民藝公演 『プライスー代償ー』を観る

「セールスマンの死」などで知られるアーサー・ミラーの作品。
これも同様、1929年米国を襲った大恐慌後の社会を、一家族の姿を通して描いたものである。(ミラーの父親の会社も倒産した)
一代で財を築き成功者として豊かなブルジョア生活を送っていた父親は一夜にして破産、その後父親が亡くなり、遺された家具を処分するために別々の人生を送っていた兄弟が16年振りに再会する。そしてそこで自分自身、家族、そしてそれを通して経済で動いていく社会というのがあぶりだされてくるといった、心にずしりと来る舞台であった。
互いにすでに娘と息子をそれぞれ一人ずつ持っていて独立もしているという、人生の締めくくりの年齢だが、無気力になって働く事も出来なくなった父の面倒を見ながら、進学も諦め地元で慎ましく警察官を続けた弟は、家を出て希望する医学の勉強を続けて医者として成功した兄に対して抑え難い感情があり、二人の溝は深い。弟の妻は兄弟を仲直りさせようとするが、古家具という遺産を前にして(舞台の真ん中には父親の象徴のように皮製の大きな安楽椅子がおかれている)、当時は見えてなかった真相や互いの思い違いや行き違いが、かえって露呈されて、いまは妻と別れている兄の歩み寄ろうとする気持も、結局逆効果になる。結局は、どんな経緯があろうと、それは各自が選んだ道でありそれを引き受けるしかない。互いに積年の感情を吐き出した後、安易な和解というのではなく、それぞれに、というより弟は、新たに歩みだしていくのである。
THE PRICE は、遺された家具を丸ごと売ろうとして呼んだ古物商がつける値段でもあり、それに絡めて一人の人間の値段、又はこの世で支払わなくてはならない自らの代償、代価という意味となり、ここでは代償と訳されている。
登場人物は、たった四人。ビクター(弟=西川 明) エスター(その妻=河野しずか) ソロモン(古物商=里居正美 ) ウォルター(兄=三浦 威)、この少数の演技者の台詞だけで2時間強を持たせるのはやはり役者だけでなく脚本の構成と会話の力によるところが大きいだろう。(現実には昼食の後だったせいもあって、時々眠気に襲われたりもしたが・・・)
深刻な内容だが、それを茶化すような、時にはしゃしゃり出て邪魔するような古物商の存在が大きい。ちょうどギリシャ悲劇に不可欠の道化のようなもの。ソロモンという名前もそれを暗示しているようだ。
里居さんの、サンタクロースも顔負けなほどの真っ白い豊かな髭が見事である。本物かと質問されるというが、本物で、これに備えて伸ばし手入れしていたそうである。役柄つくりに最初戸惑ったという。確かに不思議な人物で、正体が掴めない。でもあの道化と考えれば理屈では理解できる。愚かでふざけた行為や言葉を発しながら、神のような視点を持ち予言をする。
実は、これは本邦初演だという。解説によると、その当時(1968年頃)、オーソドックスな演劇様式によって作られたこれは時代遅れと見られ、アーサー・ミラーも古い世代の劇作家と思われていたのだという。舞台一杯に積み上げられた豊かな時代を象徴するような重厚な古家具類、一度は置き場所もないと嫌われたそれらも、その当時でも値が上がってきていると古物商が言うが、今ではもっと珍重され見直されている。その戯曲もそれから40年経った今、少しも古くないのである。
むしろ「家族のあり方、夫婦の絆。それらに絡む金銭の問題。1968年の米国社会が、バブル崩壊後の日本のいまの社会と重なって見えてくる。予言書のような作品だ」(朝田富次ー月刊「民藝の仲間」)というように民藝らしい舞台であった。しかし入りは良くなく、空席もある。やはりスターが出なければ、このようなものである。劇団を保ち続けるというのも大変である。
私も「仲間の会」に入っていなければ観に来なかったかもしれない。又このような内容をずしりと受け止めるのは、私自身が自らの人生のプライスは・・・と考えさせられる年齢になっているからだと思う。そんなことまでいろいろ考えさせられた。

