがいっせいにコレを励まして声を上げるのである。そうしてこの後全員で長老の前に押しかけて、今後は全員拒絶すると宣言するのである。
いま大筋だけを辿ったが、コレが割礼させなかった、年頃の娘と副村長のフランスから帰ってくる婚約者(彼我の落差などもあって面白い)の婿の話や、露天商と村人、特に女たちとのやり取りやら、女たちから情報の元であるラジオを全て取り上げて燃やすこととか、いろいろ話はあってドラマとしても面白かったが、はじめはこの映画は女性の監督だと思ったのに男性で、しかも15本も作品のある85歳だというのも驚きであった。(ウスバン・セルベーヌ監督はアフリカ映画の父といわれ、あらゆる権力と戦い、常に勝ち抜いてきた英雄だと尊敬されている人だとのことである)
このような映画なのでいろいろ感じたこと考えることもあるがここでは最後に特に感じたことを少し。
先ず、映画では女たちの働く姿がいろいろ出てきたが、そのとき男たちはどうしているのだろうと思った。
もしかしてモスクで祈るか、自分だけラジオを聴くか、パイプをふかすか・・・?
するとパンフレッドにちゃんと書いてあった。アフリカでは女性の方が多く働き、男性は畑用の土地を開墾すると、後はせいぜい除草を手伝うくらいでその他はほとんど女性によってなされているのだという。子育てから力仕事まで全部。女性は一日中労働し続けで、だからそんな女性を多く持つことが富につながっているのだという。多妻を持つのは経済のためなのだ!そして女性性器を切断して性交を苦痛なものにすれば、浮気を防ぐだけではなく、快楽を求めることも出来ないので労働に専念できる!何という巧妙な策略だろう。大昔からそれは男の知恵だったのだ!
次に、人間らしい心を持ったコレの夫が、鞭を手にして妻を打擲する決心をしたのは、兄から言われた言葉、男の権威、名誉を汚すことを許してはならないと言う一言である。すなわち、これこそが人と人を戦わせる言葉なのではないかと私は思い、これこそが今もって戦争へと男を駆り立てるものではないかと思うのであった。いまアフリカでは部族紛争が絶えない。いや中東然り、あらゆるところに・・・・。そういう男の原理で国も動いているような気がするのである。
最後に「アフリカは『母性的』だと思います。」という、監督がインタヴューにこたえている内容のなかで、心惹かれた部分があったのでそれを紹介することで終わることにします。
『アフリカ人男性は、母親という観念をとても大事にします。自分の母親を愛しますし、母に誓いを立てます。また、母親の名誉が傷つけられてしまうと、息子たちは自分自身の存在価値をも傷つけられたと感じるのです。アフリカの伝統によると、男には本源的な価値はなく、母親より価値を与えてもらいます」
人類のルーツを探るとアフリカの一人の女性に辿りつくと、どこかで見た気がする。今こそ人類はそういうアフリカ精神の大本を思い出すときかもしれない。
ところでサッカーのWCでフランスのジダン選手がイタリアの選手に頭突きをした事件、それは母親と姉を侮辱されたからだと言う。ふっとそのことを思い出してしまった。

カテゴリー: 北窓だより | コメントする

梅雨空の下「ゾリステン コンサート」に出かける

今日もまたどんよりとした空の下、時折雨が降っている。梅雨明けは8月になるかも・・・と告げている。
こんな日々の続く昨日、弦楽器のソリストたち16人ほどで構成されるこの合奏会を聴きに出かけ、さわやかな気分になって帰ってきた。
しかし、記録的な豪雨によって、少し前には長野など中部日本、また今は鹿児島など南九州で川が氾濫し道路も鉄道も水面下に没したり、山や崖が崩れて家が押し流され死者も出ているのを見聞きするにつけ、何か申し訳ない気になったりする。欧州では記録的な暑さで、パリなども40度近くにまで気温が上がり、死者も出ているとか。確かに世界的に最近は異常気象がつづき、これらも地球温暖化の一つの現象かもしれないが、とにかく自然というのは人間の手に余る、頗る厄介なものだなということを痛感させられる。
90歳になるまでこんなことは経験したことがないと語るお年寄り。しかし被害にあった人たちの多くは、ただ早く雨が止んでくれることを願うだけ・・・と静かにつぶやくだけである。これだけ人類が進化し、科学が発達し、近代化し、国が豊かになり国力もあるのに何の為すすべもないのである。
アメリカ南部を襲ったハリケーンだってそうだ。
こんな時先日TVで「人間の脳に潜む 地球破壊のメカニズム」という内容で養老孟司が秘境でそれを解明する番組を思い出す。すなわち「脳」という知(理性、意識的、合理的な解釈、「ああすればーこうなる」という因果関係、すなわち科学、近代的思考)の発達は、人間を「肉体」という感性(五感、意識下、非合理、混沌、未開といわれる、もやもやした部分)から人間を解き放ち、人間に秩序や合理性を味わわせ、それが脳に快感を与えた。そして脳はどんどんその方向に進むのであるが、それこそが自然破壊、地球破壊につながっている、と解くものである。脳ばかりを発達させて、自然である肉体の声を無視するためにストレスなどが生じると同様、環境の場合も、「脳」に当たる「都会」に対しての「緑」、「田舎」の都市化が進み、すなわち近代文明の発達、近代化、コンピュータ化が発達しすぎてしまっているゆえに地球破壊の方向に進んでいるとというのであるが、これらは今までも言われてきたことであろう。
しかしその中で私の心に残ったことがあり、これも当然のことかもしれないが、自然(肉体)は決してコントロール(征服、支配)はできず、それと対話するしかないという言葉である。すなわち、自然には人間の論理や理性で測れるような因果関係、ルールなどはなく、それを知るにはただ対話をするしかない、その声を聞くしかないということである。「秘境」の人々はそうしながら生きて来たのである・・・と。
「台峯を歩く会」のKさんが常に言うのもそのことであった。この自然をどうしたらいいのか、その答えは直ぐには見つからないと。自然はその土地土地によって全て違う。年によっても違う。だから学者の説も研究も、参考にはなってもこの場所に全て当てはまるわけではない。いつもいつもこの自然と付き合うことによって、どうしたらいいか考え、試行錯誤していくしかないのだ・・・・と。(昔の人は生活の中でそれをやってきたのでした)それが「里山」の「手入れ」だと。しかし役所の管理下に置かれるとそうは行かないであろう。しかしこれは別の問題なのでこの辺で終わります。
閑話休題。
こんな風に依然とつづく梅雨空の下、コンサートに行ってきました。内容は「真夏に聴きたい名曲集」と銘打ってモーツアルトを最初と最後に置いた、いずれも楽しくさわやかな曲、それに身を浸しながら脳も身体も共に快感を味わいながら帰ってきたのでした。
   モーツアルト(ディヴェルティメント ニ長調 K.136)
   ヴォルフ(イタリア風セレナード)
   ヴィヴァルディ(協奏曲集「調和の霊感」から第8番 イ短調)
     休憩
   バーバー(弦楽のためのアダージョ)
   チャイコフスキー(アンダンテ・カンタービレ)
   モーツアルト(セレナード第6番 ニ長調 K.239 )
この家も丘の中腹にあります。この下の町は、床上浸水したことがありますし、このあたりも崖崩れの危険が常にあります。そうならないようにと、これからの梅雨空に向かって祈るしかありません。

