洞門山問題 追記

やっとこの問題をマスコミが取り上げたようです。
駅への道を歩いていた時に、立て札で知りました。
実はわが家は、同じ町内でもまた隣接地区でもないので、この辺りに立て札はなく、駅への道すがらに情報を得るしかないのでした。「台峯」の会は直接関係しているのではなく個人的に重なるだけですから。
そこには第三回の説明会の報告と同時に12月2日付の神奈川新聞の記事が掲げられていました。
「山林の保全訴え  市民団体が陳情」とタイトルがあって、陳情書を一日、市側に提出という記事でした。それによると、署名は2万7百56人集まったようです(説明会の当日は2万にやっと達したぐらいだったので、あとはその時に持ってきたものでしょう。私もその日の午後に出た横浜での詩人の集まりの席で署名集めをし、持って行きましたから)。
内容は、北鎌倉駅や円覚寺の近くの「鎌倉の景観百選」にも選ばれている地域の約999�(この数字の欺瞞は先に述べましたが)の「開発で山が削られれば今の景観がすっかり失われてしまう」などと訴えている、という記事になっていて、宅地開発計画が浮上しているこの山林の保全を市側に働きかけるようにとの陳情書を市議会に提出したとありました。
神奈川新聞を取っていないので、その足で販売所に出かけ、その日の新聞を買ってきたというわけでした。

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洞門山破壊の件(第3回説明会)

11月30日(日)に行なわれた。しかしそれは実質的に何の説明にもならず、また何の回答にもなっていないものだった。
順序は逆になるが、会のほうからの報告をまず紹介すると、署名は21,000人(目標は1万だった)近く集まったこと(12月1日に市議会に提出)。短期間(2ヶ月)の間に、これだけ集まったということは、それだけ関心と反対意見が多いということ、それを十分に考えてほしいということ。
これは景観や史的意義だけでなく、トラックや工事の車が出入りする道路〈車が一台しか通れない狭さ)は、近くにある幼稚園、小学校、高校(県立と私立の2校)の通学路になっており、また絶対通らねばならない踏み切りも2メートル余しかなく、実際に工事が始まれば大変な事になり、それで学校のPTAなどによって多くの人たちの署名がすぐに集まったとのことです。
次に、後で書きますが、樹木や土砂の運び出しに、会側の専門家の試算によれば、1年4ヶ月はかかるはず(設計者は2〜3ヶ月とみている)、いろいろな点を総合すれば、これは施工しても採算が合わない(3宅地の開発ー今の所)ということは、私のようなものにでも判るのでした。
先ず、その小高い緑地が削られる事によって生じる動植物系や風や音、水などの影響についての回答は、市が発行している図鑑やインターネットその他、現地をまったく知らないものが机上で考えた内容でしかなく、専門家の意見などをきいた形跡もない(もちろんこれを求めたのは、そこがこの辺りの景観や自然に与える影響が大きいのだということうを自覚してほしいということの1意見だったのであるが)。たとえば鳥については、数ページにわたり、市内に生息する鳥類についての羅列があったり・・・。そんな事より実際に、そこは六国見に通じる緑の回廊の一つとして、サシバの幼鳥を見た人もあり、大きく伐採する事はそれを断つことになるなど、そういう具体的なことを考えて欲しいわけである。
次に、樹木を伐採し土砂を運び出す事の搬出土壌量についても、その見積りは、施工者が決まってからでしか正確には出せないということ。しかしこれはこちらの会には建築家もいるわけで、それを計算した結果をすでに送りつけているはずで、それについて施工者の意見を聞きたかったと言っても、それは見ていないとか、とにかく土地の所有者と施工者が現時点ではあいまいで、それへの確答もなかったのである。
なんと言っても話し合う対象が隠されたままなのである。名義はまだK一家のものだが、実際は他人に渡っていて、90パーセントの払い込みは終っている事、そして施工者についても、市の買取の件で話し合っているという某事業者の名前は判明しているにも関わらず、説明をしている設計事務所は、まだ決まっていないという。それでいて、全権を任されているという。
たとえばの話だが、K氏がどうしても宅地化してお金が欲しいという事情があれば、それを聞き、3宅地ぐらいなら、大きく地形を変えないで、新たに真ん中に道路を作るなどということはしないで(たぶんそれは今後の開発の道を開くため)既存の道路沿いに(道路分が開発を免れる)作れること、そういう詰め方もあること。結局は開発会社に手渡してしまえば、あとは効率と採算、利益というソロバンで、全面破壊になりかねないのである。
市には「町作り条例」というのがあって、その3条には、開発は事業者と市民の相互の理解と協力があってなされねがならない、とあるそうです。事業者が不明で、欠席のままの話し合いは意味を成さないことであり、次回はそれをちゃんと守ってほしいということで、時間オーバーして終わりになりました。まだいろいろあるのですが、少々疲れたのでこの辺でやめることにします。