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蛍がたくさん飛びました

梅雨も本番、雨つづきで最初の蛍観察会は大雨で流れてしまいましたが、この日はやっと雨が切れての曇天でした。
それで参加者もふくれあがって27人になってしまいました(本来20人以内とされているのですが)。
今回は雨靴を持って出かけましたが、正解。ところどころ餡子のようなぬかるみになっていたからです。
6時半集合。まだ明るさが残っていますが、そろそろと入って、蛍の出る沼地で待ち構えるのです。明るいうちに入ると眼も闇に慣れて懐中電灯もあまり必要なくなるだろうからとのこと。
蛍に会えるかどうか・・・・。
昨日、入ったときは100匹ほど飛んだ、とMさん。でも今日はどうか分りませんよ。
この谷戸の保存が決まった今回は安心して眺められる、とKさん。これまで、もうこれが見納めかといつも思いながら見ていたから・・・と。
いつものように簡単な注意を受けて入ります。
懐中電灯を蛍に直接向けないこと。なるべくなら灯を使わないで、危ないところでは足元だけを照らすように。また蛍は甲虫だが体が柔らかいので指で摘まむと傷めてしまう。そっと掌に載せる位する事ならよろしい。まだ鶯の声がする。それは直ぐ止んだが、ホトトギスはまだ鳴き続ける中を、足元に気をつけながら前の人につづき、だんだん暗くなっていく中を進んだ。
沼の奥に来て、蛍を待ちます。昨年は晴れていてお月様も同時にながめられましたが、この日はどんよりした空で、最前から雨もポツポツ頬に当ったりしていました。風もなく、蛍が出るにはいい日和なのに・・・と。
一番蛍を見つけたのは、やはりKさんでした。7時半でした。
それから一つ、ふたつと、あちこちで光り始め、あちこちから声が上がるようになりました。
沼の対岸は山で、そこが舞台で、沼を隔てたこちら側の細道に一列に並んでの見物です。
だんだん数を増した光は、明滅しながら飛び始めました。そしてだんだん私たちの方に飛んできます。女の子が蛍を掌にしました。やはり蛍も少女の肌の方が好ましいのでしょうか。雌を求めて飛び交っているのです。暫くのクライマックス。これも8時過ぎると又少しづつ少なくなってきます。ほんの1時間ぐらいが勝負です。蛍にとっては年に一度の婚姻の宴です。
少しづつ場所を移動させながら蛍の乱舞を堪能します。光の様子から源氏ホタル(光る息が長い)です。平家(息が短い)の方が時期的に遅く、今年もまだほんの少ししか見られませんでした。 来週ぐらいに見られるだろうとKさん、でも数が減っているようだったら問題だな。
沼にはハンゲショウが夜目にも白く眺められました。前回でハンゲショウ(半夏生)のこと書きましたがこれは半化粧とも書くようなので、ちょっと訂正しておきます。でも別の群生地のほうはまだ葉は青いまま、
日当たりがあまり良くないからでしょうか。8時過ぎた頃、引き返します。ヒキガエルの鳴き声がします。昨年はウシガエルの声も聞こえたのになあ。
8時半に解散です。Kさんによればここには200匹ぐらいは生息しているとのこと。
今日は市役所の人も2人仕事として参加されたようでした。

