「ドストエフスキー」ブームについて

ソフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が、50万部を越えるベストセラーになっていて、翻訳本としてはこれまでなかった出来事だという。このような古典の新訳本は若い人の興味を新たに引き出して、村上春樹をはじめいろいろな人がそれぞれ新訳に挑戦して新たな読者を掘り起こしているようだが、長大重厚の見本のような、しかも翻訳本がベストセラーになるのは、やはり不思議な現象である。
その訳者である亀山郁夫氏の話を最近聴いたり見たりすることも多いが、先日のテレビで「罪と罰」についての話を聴いた。その時心に残った言葉がある。
亀山氏によれば、「罪と罰」は最後の童話だという。最後という言葉をもっと聞いてみたかったが、童話という言葉に私はなるほどと思ったのだった。そして前回、「彼岸花はきつねのかんざし」の感想を述べたとき、私はこういう重い出来事(殺人、すなわち戦争、原爆)は、かえってファンタジーのようなものでなければ表せないものがあるのかもしれないといったようなことを言ったが、その気持にどこかフイットするのを感じたからである。
童話、ファンタジーは、リアリズム文学と対照的なものである。リアリズム文学の最盛期である19世紀の代表的な作家であるドフトエフスキーの作品を童話といった真意が判るような気がした。リアリズム文学は現実を写し取ったものである。このバックには自然科学の発達がある。最たる物が自然主義文学で、ゾラなどは科学的な眼による分析で人間社会や人間を捉えようとした。(それゆえにこういう潮流に対して最後といったのであろうか)
自然科学、すなわち理性は、現実しか見ない。その力は強大で文明を急速に発展させた。神を殺し、妖精や物の怪や幽霊など見えないあらゆる物を駆逐した。山や川やそこに暮らす生き物たち、それらと未分化な状態でいた人間は科学的な眼を獲得して、かれらを対象化して、征服していった。
前回でも挙げた「日本人はなぜキツネにだまされなくなったか」にも、それは日本人が文明開化していく時期であったと指摘している。また日本人が騙されていた時でも、やってきたヨーロッパ人は決して騙されなかったという。私も多分、決して騙されないだろう。
「罪と罰」は、殺人が主題である。
亀山氏は、これを中学1年生の時夢中になって読み、あたかも主人公ラスコーリニコフになった気持になったという。だから暫くは警察に目をつけられるのではないかと、怯えた気持ちにさえなったというのである。すなわち主人公にすっぽりと同化したのである。子供向けの絵本にしても物語にしても、読み聞かせをすると子どもたちは眼を輝かせ、すっかりその世界に没入する。そこには現実もファンタジーも同じである。亀山氏は、そういう読み方で「罪と罰」を読んだのであろう。もちろんまだ少年であったということにもよるが、そういう力を作品が持っていたということである。
これは殺人が主題であるが、殺人を描いた物でも、またそこに至る心理を描いた物でも、社会情勢を描いた物でもない。ドキュメントではない。ここでは、人は人を殺してもいいのか、すなわち聖書にある「人を殺すなかれ」はどうして正しいのかを深く問いかけるものである。天才である人間が(そうでなくても人は自分をこの世で一番と考えることから自我が始まる)、世に害を為すだけの醜い人間(高利貸しの老婆)を殺してなぜ悪いのか。それを描こうとするものである。ここには哲学的な宗教的な、現実を越えた問題がある。それをあたかもリアリズム文学のように構成し描いているのである。
今、思いがけないさまざまな殺人があちこちに発生している。「なぜ人を殺してはいけないのですか」という問いが、平然とまかり通っている。それに大人たちはちゃんと答えられるだろうか。汚く臭く人びとに目障りなだけのホームレスなどは、殺した方が世のためになると嘯いて石を投げ、火をつけ、殺しにまで至る少年。こういう時、眼に見える事柄だけで論理的に説明したとしても、納得させることは出来ないだろう。現に民族や国家、宗教規模ではそういう理論がまかり通っているのだから。
そんな時、人を殺してはどうしていけないか、この小説を読むことによって、いわゆるバーチャル体験をすることによって、それが身にしみて判ると亀山氏は言う。だから若い人にこれらをぜひ読んで欲しいという。「カラマーゾフ」は、親殺しである。これも今日の問題でもある。
このことは今のテロについても言えることで、彼らの正義を単なる理論では覆すことは出来なくても、もし彼彼女らがこれを読んだならば、人を殺すことを思いとどまるかもしれない。それだけの力が、多分文学にはあるだろうし、それが言葉の、文学の力だと言っていいかも知れない。そして、今この不安に満ちた危機的な時代、若者たちはただ現実をリアリスチックに描いたものではなく、もっと大きな深い世界を、象徴的に抽象的に、しかもリアリズム文学の手法で描いたこれらに魅かれるのかもしれないと思った。
昔、日本が戦争への道をたどり始めた頃、「描写の後ろには寝ていられない」という、有名な評論が出た。これは緊迫した情勢の中で、のんびりとリアリズムだけに頼る文学に苛立ちを示したものだが、結果としては、プロレタリア革命や戦争反対のスローガンやメッセージとしての文学しか生まれなかったが、これからはどうであろう。
リアリズムだけではもう描けなくなった現代社会、折りしも島田雅彦氏が新しく新聞連載を始めたが、最初の大いなる抱負として、今日のさまざまな問題を今度はファンタジーの手法で書くのだと語っていた。
期待して読んでいる。