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バロック音楽とインド音楽(シタールの旋律)

先の土曜日、はからずも西洋音楽の粋であるバロック音楽と東洋の旋律であるシタールの演奏を聴くことになった。
バロック音楽は月に一回、講師の解説を聞いた後、DVDやCDで音楽を聴いているが、今は時代としてもちょうど佳境に入ってバッハである。
そして今日はバッハの《ブランデンブルグ協奏曲》とカンタータ第147《心と行いと生活が》を聴いた。
前者は、私も知っているような有名な曲だが、それはほんのさわりの部分であって、それを1番から6番まで聴くことが出来、しかもこの音楽鑑賞と研究に生涯をかけた講師である先生の解説つきであるから、私などにはちょっと勿体ない位である。DVDの演奏も本場の城館での録音で、演奏者、年季の入った楽器、古楽器、会場のみならずその外観まで映し出されているから楽しい。
バッハのカンタータは沢山あるが、この曲は旋律が美しく、後期の「魂のドラマ」としての迫力や深みに欠けているかもしれないが、抒情的な美しさがあってカンタータへの入門曲として素晴らしいといわれる。
《ブランデンブルグ》も、6つの協奏曲集であるから、それぞれに弦楽器、管楽器の編成も違い、曲調も違い、一曲として同じような曲を書きたくないというバッハの芸術家気質が強烈に見られる曲集だというが、解説されて聴いてみると、なるほどと感心させられる。
この講座が終ってから、これも偶然にこの日に重なったのだが、「インド音楽 シタールの旋律」という講座が始まるのである。この講師は堀之内幸二先生。このブログで、ベトナム旅行の際に書いたのだが、ヨーガの先生堀之内博子先生の夫君で(その際、企画から下見や準備などを周到にしてくださり、大変お世話になった)、シタール奏者なのである。
という事情で、今度はインド、東洋の音楽を聴く事になった。最初に少しだけレクチャーがあった。インド音楽の音階について。また曲をラーガというが、西洋音楽の「曲」とは違い旋律のパターンだというのは、〜長調,〜短調というのに似ているようですが、今日は時間帯の法則に則った「夕暮前のラーガ」、「夕暮のラーガ」、「夜のラーガ」を演奏するという。それをここで説明するのは至難の業で(私自身がよく分っていない)、またシタールについても説明があったが、これもネットで探索すればすぐ分る事なので省略するが、胴というか共鳴部はトウガンの実をくりぬいて作ったもので、割れやすいが修理も利くので人間よりも長生きしますとのこと。
次に伴奏に使われる打楽器のタブラ(大小の壷状の上面に皮を張った太鼓)、とその演奏者が紹介される(演奏者=龍聡)。その楽器の説明も少し。
いよいよ演奏となったが、西洋音楽との違いをしみじみと感じた。風の音や木の葉のそよぎ、せせらぎや波音、星の輝きや月の運行、そのような外気に対して心が解けて行くような感じがするからである。バッハも素晴らしかったが、それは心が引き絞られゴチック建築のように天にそそり立つような清らかな美しさで、それとは又違って、単調だといえば単調なパターンのくりかえし、それでもよく聴けば決して同じではない微妙な違いでもって奏され、それが次第に心を解放し、深いところへ導かれる感じがする。音楽を聴くというより自然の中に放りだされるよう感もする。しかも時々唸りに似た音色がまじるのも快く、西洋の明晰さとのちがいが感じられるのである。
それにイ短調とかヘ長調というのではなく、夕暮のラーガとか真昼のラーガとか、自然の運行が使われるのも東洋的、インド的だと思うし、やはり東洋人である私は、一方では西洋音楽のすばらしさに感嘆しながらも、やはりシタールの音色には全身が抱きこまれる感じで、身近な気もするのだった。

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小雨の台峯歩き(洞門山の件も)