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台峯は田植えの時期

今回は30人くらいの参加者のうち、珍しい事に三分の一ぐらいが初参加の人で、案内のKさんもちょっと張り切っていました。やはりこの会も常連の高齢化がみられ、後に続く人たちが望まれていたからです。
それで、最初にこの会の成り立ちや経過をさっと説明されたのですが、21世紀に入ってからのこの5〜6年、行政の対応が変わってきたとのこと、むしろ行政の方が意識が進んでいる場合があり、むしろ単純で保守的な住民の方が問題になってきた有様だとのこと。里山の保全についても、100年のスパンのモニタリングが計画されたりして、この会に対しても向こうから意見を聞いてくれたりもするとのことです。
世の中が少しずつ動いていくのを感じます。
今回は田んぼが活き活きしてました。
第一の田んぼでは、田植えの最中。と言っても白い髭を蓄えた人が独りで苗床から苗を運び、植えているのです。大掛かりな田んぼと違って、収穫はその半分、労力は3,4倍も掛かるこの米つくりは、その人の代で多分なくなるでしょう。この田んぼは水源を持っていず、すべて谷戸から出てくる絞り水に拠ります。ですから冬は乾いてしまう普通の田んぼとは違って、常に湿っている。それでそこには貴重な生き物はたくさん生息できるのだそうです。たとえばシオカラトンボ、冬場に湿っているので幼虫が生きられるとのこと。ここがすべて宅地になって家が建ち並んだ光景を想像すると哀しくなります。
そこに至る少し手前でコジュケイの親子を目撃しました。この鳥の大きな鳴き声は、特徴がありよく耳にしますが、姿はなかなか見られません。それがなぜか草むらで堂々と姿を見せて歩いているのです。
その姿が見られただけで、今日出てきた甲斐があったと、言う人もいます。
第二の田んぼはまだ畦=くろ、つくりの段階でした。しかしここでは周囲に宅地開発がすでに迫り、売り出しの幟がはためいています。来年はどうでしょうか。
ホトトギスが盛んに鳴く声を聞きながら谷戸への道に入っていくその時、Kさんが小さな蛇の死骸を見つけました。30センチほどの灰色の紐のようにしか見えないそれは、ヒバカリというおたまじゃくしを餌にしている蛇だそうです。独りで歩いていたらぜんぜん気がつかないものです。Kさんは言います。毎日歩いていても、自然は常に形を変え、その度に何か発見していろいろ教えられると。
その死骸を使って蛇のつかみ方を教わりました。おそるおそるちょっと触ってみました。
さて、蛇に尻尾があると思いますか? 全体が尻尾であるわけはなく、尻尾はちゃんとあるのです! ということも教わりました。
さて、いよいよ谷戸に入ります。ニホンミツバチは健在でした。少し前、その姿が見えないので心配していたのだそうです。TVでアメリカ農場では大量に蜜蜂が死滅して農業に大きな被害が出ているというのを見たばかりでした。けなげなニホンミツバチよ、いつまでもこの木の洞で子孫繁栄させてくれるようにと願いながら、そっとそのそばを通り過ぎました。
湿地のハンゲショウはまだ、白くなっていませんでした。舞台に出るお化粧(漢字は違いますが)はまだのようです。蛍が出てくる頃も間もなくです。今年は2回に分けて蛍観察が行われます。私も参加したいと思っているのですが・・・・。

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一寸先は闇

先々月の台峯歩きの後頃から、少々健康を損ない外出も控えていましたのでブログもすっかりサボっていました。そして梅雨の晴れ間の今日、散歩程度の運動ですし気晴らしにと台峯歩きに参加してきました。
しかし最近は新聞一面に大文字タイトルで報道される大きな事件ばかりが生じ、平穏でのんびりした山歩きの前に、それについて一言だけでも触れないではいられなくなって、ちょっとだけ書きます。岩手・宮城地震発生時、ちょうどBSを見ていたのですが、単に発生の場所や数字のテロップが流れただけだったそれが急に切り替わり、いつもながら日を追うに従って、次第に深刻な事態の報告となって行きました。
それに温泉宿全体が土砂に流され生き埋めになった駒の湯温泉が、昔々の旅行中、その山奥の鄙びた温泉に泊まろうとしたことがあったことを思い出し、人事ならぬ気もしたからでした。
もし私がそこに泊まった時に、今度のような地震があったらば、私も巻き込まれていたでしょう。まさにそれは運命であって、一寸先は闇です。
それは偶然ですが、とすると今生きていることもまた偶然だと言っていいでしょう。秋葉原も私は歩いたことはないのですが、何かの都合で、たった一回であっても歩いていたとして、刺されたかも知れません。
とすれば今このように生きていることもまた偶然で、それはまさに生きさせられているということで、大げさに言えばそれを感謝して生きるほかはないようです。
折も折、宇宙に飛び立った星出さんが無事に帰還しました。科学の先端を行く宇宙旅行、しかしその足元にある地面の動きはいまだ正確につかむことも出来ず予測も出来ないという皮肉を、まざまざと見せ付けられる思いがします。
とにかく偶然の存在である、はかない生のその日その日を、しっかり生きていくしかない(といつも思っているわけにはいかないけれど)・・と、緑あふれる山道をたどりながら考えました。
台峯歩きについては、稿を改めます。