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朽木祥・作『彼岸花はきつねのかんざし』を読む

今年も早々にファンタジーの新作を出された。一昨年、第一作の『かはたれ』で、大賞をはじめ3つもの賞を独り占めなさったが、その後毎年一冊ずつ上梓されている健筆ぶりで感嘆するばかりだ。
前作2冊は福音書店からだが、今回は学研の新・創作シリーズからである。絵は、ささめやゆき氏である。
前2冊も、その感想をここに入れてきたので(`005.10.26と`006.12.17)、今回も書くことにしました。いろいろと考えさせられることがあったからです。
これは、のどかな春の或る日、れんげ畑に寝転がってうとうとしている女の子(也子=かのこ)が、ふと子狐らしきものを見ることから始まり、その後秋までのお話です。それは確かに狐の子どもで、しだいにその子狐と仲良しになっていき、話す言葉も聞こえるようになっていきます。
作者の前作も河童と人との交流が描かれていますが、ここではそれが狐です。ここではただ女の子だけではなく祖母や母、村人たちの狐に化かされる話がたくさん出てきます。昔はそういう話が多くありました。狐だけではなく、狸や狢、人に身近な動物たちに人は化かされていました。この辺りの語り口は民話風で、それゆえに作者の出身地である広島の風習や方言が、もちろん注をつけてですが紹介され、その当時の村の暮らしや遊びの様子が、女の子の目から見た形で楽しくありありと描かれています。これらは私にとっても懐かしい風景であり暮らしです。
そうです、これは今日の話ではなく、60数年前のお話です。
これまでも同様ですが、作者は自然の中での人間と動物の交流をファンタジックに描いているのですが、その底には秘められた意図があります。
作者は原爆2世。詳しいことは聞いていませんが、近しい人にはたくさん体験者があるようです。
このお話は、そのピカドンが落ちるまでの、村のなんでもない、しかし豊かで活き活きしていた日常、狐たちとも当たり前のようにいっしょに暮らしていた日々が語られているのです。
このことを知っている私は、これを読み進むにつれて、少しどきどきしました。いつそれがやってくるだろう・・・と思うからでした。その頃にはもう也子と子狐は鎮守の森や竹林、ひめじょおんの原っぱで遊んだり、とつとつながらお話も出来るようになり、プレゼントをするようにもなっていました。
しかし、とうとうその日がやってきました。
町ではなく在で、しかも鎮守の森と裏の竹やぶが盾のようになっていたため、也子の家の者は幸い皆無事でしたが、町に出かけた者は帰ってはきませんでした。そして也子もプラタナスの木陰にいたために助かったのである。この物語では、その悲惨さについては、もちろんさっとしか書かれてはいません。それで十分でしょう。最期に「おきつねさま」たちが登場する。お母さんをよく化かした、若いおきつねさんは、町に行ったらしく死んで見つかった。子狐は・・・・。その後也子の前には現われませんでした。ただ、地蔵石の前に、也子が欲しいといった白い彼岸花の束が置かれてあったのです。
彼岸花は、死者と交流するお彼岸の季節に咲く花、それを簪にするということからも作者の気持が感じられます。人間よりも動物の方に弱い私は、子狐もピカドンの毒にやられて死んでしまったのではという作者の筆の運びの時にはうっすらと目が潤んでくるのを感じました。
「あとがき」にもあるように、この物語は原爆そのものの悲惨さを訴えようとしたものではないのです。
何が書きたかったといえば、「戦時下のきびしい暮らしの中でも、子どもたちは、元気よくかけまわったり、縁側であやとりしたり、おばあちゃんにお話を聞かせてもらったりしていたのです。・・・・この物語を読んでくださったみなさんと同じように」。「そんなあたりまえの暮らしが奪われることこそが戦争のかなしみなのだと、わたしはいつも考えています」と。そして、戦争とは、一瞬のうちに7万を越える(原爆の死者)の命が失われ、その暮らしや絆が断たれることです。
その暮らしを日常を絆を、甦らすことで、そのレベルから原爆とは戦争とはどういうものかを、考えてもらいたいという気持があるのだと思いました。
これを読む少し前に、私はTVで「世田谷一家殺害 7年目 闇と光」をみました。正月を控えた30日、理由もなく一家4人が惨殺された事件です。今だもって犯人は捕まらず動機も考えられないという事件ですが、その一家は、紹介されている限り仲睦まじい(たくさん一家の写真がある)、羨ましいような家族で、恨みを買いそうにもないのですが、ここではその事件そのものではなく、2所帯住宅の隣に住み家族ぐるみで仲良く付き合っていた、奥さんの妹に焦点が当てられていました。
これまで密接に付き合い、暮らしを共にしてきたような姉夫婦と幼い子どもたちが、数時間の間に、突然理由もなく皆殺しにされ、その目撃者となる。その驚愕と喪失の悲しみ、後悔(なぜ隣にいながら助けることが出来なかったか)は想像に余りあります。もちろん殺された者の無念は当然ですが、残されたものはその悲しみと無念さを一生重たい荷として背負うことになります。そこからいかに立ち直って行ったかが、たどられていました。なぜ?という思い。不条理ともいいたくなるような状況の中に、想像の上でも自分を置いてみるとその重たさが分ります。
彼女は、周囲の励ましもあって徐々に回復の道を歩むのですが、最近絵本を出されたことを知りました。
その絵本の内容は、4人との交流の日々、楽しかった思い出を描いたもので、『ずっとつながっているよ』という題です。その絵の内容も少し紹介されていましたが、とても綺麗で楽しい絵本のようでした。そしてそこでの物語の主人公は、4人が大切にしていた「熊の縫ぐるみ」です。
その熊さんが2人の子ども、そしてお母さんお父さんに可愛がられていて、ある日突然彼らがいなくなったという設定であるに違いありません。
どうして彼らがいなくなってしまったのか、楽しかった日々がどうして突然なくなってしまったのか、熊のプーさん(という名ではないのですが)は、どう理解して良いか分らないでしょう。それが突然命を断つという殺人なのです。
一人の人間が行うその悪を、国家規模で行うのが戦争であり、原爆投下だと言うこと、そして片方の主人公が、子どもたちが可愛がっていた熊の縫ぐるみであること、もう一方が子狐であることに、不思議な暗示を感じました。
真に重たい問題は、ファンタジーでしか表せないのかもしれないと思いつつ・・・・・。
もう一つ、思ったことがあるのですが、それはあまりに長くなるので省略することにします。
ただこれも最近読んだ本、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(内山節)講談社現代新書、によって、キツネに化かされていたというのは一体どういうことだったかを考えると、このファンタジーがもっと深く鑑賞できるように思われるからです。くだくだしく書き連ねましたが、我慢強く付き合ってくださっていた方がいらっしゃいましたら、感謝いたします。