生憎の雨模様になってしまった。
いつもならば参加しないところですが、洞門山の署名簿を届けるために、出かけることにしました。
署名は、皆様のお蔭でたくさん集まり、中には1ページ(10人)またそれ以上集めてくださる方もあって、私だけでも90人近くの署名が集まりました。
ご協力ありがとうございました!
署名は1万人を目標にしているとのこと、近くの幼稚園や小学校にも働きかけたりして大量に集まる様子だということです。訪れる観光客にも呼びかけて、駅前や寺院の前でも行なわれています。また、市は、保全の意向で土地取得も視野に入れている、との発言だそうで広告ばかりのタウン紙にもそう書かれていましたが、発言だけでは当てになりません。
その第三回説明会が今月末30日に開かれます。それにも出るつもりですので、またご報告します。
さて台峯歩きですが、幹部というか理事というのか、そういう方たちも思案顔で出てこられていました。
雨の場合も一応顔を出されて、いろいろな話し合いがなされるようです。
この日は全部で10名。椅子を車座のように並べて、主としてKさんの話を聞くことになりました。台峯をはじめとした自然の話になるといつも話したりない様子で、今日は少しゆっくり喋る機会があるという感じで、いいろいろと話されます。しかし今日は名古屋からの初参加の人がいたこともあって、途中まででもいいから歩きましょうということになりました。
この日は、色づき始めた木々(と言ってもこの辺りの黄葉は12月に入ってからなのでまだなのです)と、野草の種、春の野草の新芽の観察。花はヤツデやミソソバ、そしてオギ(ススキとどう違うかということを教わりました)皆地味なものばかり、でもそういう地味なものが、Kさんは好きなようです。
野草も花は知っていても新芽や葉を知らないと、草刈などのボランティアをしても貴重な種まで抜いてしまう。里山の手入れということも、それを労働と考えることが良くない。手入れをしたことに責任が取れるかを考えなければいけない。それがもたらす結果を常に考えなければいけない。それは付き合いである。即ちモニタリングが大切。それがないと、突き詰めれば効率ということになり、草刈機で刈ってしまう業者のやり方と同じになる。街路樹が大きく刈り込まれるのには、理由があり、そうすると2,3年は持つので、経費が節約できるからだが、ほんとうは毎年ゆっくりと刈り込む事が木にとってはいいのである。
またこの辺りは緑が多いように見えるが、森、森林といわれるものが多く、子どもが入って遊べる自然がない。そして水辺もいちばん少ない。神奈川県はそういう傾向が強く、これは大阪にも劣るということです。その点からでも沼と湿地が残る台峯は動植物にとっても大切なエリアなのでしょう。その点、トトロの森のある埼玉の方がずっと豊かなのだろう・・・と思いました。
さて少し出発は遅れて10時ごろから歩き出し、第一の田んぼ。もう稲刈りは済み、ただ少しばかり刈り取られない部分があり、それは黒米だそうです。稲穂が黒く、垂れ下がっています。
第二の田んぼも無事に稲刈り終了。その上の、テニスコート予定地はまだ無事。その開発に反対する看板が大きく立てられていました。これは何とか食い止められそうです。
見晴らしの良い「老人の畑」、にやってきました。昨日ボランティアの人たちでブッシュが刈り取られていましたが、その時カヤネズミの巣が見つかったということで、それを見に行きました。これも知らない人だったら気づかないで刈り取ってしまった事でしょう。細い枯れ葉を丸くした、掌に乗るほどの小さな巣がただ笹にぶら下がるように付いているだけです。カヤネズミはハツカネズミより小さいとか、昔はたくさん畑などにいたといいます。
ここで、いつものことですが、飴玉と紅茶をいただきながら休憩。今日はパウンドケーキまでご馳走になりました。(昨日のお余りだそうですが)
いったんは晴れそうな気配でいたが小雨は降り続きそうなので、ここから谷戸には入らないで帰ろうということになりましたが、名古屋からの人には残念でしょうということで、Kさんをはじめ有志だけが谷戸に入ることにして、私も帰るメンバーとなって帰途につきました。
小雨が途切れると、鳥たちが出てきて、梢にヤマガラ、コゲラ、ホホジロ、シジュウカラなど飛び交っているのが見られました。合歓の木の実(豆の鞘のようになった)などを啄ばんでいるのがやっと双眼鏡で捉えられましたが、Kさんは肉眼でも鳥の種類をすぐ識別し、鳴き声も姿もいち早く感じ取れるのには感服します。今日はこれまで。

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映画『夢のまにまに』(岩波ホール)

90歳の新人が描く戦後、と新聞には紹介されていたが、長編の映画を監督をするのは初めてというだけで、美術監督としては長い経歴を持つ巨匠だという。
木村威夫90歳、鈴木清順や熊井啓の下で腕を振るったとあるが、なるほどという場面がたくさんあった。
「美術は映画全体に大きく影響する」という黒澤明の言葉は、偶然にも昨日耳にしたのだが、まさにその通りだと思った。映画は映像芸術であるのだから。しかしその美術監督の名を私は知らなかった。前述した有名な監督の名前の陰に隠れて、私のようにいい加減に見る人間の眼には留まらなかったのである。
場面は老夫婦の朝の光景から始まる。美術監督の夫(長門裕之)が映画専門学校の学院長というのからも分るように自伝を骨子としたもので、その現在と戦中戦後の青春や時代60年が、回想の映像で語られる。妻(有馬稲子)は車椅子の生活、若い溌剌としたお手伝いさんがいる。学園の学生で、マリリン・モンローの刺青をしてちょっと飛び上がった青年(有望な新人という井上芳雄)、しかしどこか才気を感じさせながらも繊細な神経ゆえに心を病んでいる(最後には死を迎える)、との交流を描きながら自らの青春を重ねながら戦後の世相などが描かれている。
朝の昭和の時代を感じさせる食卓が、泰西名画を感じさせるように美しい。ロマンティシズム、エロティシズム濃厚な美しい画面、昔見た鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』を思い出した。また画面いっぱいの絢爛たる桜並木に以前ここで見た黒木和雄の『紙屋悦子の青春』を思い出した。そうか、彼が美術を担当したのだなあと思うのだった。
ここには脇役としても、宮沢りえ、桃井かおり、そしてこれが遺作となった亡き観世榮夫も出演する豪華キャストである。
主人公の自宅から職場である学園までの途中に、大きな瘤と空洞を持つ巨木がある。それに象徴されるような、一人の男の物語であった。もちろんその物語そのものというよりそれらの時代を独特の感覚的な美しい映像で描いたものである。
ちょうど古本祭りで神保町は賑わっていた。天ぷらはよくないなと思いながらも、「いもや」に入ってお昼を食べて帰った。