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春の台峯歩き

昨日の日曜日、前回は休んだ台峯歩きに参加してきました。
参加者は15、6人の少人数、初めての人はいませんでしたから、のんびりユックリと、まさに道草を食いながら歩きました。
なぜならいま芽生え、芽吹きの時で、何でもない道端でもたくさんの草の命が蕾や花をつけていて、それらを丹念に観察しているだけで何時間もたってしまうのだということを、実感させられました。
でもそれはやはり彼らのことをよく知っていなければ分らない事です。何事も深く知れば知るほど奥は深く、謎は深くなるということ、微細なものにも宇宙に匹敵するような世界があり、同様な調和があるということ、(少々大げさかもしれませんが)そんな事を感じた半日でした。そしてそれが分るのは、それらを深く知っている人の案内だからだと言うことも、身にしみました。
歩き出して間もなく第一の田んぼです。
まだ田植え前なので雑草に覆われていましたが、蛙が盛んに鳴いています。その蛙も先ず赤蛙が出現し、次にシュレーゲル蛙、次に雨蛙が出て来るのだそうです(蛙暦といわれるものもあるそう)。この後、谷戸に下ってから湿地帯に入って行き、ちょっと中に踏み込んでおたまじゃくしを見せてもらいました。小さな水溜りに彼らはひしめき合っていましたが、そのなかの一体何匹が蛙になることが出来るでしょう。また繁殖が出来るのは3年ぐらい経たねばということですが、それまで生き延びられるのは何匹でしょう。
さて雑草と一概に言ってしまいましたが、いえいえ、この雑草の世界こそ環境を敏感に感じ、多種多様で面白いものの宝庫のよう。
そこにはキツネのボタンといわれる、菊のような小さな黄色い花が咲いていましたが、それと良く似たタガラシとどう違うのか。また畦にはハルシオンが蕾をつけていましたが、その蕾のつけ方の特徴、そして良く似たヒメジオンはまだで、その違いはどこにあるのか(これは前に書いた)。「はこべらは敷くに由なし」(『千曲川旅情のうた』)と藤村がうたったハコベも、実は3種類あっていわゆるハコベ、そのほかコハコベ、ウシハコベがあり、それはどう違うか、実物を手にとって説明してくれたのですが、米粒ほどの花の中の構造がまさに違うわけで、そんなことを観察(といっても教えられながら)しながらですと全く日が暮れてしまうほど、世界は驚異に満ちていると感じさせられるというわけです。ノゲシとそれに花が似ているオニタビラコはどう違うか、これを実物を眺めると良く分ります。しかしこれら知識は付け焼き刃なので、直ぐ忘れてしまいます。
そのほか白い小さな花をつけた、葉っぱをこするとキュウリの匂いのするキュウリグサ、白い花のノミノフスマ(蚤の衾)、カラスノエンドウは知っていますが、カキドウシ(垣通し)、ツルカノコ(蔓鹿の子)、前回書いた「仏の座」を圧迫している「姫踊子草」(外来種)、「藪人参」、浦島草の花もありました(これはわが家でも今年は出現しました)。そのほかいろいろ、今回は地面の草の方を主として眺めながら歩いたのです。
「老人の畑」と呼ばれている一番見晴らしの良いところでは、ススキの種を植えました。
荒地に生えるというこのススキが今少なくなっているとのことです。それでここのある部分をススキ原にしようというわけです。
今回の憂慮すべき事柄、前にもいいましたが、鳥たちの渡りのルートである緑地が大きく宅地開発により切り払われ、断たれた箇所がいっそうはっきりとその姿の無残さを露わにしていましたが、帰り道を辿っていたときに、大きなゴムボートを抱え、何本も釣竿をもった青年とすれ違いました。私たちはびっくりして、ここでは釣りは出来ない事になってますよ、と声をかけましたが、無視をしてずんずん中に入り込んでいきました。何人かが大きな声を出して咎めたのですが、それ以上のことは出来ません。出口には何台かの車が止まっていて、どれだろうと覗いてみたのですが、それ以外は出来ません、皆横浜ナンバーのようでした。
ここはガイドブックにも紹介されるようになりだんだん名が知られるようになって来ました。悲しいことですが、心無い人の進入を防ぐのは難しくなります。あの青年はこんな湿地帯と沼地でしかない地味な場所で一体何をしようというのでしょう。
 