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雪降り続いたT温泉行き(23年目)

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今では恒例となったT温泉に、今年も出かけました。
30日夜から降りだした雪が、帰る日の3日まで絶え間なく降り続き、これまでにない雪に埋もれたお正月をすごしてきました。参加者は8名、新しい人もまた若い人もいないほぼ常連だけの一行となりました。
大晦日の前日、確認の電話があった頃から降り出したと思える雪が、年が明けてもずっと止むことなく続き、大雪となってしまいました。
初雪後ほとんど降らなかった雪がやっと降りだしたと聞いて、迎えの車の中で、「私たちを歓迎して降ってくれたよう・・・」などと不謹慎な言葉をつい発してしまいましたが、地元の人たちには大変であることが次第に分ってきました。宿のご主人の顔がどこにも見えないので、どうしたのかと思っていましたが、男性たちは雪対策で、外へ駆り出されていたからでした。
一夜明けた元日はもう新雪が一メートルほども積もっていて、何もしないで置くと車などは雪から掘り出さねばならないほどなので、絶え間なく道路の除雪はもちろん車なども雪下ろしをしておかねばならず、帳場にいることは出来ないのでした。
2日目の夕方頃、やっと忙しそうに館内を歩くご主人と出会って、挨拶を交わしました。
一昨年も記録的な豪雪で新幹線もぎりぎりまで不通になって心配しましたが、昨年は全くの雪不足で道路が乾燥しているほど、そして今年は降るとなればこのように絶え間なく降り続くという極端さ、やはり異常なのでしょうか。
今年はスキーに出かける人もなく、温泉と雪とお酒と時々はテレビ、それぞれ勝手に読書など静かにすごし、大晦日の鴨鍋に始まるいろいろな鍋、炭火で炙った岩魚や鮎の串焼き、手をかけた山菜やキノコの小鉢などのこの地ならではの料理を楽しみました。
持込の酒は古風な瓶に入った琉球泡盛、泡盛を長期保存した古酒(クース、味も香もまろやかに素晴らしくなる)と LAPHROAIGというスコッチウイスキーのモルトの10年もの、これはスコットランド沖にあるISLAY島で作られたものらしく村上春樹のエッセイの中に出てきたというのだが、私はまだ確認していない。どちらもその香りといい、きつさといい、なかなかの物で皆でちびりちびり賞味しながら頂きました。持ってきた者もエッセイの題の記憶が不確かで、推測するに『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』の中にあるのではないかと思うのですが、まだ調べていません。
連日雪は止むことなく、寝ていると次々と大砲のような音を立てながら落ちる屋根の雪に驚かされます。しかし風がそれほどではないのが幸いで、2日には雪をついて川下の大湯まで散歩しました。新雪だけで出来た2メートル近い壁、道路は除雪車と雪国ならではの工夫で水は流れていても歩きやすいのですが、やはり長靴でなければダメで、わざわざ持って行った私の長靴は大いに活躍。これは初期の頃小出で買った物なので、この靴も雪国への里帰りで満足したことでしょう。
大湯では、熊野神社の隣に共同浴場が新設されていました。「雪華の湯」と名づけられ、外には足湯もありました。ここのスーパーで土地の白ワインを購入、持込の赤ワインボージョレヌーボーと共に帰ってからワインタイム。
残念だったのは餅つきが3日になったこと、この大雪で2日は男手が揃えられなかったということでした。ということで、餅つきを前にして3日、帰途に就いたわけですが、駅までの道はそれほど困難はなく(一昨年は吹雪模様で大変でした。時間に間に合うかどうかとはらはらしました)、すいすいと到着。道筋ではあちこちで雪下ろしをする姿が見られましたが、滑って雪の埋もれたら一たまりもないなあと思われる雪の量でした。雪も少し小降りになり、雲間から少しだけ青空が覗いたりするほどになってきて新幹線乗車。
いつものことですが今年ほどトンネルを境に南と北の気象の違いがはっきりした時はありませんでした。湯沢を出ると後はトンネル、トンネルの連続、クジラが息をするようにちょっとだけ地上に顔を出すことがあっても、後は延々と地中の闇の中、そして地上に顔を出した時はもう雪は全くなく太陽が燦燦と降り注いでいる。あの大雪はどこへ消えてしまったのだろう?と不思議な感覚に陥ります。
私が地球を風船のように手玉に取れる大男だったら、日本海側の雲の群れを手で掬い上げて太平洋のからから天気の野山にふりかけてやるのになあ・・・と夢想したくなるほどです。
そんな乾いた土地に降り立つと、何やらあの雪に埋もれた日々が無性に懐かしくなります。
いよいよこれからまた一年が始まる、という気持でこれを書いています。