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秋の台峯歩き

洞門山問題を先に入れたので、先週の台峯歩きはそのままになってしまった。簡単に入れることにします。
今回の参加者は20人足らずである。この良い季節はかえってあちこちの行楽地に出かける人、また行事も多いこともあって、集まりが少ないのかもしれない。私も10月の参加ははじめてである。
この月の楽しみは田んぼであった。第一の田んぼは、黄金色をしていて、稲刈りも間もなくのようだったし、日照にはあまり恵まれていない第二のは、まだ少し緑が残っている感じ、とにかく実りの様子が眺められて嬉しかった。新聞によると、湿地帯を保護するラムサール条約では、「多様な生物を育む」として水田保全が提案されたという。水田が食料生産だけではなく、人びとの健康や野生動物の生態系を支えていると、その価値を改めて見直そうというものである。これはいつも案内のKさんが力説している事であった。
この田んぼがいつまで残っているだろうか・・・。
次の楽しみは秋の野の花たちである。
これは私のうちの小さな庭にも当てはまる事で、ほとんど手入れをしない庭などで草ぼうぼう、しかしそれらがちゃんとたくさんの花を咲かせて楽しませてくれるので、ついぼうぼうのまま、かれらが枯れるのを待つ事になる。(今は秋海棠、ホトトギス、イヌタデ、ミズヒキソウ、龍の髭、赤い実になりつつある南天など)。
さて台峯では、毎月この季節に見られる花や蝶や昆虫のプリントされたカラー写真を(この頂き物は大変貴重である)眺めながら歩く。一口に野菊と言ってもいろいろあって、ヨメナ(これがわたしたちは野菊と言っているようだ、またムコナと言うのもあると聞かされて、面白く納得)もあれば、ノコンギクもシロヨメナもある。前回も触ったネコハギ(葉っぱは猫の毛のような手触り)やキツネノマゴという小さな花が今は実をつけているものなど、細やかに観察しながら歩いていく。でもほとんどをすぐ忘れてしまう。センダン草というのも同じようなところにコセンダン草というのもあって、1つか2つ、覚えるだけでいいんですよ、と常連の人も苦笑します。
見晴らしの良い老人の畑と称しているところではススキが波打ち美しい。そこで、ボランティアの人たちがまだらに刈り取った草むらで今回も松虫やらオンブバッタ、コオロギ、イナゴなど昆虫の観察をしました。
今回は、ツルニンジン(キキョウ科)という面白い花、ちょうど花と実が一緒にある蔓状の植物を覚える事にしましょう。(でもまた忘れるかも)これは根が人参に似ているのかな?
沼にはコガモが3羽、泳いでいました。