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ホイアン[会安]の印象

      会安 [ホイアン]
南北弓なりに細長くのびた国土の
片側すべてが海に面しているベトナム
二期作 三期作の 青く広々とした田んぼで
水牛を曳く菅笠姿の村人たちの面ざしは
どこか古い日本の風景を思い出させる
朱印船のころ日本人町があった
古い港町 ホイアン
東南アジアでさかんに交易していた日本商人の
各地で造った日本人町は すべて破壊されたが
ここだけは 痕跡が残された
日本人の手になるという屋根のついた日本橋
後に改修されて来遠橋と名づけられたが
たずさわった日本人名はちゃんと刻まれていて
「来遠」の由来は「朋あり遠方より来る
また楽しからずや」の『論語』からきたもの
ホイアン[会安] という地名の響きは
やさしく やわらかで
勝手に語釈すれば 訪れた人を
ゆったりと受け入れ 安心させてくれる
この町のふところの深さを
なんと うまく表したものではないか
今ここは 世界遺産となり
たくさんの人々が集りつどい
古い時間を巡りながら
セピア色の土ぼこりを巻きあげている
日本人の墓も守られているが
大戦中に日本軍が中国人を殺戮した
記念碑もまたあって
ゆっくりと 時は流れていく        

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民藝公演『浅草物語』

このあたり桜はもう満開、花吹雪である。隅田堤、すなわち墨堤も今日明日と花見の人で賑わうことだろう。こういう花見の習慣は江戸期からのようだ。
先日、『浅草物語』(小旗欣治作)を見てきた。これは小旗さんの実家(綿屋)をモデルに昭和の東京下町浅草界隈の庶民の生活の哀歓を描いた物語である。戦争に突入していくまでの平穏でつつましく小さな陽だまりのような平和な暮らし、これらは東京大空襲によって壊滅させられてしまう。懐かしのメロディーといってしまえばそれまでだが、戦争への危機は今なお続いており、世の中の急速な発展に振り回され油断すれば弾き飛ばされてしまいそうで心休まらない昨今、昭和という時代、特に大戦以前が一種の郷愁のように思い返されるのかもしれない。
還暦を過ぎた隠居の身のおじいちゃん(大滝秀治)が結婚したいと言い出す騒ぎを中心に、その綿屋の堅実な家族(夫を失い懸命に子を育て店を切り盛りしてきた妻を、日色ともゑ)、浅草十二階下カフェーのママ(奈良岡朋子)などといった配役で、赤紙が来たという赤子の時に手放してしまった息子との対面(?)という多少のドラマと泣かせどころを含みながら、当時の暮らしが舞台に再現される。吉原も隣接し、カフェのママの前歴もまたおじいちゃんが結婚すると言い出した相手も花魁上がりである。
浅草は当時大衆芸能の発祥の地であったが、文学においても下町界隈は、そういう面を持っていた。山の手文学があるように下町の文学がある。芥川龍之介をはじめとして隅田川、すなわち大川のあたりは当時の文学者をひきつけるものがあって、生地ではないが永井荷風がこの辺をうろついた事は言うまでもなく、多くが魅せられている。太宰もこの地で女義太夫に熱を上げたとかどうととか。いかにも西洋風でモダンな立原道造は本所生まれの箱物屋の息子、この伝統はやはり壊滅させられたはずの今日にまで続いていて、最近では吉岡実、会田綱雄、辻征夫などもそうである。
江戸期からの文化が淀んだ土地、そういう成熟というか腐敗に近いところからそれらを堆肥として文学の芽が育つところもある。パリがそうであるように。
私は地方出身なので、それらからは遠い。しかし東京に出てきて、最初に勤めたのがこの界隈だったので、少しだけその香りをかいだ。その頃はまだ東京はただ西に伸びりことに懸命であった時期、何の整備もなされていないようで、汚く侘しげな場末の感がした。まだ都電が走っていた頃で、本郷三丁目辺りから延々と路面電車に乗って、上野や浅草、吾妻橋を渡り、寺島まで通ったのである。今また江戸の文化それに伴って下町の文化も若者たちに見直されいるようだが、西洋などの下町と違って何かしら侘しくはかない気がするのは、私の心の在り様ゆゑだろうか。