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「オペラ・アリアと第九」を聴きに行く。

風邪をひいてしまったがマスクをして、恒例となった「第九」を、上野の東京文化会館に聴きに行った。
東京コール・フリーデ第30回記念演奏会で、30回ということから、パンフレッドにはその歩みが振り返られている。それをここに、ほんの少しだけ紹介します。
この合唱団は東京都の職員たちによるものだが、そのきっかけは、パブロ・カザルスが国連総会の場で、ステージから呼びかけた言葉
 「平和のへの祈りとして、ベートーベン(第九)終楽章をオーケストラと合唱団を持つすべての都市が、  同じ日に演奏しようではありませんか。これが実現する日が,世界から戦争がなくなる日だから」
というメッセージを、昭和33年、ラジオで聴いた音楽愛好家が都庁に居たことからドラマが始まったという。
その頃職員の都と区の分断が行われ、クラブ活動も両者に分けられることになったが、このとき前述したカザルスの言葉に感動した人(石葉鴻)が、この「第九」を都と区の職員が一緒になって歌いましょうと呼びかけたことから始まったようである。それを最初は労働組合が後押ししたり指揮者渡辺暁雄氏の肩入れやらを受けながらも自主的に全員で力をあわせ、練習場や時間、資金繰りにも苦労しつつ、次第に成長していく。そして団員も固定したものではなく、ちょうど木々が葉を落とし新しい葉や枝を加えつつ伸びていくように育っていったようである。
共演オーケストラも日本フイル、群馬交響楽団、、東京ユニバァーサルフイルなどと組み、今回は東京シティ・フイルハーモニック管弦楽団であった。そして最近は第九のソロを歌うプロのソリストによる「オペラ・アリア」が加わるようになり、それが次第に年末の風物行事としても定着してきたようである。
そこで今回は、第一部は、ビゼーの歌劇「カルメン」から序曲<闘牛士の歌>(バリトン:成田博之) <花の歌>(テノール:福井敬) 間奏曲<何が出たって怖くない>(ソプラノ:塩田美奈子) <恋は野の鳥>ハバネラ(メゾ・ソプラノ:秋葉京子)であった。
合唱指導も今は3代目、前回も書いたと思いますが伊佐地邦治氏で19年目という。忙しい中での熱心な指導で、減少しつつあった団員も今回は200人を越えたようである。メンバーも高校生からかなり年配の人までと幅広いそうだが、少ない練習時間を効率的に集中してプロに対応できるまでに歌いこまねばならず、それぞれ今日は記念すべき晴れの日になるにちがいない。その熱意が伝わってくる。
名称も「都区職員第九を歌う会」であったのを、今の名前に変えたのは4回公演後で、「東京コール・フリーデ」とはドイツ語でコール(合唱)、フリーデ(平和)を意味する。
そして終演後の舞台上の解団式(毎年結団式と解団式をやるようである)で、伊佐治氏の今こそこの第九の精神、平和と平等と人類愛を・・・の願いが切実な時であり、これを歌い上げ若者たちにも訴え伝えたい、というスピーチに頷きながら、来年もこれを平和の中でこれを聴きに来られるようにと願いつつ帰途についた。
紅葉は少し遅れていて、銀杏が今盛んに金色の落ち葉を散らしていた。
      

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民芸「坐漁荘のひとびと」

昨日の新聞にこの劇評が出てしまったので書きにくくなりましたが、ここに書かれていないことを少し書いていくことにします。
小幡欣治:作、丹野郁弓:演出のこの新作に対してはほぼ好意的な新聞評で「陸軍将校による二・二六事件を背景にした、女たちの外伝劇の趣がある」というのはなるほどと思った。西園寺公望(大滝秀治)の静岡の風光明媚な興津にある別邸(今は明治村に保存)を舞台にして、表舞台である政界の最期の元老と言われる西園寺と、その私生活の場に奉公する女たちを描くことで、その背後にある時代や社会情勢と同時にそれに翻弄される庶民の姿が描かれるからである。
昔、その屋敷に奉公していた元新橋芸者つる(奈良岡朋子)が、再び女中頭として奉公を要請されたことから話は始まる。小幡さんは昨年の同じ季節、ここで公演された「喜劇の殿さん」(古川ロッパを描いた物)でダブル受賞されたそうだが、最近は民芸での作品を多く書かれるようになった。東宝という商業演劇の大きな舞台で活躍していた氏が、新劇という地味で真面目な世界に帰ってきたことは、民芸にある種の面白さ、楽しさを引き入れた感じで、年末の三越劇場での公演に多いのも納得できる。今回も役者はそのほか樫山文枝、水原英子、鈴木智、伊藤孝雄ら多くの中堅が脇を固め、総勢20数名の華やかさだった。
時代は日本が戦争のへの道へ踏み込んでいく過程で、クライマックスは2・26の日、この別邸(西園寺は軍部の横暴に批判的だった)にも襲撃部隊がやってくるという報が届く所だろう。万一であってもその時はここで討ち死にする覚悟と言う西園寺に対して、犠牲になる女中たちのことを考えてくれと、つるは直言し、それを聞き入れ避難のために他所に移る。
その後屋敷では、最初は西園寺の替え玉などをこしらえたりはするものの、つるは最期は無血開城の手段を取ることに決める。すなわち随所にこのように男の硬直した正義と論理、戦いに走る男の姿を突き崩す女の眼を感じさせる。
小幡さんは戦争体験世代である。そして描く物は多く庶民である。英雄豪傑は書かない。それなのになぜこれを書いたかというと、そこで暮らす女中さんたちはどういう生活をしていたか、そして西園寺さんがどういう生活を、また交流をしていたかを知りたかったのだという。
最後の場面は、2・26の処分も終わり、戦争への暗雲が立ち込め始めた頃である。西園寺は高齢の身を押して、元老として最期の忠告(戦争をしてはいけないという)を直接天皇に申し上げようとしてステッキを手に、つるに支えられながら踏み出す。
新聞評では「最期の幕がうまく切り落とされていない」とあったが、ちょっと戯画化された終わり方(幕寸前)は面白かったと、私は思う。
演出の丹野さんは、この男の世界と女の世界とが絡み合っていない気がしてそこをどうするか、悩んだという。その結果、男と女の世界は、当然一本の糸にはならないこと気づいたという。それぞれが、あらゆる立場でそれぞれの戦いをしているのだ・・・と。
それで舞台装置では西園寺や執事、警備主任らの物語の場面が繰り広げられる応接間と、台所が舞台の正面の左右に並べられ、交互に展開していく形(片方に照明が当たっていても一方も動きがある)にしたそうだ。そうすることで、政治の世界がある一方で、つねに生活者の世界が一方にあるということを表現しようと思ったそうである。
舞台が跳ね、外に出るともう真っ暗だった。東京駅への人気も少ない道を、ビル街の芝生の星やトナカイ、街路樹などのキラキラした電飾を眺めながら帰途についた。これも私の最近の年末の一風景となったようだ。