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洞門山開発(破壊)第二回説明会

10月19日(日)は第二回説明会が開かれる日ですが、同時に午前中は台峯歩きに当ってしまいました。それでこの日は一日出かけることになり疲れました。
歩く会ではこれまでの事情が聞けるだろうと思っていたのだが、あまり期待できない成り行きのようでその時はがっかりしてました。何しろ行政側の態度がはっきりしないようです。
台峯歩きは、秋晴れの一日で、楽しかったのです、それは後にしてここでは説明会について報告する事にします。
この日も、第一回の溢れるほどではなかったが超満員、60脚もある椅子はすぐ埋まり後や横に立つ人が出るほど。説明者は、前回と顔ぶれも同じ3人。机の上に、ハッポウスティロールで出来た変なものが置いてある。(これは前回、せめて全体像がわかる立体地形図をといったのに対して作ったもの。これも笑いものになった)
先ず全体の感触を簡単に述べると、最初はまた同じパターンだという落胆と失望で溜息が出るばかりだったが、後半になると次第に明るい希望めいたものが芽生え、最後にはもしかしたら・・・・という期待すら感じられるものであった。
一回に出た要求や質問に対する回答が、文書で各人に届けられていて、それを読み上げる形から進められたが、一番の要求、事業者であるK氏は、欠席。行政側の立会いもなし。
その理由として読み上げられたものは、K氏は「皆様の要望は理解できるし、可能な限りそれに応えるつもりだが、それを考えた上で諸般やむを得ず、今回のようになりました。また今回は諸事により欠席させていただきます。」というような紋切り型の回答にならない答え、行政はといえば「出席する立場にはない
。来庁すれば相談に乗る。許可が下りた段階ならそれへの説明には出る。」というもの。
まさにこれは、ある人の発言の中にもあった、この説明会は一種の「ガス抜き」で、工事を進めるということはもう既成の事実だが、それへの不満や反発を説明会という形で吐き出させて、何回かやった後に、もう十分に説明しましたし、要求も不満もわかりました、それを十分考慮したうえで工事を進めさせていただきますと終結し、発進させてしまうものでしかない。それが見え見えであったので、暗い気持ちになったのである。
しかし、設計者側の説明が終わり、住民側の質問や意見の発言になると、次第に気持が明るくなってきた。「まちづくり協議会」や「町内会」の人たちの調査によって、次々に新しい情報が知らされたからである。
先ず登録簿の名義が変っている事、それはすでにK氏の手からある会社に売られているか? など、複雑な事情があること、ここでは面倒なので書かないが、そんなことも問い詰められたり(それではK氏の委任状などは紙切れに等しくなる)、またその緑地というより赤トンネル、稲荷だけでなく八雲神社に通じるこの辺りは、周辺住民には鎮守の森としての役目を持ち愛着をもたれているということ、そういう歴史も住民感情も知らないで机の上だけで設計しても工事は決して進まず、また車一台しか通らない道路を使って山や大木を切り崩したものを運び出す大工事、採算が遭うわけはなく、それは二期、三期工事で辻褄を合わせることにしているのでは・・など、様々な意見が、それを専門にしている意見の人もいて、問い詰められ説明をされて、最後には彼らもやっとこの地の事情を理解させられたように見えました。総意として前面反対(最初は、そういう意見、木を一本も切るなというようなという意見では話し合いにならない。工事を認めるのを前提にしてそれにどういう要求や妥協をしてもらいたいかということをしきりに言っていましたが)という意見にも納得(心情的に)出来るようになっていったようです。しかしこれはこの場でのことで、一時的な感情に過ぎないわけです。
行政とのことも、市はそこの重要性は十分に承知で、全体を買い上げる方向でK氏と交渉もしたのだそうで、しかし金銭的に折り合えなかったようで(すなわち開発の出来ない山林としての評価しか出来ないにもかかわらず、K氏側は宅地としての評価を期待するわけで)、そうとしたら、決してそこは宅地には出来ないところだということを身をもって知らせてやるしかないわけです・・・というのは陰の声。
計画書を良く見ると、申請の敷地面積は999.77�です。すなわち1000�以上であれば許可されないので、第1期工事として、そうしたのであり、第2期第3期と少しずつ崩していけば、崩せると考えているのでしょう。
いろいろ住民側から良い意見が出ましたが書ききれませんし、疲れましたのでこの辺でやめますが、最後の方で立ち上がった若い父親らしい人の発言に、皆はしんとして耳を澄ませた事だけを書いて終わりにします。
歴史的にも風土的にも、また景観や生態系、動植物や、風や水の問題、崩せばいろいろ問題のある重要な山、それを住民感情を無視して(最後には工事を妨害する実力行使もやる覚悟だという意見が出て拍手喝さい)、たった3区画の宅地を造成するためにだけ(今の所第一期3区画を申請。以後二期に10区画らしい)無理やりの工事をやることに、あなた方は仕事として誇りがもてますか? と静かに問いかけたのです。自分は踏み切り近くに住んでいますが、子どもたちは通学路で安全を脅かされる上、狭い踏切と道路を往復するダンプカー(1万5千台にもなる)の騒音と埃をあびるのをじっと我慢しなければなりません。それもたった3軒の敷地を造るためだけに・・・。
これにはそれほど年齢が変らない説明者も、一瞬息を呑みました。
誰も宅地を作ることそのものに反対しているわけではありません。なぜなら自分たちだってその地に宅地を作り家を建て住んでいるのですから。そもそも人間という存在が今や地球には害を為す一番悪い動物でしょうから。人間がすまない方が一番いいのです。しかし今やそういうところはほとんど残っていない。とすると、両者が良い関係で住みあう、里山・・・それが見直されているのはそのせいです。
洞門山あたりに昔から住んでいる人は、それぞれが一軒か数軒ずつ、出来るだけ自然を壊さないようにしながらそこに住まわせてもらう形で住んでいるのです。ですから細い階段を上ったり、車が入らなかったり、不便な点も多いのでしょう。それを承知で住み、どうしても壊すことになった自然をまた、復元するような配慮をしながら、静かにひっそりと住んでいる、というような棲み方をしているのです。それがこの辺りの魅力になり、若い人もそこに呼び込まれているように思われます。ところが今度の計画はそれと全然違い、大々的に山(と呼んでいるだけで細長い林状の丘に過ぎない)を切り崩す(大木を切り土砂を大量に運び出す)というやり方です。それが許せないということが判っていないのです。
とにかく説明としては前回同様何も進展なし。ガス抜きの説明会ではなく、実質的な会にするために今度はK氏とその名義を変えた相手の人か会社が出てくるように、しっかり伝えて次回も開くようにということを伝えて会は予定時間を越えて終了しました。
見通しは悲観的ではなくなった感はありますが、現実は厳しいものであることには変りありません。
とりあえず反対の陳情を行政に提出するために署名を始めることになりました。もしこの趣旨に賛成してくださり、協力してくださる方がいらっしゃいましたら、私の方にご連絡ください。一枚10名の用紙をお送りいたしますので、よろしくお願いします。では一応これまで。