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「ベトナム&チャンパの旅」

19日から一週間ほどベトナムへ旅をしてきました。
これは「ホリナータ」というヨーガグループを主宰なさる堀之内博子先生ご夫妻の企画によるもので、私はまだ新参者ですが参加してきました。修行を経ていっそう静かな美しさを内に湛えられている女神のような博子先生とそれを支えられるシタール奏者である幸二先生のご尽力、何度も下見をした末の特選の旅であったようで、各地の最高級のホテルと吟味されたレストランに、これからは決して味わえないだろうという思いの満足感に堪能し、まだ夢見心地と旅の疲れから抜けきれずぼんやりと過ごしています。一行は30人もいたのですが、皆ユニークな人たちで楽しくつつがなく旅を終えることが出来ました。
ツアーの内容は、ヨーガという性格からベトナムというよりはベトナムに残っている(滅ぼされた)インド文化であるチャンパ(現在残っている少数民族のチャム族の祖先)王国の遺跡を巡る旅だといっていいでしょう。
最初の日はダナン泊(ホーチミン経由)、次にインドの神々の像が収蔵されているチャム博物館を見た後、ホイアンへバスで行き、そこでゆったりと3泊。世界遺産にもなったホイアンは、当時世界的な貿易港であり(後ダナンにその役割を奪われたがそのために、古いものがそのまま残ったといえる。)、日本とは大変関わりが深く、御朱印船貿易の時代日本人町があり、珍しい形をした日本橋もあり、その後は中国人、すなわち華橋に独占されるに至ったが、かれらの古い建物も今では文化遺産として名所となっている。
ここでのホテル(旧市街からは少し離れたリゾート地にある)も素晴しいものだった。河に面した瀟洒なホテルの背後は白砂がつづく南シナ海へとひろがり、連なる椰子の木の下にはニッパ椰子で葺いた傘のような日覆いが並び。ホテル内にあるプールの周りにはゆったりと昼寝用の寝椅子がいくつもピーチパラソルの下で待ち構えている。海風を一杯に入れたレストラン、いたるところに蘭を根付かせたりもして熱帯の樹木、ハイビスカスをはじめ色とりどりの花。部屋部屋を結ぶのは洒落た小路であり、ブテックもエステもあり、部屋は床はもちろん調度品、天井に至るまで凝った木組み細工であしらわれた、上品でハイセンスな落ち着きのある部屋は、スイートルームではなかろうかと思われるほどの素敵な造りだった。どこに行かないでもここで暫く滞在するだけでもいいと思わされるくらい、ほっと心やすらぐ部屋であり環境であった。
それらに浸り、安らぎながら思うのであった。ベトナムという国は亜熱帯と熱帯であるから、とにかく草も花も動物も魚も湧き出るように生育する、すなわち美味しい食料は豊富である。そしてこの地の人間は、個性の強い西洋人と比べて温和で物静かで、従順である。やってきたフランス人が、この地でいま私が味わっているような生活を日常のものとして手に入れたがった気持が分るような気がする。だから植民地にしたかった。それを手放したくなかったのだろうなあ・・・。もちろん貿易とか何とかいろいろな利益のためだろうが心情的にはここでのここでのリゾート的生活が、彼らにはこたえられなかっただろうなあ・・・と。
そういう状況に今じぶんは、単なる観光客としてお金を払ってのことだけれどいる。そういう気分を味わっている。客という主人格として・・。西洋人も多いここにいて、ベトナム戦争を知っている同じ東洋人として複雑な気分にもなるのだった。それほどこのホテルでの生活は優雅で豪奢なものに感じられた。
ここで、初めて誘われて、全身のオイルマッサージなるものを体験した。
ちょっと脇道に逸れましたが、ホイアンでのスケジュールは、先ず翌日朝食後早々にチャンパ王国の聖地ミーソンに行く。ここは簡単に言えば森の樹木や草に埋もれて残る祠堂や神殿が60ほどもある遺跡跡。ここにはシヴァ神が祀られ、ヒンドゥー教を主として仏教と土着信仰の混じりあったものが信仰されていたようである。ベトナム戦争で破壊された跡の生々しいものも多い。そこではチャムの音楽とチャムダンスが時間を限って野外舞台で演奏されていて、日本で言えば国宝級の笛の名手の演奏を聴く。
その日の夜は、これもミーソン行きと並んでこのツアーのメインでもある満月の夜に催されるというランタン祭り(電灯の明かりを消して色とりどりの布で作ったランタンを町中灯して過ごす)を見ながら川辺の料理店で食事。その後町を散策しながら雰囲気を味わう。
翌日は美しいホテルの前のビーチでヨーガ。後は自由にホイアンの旧市街での市場や雑貨店めぐり。昼食には又庭園の美しいホイアン名物料理店で食事など。
次の日は、またダナンからホーチミンに出て、ここでも繁華な市の中心にありながら河に面した絶好の立地にある最高級の高層のホテルに宿泊。ここでもホテル内ではなく最高のベトナム料理店と名高いレストランにちょっとお洒落をして出かけました。
翌日はもう帰途につく日ですが。0時発なので、オプションツアーとしてメコン川クルーズに参加。対岸に渡り、ココナッツ製造所や蜂蜜採集、果樹園ではフルーツの食べ放題、後手漕ぎボートに乗ってニッパ椰子の繁る支流を下って密林の探検気分を味わいながら又船着場に戻る、観光の目玉をも体験。
その後はホテルに戻っていよいと帰国の運びとなりました。
翌朝7時過ぎに成田到着。
お疲れ様。この上ない企画と道中も細かな心遣いで皆を引き連れていってくださった両先生に感謝しつつ、旅がつつがなく終わったことも神々に守られての事と思いなしつつ、旅装を解いています。