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博多うどん

昨日、民芸『坐漁荘の人びと』を観に行った。
年末の公演は、三越劇場となることが多い。大抵は東京駅から行くので、年末の駅の賑わいやビル街の年始にかけての装いなどを眺めながら、常盤橋のほうから歩いていく。
それでこの日のお昼は、久しぶりに東京駅南口の八重洲ビル地下街にある「博多うどん」を食べていくことにした。
昔九州から上京してきたとき、いわゆるカルチャーショックのような物を感じたけれど、うどんについてもその一つだった。東京のうどんは、汁の色が醤油色で濃い。向こうのは関西風に昆布だしで白っぽい。濃い、醤油だけで味付けしたような、うどんなどは○○が食べるような・・という風に差別語で軽蔑されるほどである。博多に、いや厳密に言えば福岡に帰ったときなど、何が一番食べたいかと聞かれると私は、「うどん」と答える。そして暫くはうどんばかりを食べ歩く。
「博多うどん」は健在だった。よくもこのような小さな、安いうどんだけしか置いていない店が、趣向を凝らし贅を尽くし、華やかな店が軒を連ねている中に生き残っているものよと思う。
正午を過ぎた頃だったが店は空いていた。土曜だからだろう。平日だといつも満席で混みあっている。たぶん近くの店員とか会社員が利用するからだ。いつも私は丸天うどんを食べる。丸天とは、さつま揚げのことで、その形の丸い物を指す。向こうでは、さつま揚げに類した物を天ぷらと呼ぶ。天麩羅も天ぷらである。さつま揚げも、「練り物」を揚げることでは変わりないからであろう。
しかしこの日は、ごぼう天にした。最近おでんにすることが多く、練り物を食べることも多くなっていたからである。ところが、「うどんだけですか?」と言われて、オヤ?と思いめぐらすと、厨房前に垂れ下がっている紙が眼に入った。ランチ定食というのが2つあって、Aが「博多うどん+いなり寿司」、Bが「ごぼう天+いなり寿司」とある。ああ、そうか。うどんは消化がいいので、男の人は大抵そのほか何かを取らねばお腹が持たない。
そういわれてみて、そのお稲荷さんも食べてみたくなった。ダイエットのことなどは考えないことにして、それを注文してみたのだった。これで740円(ごぼう天だけだと640円)。
天ぷらと名の付くものはこれだけである。かき揚げも、また値の高い海老天もない。一番高いのは鰊を載せたものぐらいだろうか。
このうどんの特徴といえば、特徴がないのが特徴というべきだろうか。讃岐うどんのように腰があるわけでもなく、姿だってどこにでもあるうどん、どちらかといえば柔らかく年寄りや子どもにには良い感じで、しいて表現すれば、しなしなつるつるした柔らかさで、なよやかな女体が湯船につかっている感じ。汁も始めはほとんど白湯ではないかというほどに薄いのだが、何度か口にしているうちに味がじわじわと広がってきて、いつまでもこのまま味わっていたい気分になるのである。それで塩分を考えれば汁は全部飲まない方がいいと思っても、最後の一滴まで味わいつくしたい気になるのである。
さて、食べにかかるのだが、かの地のうどん屋の特徴としてテーブルには丼くらいの大きさのすり鉢が必ず置いてあって、刻みネギが常に山盛りになっている。それをたっぷりとかけて食べる。もちろんここにも置いてあるのだが、皆白い。向こうでは青くて細い葱。香の良い、ビタミンもたっぷりありそうな細い刻み葱は白いうどんと見た目も美しいはずである。それに唐辛子の赤い色。
いなり寿司は、甘ったるくなく何となく家庭で作るような味であった。
とにかくうどんにしても稲荷寿司にしても、特別に目立つようなところはなく、贅も尽くさず洗練もされず、自己主張もなくといって卑下してもいない。淡々とした日常のような顔をしているのである。それはお袋の味なのかも知れない。だから時々食べたくなるのだろう
汁が白いものでは、有楽町の大阪のうどん、いわゆる、けつね即ちきつねうどん屋があって時々行ったが、無くなってしまった。新宿の紀伊国屋ビルの地階にも小さな店があるが、何となく落ち着かない。
またこの店には、学生食堂でも置いているようなチリ蓮華に似た木の匙のようなものもないので、熱い鉢を手で持ち上げて啜らねばならない。まあ町中の食堂という感じで飾りっ気もない。それゆえにきらきらした店に囲まれて気持が休まるのかもしれない。
地下街を抜けて駅の北口から地上に出て、常盤橋のほうに歩いて三越を臨む。銀杏が今黄金色に染め上げられ足元もまた落ち葉が散り敷いていた。師走なのに日ざしは暖かく風もなくその下に立ち、私はクリムトの画の中にいるような気分になりながら黄金色に包まれる。
公演については、次回に書きます。