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民藝公演『海鳴り』(紀伊国屋サザンシアター)

原作=藤沢周平、脚本=吉永仁郎、演出=高橋清祐
舞台は江戸時代の化政期、日本橋、深川、両国、本所などの市中。主人公は紙問屋の主ということからも判るように近松の世話物、心中物を思わせる世界であるが、なかなか迫力があり、現代性を感じさせられる芝居であった。
幕はなく、舞台装置も特別になく、海鳴りを思わせる不気味な音響によって始まる舞台(海鳴りは嵐の前兆である。主人公が江戸に奉公に出る途中で聞いたという伏線あり。その未来を暗示する言葉であるが、もっと深い意味を持たせているとも考えられる)には奥に弧を描くようにパノラマスクリーン、真ん中をすっぽり空けた両側には三枚ずつの黒いボードが遠近を持って並べられ、それを場面毎に黒子が敏捷に動かして様々な場面を作るのである。
スクリーンは、荒れた海辺となり、江戸の街並みとなり、また満開の桜堤、また急な夕立なども通行人たちの巧みな演技によって浮世絵のような光景が映し出される。左右に並べられたボードの間は、あるときは商家の部屋部屋、料亭や宿、または街道が、帳場格子や長火鉢や竈、軒行灯や茶屋の腰掛、小道具が置かれることによって場面が設定され、作り付けでないだけに小刻みな筋の展開が可能になるのであろう。
粗筋は、下積みから身をおこしひたすら真面目に働いてきた紙問屋の新兵衛(西川 明)が、あることから同業者の女房おこう(日色ともゑ)と知り合い、偶然の成り行きもあって、しだいに恋心を抱くようになるという設定。40半ばと30を過ぎた、当時としてはもう互いに老いが近い、それまでは制度上からも恋心などというものを思ったこともない真面目一方の二人の初恋に似た純愛物語である。もちろんこれの成就は、不義密通で獄門物である。しかしこれが近松の世話物とはならないところに藤沢周平の緻密な創作方法とまたそれへの人気があるのではないだろうか。
江戸時代は、すでに高度な経済社会、消費社会であって、そこに江戸文化が栄えたのであるが、「紙」というのも現代と同様に商業上重要な産物であって、それを生産、売りさばく機構は紙問屋を頂点として、その下に仲買があり、その下に紙漉きの職人たちがいる。それは今の会社組織と類似していて、問屋の中にも有力な少数と中小の幾つか、互いに競争し、合併があり浮き沈み、転落があり成り上りがある。
すなわちこここに現代社会と通じるものがある。この舞台は紙問屋の大店たちが仲買を通さずに直接紙漉きから上納させようとの画策があり、その寄り合いの場面から始まるのだが、それに対して新興紙問屋(仲買人からはじめ、紙漉き職人のことも良く知る)の、真面目な新兵衛が、異を唱えようという背景があり、また相手のおこうがその敵側の大店の女房という事で、しだいに二人は追い詰められていくのだが、それもサスペンスに似た展開がある。
近松の「心中天の網島」の主人公の治兵衛も紙屋であるが、その不始末の原因は、ただただ男の浮気と弱気が主な要因で、封建社会での組織上の不合理とは何の関係もない。ただその締め付けから逸脱しようとする人間としての情愛への眼差しがあるだけである。
また裕福で幸せそうにもみえる新兵衛の家庭も着飾って出歩くばかりの女房とは口もきかず、長男は放蕩三昧という隙間風だらけ、(長女だけがけなげで希望を感じさせる)今のモーレツ出世社員の家庭を思い出させる。
一方おこうの子どもが出来ない事から石女と姑からはいじめられ、しかも夫が外に生ませた男の子を跡取りの養子にという不理尽に耐えている。
寄り合いの帰り道、無理に酒を勧められて気分を悪くしているおこうを介抱して、止むを得ず連れ込み宿に一時寝かせてもらい介抱したそれを目撃され、実に覚えはないものの蛇のような男(紙問屋ではあるものの零落して夜逃げ寸前)に強請られそれが高じて、最後はもみ合いのさなかに脳卒中で死んだことから、結果として二人は駆け落ちということになるのであるが、結局はその事件の発端が二人の恋心に火をつけ、しだいに掻き立てることになる。
もう一つ、近松と違う事は、相方である女性のおこうである。
自分一人だけ身をくらませてしまいおこうをそのままに、と思う男に対して、一緒に行くというのは当然かもしれないものの、しだいに強くなっていくのである。それは男が遠い見通しを持たねば生きられないところがあるのに対して、一瞬を生きることに長けている傾向にある女の強さをうまく表現している感じがした。偽の関所の通行手形も用意し、また行く先も自分の乳母の里という水戸に変える。追っての目をくらませるためにはその方が良い。現実的な手を考え、生きられるだけ生きましょうと言う。
幻として晒し者になった心中者姿を時々映し出しながらも、最後は荒れた海をバックに舞台に二人の旅姿が現れ船出を知らせる声に向う情景で終わる。海鳴りが一際強くなる。
民藝の舞台には珍しく、ブラボーという声が2声もあがった。