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窓辺で鶯鳴く

数日前、窓の外で何かがぐずぐずと声を出しているのに、あ!鶯が声繕い・・と思っていたのだが、今日やっと声を発したのを聞いた。まだ様になってなくて、ホケホケといったり、尻切れトンボになっていたりするのも可愛らしい。声もまだささやき、つぶやき程度。これが春たけなわとなると、林全体に響きわたる高い声になるのだから面白い。どの鳥も囀りを持っているのだけれど、その差の大きさと声のユニークさで抜きん出て、「初音」を愛されるのだろう。
とにかく日本人にとっては鶯の声は特別で、又その声もあたりを制するのですが、その声自体を賛美表現したものはあるかなあ・・と思ったとき、私の頭に浮かぶのは、同じく声を愛されるホトトギスで杉田久女の
     
      谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま
で、まことに春半ばから夏にかけての鶯の声は、「ほしいまま」という感じで響き渡るのですから。
ご存知の通り鶯は、姿としてはかなり地味な方で、鶯色というのはむしろ目白の方がふさわしく、こちらはくすんだ緑だし、冬場は藪の中にひっそりと暮らして、いわゆる笹鳴きというつぶやく声を出すだけである。白いアイラインを持つ目白の方がしぐさも姿も可愛らしく、鶯の方は眼も切れ目の感じで身体も細身、きりっとしているがどこか怖そうな女人を思わせる。でもやはり貫禄があるなあ。
さて、その声を聞いた私はやはり胸が躍って、ちょうど障子を開けていたので、慌てて声のあたりを眺めると、いましたいました! 声を出すたびに羽根を小さく広げ、パタパタさせながら喉を震わせている。懸命に練習をしているのでした。
それを見ているとなんだか私も元気が出てきました。ちょっとこのところ気分が落ち込んでいたのですが、今日の春めいた日和のせいもあって、それを眺めているうちに次第に内から元気が出てくる感じがしたのです。やはり春なのだなあ・・・と。春に感応して、そんな小さな生き物でも、これからの春に向って生きようとしている。囀ろうとしている。それは多分本能でしょう。そして同じ生き物である私の中にも、そういううごめきがあるのを感じる思いがしたのでした。それを十分に感じながら、さあ、元気を出さなくちゃあ・・・と。