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木の実の季節

先月は北海道行きのため休んだ台峯歩きに今月は参加、朝は冷え込んだが、日中は暖かく秋晴れの気持の良い一日だった。
紋別での黄葉に包まれた日々が夢のように思われるほど、ここではまだ微かで、やはり例年より遅れている模様。それで今回は、特に木の実に注目しながら、そしてそれに集ってくる野鳥の姿や声を・・・とい歩きになった。総勢は16人ほど。
先ず目に付いたのは赤い実がかたまって下がっているビナンカズラ、コマユミ(マユミの小型)などは、住宅の中にもある。クロガネモチの大木にも赤い実がたわわだったが、これはわが家にもあって伸びすぎて屋根にかぶさってもきたので切らざるを得なかったのだが。それでこれに集っていたヒヨドリが来なくなって寂しい思いをしている。タラノキ、ミズキ(赤い茎に黒い実が美しく、山珊瑚と言われる)、アカメガシワ、ハコネウツギ、いずれも鳥の好物だという。種は赤い実に包れていることが多いが、クサギのように赤い萼が花びらのように開いた中に黒い種があり、そのコントラストも鳥に目立たせるためらしい。ムラサキシキブの実も確かに目立って美しい。高木になった野生のそれは甘いというので口に入れてみた。成るほど薄甘い味がする。実はあまり大きくない。見事に園芸種に改良されたものは口にする気にもならないが。ノイバラはローズヒップとしてハーブの仲間になる。イヌビワの実、これは黒く熟せば食べられるそうな。そのほかカラス山椒、ハゼ、合歓、シデ、この時期は実りの季節である。
それでこの道筋の田んぼの実りはどうかというと、もう稲刈りは済んでいて、稲架が出来ていた。暖かかったせいか切り株からまた葉がつんつん伸びて、実も(二番穂)つけている。これは人は食べないが、鳥たちの餌になるという。それなのになぜまだ鳥よけの網を掛けているの? と訊ねると、いやまだ網を取り込んでいないのですよ・・・と。まさにこの辺りでの田んぼは趣味か物好きでやらねば採算は取れないのである。噂によるとこの田んぼの持ち主は、半分はアメリカで暮らしているとかで、その半分を日本にいて田んぼ作りをしているらしい。いまの時代、贅沢な暮らしだなあ。実際はどうであれ、この田んぼがいつまでも残って欲しいものである。
澄んだ秋空に耳を澄ませば鳥の声は聞こえるが、姿はなかなかつかまらない。声はメジロとシジュウカラ(これらはわが家の方が間近に見られる)、アオジ(これもこれからこの庭でお目にかかれる)、ウグイスの笹鳴き、ヒヨドリはどこでもよく聞かれ、ルリビタキ、クロジ、カシラダカを見たかったが私の眼にはとらえられない。
ニホン蜜蜂の木の洞の巣には、少数ながら越冬する蜂たちが健在で、すでに群れを解散したスズメバチの女王が、越冬地を探して飛び回っていた。この時期は危険ではないといい、またこれがいることが自然の豊かさを示すものでもあるとのことであった。
ところで朗報。この台峯ができるだけそのままの形で残ることが、これまでは口約束のようなものだったが今度はっきりと、都市計画の中に市の買取と保存の確約が文書として成立したということである。内容についてはこれからも話し合いや監視の必要はあるけれど、とにかくこれまでの活動が形として実ったのである。しかしここに至るまでの困難、その歳月、費用、労力、これを見届けないで亡くなった人たちも何人かいて、自然を守るということはやはり並々ならぬ努力が要るというようなことを代表者は述べておられた。
どこであっても、自然を含めて昔のよき姿が残り守られているのは、そこに住む人たちの並々ならぬ努力がその背後にあるからで、それは通りすがりの者の眼には見えないという言葉は胸に響く。
実はこの谷戸の自然を写したカレンダーが今年は作られた。ここで生まれ育ったカメラマンが毎日のように歩きまわって撮った中から選りすぐりの写真で、芭蕉、一茶、子規の俳句を添えながらここの自然の魅力を紹介するものある。僅かながらもその販売の利益は基金として利用するということだったので、ここでも宣伝しようと思っていたのだが、たった250部しか作らなかったそうで、関係者だけでも足りないくらいになっているとのことで、残念です。そこでルリビタキの可愛い姿をしみじみと見ています。