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洞門山破壊(つづき)

最後に、私の発言を入れて、この項目は終わりです。
先ず、この土地の古い大地主であるK氏であれば、その土地への愛着は強くまた大切に思っていらっしゃるにちがいないと思いますが、いかがですか? の問いを、YES NO で答えてください(直接本人から聞きたいが、それに代わって全権を委譲されていると言っているあなた方に)と訊ねた後。
それでは、ここの風景、雰囲気のシンボルのように見られ、映画でもまた文学上にも登場している地を壊す事について、どういう気持ちを持っていますか。それに代わる何かヴィジョンをお持ちなのですか、それをお聞かせくださいと言い、そこが描かれている作品を一例としてここで朗読させていただきます、と提案しました。
もっといい例があるかもしれませんが、最近出たヴィジュアル新書『「鎌倉百人一首」を歩く』(集英社・2008.5.21)著者:尾崎左永子(鎌倉ペンクラブの会員たちが、鎌倉で詠んだ古今の短歌を集めたもの)、この辺の本屋ではガイドブックの一つとして平積みになっている、の中から、その辺りを描写した部分(短歌に尾崎さんが解説していて、そこに出てくる)があったので、それを読みました。(コピーも20部作りましたが、これでは到底足りませんでした)
それをここに掲載してみます。
短歌は、石原吉郎さんのです。私は詩人としてしか知らず、『北鎌倉』というのは詩集とばかり思っていたのに歌集だったのですね。
「鎌倉の北かまくらの夕みどり触るるにとほき肩をもつ人
                            石原吉郎
 横須賀線が大船を出て、東海道線の鉄路と分岐し、町屋の間をしばらく走ると、あたりに急に緑が多くなる。山がいくつも見えてくる。夕日の反照に光っていた線路も、急に山陰に入って銀いろに変る。そして電車は片側の細長い駅廊に滑り込んでいく。北鎌倉である。木の柵の向こうに細い道、そして駅に近いのに静寂を保つ家々。「北鎌倉」の駅名は「鎌倉」とちょっと異なる響きがある。小津安二郎のモノクロ映画に登場した時代とほとんど変らない、独特の雰囲気をもつ。円覚寺、明月院、東慶寺、長寿寺、多くの名刹に囲まれた、寂かなたたずまいの町である。人が大声を立てて笑い転げるような喧騒な町とは無縁にみえる。夕ぐれの青葉若葉、日陰、山陰、木陰、どこにでも陰がある。しっとりと、北鎌倉の雰囲気を、この歌はよく表している。そして、愛していても告白をためらわせ、近付こうと思っても何か気後れさせる、美しい女人。育ちのよさは品格でもあり、生まれつきの威厳でもある。・・・(後略)・・・    」
最初の問いと朗読の間に、向こうがどう答えたか、覚えていません。やはり上がっていましたし、時間もないので急いで朗読しなければと思ったし・・・。でもここに描かれているような「山々」も実は線路側から見れば山ですが、手前は開発されて緑は屏風に過ぎなくなっている現在、このシンボル的な駅前の緑を破壊する事は、大きな一撃を加えるようなものだという意見だけは述べたかったのでした。
世界遺産の登録を考えていると言う鎌倉市、とんでもない事、そんな資格、品格などないではないかと思ってしまいます。