カテゴリー: 北窓だより | コメントする

青田と半化粧 鳥・蝶・蝉たち

第3日曜日なので「歩く会」の日である。猛暑が続き、蛍を見たことで十分満足してサボろうと思ったのだが、曇り空で少し気温も下がったようなので、思い切って参加することにした。昨日の暑さの中、今日の日のために歩く道の草刈をして下さった方々(これも毎月前日に行われ、そういう人たちの地道な努力によってここが残ったのである)には誠に申し訳ない。良いとこ取りばかりしている会員なのだから。
最初は暑さのためか集まりが悪いようだったが、初めての人もかなりいて、30人近くになったようだ。その中にはNHKの趣味の園芸を担当していたマチダテルオさん(?)とその友人5人もいて、彼らは人間が造った美しい財産を見て歩くことを続けているそうで(例えば石垣の美しいさなど)、ここもその一つと思って早起きをして東京からやってきたのだという。近郊にこういう自然そのままな谷戸がまだ残っていたのかと感嘆して帰っていかれたようであった。
この日は八雲神社のお祭りの日で、歩いていく道すがら神輿に出会う。
2つの田圃はまだ健在で、80センチぐらいに育った青い稲がすがすがしかった。その上をオオシオカラトンボ(ここにはシオカラよりも少し大きいこれが多いと言う)がすいすいと飛ぶ。これは雄だとのこと。それぞれ縄張りを持っていて、それを守りながら雌がくるのを待つのだ・・・と。
鳥の声はウグイス、ホトトギス。ホトトギスはもう終わり頃だとか。どこへ帰っていくのかな・・・ウグイスはまだ残り続ける。今回はかなりの鳥がウォッチできました。見晴らしの良い尾根筋では、木のてっぺんでしきりに囀っているホホジロ、枝伝いに歩いていくコゲラ、蛍を鑑賞した池ではカワセミ(まだ羽が茶色に近いオレンジだから幼鳥だと教えられる)。声だけはコジュケイ(これは我が家でも聞こえます)。
花は白いヤブミョウガ、黄色いダイコンソウ、ヒヨドリ花、薄い紫色はヒダケサシ(?)、合歓の花はもう終わりごろだが、場所によってはまだ盛りで美しい木も・・・。真っ赤なカンナが群生しているのは老人の畑と呼んでいるところで、これは人が植えたものである。その向こうのカラスザンショウの花はブロッコリーみたい。
蛍の夜にも白く映えていたハンゲショウ(半化粧)に昼間にお目にかかる。誠に不思議は花である。白い蓼のような花が咲くころ、葉っぱが半分お化粧したように白くなる。これは花が地味なので昆虫を呼び寄せるための作戦ではないかとか・・・・。
それらの花の上を蝶も飛び交い、ここに多いモンキアゲハ、クロアゲハなど。蝉のニイニイゼミが鳴き始めていた。最近、昔はいなかったナガサキアゲハガよく見られるようになったのは、やはり温暖化のせいであろうと。
その他特筆すべきものは、樹液が出る大木が少なくなった中にまだそれを出して、クワガタもくるらしい洞にはカナブンが集まり、また同じような谷戸の薄暗いところの大木の洞にはこの間も見た野生の日本ミツバチも風の唸りのような羽音を全体で立てていた。
水中には蛍の餌になるカワニナやマシジミの姿もあり、道端ではシュレーゲル蛙という小さな青蛙も見ることが出来た。
灰色の空からは少し雨もぱらついたり、薄日が射したり、谷に入ると涼しい風も吹いてきて、歩くにはちょうど良い空模様となりました。

カテゴリー: 台峯を歩く | コメントする