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北海道(道北)に滞在してきました。

紋別郡の小さな村のコテージに毎年春から秋にかけて滞在しているTさんの誘いに乗り、一週間ほど北海道を味わってきました。
近くのホテルに素泊まりで宿をとり、ほとんどご夫妻の世話になりつつ、5年間の経験を活かした車による案内で、あちこちの温泉と道中の紅葉、有名な美瑛に劣らぬ草原・牧場風景など、また豊かな村の自然の恵みの新鮮さ美味しさをも存分に味わい楽しませてもらいました。地形的にもオホーツク海と日本海の両方を見ることさえ出来たのでした。
この小さな部落は、山脈の北はずれの起伏の多い山々に囲まれた山岳地帯、二つの川に挟まれた林業と農業で成り立っていた村です。最近は豊富な自然、温泉を活かした近代的なコミュニティー施設も完備し、「夢」と「小さくても輝くむら」をモットーにしているとのことで、Tさんの農園つきコテージや泊まったホテルもその一つであるようです。
北海道に行くのは初めての私。札幌も小樽も行ったことがなく、はじめての体験がこの村だというのは珍しいとTさんは言いながらも、それはいいことだ、なぜならこの地方にこそ、まだほんとうの北海道が残っていてそれが味わえる・・・とも。まことにそうだと思える毎日で、Tご夫妻のお蔭ながらまだ北海道の風景が心の中で揺れていて、夢見心地でいます。
書けば長くなりますから、簡単に二つだけ北海道の印象を書くことにします。
先ず誰も感じることでしょうが、雄大でたっぷりした自然の中に車が稀で、人も少ないということ。その例の一つ、飛行場に迎えに来てくれたTさんの車に乗って村までほぼ1時間の間に対向車は一台もなく、村近くになってやっと2台に会いました。人も少なく時たま歩いている人を見ると、どこに行くのだろうと不思議に思えるほど。むしろ動物や鳥に、牛や馬は牧場には当然ですが(晩秋ですから数は少ない)、やはり感動したのは、キタキツネに会ったこと。鹿にも会いましたが、熊には幸か不幸か会えませんでした。
次に紅葉が素晴らしかったこと。暖冬のせいらしくまだ紅葉は残っていて、というより盛りを継続していて、どこに行っても紅葉、紅葉の日々を送りました。その紅葉も京友禅のようなものとはまた違う、西欧風景画にあるような白樺やダケカンバなど高木で濃淡のある黄葉を主体とした森や林がとこまでも続くといった感じで、そのなかにもナナカマドやカエデの紅、常緑樹の緑、まだ緑色をした牧草地が得もいわれぬ彩を奏でている所などもあり、大げさかもしれませんが一生涯の紅葉を見た感じになりました。それはやはり北海道の広さ故であり、そのなかを車で移動し続けたからかもしれません。
温泉も石油の匂いのする、しかしアトピーなどには効き目があるという最北端にある昔からの鄙びた温泉、またお砂糖を持っていって入れて飲むとサイダーになるというほどの胃腸に良い炭酸の強い温泉、近代的設備の整っている一日楽しめる温泉など連れて行ってもらいましたが、この辺はいたるところに温泉があり、この辺に住む豊かさを感じ羨ましく思います。
なおこの地に古きよき北海道が残っているというのも、一つには道内でも過疎地であることを示しているのでしょうか。廃屋もあちこちにあります。
宗谷本線と平行して走っていた天北線が1989年に廃線となり、その駅の跡、歴史資料館なども幾つか残されていましたが、それを見ながら、また古い建物を案内されながら(T夫妻は古いものがお好きなのです)北海道の成り立ちや歴史についてもあらためて考えさせられました。
T夫妻と私は長年の知人でも友人でもありません。ただお二人はどちらも私の相棒であったKの友人で、特にT氏は同僚の先輩として敬愛の気持をずっと持っていてくださり、二人は互いに性格が対照的な面もあって良いコンビとして公私ともに親しくしていたその気持の表現として、死後17年も経った今日のこの接待でもあったわけで、滞在ちゅう常に中心にあったのはその亡くなったKの存在でした。
例年ならばもう末枯れているはずの紅葉が盛りを保ってくれたのも、また滞在中は晴れ続きで予報で雨だといった日も晴れ上がり、発つ日に初めて雨になった幸運ももしかしたら亡き人の采配かもしれないと思いつつ、T夫妻への感謝の気持を抱きながら機中の人となったのでした。

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野外劇場 高校生の演劇 『山姥』

近くの高校から、近隣の住民へこの招待状のチラシが届いた。
ここでも先にこの高校の花火のことを書いたが、演劇活動も活発なようで、本格的なカラーのチラシや紹介された朝日新聞の記事のコピーなども入っていて、面白そうなので出かけてみた。
穏やかな秋の宵、爽やかだがいかにも冷え込みそうな中、高校裏庭の木立をバックにした野外ステージがあった。背景は重なる白い山々と左手の夜空にかかる大きなオレンジ色の蜘蛛の巣。蜘蛛の化身であるという山姥が、人間の子どもを生みたいと思うことから始まる、民話を基にした物語である。
蜘蛛の巣は100メートルのロープを編んで作ったというが、このように大道具から小道具、音響、照明、衣装、メイク、宣伝まで全て生徒の手になるもの、部員は31名とのことで溌剌とした表現力に楽しませられた。
主演の山姥の世界は山神はじめ狐や鼬や蛙等の妖怪たちの奇抜で華やかな衣装、一方人間界の村人たちの質素な衣装もそれぞれ面白くまたふさわしく、雪や洪水、土砂崩れ、炎なども大布を使った場面展開も巧みで、テーマとなる歌から祭りの大太鼓、梟などの声までそろっていて、それぞれの部門で皆頑張っていることが感じられる。
テーマは、山の掟と村の掟、山姥が産んだ子どもを村人に託すことから両者の関係が生じ、そこに生まれる親子愛である。その子が成長し絆が破局へと進んでいく経緯を、狂言回しとしての狐が物語って行くが、山姥をはじめ皆熱演で、中でも大勢で踊る群舞には勢いがあり、いかにも若者のエネルギーが感じさせられる場面であった。
ここまでに至るのはやはり積み重ねがあったようで、熱心な顧問の先生が赴任してきた9年前から活発になったようで、今回は先日の横浜のフェスティバルでは、大人の劇団にまじっての公演も経験してきたとのことである。一時間半の熱演。帰りは入口に部員が全員並んで、まぶしいほどの照明の中、花道を行くように観客は「有難うございました」の声に見送られる。
目潰しの光のトンネルを抜けると、「若い人は、元気が良くて羨ましいね」と年配のご夫婦の声が聞こえてきた。「この次は、何か持ってきてあげましょうか」と奥さん。
私も元気をもらったような気持ちになりながら、冷え込んできた夜道を家路についた。中天にはくっきりと半月が眺められた。