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洞門山破壊説明会

23日(日)の6時から始まったこの説明会は、雨模様の雲の下、急に寒さに襲われた日でしたが、会場は人であふれ、その熱気で上着を脱いでしまうほどでした。これほど人が集まった事はなかったと、司会をした人は言っていました。50脚ほど並べられた椅子も足りなくなって、横にも後にも人はひしめき扉は開け放ったままになりました。
説明側のプリントも足りなくなったようです(これも社員が3人もいるのだから誰かが走って行ってコピーをしてくればいいことなのに、などと最後にはからかわれる程でしたが)。私は10分ほど早く行ったので座れましたが、開催時間間際に、どっと人は集ってきたのです。この地に住んで古い人、新しい人、老若男女、小さな子ども、ワンちゃんも(?)一匹いたようです。
参集者の意識も見識も高く、業者はしだいにたじたじとなり、まだ市の開発許可は下りていないようなので希望が持てそうな雰囲気でした。
結果を先ず報告すると、地権者であるK氏(近くに居住しているのだから、いま連れて来て下さいという声も)が顔をみせていない(自分たちが全権を任されていると最初は言ってましたが、色々突っ込まれて返答に窮していました)、そして説明も調査も不十分な(これもただ地図上に線を引いただけの図面、素人にはちんぷんかんぷんの細かな設計図など12枚)、また何よりも設計者(説明している会社)がこの地の環境・風景における重要性について何も知らないということが、質問者の様々な突込みによって明らかになり(彼らも終わり頃になるとそれが少しは認識するようになったようで、この説明会も皆様の意見をうかがうという内容であることに、なって行ったようです)と言う事で、全面的に工事着工(部分的にも色々質問あり、指摘、提言は出たものの)に反対が、総意であることをK氏に伝え(この会場の発言は録音してK氏に渡すと司会から提言されている)、近いうちに改めて会合を持つこと(その日取りも決めさせようとしましたが)、その時はK氏が必ず顔を見せること(話の中で、実はもうこの土地はK氏が誰かに売ってしまい、しかしまだ名義はK氏であるらしい、問題になるところによくやる手)、そしてここは風致地区であるため(樹を一本切る事も届出が必要)市の担当職員も立会いの下、話し合うことと言う満場一致の決議に至りました。
これを設けたのはもちろんK氏依頼による施工会社ですが(大手の会社は、事情を知っているので、またもめる事は承知しているので引き受けない。聞いたこともない小さな会社です)、彼らも仕事を取ること、また生活もかかっているので必死でしょう。ですからそういう人たちに向かって色々言っても空気に話をしていると同じなので(発言の言葉)ちゃんとした地権者と(金銭的に何とかしたいなら、それを市に買い取ってもらうとか何とか、いろいろ腹を割って住民と話し合うことだと)向かい合う必要がある、そこを壊す理由、信念、ヴィジョンなども。また風致保存地域であり、歴史的な風景、市側(建設課、緑課、など縦割りで横の連絡がないので、個別の許可でミックスされて許可が出る可能性あり)の立会いも必要。
この会の進行をしたのは、「町づくり協議会」の会長とこの地の町内会長です。
町内会長が、好々亭の主人である事をしり、ほっとしました。廃業したと言っても、この山の所有者と組んで開発側に回ったのではないかと心配したからです。
あの赤トンネルは、やはり手掘りで昭和10年ごろお祖父さん(父?)が掘ったもので(その人はとても変わり者だったといい、料亭にしたのはその後と言う事らしい)、それを自分が壊すわけには行かない。壊させないと言っていました。会場では「山の内瓜ヶ谷の戦後の原風景の聞き語り」をしているグループのチラシを貰ったり、台峯を歩く会の人も来ていましたし、多くの人たちが立ち上がっているので、何とかここは守れるのではないかと思い、少し安心しました。
この「町づくり」会長さんにより、会社が示せなかった開発が施工された時の風景図面のパノラマが示され、第1期工事,第2期工事と、どうなっていくかを見せてくれました。そして大きな二つの質問をした後に皆もいろいろ質問したのですが、それぞれに義憤を持って集った人ばかりであるため、誰もが発言したいようで、発言する隙がなかなかありませんでしたが、私も終わりごろ一応発言してきました。それをこの次にここに入れることにします。
実は私はこの区域に隣接して住んでいるのではありません。駅から歩いて峠に至り、少し下ったところにあり、旧鎌倉とは少し違います。まあ周辺部だといっていでしょう(だから住めたということでしょう)。でもこの頭上を大きく開発したのが同じK氏です。会場で知ったのですが、やはりそのK氏で、名前が違っているのは、その息子であることを誰かが訊いて分り、その時発言者が「ああ、やはりそうですか」と言って笑いが起こったのは、血は争えないと言うか、政治家も世襲が流行りですが、開発もやはり世襲のようです。では今日はこれまで。

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