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冬枯れの台峯歩き

冬型の気圧配置が崩れず、乾燥した快晴の日がつづきます。
でも寒気が強いので、鳥たちの水飲み場の鉢には厚い氷、取り出したのもなかなか解けません。
でも光は春、に誘われて「台峯歩き」に参加してきました。
こんな時期はまだ草木は眠ったままなので、主に常緑樹の葉を楽しむということになります。
いつものように手渡されたカラー・コピーのプリントを見ながら観察しながら歩きましたが、これは全く苦手です。どれも同じに見え、覚えても直ぐ忘れてしまいます。とにかくタブ、スダジイ、アカガシ、シラカシ、アラカシ(アカカシではないのです)、シロダモなどといったのを、ぎざぎざがあるとか、姿や大きさ、葉脈の目立ち方だとか、ちゃんと見分け方を書いてあるのを手にしながら、実物に当りながら歩いていきます。手触りも、又千切ってみての匂いなども識別の一つです。
今日はなぜか初めて参加の人が多かったので、その人たちを優先にして久保さんが引き連れて先を歩きます。参加するたびに少しずつ様子が変わっていき、整備のための金網が張られたり看板が立ったり、草刈がなされたりしていますが、ショックなことがありました。第二の田んぼの周辺が宅地造成されているのは前に書きましたが、その奥の谷戸が大きく切り払われているのを見たからです。かなり深い谷なのに、そこを埋め立てて宅地にしようとするのでしょうか。それほどの規模ではないので、多分届け出無しに出来るのでは、という人がいました。しかもこれは区域外にあるので、文句をつけることは出来ません。第二の田んぼでもそうで、この運命も旦夕の間でしょう。
ある所を残すと言っても、その周辺も大切であって、その変化はじわじわと区画内に影響を与え、極端に言えばその生死をも左右しかねません。何の変哲もない谷ですが、そこは「緑の回廊」であって、そんなところを伝わって鳥をはじめ生き物たちは行き来している、たとえば秩父に熊がいるのは丹沢があるからで、そこと緑でつながっているからと、その人は言いながら憂い顔をしました。でもすべてを手につけることはなさそうで、薄いながら深い谷のほうは残りそうなので、緑のラインはつながるのでしょうか。でもお父さんの髪の毛のように心もとないことです。
富士山は少し雲をまといながらくっきりと白い勇姿を見せ、丹沢連邦もどうどうと雪の峰々を際立たせています。それらを眺めてからいわゆる老人の畑と呼ばれる一番の見晴らし場へとたどります。そこで、カレンダーの写真をも作成してくださった、土地の人でこの地に非常に詳しい、カメラマンの川上さんの出迎えがありました。白い髭がいっそうの貫禄をつけていますが、今日はちょっとお話を聴きました。
最近常緑樹が増えたこと。すなわち雑木林が少なくなったのです。畑のためには日当たりが良くなる雑木林の方が良く、日を遮り、ぐんぐん伸びる常緑樹や針葉樹は良くない。昔だったら炭焼きや薪のためそれらも必要で、しかしそれらを切って使っていたので伸び放題にはならなかった。しかしそういう手入れをしない里山は雑木林から常緑樹の多い林になってしまう。ここから見える桜もだんだんなくなっていくでしょう・・・と。しかもこの地域は表土が2メートルくらいで浅いので、常緑樹は根が大きくなるから頭が重くなると根が耐え切れず、がけ崩れが起こりやすい、この地の崖崩れが年々多くなるのもそのせいもあるなどと・・・。ですから、一概に緑が多いのを見てそれがいいというのも間違っている、むしろ今の里山では獣の毛並みのような、枯れ草色の山並みがいいのだ・・・とも。そして整備をすると言っても公園ではない場合、枯れ木も生き物にとっては利用される有効な役割があるということ。
そうだそうだ、とわが家の放って置きの怠け者の小さな庭の弁護を心の内でしました。
それからいよいよ谷に下りていくわけですが、前置きが長くなったので、花のないこの時期、鳥の姿はよく見えるのでコゲラ(枯れ木をつついていた)、ヤマガラ、ウグイスなどを目撃したことを書き今回は終わりにします。

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