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民芸公演『白バラの祈り』を観る

映画にもなっているのでご存知の方も多いでしょうが、第二次大戦末期ナチの狂気が吹き荒れる中、「人間の尊厳と自由」を求めて立ち上がろうと呼びかける、アジびらを撒いたミュンヘン大学の学生5人が、斬首刑に処せられた事実を基にした劇である。
眼の悪い大学の用務員による密告から始まり(その功績で勲章を受ける)、ただ状況証拠だけで次第に罪状がでっち上げていく(というより追い詰めていく)様が、骨組みだけで作られた舞台の暗転によるスピーディな展開と背後一面に翻る逆卍のナチの旗とあいまって、その恐ろしさが迫ってくる。
この裁判(民事という建前をとりながら短期間秘密裏になされる)は、ベルリンの壁が壊されてから初めて詳しく全貌が明らかになったそうである。
「白バラ」というグループ名は、ビラの署名だが、ただ一人兄とともに行動した少女ゾフィーが次第にグループを象徴するような輝きを持ち始めていく。
純粋で清楚な美しさも、その輝きは短命だという白バラ、それは青春期の輝きとはかなさをも象徴しいているような・・・・。
5人の学生たちは特別優秀でもまた確たる政治的信念を持つ者でもなく、真面目で健全な普通の学生、特にゾフィーは帰京の際は洗濯物を鞄一杯持って帰るような、ダンスが好きでボーイフレンドが気になる明るいフツーの女の子、彼らが1943年の2月、たった5日間で弾圧の槍玉に上がるのである。はじめはこの地のゲシュタボによって、青春期特有の学生の跳ね上がり者の一部に過ぎないと、穏やかな形で処理しようとするのだが、ベルリンんから派遣されたナチのサイボーグのような目付け役の突き上げによって、まさに国家反逆罪へと組み立てられていく。
当局は、それが組織的なものであることを何とか探ろうとするが皆無である。証拠は眼の悪い目撃者一人、それでも捜索によってコピー機を発見。匂いを嗅ぎつけたマスコミをオミットして秘密裏に事を運ぶ手はずは整っている。
ビラを撒いた事は正しいと彼らは言い、自分の意思でやったという。「私たちが書いたことは多くの人が考えていることです。ただ、それを口にすることをはばかっているだけです」、「それを誰かが言わなければならない。誰かが始めなければならない。それをしただけだ」と。
実際、そのビラで決起は起こらなかった。しかし、大学に訪れたナチスの指導者が「次世代を担う健康な兵士を生み育てることが女の務めだ」と演説した時反発を買い、それをきっかけに会場は騒然としたものの、そしてそのことを「白バラ」は喜んだが、たちまち軍隊が投入され鎮圧される。大勢の怪我人が出る中で、周りの住宅は彼らを助けることなくピタリとシャッターを下ろしたままだった。そんな状況であっても彼らは命乞いの署名はしなかった。なぜなら、ビラの文句のような理由からである。
「自由と尊厳! いまドイツの若者が立ち上がらねば、ドイツの名は未来永劫汚される! 1942年夏 ミュンヘン」
汚れのない若々しい彼らと対比する取調べをする尋問官は、まだ人間味の残った男でゾフィーと同年代の娘があることから、せめて彼女だけでも命を助けたいと説得に力を尽くす。世の中の裏表を知り尽くし辛苦を味わいつくし、自分と家族だけでも何とか守りたいと生き延びてきた大人との、調書をとるという対話による真剣勝負が、劇の見所となっている。時には強圧的に、又法や自己の正当性を主張する尋問官は次第に本音を語るようになり、この揺れ動く心情があるため両者の姿をくっきりさせる。最後には、この戦争は終わりに近いことまで、そっとゾフィーに語るまでに至り生き延びるように説得する。
最初は軽く考えていたようなゾフィーが、この取調べの過程で次第に確固とした自分の信念を持つに至り輝きを帯びるようになるのは、ただ文字で読むのとちがい人間の肉体で演じられるからではないだろうか。実際の調書を読んでいないので、このように理路整然と言ったかどうかは分らないにしても次のような趣旨で、彼女は最後には懸命の審査官の努力にもかかわらず、兄たちと同じく死を選ぶのである。
「一番恐ろしいのは、何とか生き延びようと流れに身を任せている何百万という人たちです。唯そっとしておいて欲しい、何か大きなものに自分たちの小さな幸せを壊されたくない、そう願って身を縮めて生きている、一見正直な人たちです。自分の影におびえ、自分の持っている力を発揮しようとしない人たち。波風を立て、敵を作ることを恐れている人達」。
そういう人間にはなりませんという決意である。
自分自身を振り返っても、彼女の台詞に身が引き締まる思いがした。
そして最後にどんなに生きていることが素晴らしいかを語る。朝の光が、そこで囀っている鳥の声がどんなに美しいか、しみじみと味わいながら刑につくという幕切れに(もちろん他の男子学生も同じような心境で)なっている。
60年安保の学生運動の空気を知っている私は、この劇に胸が震えるのを感じた。

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